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誰かと話をするときに、目の前のこいつは生きているのか、あるいは死んでいるのかと、まず確かめないといけないのは、龍田竜羽にとっては当たり前のことだった。
竜羽は、その身に希有な能力を宿している。——端的にいえば、彼には霊感がある。この世から去ったはずの、普通の人間には視えない者たちが、竜羽の目を通せば、たちどころにそれらは存在していると、証明されてしまうのだ。
学校には、そういった類いの存在がたくさん集まってくるという。生きている生徒たちの若くきらびやかな生気が、それらを自然に呼び寄せているとも言われている。
竜羽はこの春、私立青海波学院高等学校に入学した。クラスは一年七組に振り分けられた。青海波学院には、普通科、体育科、福祉科、国際科と、生徒の将来の希望進路に合わせて四つの学科が存在している。部活動も運動部、文化部ともに豊富で、生徒の主体性を重んじる学校ならではの、選択肢の幅広さが魅力的だった。
竜羽が入学した年の一学年は、九クラスに生徒が振り分けられており、一組から六組が普通科、七組が体育科、八組が国際科、九組が福祉科となっている。これは概ね全学年の割り振りもそうなっている。また、青海波学院にはこの国で暮らす外国人が多いのはそういった生徒の入学を積極的に受け入れているからだ。
竜羽が所属する体育科は、男子生徒が多い。多いというか、七組は男子しかいない。青海波学院は共学だが、まるで男子校にいるみたいだった。
竜羽は明朗で、誰とでも分け隔てなく接することのできる人柄だから、クラスにもすぐに打ち解けられた。
「龍田くん、部活はなににするか決めたのか?」
「オレはボクシング部に入るぞ」
竜羽に話しかけてきたのは、ちょうど後ろの席に座っている、藤堂大樹だった。即答する。竜羽は入学前から、自分の入る部活を決めていた。
「藤堂は?」
「うーん、僕はまだ決めてないや。でも、格闘技はちょっと興味があるなあ」
「えっ! オマエが!?」
竜羽は思わず、驚きに目を見開いた。目の前のクラスメイトは、どちらかというと大人しそうな部類に入るタイプだと思っていた。だから初めて顔合わせをしたときに、大樹の方から話しかけてきたときもびっくりしたから、コイツには驚かされてばかりだと思った。
「僕には歳の離れた兄ちゃんがいて、格闘技の選手なんだ。結構強いらしくって、このあいだ、兄ちゃんがずっと師事していたらしいチャンピオンの人と闘って、勝ったんだ。……といっても、僕は兄ちゃんに直接会ったことはないんだけど……」
なんだか複雑な事情を抱えたヤツなんだなと思った。そして大樹の兄が誰なのかが、竜羽にも分かった。スマホのニュースサイトを流し読みしていたときに、その選手に関する記事を見たことがある。人の同情を誘う生い立ちとともに、見た目に反して真面目な立ち振る舞いが好感を呼び、人気になった選手だと記憶に残っている。
「まあそんなことはどうでもよくって。そんなわけで龍田くん、僕もボクシング部の見学、一緒に行ってもいいかな」
「おう! 放課後な!」
竜羽は大樹とグータッチをした。
部活動紹介というイベントが、新入生を体育館に集めて行われたのは、入学式が終わった次の週の午後だった。中学のときにも同じようなことを体験したから勝手は似たようなものだったが、紹介される部活動の数は比ではなかった。体育館の中に用意されたパイプ椅子に、自由に座っていいとのことだったので、竜羽は他の生徒に倣って大樹と共に後ろの隅の方に席をとった。入る部活はもう決めている。だから選り好みをするまでもないからだ。
紹介は、二、三年の上級生たちが考えたのだろう、ユーモアを交えた内容で行われることが多かった。特に運動部ではその傾向が顕著で、寸劇を取り入れたり、体育会ならではのノリで場を盛り上げようとしていた。
ボクシング部は、運動部の中ではマイナーな部類に入るらしい。竜羽と大樹はごくりと唾を飲み込んで、熱烈な視線を送っていたが、周りの生徒たちはさほど興味を持っていない様子が見てとれた。しかし、壇上の部員が互いに向き合って、軽いスパーリングを始めたときには、館内にどよめきが起こっていた。
是永と名乗った二年の男子生徒が、「初心者大歓迎! 少しでも興味がわいたら、練習場に見に来てください」と律儀に言ったのち、再度の拍手に送られながら、ボクシング部の部員たちはステージから下がっていった。
「どうだ?」
竜羽は、隣にいる大樹の顔も見ずに、言葉をこぼした。横目の視界の中に、大樹が力強く頷いたのがみえた。
「うん、決めた。僕はボクシング部に入る」
同感だった。だから嬉しくなって、頬を緩ませながら大樹と握手をする。それを見た隣の男子生徒が「おまえら、もう仲良くなったのか」と目を丸くした。
入る部活を決めてしまえば、その後に紹介される部活なんて興味はなかった。ましてや文化部を見る必要もないと思って、ぼんやりをしていた竜羽だったが、『茶葉研究部』という部活の先輩たちが登壇したとき、彼の目に芯が入った。
「こんにちはっ! ぼくたちは、茶葉研究部という部活をやっています!」
ツーブロックの髪をこざっぱりと整え、マイクを両手に持ってこなれた様子で話しはじめたのは、宇集院という名の男子生徒だった。両隣には部員なのだろう、眼鏡をかけたいかにも真面目そうな男子と、坊主頭でシュッと背の高い男子が立っている。彼らは喋りをすべて宇集院に任せているらしく、ただ立っているだけ。
「なんと茶葉研究部は創部二年目! なにを隠そう、ぼくたち三人で立ち上げた部活なのです!」と得意げに胸を張る宇集院は明るい性格なのだろうが、他のふたりはどちらかというとおとなしいのかもしれない。
「ぼくたち茶葉研究部は、その名のとおり、飲み物としての『茶』を科学的・文化的に探求する活動をしています。テイスティングといって、たとえばおなじ産地の茶葉でも焙煎などに違いのあるお茶を飲み比べてみたり、温度や葉の量、抽出時間の違いでおこる味の違いを調べたり、紅茶だけじゃなく、それ以外のお茶も幅広く取り扱っています!」
そこで言葉を切った宇集院は、隣の眼鏡の生徒にマイクを奪われた。
「お茶それぞれに合ったお茶請けの研究や、茶葉のブレンドの研究なども行っています。文化祭では僕達が淹れたお茶を振る舞ったりもします。このあと、部活の時間に我々の研究の成果を披露します。興味のある方はぜひ部室にお越しください。北校舎の一階でお待ちしています」
壇上の三人が深々と一礼する。まばらな拍手が起こったが、体育科の生徒が固まっている竜羽の周りのやつらに、茶葉研究部に興味を持った者はいなさそうだった。
(ただの茶飲みサークルかよ……。くだらねえ)
そして竜羽自身もそう思っていた。苦笑している大樹と目が合って、その思いは余計に強くなる。大樹は真面目だから、社交辞令的に拍手をしていたが、たぶん自分とおなじことを思っているだろうなと予想がついた。
