その部屋は、衣裳部屋だった。
 数十のワンピースが部屋の壁という壁にかけられ、カーテンのように覆っていた。どれもシックな色合いで、派手さがなく、シルクやベルベッドを使用した上品なものばかりだった。ローブ・ヴォラントやローブ・ア・ラ・フランセーズといった、ゆったりとした貴婦人が着るような衣装ばかりだ。
その部屋には、中央に人物が背を向けて立っていた。
背丈は僕と同じ、小柄な人。ゆるくウェーブを描くホワイトブロンドを、ショートに切っており、白い首筋が覗いていた。
 着ているのは、アフタヌーン・ドレス。
青い無地のシルクのバスルスタイルのツーピース・ドレスだ。シャーリングや襞付けにより、腰のスカートが立体的に装飾されていおり、沢山のこまやかなリボンがついていた。
 そのドレスの光沢が、僕の持っているカンテラの灯りで鈍く煌めいた。
いつの間にか僕の手には浮遊感があった。固く握っていたはずのカンテラが、地へと落ちてゆく。

 カシャン。

 カンテラが落ちた音で、ドレスを着た人物が振り返った。長い丈のドレスがふわりと翻る。
 
 そこにいたのは、僕と同じ顔だった。

「ルドルフ」

 弟のルドルフが、母さんたちが夜会で着るような上質なドレスに身を包み、夜の衣裳部屋の中で当たり前のように立っていた。
 よく見れば彼のぽってりとやわらかなくちびるには、葡萄色の紅が差され、頬にはピンクベージュのチークが塗られている。目元のアイシャドウは紅と同じ葡萄色。明らかに初めてではない、手慣れた化粧を施していた。
 その眸が僕を見て動揺し、震えている。いつもよりくるりとカールした睫毛が、彼の二重に当たる。

 僕は震えていた。いつの間にか呻き声をあげ、尻餅をつき後ずさろうとしていた。
 ルドルフはそんな僕に、スカートの裾を引きずりながらゆっくりと近づいて来る。

 僕は信じられないようなものを見た衝撃で、逆に歪な微笑みを浮かべていた。僕の額に、つめたい汗が次々と浮かぶ。

「おいルドルフ、どうしたんだよ。こんな深夜に、何やってるってのさ。寝る時間だろうが」
 
 きょろきょろと周囲を見渡した後、僕は再びルドルフに視線を戻した。ルドルフから見たら僕の笑顔は怖かっただろうと思う。歪で、とても幸福な笑みとは言えない。そして、それを向けられた彼は、女物のドレスを着ているのだ。
 ルドルフが何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
 ルドルフは白いまぶたを半分伏せ、僕をじっと見つめていると、踵を返し、正面に置かれた飴色のクローゼットと向き合った。そのクローゼットはまだ開かれていなかった。
 僕はそこに仕舞われているものを容易に想像してしまい、唾を飲んだ。
 ルドルフは白く細い手で、クローゼットをゆっくりと開く。
 僕はクローゼットの扉の動きに合わせて、徐々に目を見開いた。いつの間にか、僕の乾いたくちびるは、自分でもわかるくらいにわなわなと震えはじめていた。そしてクローゼットの扉が完全に開けられた時、僕は無意識に両手で口を覆った。
 
 彼のクローゼットには、壁と同様、数十のドレスが仕舞われていた。ワインレッド色のイヴニングドレス、胸元が広がりモッコウバラの造花があしらわれたシルクサテン生地のウエディングドレス、ブラックの艶やかなシルク生地のプロムナードドレス、きゅっと引き締まったウエストラインとふわりとしたスカートのアフタヌーンドレス。
木製のハンガーでひとつひとつ皺にならないよう、丁寧に扱われているとみられるそれらは、普段から彼がそのドレスを着ていることを示していた。

「ルドルフ……これは……」

 僕の掠れ声に反応し、ルドルフは後ろを振り返った。
 形の良い金色の眉を寄せ、同じ色の睫毛を小刻みに震わせている。どこからか風でも吹いているのだろうかと思わせるような揺れであった。

「これが、僕の秘密」

 ルドルフは玲瓏な声でそう言った。その声は、僕の喉から発せられるのと同じ声色をしていた。つんと上がった腰の大きなリボンの上で両手を重ね、ルドルフは顔を傾ける。

「僕は……僕はドレスを着るのが好きなんだ。ドレスを着ている時が一番心が落ち着く。一番……、一番自分でいられる……生まれてきてよかったと思えるんだ」

 両手を離すと、クローゼットの中のドレスに触れ、やわらかなそのスカートに顔を埋めた。
 隙間から見える彼の顔は悲し気に見えたが、僕の心情はそれどころではなかった。冷や汗は全身を覆い、僕の着ていたパジャマの鎖骨を覆うレースを濡らしていた。気持ち悪いくらいに。

「嘘だ……。嘘だ嘘だ……」

 僕の足は勝手に動いていた。一歩、二歩と後ろに下がる。口を開け、首を左右に振ると、きらきらと輝く汗の粒が零れた。
 
「君が……、僕の双子が、女の子の服なんか着ているはずがない。着られるはずがないじゃないか!」

「リヒト……」
 
 ルドルフは悲し気な笑顔で両手を広げると、僕に近寄る。

「僕を、見て」

 そして、クローゼットから一枚、両手の裾に黒いフリルのついたイブニングドレスを取り出し、自分の体に当て、一回転した。
   
「これが本当の、僕の姿だよ」

「来るな」

 僕は何か恐ろしいものに襲われたかのように、目つきをきつくし、彼を睨むと、一歩後ずさった。

「リヒト」

「来るな、来るな汚らわしい。2度と僕の名を呼ぶな。お前なんか、僕の双子じゃない。僕の片割れじゃない……。はやく、僕の前から消えてくれ!」

 僕は血を吐くような思いで叫ぶと、彼に背を向け扉へと走る。

「リヒト、待ってくれ! 行かないでくれ! 僕のリヒト。たったひとりの片割れ……」

彼の悲痛な叫びが聞こえなかったふりをして、後ろ手で思い切り扉を閉めた。
ばたんという大きな音が、廊下へ鳴り響く。眠っている者が起きてしまったのではないかと思うほどの大きな音。だが僕はそんなことを気にしていられないほど、興奮していた。
歯を食いしばり、ふーふーと野犬のように荒い鼻息を鳴らしていた。しばらく腕を振って髪をかき乱し、廊下を走っていた。
 自らが体の周りに起こす風で、パジャマの裾がめくれ上がり、筋肉とぜい肉のない薄く白い腹と臍があらわになった。そうして自室の扉の前にたどり着くと、上半身を屈め、両手を膝につき、息を整える。次第に両目から熱い涙が次々と零れ、僕の白い手の甲を濡らしていった。

 しばらく僕は動けなくなり、部屋の前で体を丸めて蹲って震えていた。僕とルドルフが、小さな頃からずっと共に過ごしていた部屋の前で。