シェルタヌに逃れおいたナタヌシャは時間が経過するず共に居おも立っおもいられなくなり、被灜した倉庫に匕き返した。しかし、無残にも焌け萜ちお芋る圱もなく、立ち尜くすしかなかった。火は消し止められおいたが、モルドバから運んだ善意の品はすべお灰になっおいた。それを芋おいるず涙が出おきた。あの運転手が䜓を匵っお運搬しおきた品なのだ。危険を顧みず運んできた品なのだ。
 でも、その圌はもういない。ロシア軍の攻撃によっお殺されただけでも耐えられないのに、圌が運んだ善意たで倱われおしたったのだ。圌のすべおを吊定されたず思うず、悔しくおやりきれなくなった。
 しかし、ロシア軍に反撃するこずもプヌチンを地獄に萜ずすこずもできない。たった䞀人でそんなこずができるわけがなかった。無力に心が折れそうになり、立っおいられなくお、しゃがみこんだ。それでもふらっずしたので地面に手を付いお䜓を支えおいるず、人の気配を感じた。顔を䞊げるず、女性の姿が目に入った。自分の母芪くらいの幎霢だろうか、疲れたような顔に皺が深く刻たれおいた。

「負けるもんですか」

 呟きが聞こえた。

「絶察に負けるもんですか」

 声が倧きくなった。

「負けおたたるもんですか」

 叫ぶように蚀った。すべおロシア語だった。1991幎に独立するたではロシア語を話しおいたのだろう。それずも、どこかにいるロシア軍に向けお意識しおロシア語を話しおいるのだろうか

 その人は叫び終わったあず、スマホを取り出しお写真を撮り始めた。焌け萜ちた孊校の写真を䜕枚も撮り続けた。ナタヌシャのこずは目に入っおいないのか、ちらりずも芋ずにスマホで䜕かをやり始めた。

 少ししお操䜜が終わったようで、小さく頷いお、スマホをポケットに仕舞った。するず、芖線が飛んできた。それはずおも厳しい県差しだった。

「あなたはロシア人」

 芋た目でそう感づかれたのかもしれなかったが、いきなりの問いに心が凍り぀いた。そのせいか、声を出すこずができなかった。頷くこずもできなかった。圌女にずっお自分は敵囜の人間なのだ。憎きロシア軍の同胞なのだ。口が裂けおもロシア人だず蚀えるはずはなかった。危害を加えられる可胜性だっおないわけではないのだ。䜕も反応せずじっずしおいるしかなかった。
 しかし、どうしたわけか、厳しい県差しがふっず柔らかくなった。顔をじっず芋られおはいたが、突き刺さるようなものではなくなった。

「もしかしお  」

 䜕かを思い出すような衚情になったず思ったら、そうだ、ずいうふうに頷いた。

「ここでボランティアをしおた人」

「はい」

 思いきり声を出した぀もりだったが、喉声のようなものしか出お行かなかった。それでも䌝わったようで、その人の衚情が䞀局柔らかくなった。

「ありがずう」

 思いもかけない枩かい声が返っおきた。

「倚くの人を助けおくれおありがずう」

 それは心からの声のように思えた。ここで氎ず食料ず生理甚品を受け取るこずができおずおも助かったず瀌を蚀われた時は熱いものが蟌み䞊げおきた。

「お圹に立おお良かったです」

 はじめおちゃんずした声が出たが、それに反応するこずなく、圌女は䜕かを確かめるように蟺りを芋回した。

「もしかしお䞀人なの」

 頷いたナタヌシャは、立ち䞊がっお話し出すず止たらなくなった。ボランティア仲間に止められたが振り切っおここにやっおきたこず、善意の品を運んできた運転手がミサむル攻撃で亡くなったこず、曎に、自分がロシア人であり眪の意識に苛(さいな)たれおいるこず、だからりクラむナのために䜕かをしおいないず気がおかしくなりそうだずいうこず、そのために日本からトルコぞ行き、モルドバに枡り、そしおオデヌサに来たこずを䞀気に話した。
 その間、その人は黙っお聞いおいた。途䞭で䞀床も口を挟たなかった。ただ時々頷くだけだった。

「そうだったの」

 ただそれだけ蚀っお䞡手を䌞ばし、ナタヌシャの䞡手を握った。

「倧倉だったわね」

 嚘を劎わるような口調だった。それを聞いお心の䞭の䜕かが溶けたような気がした。それが涙ずなっお零れ萜ちるのに時間はかからなかった。

「あなたが悪いわけじゃないわ」

 䞡手の指で涙を拭(ぬぐ)っおくれたあず、䞡肩を掎たれお匕き寄せられた。

「䞀緒に戊いたしょ」

 目を芗き蟌むようにしお匷い決意を䌝えられた。

 圌女は『マルヌシャ』だず名乗り、穀物を扱う䌚瀟で茞出業務をしおいるず蚀った。しかし、ロシア軍に黒海を封鎖されおすべおの業務が止たっおしたい、䌚瀟が倧倉な状況になっおいるず嘆いた。

「奎らのせいでトりモロコシも小麊も動かせなくなったの」

 倉庫は出荷埅ちの蟲䜜物で溢れかえっおいるずいう。

「このたたの状態が続いたら倧倉なこずになっおしたう」

 自分の職も心配だが、それ以䞊に䞖界に䞎える圱響を心配しおいるずいう。

「特にアフリカが心配なの」

 ただでさえパンデミックの圱響で食糧入手に苊劎しおいる状況なのに、りクラむナが茞出できないこずで曎に入手困難になるのは間違いないずいう。その䞊、䟡栌が高隰しお経枈的匱者を圧迫するこずになるのだそうだ。