部活紹介が終わって、新入生たちは三々五々、各々の目当ての部活の活動場所に繰り出していった。
「藤堂、オレたちもいこうぜ!」
「うん」
ボクシング部がある格技場は、体育館の下にある。 体育館を出ると、通路の端の方に階段があって、竜羽たち以外の男子生徒も何人か、連れ立って降りていくのがみえた。階下は陽が入らないせいか、そこは薄暗く少し肌寒かった。
「ここには柔道部、空手部、ボクシング部があるみたいだね」
屋内のひんやりとした空気を払拭するかのように、道着やユニフォームを身に纏った部員たちが新入生たちを出迎えている。竜羽たちは颯爽とボクシング部に向かった。
「ちわっ! 入部希望です!」
大樹が緊張しているのか、急におどおどしはじめたため、竜羽が先立って、先程体育館の壇上でスパーリングを披露していた是永に話しかけた。近くで見ると、背が高く、がっちりとした男だった。竜羽を見下ろすようなかたちで視線が合う。威圧感はあったが、すぐに人の好さそうな笑みを浮かべて、二人を歓迎してくれた。
「よく来てくれたな! さあ、入れよ」
肩にぐるりと手を回して、是永は二人を練習場に招き入れた。
「失礼します」
大樹が緊張した面持ちのまま、そう言ってあとに続く。
室内には、リズミカルに縄跳びを跳ぶ音、サンドバッグを叩く重低音、そして部員たちの荒い呼吸が混ざり合っていた。
「うわ……すごい迫力だ……」
大樹が圧倒されたように呟く。本気で打ち込む上級生たちの肉体は、中学生のそれとは明らかに密度が違う。しかし、竜羽が感じていたのは、それだけではなかった。
(……やっぱり、ここにもいるな)
竜羽の視界の端、練習場の隅にある古びたサンドバッグのそばに、ぼんやりとした影が立っているのが見えた。青海波学院の古いジャージを着ている。半透明の男子生徒だった。彼は練習する部員たちを恨めしそうに見つめるわけでもなく、ただ懐かしむように、愛おしそうに眺めている様子なのがわかった。
「生気」が溢れる場所には、それに惹かれるように「死気」も集まると言われているが、ボクシング部のような、肉体の限界を追い求める場所ならなおさらだろう。
「龍田くん? どうしたの、ぼーっとして」
「あ、いや……なんでもねえ。ちょっと雰囲気に気圧されただけだ」
竜羽は我に返って明るく笑ってみせたあと、目の前の「生きている」先輩、是永に向き直った。
「よし、まずはそこにあるグローブをつけて、俺が構えたミットを叩いてみてくれ。お前たちのセンスを見たい」
是永に促され、二人は見よう見まねでグローブを拳に嵌めた。大樹と顔を見合わせて互いに頷き合ったあと、まずは竜羽が、日頃の運動神経に任せて勢いよく拳を叩き込んだ。
——パァンッ!
乾いた小気味よい音が響いた。
「おっ、いいジャブだ!」
「へへっ、あざッス!」
鼻をこする竜羽の横で、次は大樹が拳を構えた。 彼は少し緊張した面持ちで、細い足を肩幅に開き、是永の構えるミットを見据えた。その瞬間、大樹の纏う空気がわずかに変わったように、竜羽は感じた。
——ドシュッ!
明らかに音の重さが違った。 踏み込みの鋭さ、腰の回転、そして拳を当てる角度。どれをとっても初心者のそれではないようにみえた。
「……おいおい、マジかよ」
是永が目を丸くする。ミットを保持していた腕が、わずかに痺れているようだ。
「藤堂、お前……本当に未経験か?」
「あ、はい。……さっき言った通り、兄の試合を映像で何度も見ていたから、そのイメージで……」
大樹は照れ臭そうに笑っていたが、その瞳の奥で、自分の血に流れる格闘家の本能が、静かに火を灯し始めているようだった。
大樹のパンチに触発されたのか、隅にいた幽霊が、ゆっくりと大樹の方へ歩み寄ってきた。竜羽の心臓がわずかに跳ねる。
(おいおい、寄ってくるなよ……。今はせっかく楽しくなってきたところなんだからよ)
幽霊は大樹のすぐ後ろに立ち、彼のフォームをじっと観察していた。幸い、悪意は感じられない。むしろ彼も、大樹の中に眠る才能に驚いているように見えた。
「あ、そうだ。二人とも」
是永が何かを思い出したように口を開いた。
「うちの部は練習の後に、たまに『茶葉研究部』から差し入れが届くんだ。あいつら、運動後の疲労回復に効く特製ブレンドの研究をしてるらしくてな」
その名を聞いて、竜羽は思わず顔をしかめた。
「えっ、あの……さっきの、変な三人の?」
「ははっ、変な三人って言うなよ。宇集院たちは変わりもんだが、あいつらの淹れた茶を飲むとたしかに疲れがましになる気がするんだよ。……さ、雑談はこれくらいにしておいて、もう少し頑張ろうぜ!」
是永に促された二人は、再び拳をぎゅっと握りしめた。
トレーニングを終え、二人で床にへたり込んでいると、格技場の入り口が勢いよく開いた。
「お疲れ、ボクシング部にも新入生が入ったみたいだな」
現れたのは、部活紹介のステージに立っていたあの三人組——茶葉研究部の面々だった。 先頭に立つ宇集院が、湯気の立つステンレス製のジャグと紙コップを載せたトレイを抱えている。後ろには、相変わらず無表情な眼鏡と、ひょろりと背の高い坊主頭が控えていた。
「よお、宇集院。その様子だと、お前らのところには誰も来なかったようだな」
是永がタオルで体の汗を拭いながら立ち上がる。軽口を叩きながら、宇集院に近づいていく。
「おれたちの崇高な研究は、なかなかみんなに理解されないみたいだ。いやーまいったぜ。おれ、あんまり人前に立つの好きじゃないんだよなあ。是永たちはカッコよかったけど、おれはどうだった?」
ワックスでセットしたツーブロックの髪の毛先をいじりながら、宇集院は妙に真面目くさった表情でそう言った。自分が他人にどう見られているかを、最も重要視しているみたいだ。
「ちゃんと喋れてたから大丈夫じゃねえか。まあ、お前たちの中なら、宇集院が前に出ざるを得ないもんな。なんたってアフタヌーンティー部創立者でもある部長サマだし」
「アフタヌーンティー部?」
竜羽にも、それが茶葉研究部の、いわゆる俗称だということは、会話の流れの雰囲気で理解できた。
「おっ、新入生、キョーミあんのか?」
宇集院はにんまりと笑って竜羽を見た。この人、文化部の割にガタイがいいなと気付く。後ろにくっついている二人の体が薄いから、余計にそれが際立ってみえた。
「いや、オレはいまのところ、興味ないッス……」
竜羽はそう言って、ぺこりと頭を下げた。
その後、宇集院たちは是永といくらかやり取りをして、それが終わると竜羽たちのほうにくるりと向き直った。
「龍田くん、藤堂くん。きみたちも部室に遊びに来てくれ。お茶の奥深さは、飲むだけじゃわからないからな」
宇集院がそれだけ言うと、茶葉研究部の三人は嵐のように去っていった。
「あいつら、いったい何者なんだ?」
竜羽の呟きに、大樹は不思議そうに首を傾げた。
