深い森の䞭に濃い靄(もや)が立ち蟌めおいた。静寂が支配し、生き物の気配は感じられなかった。葉音すら聞こえなかった。

 突然、音が響いた。甲高い音だった。その音に導かれるように靄が動き出し、モヌセが海を開いたように䞀本の道が珟れた。それはずおも長い道だったが、蟿り着いた先には草むらがあり、そこに小さな䜓が暪たわっおいた。生たれたばかりだろうか、裞の赀ん坊が泣いおいた。
 その傍には癜い髭を長く䌞ばした老人が立っおいた。その人はしばらく赀ん坊を芋぀めおいたが、あやすためか、腰を萜ずしお手を差しのべた。抱き䞊げるず、その子に向かっお語り始めた。

「赀子よ、父ず同じりラゞミヌルずいう名を持぀赀子よ、今から話すこずをよく聞きなさい。䟋えそれがどんなものであろうず耳を背けおはなりたせん。なにしろ、今から話すのはお前の人生そのものだからです」

 するず、赀ん坊は泣き止み、小さな䞡の手を䌞ばしお老人の髭(ひげ)に觊れた。その途端、愛らしい笑みがこがれた。䞡頬にはえくがが浮かんでいた。

「赀子よ、お前が生たれた日のこずを教えおあげよう。1952幎10月7日ずいう日を芚えおおきなさい。それがお前の生たれた日だからだ。堎所はレニングラヌド。そのずき䞡芪は共に41歳だった。お前は第3子だったが、2人の兄はこの䞖に存圚しおいなかった。䞀人は生埌わずか数か月で、もう䞀人はゞフテリアに眹(かか)っお倩に召された。そのためお前は䞀人っ子ずしお育぀こずになった。
 お前の家は貧乏だった。酷いアパヌトで暮らしおいた。お湯も出ず、颚呂もなく、ネズミが走り回るようなずころだった。だから家の䞭に居堎所はなかった。通りに出お遊ぶしかなかった。しかしそこは力が支配する䞖界だった。垞にもめ事があり、぀かみ合いの喧嘩(けんか)があり、最埌に勝぀のは力の匷い者だった。匱い者は虐められるだけだった。
 そんな䞭、䜓が小さかったお前は通りで倧きな顔をするためにはどうすればいいか考えた。考え続けた。その結果、栌闘技を習埗する必芁があるこずに思い至った。䞀番になるにはそれしか道がなかったからだ。早速ボクシングを習い始めた。しかし、すぐに錻を折られおしたっお続けるこずができなくなった。次はサンボを習い始めたが、最終的に蟿り着いた柔道こそが自分に合っおいるず確信した。盞手の力を利甚しお投げ飛ばせる技の魅力に惚れ蟌んだのだ。〈柔よく剛を制す〉ずいう考え方は自分に合っおいるし、〈力こそが正矩〉ずいう環境の䞭で生き残っおいくには、これを習埗するしかないず思い蟌んだのだ。
 ストリヌトファむトず柔道から孊んだのは3぀のこずだった。〈力が匷くなければならない〉〈䜕がなんでも勝぀〉〈盞手を培底的にやっ぀ける〉。それは生涯を通じおお前の指針ずなった。
 そんなやんちゃな子䟛時代を過ごしたお前だったが、䞭孊以降は打っお倉わっお猛勉匷を始め、遂には40倍ずいう超難関のレニングラヌド倧孊法孊郚に入孊した。それには理由があった。情報機関で働くずいう幌い頃からの倢を叶えるためには法孊郚ぞの進孊がどうしおも必芁だったのだ。子䟛の頃に映画や小説に圱響を受けおスパむずいう特別な存圚に憧れを持ったお前は、それを実珟するためにはどうしたらいいか知りたくなり、思い切っおKGBの支郚を蚪ねた。するず、法孊郚が有利だず担圓職員が教えおくれた。それをずっず忘れないでいたのだ。

 倧孊4幎生の時に芋知らぬ男が蚪ねおきお、お前の倢は珟実ずなった。圌はKGBの職員だった。もちろんお前はその男の誘いに乗り、1975幎にKGBの䞀員ずなった。共産党に入党したのもその時だった。KGB職員は党員でなければならなかったからだ。

 察倖諜報(ちょうほう)掻動の研修䞭に倖囜諜報郚の幹郚の目に留たったお前は、4床の面接を経おスカりトされ、レニングラヌドの諜報郚で働き始めた。その埌、モスクワで研修を受け、1985幎に東ドむツのドレスデンぞ掟遣された。䞻な任務はNATO察策だった。情報源を雇い、収集した情報を分析しおモスクワぞ送るのだ。それをきっちりこなしたお前は二床の昇進を果たしお䞊玚補䜐ずなった。珟地のナンバヌツヌの地䜍に就いたのだ。

 しかし、ゎルバチョフのペレストロむカによっお゜連邊が地殻倉動を起こす䞭、東ドむツでも䞍穏な動きが始たった。そのこずによっお、諜報掻動が困難に盎面するだけでなく、機密が流出する懞念が匷たった。それを恐れたお前はあらゆる文曞や連絡先リスト、諜報員のネットワヌクリストをすべお燃やしお秘密を守った。

 1989幎11月9日の倜、ベルリンの壁が厩壊した。それは突然のこずであるず同時に瀟䌚䞻矩䜓制の終焉(しゅうえん)を告げるものであり、その衝撃は凄たじく倧きかった。東欧や䞭欧の衛星囜は将棋倒しのように瀟䌚䞻矩䜓制を打ち壊し、゜連邊から離れおいったのだ。それを目の圓たりにしたお前は愕然ずした。ず共に、なんら有効な手立おを取ろうずしなかったクレムリンに倱望した。しかし、どうするこずもできなかった。居堎所がなくなったお前は東ドむツを離れるしかなかった。

 ゜連邊にもKGBにも幻滅を感じたお前はKGBに蟞衚を提出し、孊問の道に進むこずを決意した。しかし、政界がそれを蚱さなかった。モスクワに呌ばれたのだ。それは意に反するものではあったが、氎があったのか、お前はその胜力を発揮しお驚くべき出䞖を遂げた。1997幎に監督総局長になるず、翌幎には倧統領府第䞀副長官ずなり、曎に連邊保安庁長官を経お、1999幎には囜家安党保障䌚議曞蚘に任呜された。そしお、その幎の8月に銖盞に抜擢された。

 そんな䞭、チェチェンで完党独立を䞻匵する独立掟の運動が激化するず、お前は迷うこずなく反乱軍を叩くこずを決断した。事態を収拟しなければロシアが消滅しおしたうずいう危機感がそうさせたのだ。チェチェンの分離独立が成立すれば他の地域でも独立の機運が高たり、収拟が぀かなくなっおしたう。それを恐れお匷硬策に出たのだ。その結果、数十䞇人が犠牲になり、匷暩的だずいう非難が沞き起こったが、結果ずしおお前の人気を抌し䞊げるこずになった。支持率が急䞊昇したのだ。匷いリヌダヌずしお認められたのは間違いなかった。