翌朝、白を基調としたリビングの中央に置かれた漆喰のテーブルで、僕と父・テオドール、母・アマーリエ、祖母・アウグスタの家族4人で朝食の席についていた。
 料理長のイェルクが作ってくれた質素だが奥深い味わいのある朝食は、ルドルフのお気に入りだった。テーブルには各々の前に、白い陶器のプレートが置かれ、その上に黒パン、カリカリに焼いたベーコン、ゆでたアスパラガス、くし切りにされた熟した赤いトマト、黄色と白がほどよく混ざったスクランブルエッグが載せられていた。僕は虚ろな目で、バターの油が浮いたスクランブルエッグを見ていた。このスクランブルエッグは特にルドルフのお気に入りで、なんでこんなにおいしいんだろうと僕が寝る前に彼に問うと、彼は「多分、卵とミルクの他にバターをひと匙入れていて、その塩梅がちょうどいいんだと思うよ」と微笑んで言っていたっけ。多分それは当たりだ。彼は舌が良いから。彼は自分には何の取り柄もないと思っているが、僕から見る彼は、僕にない感性を持っていて、魅力的だったし、それが羨ましいと思ってしまう暗い気持ちも幾分かあった。

 そんな弟は、この朝、僕の隣にいなかった。朝ごはんだけが、空席の椅子の前に置かれている。僕の隣にいつも座り、僕よりも数分早く朝ごはんに手を伸ばしてしまう食いしん坊な弟はいなかった。初めてのことだった。
 僕は嫌な予感がしていた。耳鳴りがする。きいんという静かだが鋭い耳鳴りが。無意識に右手で耳を押さえたのと同時に母の高い声がした。

「ルドルフ、まだ起きていないの? おかしいわね。あの子は家族の中では一番の早起きなのに」

「……ちょっと様子を見てくる」

 栗色の固い髪をワックスで整えた父が、立ち上がりリビングのドアを静かに開けて出ていく。僕とルドルフの部屋はリビングの横にある階段のすぐ上の位置にあった。
 母と祖母は、父の背を見ていたのだろうが、僕は体の表面を釉薬で固められたように動けなくなっていた。瞬きもできず、ただ目の前の冷えていく朝ごはんの一点を見つめ続けている。季節は夏へ向かおうと生命力に溢れ、動き出しているというのに、それに反するように僕の体温は徐々に下がっていった。
 やがて父さんが階段を駆け下りる音が聞こえ、その耳鳴りが消されていった。リビングの部屋のドアが、無骨な大人の男の腕の力で、乱暴に開けられる。
 
「ルドルフがいない」

「え!?」

 母と祖母が同時に驚く。僕は額に浮いていた冷や汗が、こめかみへ流れるのを感じた。

「坊や、一体どこに」

 母さんが細いゆびさきを揃え、ピンクの口紅を塗ったくちびるへと当てる。多分彼女のゆびは震えていたのだろうことが、彼女の高い声からわかったが、僕はじっと俯いたまま、顔が上げられなかった。家族と僕の温度差が違っていた。
 僕はそのまま立ち上がった。いきなり強い力で立ち上がったので、座っていた椅子が後ろに倒れ、ばん、と激しい音を鳴らす。それを気にせず、部屋を飛び出る。ずっと俯いていたので、前髪が顔にかかり、僕の表情はわからなくなっていただろう。

「リヒト!」

 父の野太い声が背後から聞こえたが、振り返らず、幽鬼のようにふらりと力なく走り出していた。