大学の硝子張りのドアをくぐり抜け、外へ飛び出すと、金色に照らされた幹のざわりとした肌の質感が、まっさきに目に映った。
 リヒトは久しぶりに頬に風を感じた。その風は、向こうからやってくるものではなく、己が動いて生まれるものだった。
 薄青い闇が、しんとかすみのごとく冷えた空気に似合っている。その感触は、ひどく心地良いものだった。リヒトの真珠色の頬を、濡らすように流れていく。
 輝にしっかりと握られた手首は、さらに圧力を増し、リヒトを前へ、前へと引っ張っていく。

「……おいっ」

 リヒトは金の眉を寄せて前方の輝を睨んだが、輝は健康的なうなじと頬を見せただけで、背後を振り返ることはなかった。それどころか、彼の感情がよくわからない。鈍い白の光の粒を宿す彼の短い黒髪は、ただ淡く煌めくばかりで、前だけを見続ける彼の形の良い頭を守っている。そこから覗く鼻筋はけっして高くはないが、東洋人らしいほどよい丸みを保っていた。その先っぽが、濡れたように茜色のひかりを宿している。
 リヒトはその光に吸い寄せられるように、彼の横顔をただ目を瞠って見つめていた。リヒトの蒼いまなこに、輝の黄金色の頬が映る。あまりにも艶やかなその肌。それ以外の薄青い夜の景色が、彼の視界から消えてしまうほどに。夜の帳に現れはじめた白い星くずが、全て輝の色に変わってしまうほどに。
 はっと頬を叩かれたように幻から目覚めれば、いつの間にか彼らはテラコッタのピロティを過ぎ、灰色の校門を抜け出して、校外に出ていた。
 ぴょん、と飛び出た輝が、一度立ち止まると、リヒトは急ブレーキをかけられたかのように、輝の足を踏まないようにいつの間にか気を張り、すんでで立ち止まった。
 反動で、肺の中に溜めていた吐息が、はっと熱い湿り気を帯びてくちびるの間からこぼれ落ちる。
 輝は未だ、リヒトの手首を離さず、一定の力で前方へと導き続けている。学内の土地から離れ、薄橙色の街灯にかすみのように照らされた街の通りをずんずんと歩いていく。
 くちびるを引き結んだ輝。決して背後を振り返らない。リヒトはだんだんと彼の態度にイライラとしてきた。動くのは、シャツ越しに見える盛り上がった肩甲骨の動きばかりである。その動きも、やがて沈むように止まる。

「おい、離せよ!」

 それを待っていたかのように、リヒトは勢いよく輝に摑まれていた腕を振ると、彼から離れた。そこにあるものは一種の怒りであった。
 輝は百日紅(さるすべり)の枝から剥がれ落ちる枯れ葉のように、リヒトの手首から手を離した。輝のてのひらは熱く湿っていたことに、彼の感触が消えてから初めて気付く。
 ひとつづきになっていた街灯が途切れ、また濃い闇が生まれた。その間で、ようやく輝はリヒトを振り返った。そこには何の感情もみとめられず、ただ真っ直ぐにリヒトを見つめるばかりであった。彼が感情を見せないと、無限にも思われるほどの時間が流れていくようだった。その時間は、ひどく苦痛であった。

「何だよ。腹から声出せんじゃん」

 輝は虚無の薄皮を破るように、からりと晴れた笑顔を見せた。瞳は半月をひっくり返した形に、口角は八重歯が見えるほどに上げられて。
 リヒトは自分が先ほどよりも、呼吸が荒くなっていることを感じた。気のせいではなく、肌も湿っている。それが運動によってかいた汗だということに気づき、驚いてわずかに瞳を瞠った。輝に悟られぬよう、腰の背後に右腕を隠すように回し、きゅっとこぶしを握る。てのひらにはじんわりとした汗をかいていた。そのことにさえ、動揺する。
 それを気取られぬためなのか、自分でもわからなくなっていたが、細い金の眉を寄せ、顎を引いて彼を睨んだ。リヒトの持つ、ふたつの蒼いともしびが、街灯を反射して、ぎらりとオレンジ色揺らぐ光の粒を宿す。
 輝はその妖しげなゆらぎすらも真っ直ぐに見つめ、しずくひとつぶんも心の水面を揺り動かされていないようだった。

「お前何なんだよ。僕のことをばかにしてんのか」

 本気の熱が、リヒトのうっすらと透き通った男声には宿っていた。
 だが、輝はその熱すらもすらりとかわす。真顔でリヒトをふたたび見つめていたが、ふいに鼻を鳴らして笑った。

「な、何だよ」

 リヒトの方が動揺してしまう。

「いや、腹減ってるからキレてんのかなと思って」

「はぁ!?」

 リヒトは両腕をぴんと伸ばし、背を屈めて顔だけを輝に寄せた。真珠色の顔は、怒りで赤い桃の色に染まっている。
 輝にはそれが何だか愛らしく思えたが、口には出さず、ただ右側の口角だけを上げて、白い八重歯を見せてにかりと笑むだけだった。
 その様は、さらにリヒトの中の怒りの埋み火を煽る危険なものだった。
 リヒトがふたたび何か輝に言ってやろうとする前に、輝は黒いジーンズのポケットに両手を突っ込み、腰を逸らす。体の側面を見せて、顔だけをリヒトの方へと向ける。頬の左側だけが、輪郭が橙色につやめく。
 リヒトがふたたび何か言ってやろうとうすくくちびるを開く前に、輝は笑みをさらに深め、ゆるりと一回転すると、左腕をすっと伸ばした。

