最初の報は、夜明け前の氷の鳴き声に紛れて届いた。
 岬の見張り台が、氷原の暗がりに点いた小さな複数の灯を数え、風の端に乗せて王都へ送った。狼煙は上がらない。湿り気の多い気圧で、煙は低く這う。代わりに太鼓が、まだ眠りの中にある街路の縫い目を叩き、家々の梁を起こした。
 「ヴァルドの艦、氷海に現る――数、十七」
 十七という数字は、冬の骨に触れる。偶数でも奇数でもなく、ただ向こうの意志の濃度をそのまま示す。

 王の執務室は、灯がひとつ増えるだけで戦場の予行演習になる。
 地図の上に白い糸、回廊の先に置いた黒い石、倉の鍵の印。宰相はすでに氷港へ伝令を飛ばし、近衛長は武具庫の封印を解き、評議の代表者たちには「出港ではなく避難の導線」の図を配った。
 セイグリムは窓辺から離れ、指先で机の角を軽く叩く。音はない。彼は音を消すことに慣れている。音は、時に自分の恐れを大きくするから。

 灯璃(あかり)は、輪をひとつ胸に置いて呼吸を整え、それから部屋に入った。
 彼女が入るだけで、部屋の空気の勾配がほんの少し変わる。火は呼ばれていないのに、呼べる準備をする。火の精が胸の底で尾を振り、言葉なく身構える。
 セイグリムは顔を上げた。
 「――迎撃する」
 短い文は、氷の刃の背で言われた。切っ先ではない。背でも、触れば冷たい。

 灯璃は頷かなかった。
 「交渉を」
 宰相の筆がそこで止まり、空気の上に見えない句読点が置かれる。
 「ヴァルドはわたしたちが“婚姻を保留”にしているのを知っています。退ける名目を探しているはず。こちらから言えば、彼らの『退く顔』を与えられる。――血を流さずに済む扉が、まだどこかに」
 セイグリムはわずかに目を細めた。
 「君を前線に立たせない」
 灯璃の胸の針が一本、音を立てる。
 反射で、言葉が先に出た。
 「私がいなければ、多くが死ぬ」

 部屋の温度が、ほんの少しだけ落ちた。
 言葉の重さが、ときに温度を奪う。宰相は筆を置き、視線を地図に落とした。近衛長は視線を挙げず、靴の底で床の継ぎ目を探る。
 セイグリムは口を開き、閉じ、再び開いた。
 「君の火は、国家のために資産化されないと、私が言った。――政治ではなく、誓いとして守ると」
 灯璃は頷く。「覚えています」
 「ならば、誓いを破る最初の手を、私に取らせるな」
 「誓いは、守るために変形できる」灯璃の声は静かだった。「輪の形は、同じ輪でも、その場その場で少しずつ違う。あなたが前線に私を立たせたくないのは分かる。でも、私が前線に立たなければ、あなたは後ろで名を数えながら、手袋の中で指を折る。折り続ける。――それを想像しただけで、私は呼吸が浅くなる」
 セイグリムは言葉を飲み込んだ。飲み込む音すらなかった。

 「交渉の旗を上げます。火ではなく、輪で。燃やさずに熱を渡して、海氷の上に停戦の丘を置く。そこへ私と、あなたの信に足る者を一人だけ。将軍ルオが来るなら、彼も。来ないなら、彼の従者でも」
 宰相が口を開いた。「危険です」
 灯璃は頷いた。「危険は、分ければ軽くなります。私と、王の距離で。あなたが近くにいれば、私は燃えすぎない。あなたが遠くにいれば、私は燃えざるを得ない。――どちらを選ぶかは、二人の誓いの側の問題です」
 セイグリムは目を閉じ、眉間にしずくのような皺を一つ作ってから、開いた。
 「……一刻だけ。交渉の旗を上げる。だが、艦が矢の距離に入れば、迎撃に移る」
 灯璃は深く礼をした。礼は賛同ではなく、覚悟の印だ。



 氷港は、冬の戦装束で音を立て始めていた。
 氷刃のように尖った船首。甲板の上に積み上げられた網と樽。氷の上を滑る音は、切られた紙の端のように乾いている。沖を見張る塔の上で、少年が旗を振り、鳴子を鳴らす。空は低く、雪は落ちない。落ちない雪は、落ちる雪よりよく人を疲れさせる。

