五月が、もうすぐ終わろうとしていた。
 肌を癒すような、涼やかな新緑は徐々に濃さを増し、葉は真緑に色づいて。いつの間にか黒い影をその葉裏に宿すほどであった。
 雨が降る日が多くなったように感じる。
 それも霧雨のような穏やかなものではなく、じっとりと彼らの健康的な肌を濡らし、いやらしく残り続けていくような。
 輝もその雨に濡れる者のひとりである。校舎を覆う矢車菊が、花弁に大粒のしずくを灯し、ひらりと音を立てるように流れ、落とす。
 輝が天へとさした傘は、ミッドナイトブルーの色をしていた。薄青い空気の中で、その色はよく溶け合っていた。空を覆う雲の影の色とも、どこか似ている。

「やべぇー……、教室の机の上に置いてあるよな」

 濡れたスニーカーを拭う(いとま)もなく、輝は長い脚を交互に動かして廊下を小走りする。
 かつ、かつ、と輝の踵が、大理石の廊下を蹴る音が、木霊のように響く。その音さえも、どこか湿っていた。
 時折どこかで雷でも落ちているのか、あざやかな薄黄色い光が窓硝子越しに目の端に映るのだが、輝は教室に忘れてきた授業のノートのことで頭がいっぱいで、気にしている余裕がなかった。

「おわっと、着いた!」

 急ブレーキをかけるように、輝の片足がぴたっと廊下で止まる。急に止まったので、細長い体が傾いだが、右腕をぶんぶんと振って体制を整える。
 5限目に、語学の授業で使用した小教室は空いていた。輝はドアの隙間から自分が座っていた席を発見することができた。机の上には彼のホライズンブルーのノートが置いてある。
 よかった。
 胸を撫で下ろす。
 今日は金曜日。あれがなければ、来週の月曜日からのこの授業は、別の教室で行うので、困ったことになってしまうのだった。

(ふー、あぶねえー……)

 輝はこれ見よがしといったように、大袈裟に天を仰ぐと、半袖から剥き出しにした片腕で、額を拭った。傘をさしてきたので、まさかとは思ったが、汗なのか、雨なのか、わからないしずくが、筋肉を纏った腕に付着する。
 それをじっと見た後、教室に脚を踏み入れた。
 そこは、廊下とはまったく違った雰囲気をしていた。

(なーんか、ここだけ夜の世界みてえ)

 輝はなんだか心が浮き足立ってくるのを感じてた。はっきり言うと、わくわくしている。
 しんと静かでわずかにつめたい夜の、夏の森の中に足を踏み入れた旅人のような心地だった。
 人の気配がせず、あかりも灯っておらず、カーテンも閉め切っている教室。

(なんって楽しいんだろう)

 輝は無意識に朗らかな笑みを浮かべていた。
 一種の開放感があった。
 それはドイツに越してきてから、人に囲まれて日々を過ごしてきた輝が、気づかなかったことを教えてくれた。

(俺、本当は、どこかでひとりになりたかったのかもしれないな)

 常に友人や教授と共に行動し、あかるく笑って地道に勉強に励んでいた。だが、心のどこかでは、いつか孤独になって安らぎを感じたかったのかもしれない、それもアパートの狭い部屋の中ではなく、学校の中で。

(俺って変わってんのかな)

 両腕を大きく広げてみる。鼻から息を吸い込むと、肺の奥底までしんとした空気が染み込んでくるように感じた。
 そのままひらり、と後ろへ回ってみる。わずかに空気の隙間を切ったようだ。

(鳥になったみてえ)

 指先まで、爪を作っている小麦色の質量の中にさえも、空気をふくんだあたたかな血流が巡っていく。
 輝はうっとりとした顔をしていた。「恍惚」とは、まさに今の彼のためにある言葉だ。
 彼の日本人らしいほどよい高さの鼻筋や、くちびるの下に、カーテンから漏れる薄水色の影が宿って、それがふるふると揺れている。
 まるで、夜の水の中にいるみたいだ。夜の水の中を、自由に泳ぐ水鳥。

(自由だ、俺は今、自由なんだ)

 生きているという実感を、輝は肌で感じていた。

 そのときだった。背後で、衣擦れのような静かな音がした。
 
「ふぇっ!?」

 異空間にいるような心地でいた輝は、ぱっと目を大きく開け、肩を縮めて両手を格好悪く構える。後ろをはっと振り返る。耳の横で、風が勢いよく回るひゅっ、という音がした。
 目を瞬く。輝の切長の瞳を覆う、黒い睫毛が痛みを覚えるほどだった。
 黒板がぼんやりと見える。整然と並ぶ飴色の机の群れのひとつ、ぼんやりとしたあかりが、浮かんでいるのが見えた。
 陽炎《かげろう》のようだった。闇の中に、檸檬(れもん)色の炎の蝋燭が、うすぼんやりと灯っている。

