非常口のランプが、かすかに脈打っている。
深夜のキャンパスは、雪に吸い込まれた音をしていた。図書館別館の自習室は暖房が落ち、息を吸うたびに喉の奥が冷える。灯璃(あかり)は、ノートPCのカーソルが点滅する白い画面を見つめた。提出まで残り三十分。文献引用の体裁は整っている。結論だけが、まだ温まらない。
――火は、危険で、きれい。
子どもの頃から、彼女は炎をまともに見つめることができなかった。喘息持ちの肺は煙に弱く、焚き火の輪には一歩引いて立つのが常だった。けれど目は、ずっとそこに吸い寄せられていた。濡れた薪が吐く白い息、オレンジの縁が青に変わる刹那。近づけないものほど、目は忘れない。
窓の外で、粉雪が舞う。時計は二三時を回っていた。
パネルヒーターの赤い目玉がひとつ、頼りなく明滅する。彼女は指先をこすり合わせ、深呼吸した。いつものように、胸の奥で小さく音が鳴る。大丈夫、今夜は発作の気配はない。
停電は、音を立てずにやってくる。
ピ、と何かが遠くで鳴って、空間がほんのわずか沈んだ。次の瞬間、すべての光が落ちた。非常灯だけが、赤い心臓のように薄暗がりで脈打ち、壁に長い影を伸ばす。窓に映った自分の顔が、見慣れたものから少しずれる。赤の明滅が、炎の仮面をかぶせたみたいだと、灯璃は場違いなことを思った。
床の冷たさが、靴底越しに鋭くなった。
――違う、冷たいのは床だけじゃない。
それは、温度というより、意味の変化だった。
彼女の足元に、赤い線がすべった。蛍光塗料めいた薄さで、しかし確かに輝く幾何学の輪郭が、床材の木目を汚さずに走る。紋様は一瞬にして完結し、円の内側が空気ごと沈んだ。重力が傾く。椅子の脚が軋み、ノートPCの画面がふっと彼女の方へ倒れ込む。
「え……」
声は、胸の内側で反響しただけで空気を震わせなかった。
紅い非常灯の明滅が、深海のように遠のき、代わりに耳に入ってきたのは、音を立てる冷気だった。ざあ、と透明な砂が流れる音。遠くで鐘の音が凍り、複数回に割れて跳ね返る。
落ちる、と思ったときには、すでに立っていた。
◇
石の匂いがした。
鼻に刺さるほどの冷気。吐く息が白い。床は巨大な石板で、表面に冷えた光が宿る。壁は鏡面のように滑らかな氷で覆われ、そこに彫り込まれた紋様が、吸い込まれそうな奥行きをつくっている。高い天井から垂れる氷柱が、鈴の群れのように光を孕んだ。
円陣を組んだ人々が立っていた。
灰色と白を基調にした衣装。肩には霜の刺繍。彼らの中央、石段の上に、一人の男がいる。蒼銀の鎧に、薄い氷が張り付いていた。兜はない。淡く光る青の瞳が、灯璃を見た。視線に触れたところから、寒さが増す。
「――炎の巫女、召喚の儀、成った」
低く重い声が、石の堂に落ちた。円陣の一角――最年長と思しき男が、祈りの印を結ぶ。彼の背後、開いた扉の隙間に、夜の街が覗いている。灯璃の視界は、そこへ吸い寄せられた。白。白。白。屋根から落ちかけの雪が固まり、路地の陰に積み上がった氷の塊に、誰かが背中を預けている。火の色がない。人々が互いの肩に額を押し付け、息を数えているのが、遠目にも分かった。
「……ここは、どこですか」
灯璃の声は、乾いた喉を通るときに少し砕けた。
階段上の男が、ゆっくりと立ち上がる。剣を床に立て、柄に手を置く。その仕草に、威嚇ではない抑制された注意深さがあった。
「ノルドレイム王都。氷の季(き)に囚われた国だ」
彼はそれだけ言って、一呼吸おいて続けた。