 灯璃は輪番の少年たちに短く指示を出し、港の縁に、燃やさない熱の丘を二つ置いた。
 「ここで手を温めて。兵にも、商人にも、順番で」
 少年は頷き、手袋のなかで指を広げた。誇らしい表情は、まだ交渉の意味を知らない年の軽さで光っている。
 火の精が胸の奥で囁く。
 “代価は常に等価とは限らない。きょうは、等価でさえない取引が始まる”
 「それでもやる」灯璃は息を吐いた。「やらないよりは、やる」
 “その言い方は、君を年寄りにする”
 「いまはそれでいい」

 沖の白の中に、黒が生まれた。
 ヴァルドの艦隊。十七の点が、ゆっくり線になり、さらに面へと広がってくる。帆は低く、厚手の布で覆われ、船腹には氷を割るための鉄が添えられている。氷の上を進む船は、海の船よりも歩きに似ている。足を置き、体重を移し、次の足を置く。群れの歩み。
 灯璃は胸の輪を軽く撫で、停戦の旗を掲げる役を買って出た老水夫に目で合図した。老水夫は旗を掲げ、甲板の端に据えた。旗の白は雪より少し黄味がかって、遠くでも目を引く。

 セイグリムは、船首の上に立った。
 彼の外套は風に煽られず、青は揺れない。けれど手袋の内側で、指が一度だけ開いて、閉じた。彼はその動きを、自分への合図だと解釈した。距離を間違えるな。間違えたら言え。
 「距離は、誓いの形だ」
 彼は呟き、灯璃の背のわずか手前に立ち位置を取った。背を守る位置。前に出すぎれば、交渉になる前に、剣になる。後ろすぎれば、灯璃が火を呼ぶ。

 ヴァルドの先頭艦が、停戦の旗に気づいた。
 甲板に人影が動き、短く乱れ、そののち、緑がかった紋章旗が半身だけ下がった。完全に降ろさないのは、隙を見せないための礼儀だ。
 距離が縮む。
 空気の質が、知らない国の香りを混ぜ始める。脂の匂い、獣皮の匂い、香草を焚いた煙の薄い名残。それらが、王都の蜂蜜の匂いと結び合わず、ただ隣り合う。
 灯璃は深く息を吸い、輪をひとつ、海氷の上に置いた。燃やさない熱の丘。手をかざせば、掌の骨が解ける温度。
 「停戦の丘を置く――ここでは、剣も矢も、眠る」
 声は届く。氷の上は、音を良く走らせる。

 そして、見慣れた歩き方の男が、先頭艦の舳先に現れた。
 将軍ルオ。
 黒い外套、頬の薄い傷、笑うと目が笑わない癖。遠目にも分かる軽やかな立ち方。
 「交渉か」
 風が運ぶ声に、灯璃は頷いた。
 「火は燃やさない。――あなたも、燃やさないで」
 「望むところだ」ルオは短く笑った。「だが、氷は時に、火より速く広がる」

 短い距離の応酬が終わる前に、港の端で不穏なざわめきが起きた。
 白い袖が、ひと束、露台からこちらを見下ろしている。ヴァルナー本人の姿はないが、若い神官が祈りの印を結び、何かを読み上げている。記録だ。
 「王、交渉を試みる。――記録する」
 記録は刃にも盾にもなる。きょうは、両方だ。

 甲板から細い板が海氷に渡され、ルオはゆっくりと板を降りた。
 灯璃も、滑らないように足を置き、輪の手前で立つ。
 「――君を燃やさずに済む術は、まだ君の胸にあるか」
 開口一番に、ルオはそう言った。
 灯璃は頷いた。
 「輪は回る。燃やさずに熱は渡る。――きょうは、それであなたの兵の手を温められる」
 「兵の手だけでは足りない」ルオは微笑むふりをした。「腹も、心も、国も、温めなければならない」
 セイグリムの青が、わずかに濃くなる。
 「こちらの港を荒らす目的で来たのではあるまい、将軍」
 「目的は一つ。融雪水の契約の再交渉だ。――君たちの倉は、公平ではない」
 「公平は、時に順番の顔をしている。順番は、見えにくい」
 「見えにくいものに、人はしばしば刃を向ける」
 言葉は刃の背で滑り合い、相手の厚みを測る。
 灯璃は割って入った。
 「将軍。――きょうは、刃よりも、扉の話を」
 「扉?」
 「門。あなたの国と、この国の間に置く柵の。開け閉めを、誰が、どの名で行うか」
 ルオは一瞬だけ目を細め、笑った。「君は、相変わらず“名”を重んじる」
 「名は、輪の鍵です」