「あそこ入ろうぜ」

 は? とリヒトが問う前に、彼は(いぶか)しんで眉を寄せ、輝が指さした方向を見やった。
 彼が指さした先にあったのは、こじんまりとしたサイズのカフェだった。入り口は薄水色のパステルカラーで縁取られており、愛らしい印象となっている。
 リヒトが唖然として上体をわずかに落としたまま、まるく口を開けていると、輝は笑顔を崩さず、くちびるを閉じてその店へと向かい、歩道を横切ろうとする。

「あっ、おっ、おいっ」

 リヒトを振り返るそぶりを見せず、彼をまるで通りの端へと置いていくかのように、すたすたと足取りかろやかに店へと向かってしまうので、リヒトは小走りになり輝を追った。
 なぜか彼の中で、そこで輝を無視して帰宅するという選択肢が生まれなかった。
 鈍く濃い灰色をした、コンクリートを踏む足音は、リヒトのほうが大きかった。
 するすると歩き続ける輝が、このまま店の中へ消えてしまうのかと思った刹那、輝はくるりと首だけを巡らせて、リヒトを見やった。
 それは時間にして三秒ほどの間。輝とリヒトの瞳の膜が、一瞬だけ彼らの間に吹いたそよ風によって、ゆらりと震えた。
 輝の短い前髪も、黒くうごめいて。

「俺と、店に入るのは、お前嫌なんだろ」

 リヒトは何も言えず、ただ歯噛みして輝を睨む。蒼いともしびは強いのか弱いのか、言葉にしずらいほどの光を宿している。輝はそのひかりから目を逸らし、ふたたび店に向き直った。踵をとん、と地へ鳴らして。

「すんませーん」

 輝が呼びかけた先は、店に付随されている小窓だった。ペールグリーンにオフホワイトの白薔薇模様が描かれているカーテンが、店の白く塗られた壁の、わずかにでこぼことした盛り上がりを見せるマチエールと似合っている。小窓は輝よりも少しばかり高い位置にあり、彼が首を上向ける形になった。
 輝は誰かが出てくるのを待つ間、ポケットに両手を入れたまま、踵を下ろしたり爪先を上げたりして暇を持て余していた。その間も、リヒトのことは振り返らない。
 一分ほど待ち、からりと曇り硝子の窓が開く。
 取手は鈍い赤色に()びており、年月を感じさせる色合いだった。

「はいよ」

 カーテンよりもわずかに濃いさみどり色をしたエプロンをつけた店主が、顔を出す。ボブヘアを額から引っ張り、うなじで黒のゴムでひとつに束ねたかすかに油気が残ったような髪。ハの字に下がった眉毛、口の周囲を覆うふわりと長い髭は白く、幾筋か黒毛が残っている。

「何にする」

「サンドイッチふたつ」

「味は」

「んー。何があんだっけ」

 店主は体を逸らして背後をちらと振り返る。
 そしてまた輝のほうを見やる。

「ハムとスクランブルエッグ、あとはフィッシュゼンメル」

 フィッシュゼンメルとは、ドイツ特有のサンドイッチだった。塩漬けニシンと玉ねぎ、ピクルスを挟んだものがポピュラーである。
 輝はこちらに越してきてから、何度か口にしたことがあった。彼の好む味だった。

「んじゃあ、そのふたつください」

「はいよ」

 店主は腰を屈めて小窓から姿を消し、しばらく経つと上体を起こし、顔を見せた。
 かさついた大きな手には、ふたつの白い包みがそっと手の平に置かれるかのように握られている。

「作りたて? 作るのはやいじゃん。出来る男だね」

「褒め言葉として受け取っておくよ。ありがとな。ジャパニーズボーイ」

 輝ははにかみながら、両腕をそっと店主に差し出す。まるで店主にハグをするかのようなおおらかさであった。店主はそれを見て、先ほどよりも気分良さそうに、輝の両手のひらにサンドイッチの包みをぽんと乗せてくれた。

「うぉ、あったけえ」

「作りたてだからな」

「食うの楽しみ」

「だろ」

 ひとしきり店主と輝は笑い合ったあと、輝が片腕を上げて「バイ」と言いながら軽く振る。店主も右腕を上げて軽く振ると、ふたりはまた自分の日常へと帰る。
 輝は背後でその様子をただ突っ立って見ていたリヒトに目を向ける。彼に向けた笑顔は、先ほど店主に向けたものとは違う色合いだった。あかるいような、切ないような、摑みどころのない秋の小麦色をした笑顔の花。
 リヒトは輝の笑顔をまともに正面から見やると、胸の奥深くに沈められた感情の琴線が揺り動かされるような心地になった。それをかすかに自覚し、そっと彼から視線を逸らす。金の睫毛に覆われた彼のアーモンド型の瞳が切ないともしびを初夏の川の水面のごとく、揺らした。
 輝はふっと鼻から息を漏らすと、親指を立て、リヒトに対し「食おうぜ」と先を示した。
 輝の黒い睫毛が上向き、ふたたび彼らの天を照らした街灯の鈍い茜色の光の下で、先に金の光の粒を宿す。
 リヒトはふたたび輝に視線を向けて、その光をみとめると、感情が凪いでいくのを感じた。