「私はセイグリム。ここの王にして、呪いの器でもある」
「呪い……」
「近づくな」
声の硬さは命令だったが、刺すような響きではなかった。
彼は自ら一歩下がった。距離を取ることで、灯璃を守る。それが彼の礼儀なのだと、直感で分かる。円陣の男たち――神官たちだろう――が一斉に灯璃の方へ顔を向ける。最年長の男が高らかに言った。
「炎の巫女よ、契約を。あなたの火を国に貸し与えよ。春を、戻せ」
灯璃は、呼吸を整えようとした。鼻の奥が切れる。
胸の中の小さな音が、ひとつ、ふたつ、いつもより速い。
「……私の、火?」
「君がここに現れたのは、火の理に選ばれたからだ」
セイグリムが言う。
彼は灯璃の足先――召喚円の中心に残る赤い燐光――を見て、一瞬だけ眉を寄せた。そこに熱があった。灯璃にも分かる。掌を胸元に当てると、皮膚の下で小さな灯が片目を開けるように、熱の一点が応えた。暖かい、けれど、身体のどこか別の場所から同じだけ熱が抜けていく奇妙な感覚。
「それを燃やせば、国の結界炉が温度を取り戻す。春が……」
最年長の神官が続けようとした言葉は、王の一瞥で切られた。
「代価を言え」
神官は舌を噛んだように一瞬黙り、目を伏せる。
灯璃は、王の方を見た。青い瞳が、まっすぐに返す。
「君の寿命が、削れる」
とても簡潔に、彼は言った。
その簡潔さの向こうに、幾度となく同じ説明を口にしてきた疲れが滲んでいた。灯璃は吐息を細くする。肺に冷たい針が刺さる。寿命。言葉は軽く、意味は重い。彼女は、扉の向こうの街をもう一度見た。屋根の縁で凍る洗濯物。腰を抱えたまま動かない老女の肩に、雪が淡く積もる。遠くから、赤ん坊の泣き声が、凍てつく空気に削られて届いた。
「私が、燃えれば。助かる人が、いる」
思考より先に、口が動いた。
神官たちの間に、ほう、と甘い息のような安堵が流れる。だが王は、剣の柄から手を放した。氷の面に、微かな裂け目が走るような声だった。
「やめろ」
灯璃は、虚を衝かれた。
やめろ、と言われることを、なぜか想定していなかった。彼は続ける。
「君の犠牲で暖まる春など、要らない」
「でも、外で……」
灯璃は言葉を探し、凍える街の断片を指の内側に掬いあげるように並べた。
火の匂いがしない家々。雪に沈む影。白い息。
胸がきゅ、と鳴る。小さな音は、昔から恐れたときと同じだ。
「王よ」神官長が口を挟む。指は祈りの形を保ったまま、声だけに刺が立つ。「巫女の心は既に燃えています。神意に従い、儀を――」
「黙れ」
制止の声は、堂の空気の温度をさらに三度下げた。
王の指先が、ほんのわずか震えた。灯璃は、その震えを見た。寒さのせいか、怒りのせいか、それとも――恐怖か。彼は距離を置く。触れれば凍らせてしまうから。ならば、その震えは、触れられないことの恐れなのかもしれない。
灯璃は、掌を見た。
そこに、温度がある。
生まれてからずっと、近づけなかった火が、今は自分の内側にいる。
彼女は一歩、前へ出た。
「少しだけ、燃やします。様子を見て」
言い終わるより早く、掌に光が咲いた。
焦げ茶色の教室で非常灯を眺めていたときに感じた、あの赤の鼓動が、掌で形になったようだった。炎は小さく、しかし真芯を持っていた。堂の空気がかすかに緩み、氷の壁の表面を透明な雫が走る。神官たちの顔色が、青白いところからわずかに血の色を取り戻す。遠い扉の隙間を通って、外の雪がほんの一瞬だけ、やわらかく沈むのが見えた。
灯璃の膝が、笑った。