 交渉は、一刻もたなかった。
 海の彼方で風が変わり、氷が鳴り、ヴァルドの後方艦から狼煙がひと筋だけ上がる。信号は短い。
 「――時間切れだ」ルオは肩を竦めた。「君らの保留は、うちの評議では『弱み』と読まれている。きょう引けば、次は引けない。これ以上、私は“礼儀”を保てない」
 灯璃は唇を結び、輪の縁に指を置いた。
 「なら、きょうは互いに兵の手だけを温め、引こう。――戦うために、引く」
 セイグリムが続ける。「将軍。君の“礼儀”が尽きる前に、こちらの距離も尽きる」
 ルオは少しだけうなずいた。
 「惜しいな。薄紅の日に会いたかった」
 「わたしたちは、その日を待っていた」灯璃が返す。「いまは、夜だ。夜は、前夜に属する」

 ルオは板を戻り、旗が半身から元へ上がる。
 停戦の丘のそばを、最初の艦が滑る。矢の距離まで、あとわずか。
 セイグリムは静かに言った。「――迎撃に移る」
 灯璃は頷いた。頷きながら、唇の内側に噛みしめる血の味を覚える。
 彼女は燃やさなかった。燃やせば、話は早い。話が早いときほど、後ろの名簿の白が増える。彼女は胸の輪に掌を当て、熱だけを外へ薄く渡した。兵が、指の骨の震えを止めるための温度。老人が、孫に背負われる途中で息を整えるための温度。港の縁に並ぶ女たちが、祈りを長く言うための温度。



 夕刻が夜に滑り込む前、王は灯璃を連れて城へ戻った。
 氷港に残したのは、数の劣る船団と、氷の堤、そして輪番の少年たちだ。宰相は現地に残り、近衛長は港と城の間を走る動線を最後にもう一度確かめた。
 広場の露台は、きょうは空っぽだ。ヴァルナーは露台を若い神官に任せ、自身は教団の奥に消えた。記録の準備だろう。記録はいつだって、誰かの背中を押すのに向いている。

 王の私室。
 燭台の灯は少なく、窓の外の青が部屋の半分を占めている。机の上には名簿と、地図と、面頬と、輪。
 灯璃は外套を脱がず、そのまま立った。座るという行為は、夜に余計な深さを与える。いまは、浅い呼吸が必要だ。
 セイグリムは手袋を外した。
 灯璃は息を止めた。
 彼が素手を見せるとき、彼はいつも自分を責めている。責めもまた、彼の作法だ。

 「……君を前線に立たせない」
 彼は、もう一度言った。
 灯璃は首を振った。
 「私がいなければ、多くが死ぬ」
 繰り返しが、言葉の殻を少しずつ削る。削られた殻の粉は、床に落ち、冬の塵になる。塵は見えない。見えないものは、部屋の温度を僅かに変える。
 「きょう、交渉に連れて行った時点で、私は誓いの形を曲げている」
 「曲げるために、誓いは輪でできている」灯璃は静かに返した。「直線なら折れる。輪なら、歪んでも戻る」
 「……戻れるか」
 「戻ろうとする人と、戻らせようとする人がいれば」

 沈黙が置かれた。
火の精が胸の奥で尾を振る。
 “代価は常に等価とは限らない。今夜君が払うのは、眠りの質と、短い言葉の数だ”
 「なら、長い言葉を」と灯璃は心の中で返した。「冷える前に、長く」
 セイグリムは、ゆっくりと近づいた。
 距離の計算を、彼は何度もやり直した。
 灯璃の肩と、自分の胸の間に、手袋一枚分の空気。
 手の甲の温度が、彼女の頬の温度に、触れるか触れないか。
 彼の指は、空中で震えなかった。
 震えないこと自体が震えのように伝わるほどに、彼は集中していた。