「でも、本当にお茶だけでこんなに楽になるなんて。あの部活、案外バカにできないかもね」
大樹は実際に体が軽くなったから効能はあるんだろうなと思った。舌の上に残っている甘味が、余韻のように口の中に広がっていく。
「宇集院はかっこつけしいな一面があるんだ。あいつ、自分たちが作ったお茶を、なにか特別な飲み物のように言っていたが、実際は麦茶に塩と蜂蜜を入れただけの代物だろう。試作品三号と言っていたよな。おおかた塩と蜂蜜の分量を調整したんだろうな。前のはちょっとしょっぱすぎたから、今回はそれを改良してきたみたいだな」
「是永先輩、それ、あの人たちの実験台になってるんじゃないッスか?」
「龍田くん!」
大樹が慌てて竜羽を窘める。是永がふいに真顔になったので、怒られる! と身構えたが、彼はそのままガハハと笑いはじめた。
「そうかもしれないな! だが、あいつらが持ってくるお茶で体調を崩したことは一度もない。だから大丈夫だ」
是永の言った大丈夫の根拠が分からなかったが、竜羽はそれ以上追及しなかった。
自分に霊感があることを、ひけらかすのは控えていた。だからボクシング部の練習場には一人の幽霊がいて、そいつが藤堂のことを気にかけていたみたいだぜ、などとはとても口に出来なかった。
「藤堂、オマエ、オレよりセンスあるじゃん。兄ちゃんに会ったことはないって言ってたくせに、ちゃんとその血筋は受け継いでいるんだな」
「……そうかな」
大樹の声が所在なさげに揺れる。さっきまで一人のボクサーとしての片鱗を見せていたときとは別人みたいだ。竜羽が霊感のことを話したくないのと同じくらい、大樹もまた、自分の家族のことには触れられたくない気配を感じた。
まだ知り合って数日しか経っていないせいもあるのかもしれないが、大樹は竜羽と一緒に帰ることはせず、自転車に乗ってサッといなくなってしまう。だから彼がどこに住んでいるのかは知らない。
竜羽は通学に自転車も電車も使わない。青海波学院の最寄り駅である青海波学院前駅から徒歩で二分の場所にあるタワーマンションが、竜羽の自宅だ。学校からは徒歩二十分ほどの場所にある。
家に帰って「ただいま」と言っても、返事はない。三LDKの一室に、普段から竜羽ひとりで暮らしているからだ。
起業家である竜羽の両親は、ともに海外を拠点に仕事をしている。通訳の仕事だ。ときに海外の要人やスポーツ選手の隣に立ち、仕事をすることもある。だから彼らは一年のほとんどを海の向こうで過ごし、竜羽は日本でひとり暮らしをしているのだ。
学校帰りにコンビニで買った弁当をダイニングテーブルに置いて、一息つく間もなく日課の筋トレをはじめる。腕立て伏せと上体起こし、それにスクワットを百回ずつ。時間をかけて行うのが恒例となっていた。
竜羽はそうやって、自分の体を追い込むのが好きだった。だから勉強よりは運動のほうが好きで、青海波学院の体育科に入学したのも、スポーツ関係の勉強がしたいと考えたからだ。ゆくゆくは体育系の大学に進学したいと思っている。金銭的には問題はないだろうが、あとは竜羽の学力がそれに見合っているかどうかだ。
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学校という建物は、若い魂が多く集まっているからか、この世ならざる者が多く引き寄せられるのだろうか。小学校、中学校、そして高等学校と段階を踏んでそこに所属している竜羽だったが、数多くの場面で幽霊を視認していた。
ボクシング部の練習場にいた幽霊もそのうちの一例だ。竜羽にはその姿がはっきりと見える。丸刈りで、一重で、幸の薄そうな顔立ちをしている男子生徒だった。古いジャージ——少なくとも竜羽たちの代に支給されたものとはデザインの違うものを身につけ、練習場に佇んでいる。あの場所で亡くなったのではないだろう。なのに、あそこにいるということは、彼はよほどボクシングが好きだったのかもしれない。
竜羽たちのクラスは、南校舎の最上階にあり、そこからはグラウンドの様子がよく見える。フェンスに沿うように桜の木が並んでいる。半分ほど葉に変わってしまっているが、まだかろうじて桃色の花が枝を彩っている箇所もある。風が吹けば、小さな花吹雪が発生する。春の暖かい陽光に照らされて、上級生のどこかのクラスが体育の授業を受けている。
竜羽はそれをぼーっと眺めていた。生徒たちは、持久走をしているらしく、トラックを周回している。真剣に走る者、少し手を抜いている者など、階上から見れば彼らの様子がよく分かった。
(茶葉研究部の宇集院とかいう人だ)
見知った顔の先輩は、意外にも真剣に走っていた。宇集院の隣を陣取っているのは、茶葉研究部の坊主頭だ。あの人たち、一緒のクラスなのかと気付く。眼鏡のアイツがいないと、宇集院と坊主頭の関係はアンバランスに見えた。それは竜羽の先入観がもたらす思い込みかもしれない。
竜羽は結局、授業を半身で聞きながら、神経の半分をグラウンドの観察に費やしていた。高校一年生の一学期の英語の授業は、中学英語に毛が生えた程度のレベルのものしかやらないようで、授業を聞いていなくともそれほど大差はないように感じられた。
自分がなぜ、宇集院たちの存在を気にしているのか。竜羽には分からなかった。入学して数日が経ったが、その間に知り合った先輩といえば、是永をはじめとするボクシング部の連中と、宇集院たちだけだから、気になるのも無理はないのかもなと結論づけていた。あの古いジャージの霊が、宇集院たちに混じってグラウンドを黙々と走っていることのほうが、興味深いような気もした。
「おい」
廊下を歩いているとき、やさぐれた声が聞こえてきた。「おいなにシカトこいてんだよ。龍田、おめえだよ」と続けられるまで、竜羽はその声が自分に向けられたものであるとは気付かなかった。
「えっ! オレ!?」
竜羽は目を丸くした。廊下に設置されているロッカーにもたれて、その声の主は竜羽を睨め上げていた。色白の肌、頬にはすこしそばかすが散っていて、灰色の瞳の三白眼の視線が強い。耳にはピアス、制服はすでに着崩していて、ワイシャツのボタンをガバッと開けている。彼の素行がよろしくないことは、その見てくれだけで判断できた。——そしてそれは、竜羽の知る中学の頃から変わっていない。世の中のあらゆるものに不満を持っているかのようにふてぶてしい彼の名は、名栗タラン。中学時代から縁のある、竜羽の同級生だ。
「龍田、おめえボクシング部に入ったんだってなあ」
乱暴な口調を解き放たなければ、英語をペラペラと喋って紅茶を嗜んでいそうな彼は、英軍の父を持つ、イギリス人のハーフである。
「噂が回んのは、はえーな。もう名栗のところまで情報がいってんのか?」
赤茶色の髪を撫でつけながら、名栗はフンと鼻で笑った。
「おめえがそんなに好戦的だったとはな。いい機会だ。おれとタイマン張るか?」
「展開が唐突過ぎんだろ」