「……おい」

 半歩近づいて、輝はその炎に声をかけた。
 返事はない。
 先ほどと同じ漆黒の沈黙が、あたりに続いていくだけである。
 輝は、躊躇いつつもまた半歩、炎に近づく。
 数秒待つ。
 返事はない。
 つま先を滑らせるように進め、炎に近づく。
 返事はない。
 輝はゆっくりと鼻から息を吸い、薄くくちびるを開けて吐き出した。漏れ出る彼の呼吸は温かく、あたりの空気を湿らせていくようであった。
 輝はしばし炎を見つめた後、ゆっくりとそこから剥がれるように後ずさっていった。
 踵が、壁にことり、とぶつかる。
 振り返ると、うすく埃のついたカーテンを頬に感じた。ミッドナイトブルーのカーテン。
 輝はその色が好きだった。故郷の夜空の色だったから。
 指先でカーテンの端をつまむと、何かを思い、ふっと力を込めて引っ張った。
 光が。
 光が、教室の中に漏れ出る。
 雨の紗幕を通して。
 外のライトのペールグリーンと混じり合い、薄黄色と薄緑色と、薄水色が合わさって離れて、輝とそこに在るものを、照らしている。

「あっ……」

 そこにいたものを目にして、輝は僅かに目を見開く。
 リヒトだった。
 檸檬色の炎の残像がうすらぎ、代わりに現れたのは、あどけない寝顔をしたリヒト。
 白に薄紅をひとしずく垂らしたような真珠色の肌。
今それが、カーテンから漏れいずるひとすじによって、浮かぶように光っている。
 ツーブロックに分けたゆるくウェーブを描く薄い金色の前髪は、彼の額とまるいまぶたへとかかり、彼を覆う闇から守るようだった。
 りん、と長い睫毛が震える。ルチルクォーツの金の筋のようなその細く長い毛。
 輝は無意識にリヒトに近づいていった。最初は幽鬼のようにふらふらゆっくりと、徐々に速度を上げて。
 輝がまばたきもしないまま、リヒトの白い顔へとその手を伸ばす。
 指先があとわずかで彼のやわらかな頬へ辿り着こうとする。痩せていて、肉のない体だというのに、なぜか頬だけはふわりと桜色に染まっている。
 彼の肌が、発光している。
 輝の固い指先が、月の(かさ)にゆるやかにふれる。
 暗い夜空に灯る月面に、触れたようだ。
 閉じていたリヒトの瞼がすっと開く。中から覗いた蒼い眸は、眠りの気配をひとすじも宿しておらず、鋭利に煌めいていた。

「うわぉっ」

 輝が驚いて目を見開き、手を引っ込めようとする。
 だが、つめたい空気を掻いた指先は、すぐに熱いぬめりに捕らえられた。
 輝は刹那、何が起きているのか理解できなかった。
 リヒトの桜色のくちびるが、輝の人差し指と中指の先を咥えている。顔は両腕の枕に伏せたまま、横向きになって。
 先ほど開花した瞼は、半分ほど閉じられ、うっとりと伏せられているかのようだった。

「なっ、ななっ」

 ちら、とリヒトの蒼い瞳が上を向き、輝の黒い瞳と視線がかち合う。
 その時間、3秒。
 輝の頬は、かつて感じたことのないほどの熱を内側から発していた。彼の開いたくちは、真四角で、白い八重歯が闇の中でも光って見えるほどだった。
 リヒトはポーカーフェイスで輝を見上げていたが、ふいに沈黙を破るように、小さな鼻の穴から息をふっと漏らした。

「あっは」

 喉の奥から鳴らす大きな笑い声だった。
 それを聞いて、輝は頭が真っ白になった。それは怒りだった。自分を嘲笑する彼に対し、目の前が白い雪景色で染められたかのような、怒りが彼の頭の中を暗雲のように覆った。
 何も言えなくなるほどの。

「今ここで、僕と寝てみる?」

「は!? 何言ってんだ、てめぇ!」

 リヒトが嘲笑をやめて、輝を見上げたことで、彼はようやくその真白い怒りから目を覚まされた。

「冗談」

 リヒトは乾いた笑いをこぼし、輝の手首を掴んでいた力を緩めた。瞳が半月の形に笑む。
 輝は瞬時にリヒトから手を離し、もう片方の腕で守るように、咥えられた指先を触った。
 唾液でわずかに湿っている指先の感触は麻痺したようになっていて、感覚が戻るのに時間がかかった。