 そして、彼ははじめて、素手で灯璃の頬に触れた。
 冷たい。
 けれど、凍らない。
 灯璃は驚いて目を見開き、次の瞬間にはゆっくりと目を閉じた。
 頬の皮膚が、氷の上に置いた紙のように薄く冷える。その下で、血が流れ続ける音が、かすかに聴こえる。
 セイグリムの呼吸が近い。
 彼の手の冷たさは、呪いの冷たさだけではなかった。彼自身の、長い間閉じ込めていた冬の冷えが、やっと外に出たときの冷たさだった。

 「……変わった?」
 灯璃は囁いた。
 「分からない」彼は正直だった。「君が、私を許したのかもしれない」
 「許すことと、凍らないことは違う」
 「違う」
 「でも、きょうは、たぶん、重なった」
 彼は微かに笑い、その笑いはすぐ消えた。
 「君の頬の温度を、私は奪わなかった」
 「そうです」
 「なら、私は――今夜を、前夜に出来る」

 前夜。
 戦の直前の、言葉の置き場。
 灯璃は、彼の手の甲に自分の頬をもう一度だけ軽く預け、それから離れた。離れ方は、長く学んできた距離の作法のひとつだ。
 「わたしは港へ戻ります」
 「宰相は」
 「います。でも、輪を置く人がもうひとりいると、列が早くなる」
 「君の煤が――」
 灯璃は微笑んだ。「輪の煤は、新しい。落ちやすい。……落ちにくいのは、私の癖のほう」
 セイグリムは頷いた。
 「護衛は名を外す。輪番の列に紛れる。君は門を持つ。私は門番でいる。眠るとしても、交代制で」
 「うん」

 扉へ向かう前に、灯璃は振り返った。
 「さっきの――ありがとう」
 礼が軽すぎないように、声を少し低くした。
 「礼は受け取る。きょうは」
 「明日は?」
 「明日は、受け取らない。明日は、言葉を増やす」
 「冷えない程度に」
 「冷えない程度に」



 港へ戻る道は、氷の回廊が青く光っていた。
 灯璃は走らず、歩いた。走ると、火が自分に戻ってくる。いまは、前へ渡し続ける。
 輪番の丘はまだ熱を持ち、少年たちの指は動く。女たちの祈りは短くなり、男たちの声は低くなった。低い声は、恐れを隠す。隠すことは、悪くない。隠すあいだに、人は準備をする。
 遠く、氷海の上に、ヴァルドの艦が黒い点を増やした。十七は十七のまま。足さない。引かない。――それが、彼らの今夜の意思表示。

 宰相が灯璃に紙を渡す。「回廊の角度を二度変更。避難の列の先頭に輪をひとつ、最後尾にひとつ」
 灯璃は頷き、輪を置く。
 火の精が囁く。
 “代価は常に等価とは限らない。きょう君が受け取ったのは、『凍らない頬』。払ったのは、『離れ方』だ”
 「等価じゃないほうが、救いになることもある」
 “恋は、そういう計算に強い”
 灯璃は笑って、輪の上に手をかざした。
 燃やさずに、熱を渡す。
 渡す間、彼女の胸の奥で、頬に残った冷たさが、別の熱に変わっていく。
 王の呪いに生じた小さな変化は、証明や記録の上では何にもならない。だが、今夜、彼女はそれを、旗のかわりに胸に掲げて立つ。
 凍らない頬。
 触れられる距離。
 前夜の火。

 星は出ない。
 雲は厚い。
 その雲の裏側で、氷鯨が遠くの湖を一度だけ回った気配がした。
 聴こえない音が、人を前へ押すことがある。
 港の灯が増え、結界炉の唸りが低くなり、遠くの太鼓が一度だけ鳴る。
 明日、氷海で戦が起きる。
 それでも今夜は、前夜であることを選べる夜だった。
 灯璃は輪の数を確かめ、少年たちの指の動きを見、宰相に短く頷き、空を見上げた。
 ――凍らない。
 頬は、凍らない。
 その事実ひとつで、冬の計算は、少しだけ、人の側へ傾く。