苦笑する。口より手が出るほうが早いというのが、以前からの名栗の評判だった。きっとこいつは長い反抗期をこじらせているのだろう。「オレと闘いたいなら、リングでやろうぜ」と、一丁前にボクサーの端くれみたいな台詞を吐いて、竜羽は名栗をあしらった。
「お、おい待てよ!」
さっと歩き出すと、少々慌てた様子で、名栗が追いかけてきた。
「なんだ、オレに構ってほしいなら最初からそう言えよ」
竜羽は足を止めずに肩越しに言った。名栗は、竜羽のすぐ横にぴたりと並んで歩き始める。その歩調は驚くほど静かで、廊下を騒がしく行き交う他の生徒たちの喧騒に、いとも簡単に掻き消されてしまうほどだった。
「誰が構ってほしいなんて言ったよ。おめえが、ボクシング部なんて柄じゃねえところに首突っ込んでんのが気に入らねえだけだ」
「気に入らねえって、おまえには関係ないだろ」
「関係あんだよ。おまえに何かあったら、寝覚めが悪いのはおれなんだよ」
名栗は、はだけた襟元を苛立たしげに正した。
「名栗、おまえが部活に入るとしたら、どうするんだ? また帰宅部か?」
「おれは……まあ、どこにも属さねえよ。おまえを見張ってなきゃならねえしな」
二人の横を、下校を急ぐ運動部員たちが大声で笑いながら通り過ぎていく。彼らの肩が名栗にぶつかりそうになるたび、彼は器用に身を翻してそれを避けた。
竜羽はその光景を、無意識のうちに薄い膜越しに見ているような感覚で眺めていた。
「おまえさ、たまには格技場にも来いよ。ほら。藤堂、あいつ、いいパンチ持ってんだぜ」
「あんな汗臭いところの連中と関わるのは御免だ。龍田、おめえも深入りしてんじゃねえ。お茶だのボクシングだの、吐き気がするぜ」
名栗はそう吐き捨てると、校舎の角にある非常階段の踊り場で足を止めた。
「おれはここでいい。またな、龍田。明日もちゃんと学校来いよ」
「言われなくても来るよ」
竜羽は軽く手を挙げて、そのまま校門へと向かった。振り返ると、薄暗い階段の踊り場に、名栗が一人で佇んでいるのが見えた。西日に照らされた影が、妙に薄く、引き伸ばされている。
一人暮らしのタワーマンションに帰り、いつものように「ただいま」と呟く。
冷え切った空気の中に、誰かの気配が混じっているような気がして、竜羽はリビングのソファに深く体を沈めた。
名栗は、中学の頃からずっとああだった。竜羽がどこへ行こうとしても、影のようについてまわり、危険だとか、辞めろだとか、不吉な言葉を投げかけてくる。
「……名栗。おまえ、本当はなにを怖がってんだよ」
独り言は、静寂に吸い込まれて消えた。想いは口にしないと、相手に伝わらない。きっとそれは名栗も分かっているだろう。竜羽のことを気にかけてくれているのは分かるが、彼はけっこう、言葉足らずなのだ。
ソファーに座っていると、いつの間にか眠ってしまっていたようで、ハッと気が付くと日が暮れていた。帰宅してから一時間程度しか経っていないが、部屋の中が真っ暗だった。静寂の中に、自分の腹の虫が盛大に鳴いて、竜羽は空腹をおぼえた。
(……家になにもねえし、外にメシを食いにいくか)
制服からジャージに着替えて、竜羽は家を出た。マンションのエントランスで仕事終わりの大人たちと何人かすれ違ったのて、挨拶をした。——この人達は、オレがここに一人で住んでいるなんて、思っていないんだろうな。
駅前には何軒も飲食店が建ち並んでいる。いまはちょうどどの店もかき入れ時なのだろう。とくに酒を提供する店からは、客の賑やかな声が聞こえてきた。
竜羽は線路の向こう側、青海波学院に近いほうの駅前通りに足を運んだ。そちらにはファストフード店やチェーンの定食屋、うどん屋などがあるから、未成年でも立ち入りやすい。なにを食おうかと吟味しながら歩くものの、ハンバーガーも定食系も、うどんもいまの気分ではない。どの店もスルーして前を通り過ぎる。歩けば学校に近づいていく。部活帰りの青海波学院の生徒たちの姿もちらほらと目にする。顔見知りはいないと思いながら歩いていると、竜羽の視界に『宇集院飯店』と書かれた白い看板が飛び込んできた。年期の入ったそれは道路の端に遠慮がちに置かれていて、店先の通気孔からはラーメンスープの美味そうな香りが道いっぱいに漂っていた。
(宇集院……? まさか……)
珍しい苗字だから、竜羽の頭の中に茶葉研究部の部長であるアイツの顔が浮かんだ。
そのとき、扉が開いて、店内から食事を終えた客が出てきた。中の様子が丸見えになる。竜羽が暖簾の向こうに目をやると、宇集院鷹臣が店のエプロンを腰に巻いて水を運んでいるところだった。
「ありがとうございましたあ! おっ?」
向こうも竜羽に気付いたようだ。カウンターの客に水を提供したあと、ぱたぱたとこちらにやってきた。
「きみはボクシング部の新入生だな! 早速ウチの噂を聞いて、来てくれたのか?」
「えっ……? いや……ちがっ……」
ここで逃げ出すのも失礼か。そう思って、立ち尽くしている竜羽を、宇集院は店の中に招き入れた。結構強い力で腕を引っ張ってくる。白シャツ一枚だけだと、彼の体格の良さが際立っているし、よく見ると耳が餃子耳だ。いまは茶飲みサークルをやっているのだろうが、過去には武道をやっていたのだろうなと思った。
「ウチのおすすめはワンタン麺! おまえはいっぱい食いそうだから、青海波学院の生徒特典で炒飯をサービスしてやろう。なんにする?」
カウンターに案内された竜羽は、椅子に座りながら、宇集院の言うがままに料理を注文した。調理場には、寡黙そうな大将と、人の好さそうなおばさんがいる。二人が宇集院鷹臣の両親なのだろうなと思った。
「ワンタン麺と炒飯一丁!」
宇集院の軽快な声が店内に響き渡る。あいよと大将が返事をして、鍋をふるい始めた。
竜羽以外にオーダー待ちの客はいなかったから、すぐに料理が運ばれてきた。
「お待ち! ゆっくり食えよ」
宇集院に箸を手渡されて、竜羽はぺこりと会釈をした。
「いただきます」
ワンタン麺も炒飯も、流石勧めてくるだけあって美味かった。醤油ベースの優しい味のスープに、具だくさんのワンタンが絡んで味覚を刺激する。のど越しの良い餡が胃に落ちていく瞬間、竜羽はえもいわれぬほどの満足感に心が満たされた。
「隣、いいか?」
宇集院は、竜羽の返事を待たずに、隣の椅子に座ってきた。手には竜羽に提供されたものとおなじワンタン麺の器を持っている。
「賄い。……おれの晩メシ」と言いながら、卓上の割り箸を手にとって、ずるずると麺をすすりはじめた。
「宇集院先輩は、なにか格闘技とか武道とか、やってたんスか」
「ん? ああ、おれ? 中学のときは柔道部だったぜ。ほら、そのおかげで耳がギョーザ」
「……そうッスか」
レンゲで炒飯の山を崩した。口いっぱいに頬張る。竜羽が喋らなくとも、宇集院は、なぜ柔道部に入ったのか、そして高校に入学してなぜ茶葉研究部を立ち上げたのか、ペラペラと自分語りを続けていた。