熱は、彼女の中から引き算で生まれている。炎が脈打つたび、胸の内側から、何かが粒の形でこぼれ落ちる感覚。頬に触れた指が、煤で汚れた。彼女は息を吸う。針が、前より深く刺さる。
「――やめろ!」
剣の金属音が、空気を引っかいた。
王が、召喚紋様の縁を横一文字に斬る。線が燐光を失い、炎はふっと、灯を消すように消えた。冷気が戻る。堂の天井で氷柱がわずかに音を立てる。灯璃は、辛うじて立っていた膝から力が抜け、床に片手をついた。
近づく足音。
王の外套が、肩に落ちた。重みはないが、温かさはあった。布が温かいのではない。布で、冷気が遮られた。それだけで十分だった。王の手が、彼女の手首へ伸び――寸前で止まる。触れられない人の、止まった手。灯璃はその静止を、なぜか美しいと思った。
「勝手に燃やすな」
叱責の言葉は、低く、荒く、そして揺れていた。
灯璃は、外套に顔を半分埋めながら笑う。
「だって、寒いから」
返す言葉に、理屈はなかった。
王は一瞬目を伏せ、それから人払いもなく、ひとりの人間として短く吐き出すように言う。
「私は、君が燃えるのを見たくない」
堂の扉の向こうから、夜警の兵が駆け込んだ。
「陛下、南区で凍死者が――」「報告は外で」と神官が遮る。場の空気は再び一段階硬くなる。王は兵にだけ視線で命じ、言葉少なに頷いた。彼の顔は、灯璃の方へ戻る。ほんの一瞬、その青が揺れた。
「明朝、結界炉の調整を始める。供出する火は最小限だ。物流の回廊を再建し、氷の橋を掘り直す。人を動かす。火に、君に、頼り切らない」
「でも、私の火があれば……」
「必要なときだけ。君が倒れない範囲で」
灯璃は黙った。
押し問答ではない。約束でもない。けれど、その言い方が、彼が自分の時間を削って、別の策を探してきた人間の言い方だと分かった。冬の国で、氷を動かすのに使うのは、火ではなく、根気なのだ。
「……あなたは、冷たい人じゃない」
思わず零れた言葉に、王はまばたきを一度だけした。
「冷たい」と「冷たくする」の差異。彼は後者を選び続けたのだ。触れれば凍らせる呪いを持ち、だから触れないことを礼儀にした。距離は、無関心ではなく、配慮の形になりうる。灯璃は外套の襟を握り、肺の針を数えながら、ゆっくり立ち上がった。
「灯璃(あかり)」と彼女は名乗った。「灯すに、璃。あなたは?」
「セイグリム」
「……セイ、でいいですか」
神官の何人かが顔を上げる。王は少しだけ目を細めた。
呼び捨てに近いあだ名。無礼の範疇にある。だが彼は、咎めなかった。むしろ、名前の中から一音が取り出され、彼個人へ渡されたような、不思議な硝子の音が、灯璃の耳に残った。
「好きに呼べ」
「分かりました、セイ」
灯璃は笑って、それから咳き込んだ。
胸の奥の古い癖が、冷気で呼び起こされる。浅い咳。肺の針が二本増える。王が眉を寄せる。神官長が一歩前へ出て、聖水の器を差し出した。灯璃は受け取って、唇を濡らす。水は冷たく、澄みきっている。喉の奥が少し楽になる。
「巫女殿、火の供出量と儀の時刻を――」
神官長の言葉を、王は掌で制した。
「今日は休ませろ」
「しかし、陛下、今夜の冷えは例年にない――」
「だからこそ、焦らない」
王は短く言って、灯璃の立つ足元から、視線を彼女の顔へ戻す。
「客室を用意しろ。厚い毛皮、温い湯、甘いもの。肺に効く草があれば煎じておけ」
命令が飛ぶ。神官たちは慌ただしく散っていく。