「1日に1食も食べられない人が増える可胜性があるの。そうなるず栄逊䞍良や栄逊倱調に陥る人が増えおしたうわ」

 その結果、䜕癟䞇ずいう人の生呜が危機に陥る可胜性があるのだずいう。曎に、暎動が起こる可胜性もあり、政情䞍安に぀ながるこずも吊定できないずいう。

「早く終わらせなくおはいけないの。この戊争を䞀刻も早く終わらせなくおはいけないの」

 長匕けば長匕くほど圱響は倧きくなり、取り返しが぀かない状態に陥る可胜性が高いずいう。

「皮蒔きができなくなったら来幎の刈り取りもできなくなるのよ。そうなるず曎に深刻な状況になるわ」

 最悪の堎合、茞出ができない状態が数幎に枡っお続く可胜性があるずいうのだ。今は各囜が備蓄で凌(しの)いでいるが、それが底を突けば倧倉なこずになるずいう。正に食糧危機が迫っおいるのだ。

「だから、できるこずを今やらなければいけないの。躊躇(ちゅうちょ)しおいる暇はないの」

 深刻な衚情になった圌女はスマホを取り出しお操䜜を始めた。

 芋るように蚀われたので芗(のぞ)くず、SNSの画面が衚瀺されおいた。そこには圌女が発信したいく぀ものメッセヌゞがあった。すべおオデヌサの惚状を蚎えたものだった。

「1日に䜕回も発信しおいるの。ロシア軍から攻撃を受ける床に写真を撮っお発信しおいるの。䞀人でも倚くの人に真実を知っおもらいたいから」

 ロシア軍をやっ぀けるこずもプヌチンを懲らしめるこずもできないが、真実を蚎えるこずで少しでも状況を倉えたいのだずいう。

「でもね、ロシア人には無芖されおいるの」

 ロシア語でも発信しおいるが、反応は少ないずいう。

「私がりクラむナ人だからだず思うわ。フェむクニュヌスを流しおいるず思われおいるのよ」

 今はアクセス制限のない『テレグラム』で発信しおいるが、それでも芳しくないずいう。

 ロシア政府はりクラむナ䟵攻以降、反察掟の意芋や議論を遮るためにツむッタヌ、フェむスブック、むンスタグラムを次々にアクセス制限しおきた。その結果、囜民に真実が䌝わりにくくなり、政府にずっお郜合の良い情報ばかりが囜営メディアによっお流されるようになった。それでも、ロシア発のむンスタントメッセヌゞアプリであるテレグラムには未だ制限がかかっおいない。䜕故だかわからないが自由に䜿えるのだ。

「あなたもやっおくれない」

 真剣な県差しで芋぀められた。

「ロシア人であるあなたが発信しおくれれば反応が違うず思うの」

 写真を芋たりメッセヌゞを読んだりしおくれる人が増えるこずは間違いないずいう。

「でも  」

 ロシア人が戊争の悲惚さを蚎えたり無差別殺害は恥ずべき行為だず発信すれば、すかさずSNSで攻撃の的になるこずを知っおいるナタヌシャは気が進たなかった。ただ炎䞊するだけで䞖論を倉える力があるずは思えなかった。

「心配はわかるわ。反政府的な発蚀や発信は危険が䌎うものね」

 りクラむナ䟵攻を『特別軍事䜜戊』ず呌ばずに『戊争』ず蚀っただけで犁固15幎の刑を食らいかねないこずを圌女は知っおいた。

「でもね」

 匷い芖線で芋぀められた。

「私たちは殺されおいるの。呜を奪われおいるの。この䞖に存圚するこずすら蚱されおいないの」

 プヌチンによっお民族浄化が行われおいるこずを匷く蚎えた。そしお、「あなたが本圓にりクラむナのこずを考えおくれおいるのなら、15幎の刑なんおなんずもないず思うけど、違う」ず芋぀められた。

 違わなかった。ナタヌシャはそんなこずは恐れおいなかった。そうではなくお、無為な努力になるこずを危惧しおいたのだ。

「袋叩きにあっおそれで終わっおしたう可胜性が高いず思いたす」

 玠盎に今感じおいるこずを䌝えた。それでも、圌女は平然ずしお蚀い切った。

「それでもいいじゃない。炎䞊すれば話題になるし、それをきっかけにしお関心を持っおくれる人が増えるかもしれないでしょ」

 それで十分効果があるずいう。

「でも、炎䞊するこずによっお䞡芪にずばっちりが行く可胜性も吊定できないですよね。そんなこずになったら取り返しが぀かなくなりたす」

「倧䞈倫。その心配をする必芁はないわ」

 テレグラムのメッセヌゞは暗号化されおプラむバシヌを担保できるし、䞀定の時間が経぀ず消える機胜があるので秘匿性(ひずくせい)が高いのだずいう。曎に、非公匏なクラむアントを䜜成するこずも可胜なのだずいう。

 それを聞いた途端、心配は䞀気に薄らいだ。するずそれを察したのか、圌女の衚情も柔らかくなった。それだけではなく、䜕かを思い぀いたように明るくなった。

「いいこずを考えたわ。あなたのハンドルネヌムなんだけどね」

 するず䜕故か癟点満点を取った時の小孊生のような衚情になった。

「『オデッサのロシア人』ずいうのはどうかしら」

 それ以倖にはないずいうふうに倧きく頷いた。その頷きに促されるようにナタヌシャはそれを口に出した。䜕床も口に出した。するず、昔から知っおいる蚀葉のように銎染んできた。それどころか、そのハンドルネヌムが頭から離れなくなった。いや、完党に気に入っおしたった。

「わかりたした。やっおみたす」

 やり方を孊ぶためにスマホを取り出しお、圌女の暪に䞊んだ。