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地縛霊とは、死んだことを受け入れられず、特定の場所から離れずに留まっているとされる霊のことだ。そこには未練、執着、あるいはなにか特別な感情が渦巻いているとされる。
ボクシング部の練習場に現れた青年の霊は、学校の至るところに現れることが、入学して一ヶ月が経とうとしている今は判明していた。竜羽が自分の存在に気付いていると分かっていないのか、彼は黙々とトレーニングをこなしている。坊主頭で眉毛が太く、着ている薄汚れた白いトランクスは丈が短い。寡黙そうな彼は、ボクシングが『拳闘』と呼ばれていた、自分が産まれる前の時代に生きていた人物ではないかと、竜羽は考えていた。
雨が降っていた。いつもはグラウンドで練習をしている運動部員たちも、今日は室内練習に勤しんでいる。
霊に天気など関係ないのだろう。青年は、今日も黙々とトラックを走っていた。
「なあ、いつも頑張ってるよな」
その彼が、校舎の方にふわふわと戻ってきたときだった。思わず竜羽は話しかけてしまった。
青年はぎょっとしたように竜羽を見た。
『君、俺がみえるのか?』
自分がもうこの世のものではないという自覚はあるようだ。バンテージを巻いたままの拳がぎゅっと握りしめられる。
「ずっと視えてた。あんた、大樹を随分と気にかけているみたいだから」
『タイキとは、君の友達のことだな。あの子には才能がある。俺も生きていたときは、そんなふうに言われてたんだけどな。……俺はその才能ってやつを開花させることはできなかったから、あの子や君を見ていると、心の底から応援したくなるんだ』
「えっ!? オレも?」
『ああ。龍田竜羽くん、俺が生きていたら、一緒に拳を交えてみたかったよ』
そう言ってボクサーの霊は、名を岡田と名乗った。享年は十七歳。仮にそれ以上生きて天寿を全うしたとしても、いまの時代にはもう死んでいるだろうねと、冗談めかして笑った。
『青海波学院の拳闘部は、俺たちの代が立ち上げた部活でね。時代が時代なだけに、表立って堂々と活動は出来なかったが、それ故に俺はこの世に大いなる未練を抱いてしまったらしい。おかげで成仏も出来ず、ここで彷徨っているというわけだ』
格技場に向かう途中、北校舎の渡り廊下で、竜羽は宇集院と鉢合わせした。彼は大きな段ボールを抱え、眼鏡の部員、吉田嘉長を従えていた。
「おっ、龍田! 奇遇だな。これからボクシング部か?」
宇集院は、雨の日の憂鬱など微塵も感じさせない輝かしい笑顔を向けた。
「ウッス。宇集院先輩たちはまた研究ッスか?」
「ま、まあな。……だが今日は特別だ。二年生の女子から『部室のピアノから変な音がする』っていう依頼を受けてね。その調査のついでに、音楽が茶葉の熟成に与える影響を……」
「依頼?」
宇集院の言葉を遮って竜羽が眉をひそめると、後ろの吉田が事務的に付け加えた。 「僕達茶葉研究部は、学内の些細なトラブルを解決する窓口も兼ねている。こいつがお節介でね。僕達と秀嶺はいつも振り回されている」
その言葉を聞いた瞬間、竜羽の首筋がチリリと焼けるように痛んだ。宇集院の抱える段ボールの隙間から、澱んだ、墨汁のような霊気が細い糸のように漏れ出しているのが見えた。
(ただのピアノの故障じゃねえな)
忠告しようと口を開きかけたが、宇集院は「じゃあな、練習頑張れよ!」と軽快に去っていった。
ボクシング部で騒ぎが起こったのは、その日の放課後だった。いつもは穏やかな藤堂大樹の様子がおかしい。帰りのホームルームまでは普通だった大樹は、竜羽を待つことなくそそくさと教室を出ていった。
竜羽が格技場に到着したとき、大樹はすでにサンドバッグを叩いていた。その動きは、以前とは比較にならないほど鋭さを増している。
「龍田くん、来ないかと思った」
大樹が手を止め、汗を拭う。彼の瞳は、かつてないほど澄んでいた。
「お、おお藤堂、お前、調子良すぎねえか?」
「うん。なんだか、体が勝手に動くんだ。鏡を見てると、誰かが後ろから腕を支えてくれているような。そんな不思議な感覚があるんだよ」
竜羽の眼には、大樹の姿以外誰も映っていない。岡田はどこにいった? 竜羽が室内に視線を巡らせたときだった。
格技場の入口に、宇集院が現れた。彼の手には、古びたメトロノームが握られていた。
「よお、是永! 音楽室に用事があったから、ついでに借りてきてやったぜ。メトロノーム。練習に使いたいって言ってただろ」
宇集院がメトロノームのネジを巻く。カチ、カチ、カチ。等間隔の音が響くたび、格技場の中に漂う霊気がそのリズムに合わせて急速に脈打ち始めた。そのとき、突如として大樹が「ウッ」と呻いたかと思うと、構えていた拳をだらりと下げて、体の向きを竜羽の正面に向けた。
「そのメトロノーム、止めてください!」
竜羽が叫んだときには、すでに遅かった。メトロノームの音に呼応するように、大樹の様子が急変する。彼の瞳から光が消え、代わりに底なしの虚無が宿った。
「……龍田くん。やろうよ。スパーリング」
大樹の静かな声色は、もはやいつもの彼のものとは異なっていた。
「おい、待て! 藤堂! おい!」
竜羽の叫びは、空気を切り裂くように放たれたパンチの音にかき消された。
「藤堂、よせ!」
竜羽が叫ぶのと同時に、大樹の姿が消えた。否、あまりの踏み込みの速さに、竜羽の動体視力が追いつかなかったのだ。ボクシング部に入部して、一ヶ月が経とうとしている。是永たちの指導のおかげで、基礎は身に付いてきたが、所詮は付け焼き刃だ。
「ぐっ!」
竜羽の顔面を掠めたジャブは、風を切る音さえしない、純粋な殺意の塊に感じられた。ガードの上からでも腕が痺れるほどの衝撃。
竜羽と是永が二人がかりで抑え込もうとしても、霊に憑依された大樹の筋力は、もはや人間の域を越えていた。是永が羽交い締めにしようとした腕を、大樹が力任せに振り解く。その反動で竜羽も突き飛ばされ、床を転がった。
「やれやれ、お茶を淹れるより、こっちの方が骨が折れる」
そのとき、これまで静観していた宇集院が動いた。彼はブレザーをゆっくりと脱ぐと、あらわになったワイシャツの袖を捲り上げた。
竜羽は目を見開いた。宇集院の構えは、ボクシングのものではない。重心を低く落とし、相手の力を受け流すための独特な半身。そして、彼の餃子耳が、かつて畳の上で猛者たちを沈めてきた証であることを、その立ち姿が物語っていた。
「龍田、是永、お前たちは少し下がってろ。いくら彼が才能あるボクサーだったとしても異種格闘技には対応できないだろう!」
大樹が獣のような咆哮を上げ、宇集院に突っ込む。その拳が宇集院の顔面に届く寸前、宇集院は大樹の腕を蛇のように絡め取り、その勢いを殺すことなく、自身の懐に引き込んだ。
「これが宇集院飯店流、おもてなしだ……なんちゃって」
宇集院の分厚い背中が大樹の胸に密着する。完璧なまでの一本背負い投げ。大樹の体は、格技場の天井を仰ぐように宙を舞い、重力という物理の理に従って、床へと叩きつけられた。
——ズゥゥゥンッ!