「……やっぱり君も、他の生徒と一緒なんだよ。どうせ」

 指を曲げたり伸ばしたりしていると、リヒトの低いが透き通った呟きが前から聞こえた気がしたが、それはかすみのように実態がなく、聞いていたのかいないのかわからないほど、記憶に残ってはくれなかった。

「え? なんか言った?」

「いいや、なんでも」

 リヒトは俯いて笑った。睫毛が伏せられて、闇の中でもいっそう濃い闇色の影を頬に落としているのがわかる。
 リヒトが何かを考え込み、眉をわずかに寄せてまた解いた。
 それを輝は見ていたが、気づかないふりをした。
 リヒトは一度強く瞼を閉じる。睫毛が真ん中から割れて、花弁のように教室の薄汚れた床に零れ落ちてしまうのではないか、と不安になるほどに。そしてまた虚な瞳を投げると、
 くっ、と前を向いて笑みを浮かべる。
 その笑顔には、しずくひとつぶんの嘘が混ぜられているように感じた。

「確か、サイオンジだっけ。君も聞いたんだろう。僕の噂」 

 わざとらしいあかるい口調から、語尾が一変してひややかに落ちたので、輝は心臓が冷たく跳ねるのを感じたが、目の前のリヒトに毛取られぬよう、先ほど彼に咥えられた指先で、ゆるく胸の真ん中のシャツを摘んだ。

「噂、しらねぇーなー」

 わざとらしい乾いた笑みをこぼすが、嘘が苦手な輝は、リヒトの顔を直視できずにいた。声がひっくり返ったのが自分でもわかる。格好悪いと感じた。
 リヒトは不自然ににんまりと笑う。花が咲くような鮮やかな笑みだった。そこには悲しみも、怒りも感じられなかった。ただ全てを受け入れて、波が引くように去っていくのを待つかのような。

「とぼけなくても大丈夫。僕だって、言われてるのわかってるんだから」 

 リヒトが細い肩をすっと上げて、ゆるく小首を傾げる。その動作で、輝はようやくリヒトの白い首筋を認識した。男にしては白すぎ、そして、細すぎる首だと感じた。輝はリヒトの首を見て、水辺に咲く水仙の細い茎を思い浮かべた。小麦色の大きな手を伸ばして、その茎をそっと手折ってやれれば、心地よいだろうな、という謎の考えが浮かび、すぐに消えていった。
 リヒトが肉付きのない尻を先ほどまで上半身を預けていた飴色の机の上に乗せる。そして項垂れるようにかくり、と首を落とした。彼のウェーブを描く金の前髪が、薄墨色の影を、その白き富士額に落とす。
 輝はそれを見つめて、何か彼に声をかけてやりたい気持ちになった。しかし、言葉が選べない。どうすれば、どうすればいい。

「お前、腹減ってねぇか」

「……は?」

 ぽろりとまろびでた輝の言葉に、リヒトは数秒遅れて顔を上げる、その目はあどけなく、まるく見開いていた。
 輝はそれで、ようやくリヒトの瞳が、アーモンド型をしており、黄色いダリアのように段を重ねた花弁が、広がりを見せるような、ふさふさと長い睫毛で覆われていることを改めて知る。
 リヒトが瞬きをして、再び青を見せたことで我にかえり、また何事もなかったかのように彼に問いかける。

「んな痩せてて細っこいから舐められるんだよ。噂とか真実かなんて本人にしかわからねえしな。来いよ」 

 何食わぬ顔で扉に顎を向けると、輝はぱしっという音を立ててリヒトの手首を摑んだ。健康な青年の肌と肌がぶつかる音。
 リヒトは驚いて輝に掴まれた己の白く細い手首を見やる。
 小麦色の、リヒトよりも濃い肌をした大きな手の熱が、じん、と手首から伝わってくる。
 顔を上げると、輝はすでに扉の向こうを見つめていて、こちらを振り返ろうという様子がない。薄墨色の透明な夜の帷越しに、学友の筋肉を帯びて太い首すじと、刈り上げた、気持ちの良いくらいに形の良い後頭部が見えた。
 リヒトはうすくくちびるを開き、何か輝を責めるような言葉を吐こうとしたが、彼が舌を打つ前に、輝はリヒトの手首に力を入れ、彼を闇の教室から救い出した。