眠れない夜を過ごしたナターシャだったが、やるべきことをやらなければならない、彼の分まで頑張らなければならない、と重い心と体に鞭打って宿舎から外に出た。
 しかし、そのまま真っすぐボランティア会場に向かおうという気になれず、遠回りすることにした。無性に海が見たくなったのだ。それは、心の傷を波で洗い流してもらいたいという欲求からくるものかもしれなかった。

 海岸に着くと、目の前には美しい海とビーチが広がっていた。でも、そこは立ち入り禁止の場所になっていた。ロシア軍の上陸を阻止するために海岸一帯に地雷が埋められているのだ。ドクロのマークの立て看板が睨んでいるようで、不気味だった。
 今年は海水浴もできないと思うと、気持ちが沈んだ。去年までは多くの市民や観光客が色鮮やかな水着で日光浴をしたり水しぶきを上げていたはずなのだ。しかし、そんな平和な光景は奪い去られた。黒海はロシア軍に支配され、軍艦や潜水艦による攻撃が行われているだけでなく、機雷によって航行の自由が削がれているのだ。戦の海となって人を寄せ付けない場所に変わってしまったのだ。ナターシャはドクロに追い立てられるように海から離れて街中に向かった。

 公園に差し掛かると、早朝だというのに人で賑わっていた。でも、のんびりとした雰囲気はなく、緊張に包まれていた。市民が軍事訓練をしていたのだ。二人一組になって格闘訓練を行っていた。その横では銃を持つ市民が武器の扱い方を習っていた。女性の姿も多く、老いも若きも真剣な表情で取り組んでいた。誰もがこの地を守り抜くために戦おうとしているのだ。祖国防衛のために身を捧げようとしているのだ。それを見ていると、突然、心の声に喝を入れられた。

 しっかりしなさい!

 強い力で背中を押されたナターシャは仲間が待つボランティア会場に足を一歩踏み出した。

 ところがその時、頭上を爆音と共に何かが飛び去った。ミサイル? と思う間もなく大きな爆発音が轟いた。
 すぐに濃い灰色の煙が立ち上ってきた。それを見て心が凍った。攻撃されたところはボランティア会場になっている学校の方角だったからだ。

 ヤメテ~!

 叫びながら走り出したが、近づくにつれて危惧が当たってしまったことに(おのの)いた。学校が破壊されていた。炎を上げているのは倉庫になっている体育館だった。医薬品や水や食料などを保管している倉庫が燃えていた。

「無理だ!」

 倉庫に飛び込もうとして誰かに止められた。一緒に働くスタッフの男性だった。でも、ほんの少しでも持ち出したかった。すべてが命に直結した品だからだ。

「行かせて下さい」

 振り切ろうとしたが、羽交い締めにされて身動きができなくなった。そのままの状態で炎を見つめていると涙が出てきた。トルコやモルドバの人たちの善意が燃えているのだ。オデーサの人たちに届く前に灰になろうとしているのだ。涙が止まるわけはなかった。
 それでも、いつまでもこの場にとどまるわけにはいかなかった。ミサイルが続けて打ち込まれる可能性があるからだ。男性スタッフに強く促されて、車に乗り込んだ。

「シェルターのある所に逃げましょう」

 彼はそう言うなり車を急発進させたが、その瞬間、大きな爆発音と衝撃が車を襲った。バックミラーには悪魔のような炎が殺意をむき出しにしていた。