格技場全体を揺らすような衝撃。そのはずみで床に置かれていたメトロノームが倒れ、針が「カチッ」という最後の一音を残して止まった
竜羽も、是永も、膝に手をついてぜえぜえと息を整えていた。受け身をとり損なって、背中をしたたか床に打ちつけた大樹は、失神してぐったりと倒れている。
「宇集院先輩……あ……ありがとうございましたっ……」
「ああ、おれはどうってことない」
着崩れたワイシャツはシワシワだ。それでも宇集院は平静を装うかのように、ニッと笑ってみせた。
竜羽は額に光る汗を手で拭うと、大樹のほうに向き直った。
「オマエは負けたんだ。さっさと出てこい」
力一杯叫んだつもりだったが、燃えかすみたいなかすれた声になってしまった。ゲホゲホと咳をしながら、大樹を揺さぶる。
そのとき、微風が大樹の表面を撫でるように吹き抜けて、竜羽の前に、岡田が現れた。半透明の彼は、仰向けになっている大樹の胸の上に、ふわりと浮かんでいる。
『大丈夫か、竜羽』
(え?……)
竜羽は驚きに目を見開いた。てっきり岡田が大樹に憑依して、霊障のこもったメトロノームのリズムに感化され、暴走したのだと思っていた。だが、姿を現した岡田にそんな様子はない。
『すまない。なぜか今までここに入って来られなかったんだ』
「是永キャプテン、宇集院先輩。ちょっとのあいだ、オレひとりにしてほしいッス。大樹のヤツ、たぶんいつもと違ってはっちゃけちゃったみたいで、恥ずかしがっているのかもしれないッス」
誰の顔も見ずに言った。二人の先輩は、明らかに不自然な竜羽の言い分に「分かった。なんかあったらすぐに呼べよ」と、それだけ言って、物分かり良く部屋から出ていった。廊下の途中で足音が途切れる。近くで待機してくれているのかもしれない。
(岡田さんじゃないとしたら……)
大樹の中には、何者かが入っている。それは確かだ。竜羽の予想が外れたのなら、考え得ることはあとひとつだ。
「名栗、ほら、オレ以外誰もいなくなったぞ。拗ねてねえで、顔を見せろよ」
竜羽の声は、しんと静まり返った格技場の空気に吸い込まれた。返事はない。ただ、足元で昏倒している大樹の呼吸音だけが、かすかに聞こえてくる。だが、気配はあった。それは、これまで感じたことのないほど濃密で、粘りつくような嫌な気配だった。
——名栗タランは、幽霊だ。
彼は竜羽の中学時代の友達だった。二人が中学生のとき、名栗は竜羽を庇って死んだ。学校帰りに通学路を歩いているとき、工事中のビルから落下してきた鉄パイプが、彼の頭に直撃するという事故に巻き込まれたのだ。目の前で友人を喪った竜羽は、ひどく塞ぎ込んだ。意気阻喪という言葉では足りないほどに打ちひしがれた彼を憂いて、名栗は霊となって竜羽の元に現れた。
「名栗、オレのせいで……悪霊なんかになるなよ」
竜羽の声は、落ち着いていた。それはもう、過去を乗り越えた証。あるいは完全に乗り越えたわけではなくとも、いくらか、気持ちに決着をつけた証。
地縛霊とは、死んだことを受け入れられず、特定の場所から離れずに留まっているとされる霊のことだ。そこには未練、執着、あるいはなにか特別な感情が渦巻いているとされる。
『……龍田、お前も危ない! 逃げるんだ!』
大樹の胸の上に浮かんでいた岡田が、さざ波のように姿を揺らしたかと思うと、怯えたように部屋の隅へと飛び退いた。半透明のその顔が、恐怖に歪んでいる。
「え……?」
竜羽が岡田の方を向こうとした、その時だった。ゴクリ、と大樹の喉が鳴った。意識を失っているはずの大樹の体が、糸で引かれたマリオネットのように、不自然な痙攣を起こす。そして、大樹の口がカッと限界まで開かれた。そこから、まるで墨汁を吐き出すように、どす黒い靄が噴き出した。
「うわっ!」
竜羽はとっさに後ずさる。疲労困憊の足がもつれ、危うくその場に尻餅をつきそうになった。黒い靄は天井付近で渦を巻き、やがてひとつの形を成していく。 懐かしい中学時代の学ラン。着崩したワイシャツ。紛れもなく、名栗タランの姿だった。
「名栗! なんだよ、やっぱりいるんじゃねえか。藤堂の中に入り込んでたのか? 悪いがアイツは気絶しちまったぞ。お前のパワーに耐えきれなかったみたいだな」
竜羽は努めて明るく振る舞おうとした。自分がいつものように軽口を叩き、名栗がいつものように「うるせえな」と返ってくるのを期待した。だが、空中に浮かぶ名栗は、無言で竜羽を見下ろしていた。 その瞳が、おかしい。特徴的だった灰色の三白眼は、白目の部分がどす黒く濁り、瞳孔が針のように細く収縮している。生前の彼が持っていた、斜に構えたような知性的な光はどこにもない。そこにあるのは、底なしの沼のような、昏い憎悪だけだった。
「……名栗?」
竜羽の背筋を、怖気が駆け上がった。本能が警鐘を鳴らしている。目の前にいるのは、名栗のかたちをした、別のナニカだ。
「……るせえ」
低い、地を這うような声が聞こえた。名栗の唇は動いていない。その声は、竜羽の脳内に直接響いてきた。
「うるせえ、うるせえ、うるせえんだよ龍田ァ!」
突如、格技場の気温が急激に下がった。吐く息が白くなるほどの冷気が、竜羽の肌を刺す。名栗の輪郭がブレた次の瞬間、宙に浮いていたはずの名栗が、竜羽の目の前に迫っていた。
「ガッ!?」
見えない万力で締め上げられたように、竜羽の体が硬直する。金縛りだ。指一本動かせない。名栗の瞳は、濁っていなかった。むしろ、生前よりもずっと澄んだ、それでいて底の知れない怨念の色を湛えて、竜羽を凝視している。その瞳が映しているのは、目の前の竜羽ではなく、彼を死へ追いやるかもしれない世界そのものへの敵意だった。
「ずっとおれは、危ない、と言ってただろう」
地鳴りのような声が、竜羽の鼓膜を震わせる。名栗の姿が陽炎のように揺らぎ、竜羽との距離がゼロになる。
「なっ!」
名栗が、竜羽を抱きしめるようにその体を包み込んだ。だが、それは友人としてのの抱擁ではなかった。氷点下の質量を持った死気が、竜羽の皮膚から毛細血管へと、強引に染み込んでくる。
「ボクシング、馬鹿げた茶飲みサークル、学校、通学路……おめえの周りにあるすべてが、おめえを削っていく。とくにボクシングは危険だ。だから」
名栗の腕が、竜羽の背中に回る。霊体であるはずのその指先が、竜羽の肉体を深々と沈み込ませ、あばら骨を軋ませる。