灯璃は、外套の裾を握り直した。客室。湯。甘いもの。ここは異世界で、彼は王で、自分は巫女と呼ばれている。頭の中の言葉が順番待ちを始め、それらを黙らせるために、彼女は一度深く息を吸った。冷たさが肺の端に刺さり、目の奥が覚める。覚めると同時に、現実を受け容れるスペースがわずかに開いた。
「セイ」
呼ぶと、彼は「何だ」と反射的に応じる。
灯璃は、少し迷ってから言った。
「私、火を怖いと思ったことが、あまりないんです。近づけなかったから。
でも今は、少し怖い。自分の中にあるのが分かるから。だから、あなたが止めてくれて、少しほっとしてます。……ありがとう」
王の青が、また一瞬揺れた。
彼は頷きも否定もしなかった。ただ、ほんの僅か、剣の柄に置いていた手を離した。その仕草は、戦いではなく、冬の扉を閉めるときの力加減に似ていた。
堂から出るとき、扉の向こうの風が牙を剥いた。
廊の壁はやはり氷で、燭台の炎が小さく揺れている。灯璃の掌は、もう光らない。けれど、彼女は掌を握ったり開いたりしながら歩いた。歩幅は小さい。外套の重みが、背の芯に安心を作る。彼女の後ろを歩く王の足音は、一定のテンポを保っていた。距離は五歩。五歩は、冷たさから守るための距離であり、礼節の距離であり、これから埋めるべき距離でもあった。
客室に入ると、湯気が匂いで分かった。
石の浴槽に湯が張られ、蒸気が白い布のように漂っている。毛皮が重ねられた寝台。卓上には薄い飴色の液体――蜂蜜湯だろう――と、干した小さな果実の皿。灯璃は席に座り、器を両手で包む。温度が、骨の形に沿ってしみ込んでいく。
「君の名、もう一度」
王が戸口から問うた。
「灯璃。灯す璃と書いて、あかり」
「……灯り、か」
彼は小さく繰り返す。
その言い方は、名を呼ぶというより、暗がりの中で光の在り処を確かめるようだった。
「おやすみ、セイ」
灯璃が言うと、王はわずかに顎を傾けた。それは王としての会釈ではない。人が、眠りの前に隣人へ示す、ごく私的な礼だった。
扉が閉まる。
灯璃は器を置き、寝台に腰を下ろす。外の風が壁を震わせる低い音。それに混じって、遠くで鳴る鐘が、凍って不規則に割れる気配。彼女は両手を胸の上に重ねた。掌の中心が、かすかに温かい。そこに、火の精の子どものようなものが丸まっている感覚がある。呼吸を合わせると、彼はときどき、眠たげに尾を振った。
朝になれば、彼女はまた火を問われるだろう。
誰かを救うために、何を失うか。
王は、彼女に燃えるなと言った。国を救うのは自分の仕事だと。
――それなら、私はどうする。
眠気は、しばらく来なかった。
だが、湯気の匂いと蜂蜜の甘さが、気持ちをほぐしていく。肺の針は、二本減り、一本だけが残る。最後の一本は、彼女の胸の中心ではなく、遠い方角へ向けられている。扉の外の廊下の奥、さらにその先の階段を降り、大広間を過ぎ、扉の隙間から見える凍った街へ向けて。
灯璃は目を閉じた。
彼女の中の火は、小さく、しかし確かに、赤い点を保ち続けた。
そして遠く、王の歩みがまた始まる音が、薄く響く。夜警への指示、地図の確認、氷の橋の位置取り。触れられない手が、いまは石と雪を動かすために使われている。距離の向こうで、誰かが震えながら眠っている。
明日。
彼らは、ひとつの約束を試す。
彼女が燃え尽きない範囲で、国をあたためる方法を。
火と氷の物語は、ようやく始まったばかりだ。
凍る王都の夜に、蜂蜜の甘さが細い糸を引き、その糸が、春のほうへ微かに伸びている。



