「奥さんはモルドバにいらっしゃるようです」

「モルドバ?」

 思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
 まったく予想していなかった地名だったからだ。

「なんでモルドバなんかに」

「それはわかりません。しかし、張り込みによって、アイラがウクライナ支援団体と接触していることがわかりました。その主なルートがモルドバなのです」

 ウクライナと隣接するモルドバはイスタンブールから地続きで行ける小国で、ウクライナの南部や東部に最も近い国なのだという。

「でも、ここからだとルーマニアの方が近いのではありませんか?」

「そうですが、例えばウクライナ南部の要衝(ようしょう)オデーサまではかなりの距離があります。それに比べてモルドバは遥かに近いのです」

「というと、妻はオデーサに行っている可能性もあるのですか?」

「それはまだわかりません。あるともないとも言えません」

「盗聴で地名は確認できないのですか?」

「残念ながら」

「それって警戒されているということですか?」

「そうかも知れません。彼女はヘッドハンティングのプロであると共にITにもすこぶる強いようですから、セキュリティーに対する警戒は並大抵ではないのかもしれません」

「そうですか……」

 思わず消沈の声が出た。帰国までの時間が残り少なくなってきた倭生那にとって、未だに妻の居場所が掴めない現状は憂い以外の何物でもなかった。

「とにかく、全力を尽くしていますので、もう少しお待ちください」

 そこで通話が切れた。倭生那はスマホを置いたが、なんとも言えない重苦しさがいつまでも纏わりついて離れなかった。

        *
          
 その頃、アイラはナターシャ宛にメールを打っていた。

『ナターシャへ。本日、支援物資を発送しました。今回は生理用品と赤ちゃん用おむつを各500ケース積み込みました。少しでも役に立てば幸いです。それから、ちょっと嫌な予感がするのでスマホを使うのを止めました。これから頻繁な連絡ができなくなりますが、くれぐれも健康に気をつけて活動してください。危険な所には絶対に行かないように自制してください』

 パソコンから送信したアイラは、異国の地で避難民の支援に汗をかいているナターシャの姿を思い浮かべた。それは過酷なものに違いなかった。押し寄せる避難民に対して受け入れ側は限界に来ているはずなのだ。人口が264万人しかいない所へ40万人近くの避難民が押し寄せ、今でも10万人近くがとどまっている現状は、経済的基盤の弱いモルドバにとって大変な負担になっていることは間違いなかった。支援する人も金も物も不足しているのだ。
 その中でナターシャは戦っている。ロシア人が犯した罪を償っている。誰にでもできることではないし、やり遂げてもらいたいと強く思う。
 でも、元の生活に戻ってもらいたいと願ってもいる。優しそうな夫がわざわざイスタンブールにまで迎えに来ているのだ。私立探偵まで雇って探し出そうとしているのだ。その気持ちが痛いほどわかるだけに心が()きむしられそうになる。だから、スマホを手に取って探偵の番号を押したくなる衝動がいつも湧いてくる。
 それでも、ナターシャに止められているからそんなことは決してしない。彼女の決意に水を差すことはしない。絶対にしない。例えそれが間違った判断だとしても改めたりはしない。ナターシャが選んだ道を応援すると決めたのだから、それをやり切るしかないのだ。これからも、そしていつまでも。