「やめろ、名栗……! 苦しいッ!」
「おれと一緒になれば、おめえはもう傷つかない。だからおれがずっと、誰にも触れられない場所で守ってやる」
名栗の顔が、竜羽の耳元に寄せられる。その表情は、今にも泣き出しそうなほどに痛切で、献身的だった。竜羽にとっては攻撃でしかないこの抱擁は、名栗にとっては究極の救済のつもりなのだ。
名栗の体から伸びる黒い触手のような影が、竜羽の四肢を縛り上げ、その体温を奪っていく。竜羽の心臓の鼓動が、名栗の冷気に同調するように、ゆっくりと、確実に、その速度を落とし始めた。
(コイツ……本気だ。本気で、オレを「あっち」へ連れて行こうとしてやがる)
名栗の瞳から、一滴の黒い涙がこぼれ、竜羽の頬で凍りついた。親友としての純粋な庇護欲が、死というフィルターを通った瞬間に、致死量の猛毒へと変換されているようだった。
「名栗、オマエの気持ちはよく分かった。でも……でもオマエは間違ってる! あのときオレを助けてくれたことにはとても感謝してる。そのあと、ずっとオレを見守ってくれていたことも」
言葉は、気持ちは、口に出さないと相手には伝わらない。だけど、自分が抱いている気持ちをそっくり言葉に出来る語彙力を持ち合わせていないことが、こんなにもじれったいなんて。
互いが互いに抱いている大きな感情が、いま最悪のかたちでぶつかり合っている。
(マズイ……意識が……)
頭の中がぼんやりとしてきた。指先ひとつも動かせない。脳天から意識がふんわりと抜け出しそうになったとき、格技場の扉が開いた。
(永尾……?)
是永か、宇集院か、あるいは二人ともが戻ってきたのかと考えた竜羽は、薄れゆく意識の中でそこに現れた人物の姿を見て、かすかに驚愕の表情を浮かべた。
「旧友の瞋恚に焼き尽くされそうになっている状態、か」
永尾は表情を変えぬまま、ツカツカと靴音を鳴らしながら竜羽の元へと近づいてきた。冷徹な声。
「龍田、君を蝕もうとしている『それ』は、最早ただの君の友人ではない」
「先生……視えるんスか……」
こんなときに、呑気に質問をする余裕があるらしいと自嘲する。
「君が持つ奇天烈な能力は、なにも君だけの特権ではない、ということだ」
「それは……そうッスね……」
駄目だ……。言葉を絞り出すのも必死だ。だんだん喉にも力が入らなくなってきた。竜羽の視界の中にある永尾の輪郭がぼやける。
「私は君よりも少しばかり、その能力に秀でている。例えば君に取り憑こうとしているその怨念を祓うことも、容易だ」
「だ、駄目ッス……」
竜羽の目の中に、涙が滲んできた。そのせいか一瞬、視界がクリアになる。だから永尾が訝しげに眉をひそめたのが、丁度見えた。
「君は、自分の言った言葉の意味を理解しているのかな。『それ』を祓わなければ、君は『それ』に取り込まれ、藤堂や是永、宇集院……、そればかりか青海波学院全体に危害を及ぼしてしまうかもしれないのだよ」
永尾は、竜羽に向かって腕を伸ばしてきた。額に人差し指が当たる。その途端、竜羽の体がフッと軽くなって、名栗が自分の元から引き剥がされたのが分かった。
「東海の神、名は阿明 西海の神、名は祝良 南海の神、名は巨乗、北海の神、名は……」
「やめろっ!」
竜羽は永尾を制した。「やめてください! 名栗は、オレの友達なんだ!」
必死だった。竜羽の目に映る名栗は、まだ名栗の姿のままで、永尾の霊能力に抑え込まれているのか、必死で拘束から逃れようともがいている。ウガア、ウガアと、おおよそ人間のものではない声が、名栗から聞こえてくる。
「君はもう少し現実を直視するべきだ。こうなってしまった以上、君の友人は我々がきっちりと始末をつけねばならないのだ」
「でも、でも名栗は……!」
納得がいかない。これまで名栗は、竜羽のそばにいただけで、他のヤツらには何の危害も加えなかった。彼の最期は、彼を地縛霊たらしめるには充分な材料だったにもかかわらず、それがきっかけで豹変したわけではないのに。——生きていれば、過ちを許されることが多いというのに、死んでから過ちを犯せば、そのたった一度で名栗を悪霊だと定義するのは、納得がいかない。とはいえ、永尾の言い分も分かる。このまま名栗を野放しには出来ない。
「先生、お願いです! 名栗をこれ以上苦しませないでください」
自分が無茶を言っているのは分かっている。だが、今の自分の気持ちを吐露しないと、この先自分は一生後悔すると思った。
永尾の貫くような視線と向き合う。それはいまの竜羽にとって、どんなパンチよりも深く、傷口を抉ってくるようだった。
「龍田、君の気持ちは分かった。そして私は、君の願いを叶えるすべを持ち合わせている。だが、願いの成就には代償が伴う」
「オレに出来ることなら、どんなことだってやります」
「君の友人の過ちに目を瞑り、普通の魂として留めるためには、彼の想いを、君自身が肩代わりすることだ。悪意を取り込み、昇華する。その渦中で君は力の一部を喪うだろう。……そうだな、たとえば君は霊を『視る』ことしか出来なくなる。これまでのように彼らの声を聞くことも、君の想いを伝えることも叶わない……」
「なんだ、それくらいなら、想定内ッス。お願いします。それで名栗が助かるのなら、オレは喜んでそれを受け入れます!」
竜羽は即答した。
永尾の目が、スッと細まった。ポーカーフェイスが崩れる。竜羽は表情を緩めた。
「男に二言はないッスよ」
竜羽がそう言ったとき。永尾の口角がほんの少し、上昇した気がした。直後彼女は目を閉じて、ぶつぶつと不明瞭な呪言のような言葉を口にしたかと思うと、その声に反応して蠢いていた名栗の体の周りに蠢く黒い影が、竜羽目がけて飛び込んできた。
「ぐっ!!!」
衝撃が、竜羽の体を撃ち抜いた。凄まじい威力のボディーブローを喰らったような感覚。竜羽は体をくの字に曲げて、うずくまった。呼吸が出来ない。脂汗がどっと噴き出してきて、嘔気までこみ上げてくる。
血管の中を針が通るような激痛に襲われた。竜羽は地面をのたうち回って、その痛みに耐えた。名栗が助かるなら、この程度の苦行を耐え忍ぶくらい、どうってことない。名栗がどんなに大事な友達だったか、理解するために必要なことだ。
竜羽の脳裏に、走馬灯のように流れ込んでくるのは、名栗と過ごした過去の想い出だった。
ずっと一緒にいられると思っていた。友達だから、喧嘩をしても、すぐに仲直りをしてそばにいられると思っていた。たぶん、名栗もおなじだったんだよな。でもあのとき、オレたちの関係は二度と修復出来なくなった。オレを庇って名栗は死に、幽霊となってしまった。その存在は認識出来るけれど、だからといって未来に待っていたかもしれない二人の日常を続けることは、叶わなくなった。
友達の存在が、どれだけ大事だったかは充分に噛みしめた。名栗が死んでからそんなことに気付くなんて、どれだけ馬鹿だったんだろう。
今でもしょっちゅう夢を見る。夢の中の名栗はちゃんと生きていて、ちゃんと青海波学院の制服を着て、一緒につるんでいる。
——ひとりにさせるもんか。
痛みが体内を駆け巡るあいだ、竜羽は必死に自分に言い聞かせていた。
それから数分経って、竜羽はさっきの乱闘のときよりも激しく息を乱しながら、大の字に寝転んでいた。汗だくだ。その姿はまるで、フルラウンドを闘い抜いたボクサーのようで、満足げに口角が上がっていた。
名栗は、元の姿に戻って、そんな竜羽を見下ろしていた。視線がかち合っても、名栗が口を動かしても、竜羽にはもう、彼が何を伝えようとしているのか、まったく分からなかった。
ガタガタと格技場の引き戸が動く音がして、是永と宇集院が戻ってきた。永尾の姿はいつの間にか消えていて、格技場にはただ、冷え切った空気と、戦い抜いた者たちの重い呼吸だけが残されていた。
「おい、龍田! 大丈夫か!」
是永が駆け寄り、竜羽を抱き起こした。その隣では、宇集院が倒れている大樹の様子を確認し、安堵のため息をついていた。
「藤堂は生きてるな。……ただの失神だ。龍田、おまえは一体なにをしていたんだ?」
宇集院の問いに、竜羽はすぐに答えることができなかった。喉の奥が焼けるように熱い。無理に声を出そうとすれば、肺に残った澱みが暴れ出しそうだった。
視線を上げると、すぐそばに名栗が立っていた。どす黒い靄は消え、彼はいつもの、生意気で端正なハーフの少年の姿に戻っていた。名栗の唇が動いている。以前までなら、その声が鼓膜を震わせていただろう。皮肉めいた、けれど温かい、あの独特の響きが。
(……聞こえねえ)
名栗は必死に何かを訴えかけていた。竜羽の顔を覗き込み、眉をひそめ、激しい身振りで何かを叫んでいる。だが、竜羽に届くのは、格技場の外で降りはじめた雨が窓を叩く、単調な音だけだった。名栗の声は、まるで防音のガラス一枚を隔てた向こう側にあるように、完全な静寂に塗りつぶされている。
竜羽がなんの反応も示さないのを見て、名栗の動きがピタリと止まった。灰色の三白眼が大きく見開かれ、やがて、すべてを悟ったように悲しげに細められる。名栗は震える手を伸ばし、竜羽の頬に触れようとした。だが、その手は竜羽の肌をすり抜け、虚空を掻くだけだった。
「龍田、どうしたんだ?……」
是永が怪訝そうに、竜羽の見つめる空間に目をやる。
「……いや、なんでもないッス」
竜羽は無理やり口角を上げ、是永の手を借りて立ち上がった。全身の細胞が悲鳴を上げている。霊的な悪意を肩代わりした代償は、想像以上に重かった。
「宇集院先輩、例の『お茶』……まだ残ってますか」
「ああ、あるぜ。……ただし、今のおまえに必要なのは試作品じゃない。ちょっと待ってろ」
宇集院はそう言って、ポケットからスマホを取り出して、何やら文字を打ち込んでいた。やがて格技場に入ってきたのは、茶葉研究部のあとの二人。手には水筒と、紙コップを持っている。
「ほら、飲めよ」
宇集院が水筒から注いでくれたのは、なんの変哲もない、けれど芳醇な香りのするほうじ茶だった。竜羽はそれを両手で包み込むように受け取った。ゆっくりと喉に流し込む。 温かい液体が喉を通り、胃に落ちる。その温もりが、名栗の霊気に凍てついていた竜羽の心を、少しずつ溶かしていくようだった。
ふと顔を上げると、名栗は格技場の隅で、岡田の隣に座り込んでいた。彼はもう、竜羽を連れて行こうとはしなかった。
(……名栗、お前の声はもう聞こえねえけどさ)
竜羽は心の中で、自分だけに言い聞かせるように呟いた。
——お前がそこにいるのは、ちゃんと視えてるからな。……それで十分だ。
今年のゴールデンウィークは、ほとんどの日が雨だった。ボクシング部は休日も稼働していたため、竜羽は全日、練習に参加した。家にいても暇だし、何もしないでいると、色々なことを考えてしまうからだ。
連休最終日に、竜羽は永尾に職員室に来るよう呼び出された。竜羽が永尾の元を訪れると、休日ということもあってか、部屋の中には他に誰もいなかった。
「先生、こないだはありがとうございました」
結論からいえば、自分は永尾に助けられた。それなのにきちんと礼を言っていなかったことを思い出した。
永尾は演劇部の顧問をしていて、その傍らで茶葉研究部の顧問も引き受けているらしい。だからあのとき、宇集院づてに助けに来てくれたのだろうか。
「どうということはない。その後、君の友人は落ち着いたようだね」
竜羽はこくりと頷いた。「あれからはずっと格技場にいます。岡田……さんと一緒に」
「彼は先の大戦の時代に、焼夷弾の犠牲になった青年でね。拳闘の選手として、将来を有望視されていた。そのせいか、この世に未練を残し、霊体となってここに留まっている」
だから古い生地の装束を身につけ、雰囲気もオレたちとはちょっと違っていたのか、と竜羽は思った。
「彼は人間に危害を加える存在ではない。だからここに留まらせておいて差し支えないだろう。君の友人も、そうなることを願っているよ」
永尾の表情は相変わらず鉄面皮で、何を考えているのか読み取れない。
「さて、本題だ。龍田、君にはもうひとつ、やってほしいことがある」
「……え?」
竜羽は眉をひそめた。ごくりと唾を飲み込んで、永尾の次の言葉を待つ。
「宇集院たちのことだ。茶葉研究部という名の中身は、実のところ、生徒たちの揉め事や相談事を引き受ける『何でも屋』でね。それもまた、青春の形だと私は黙認しているが、宇集院のあの性格だ、首を突っ込まなくていい場所にまで首を突っ込み、知らず知らずのうちに境界線を越えることがあるかもしれない。彼らは無自覚なまま、そして牙を持たないまま、本物の『闇』に触れる可能性がある。……龍田、君に茶葉研究部への入部をお願いしたい。ボクシング部との兼部でもいい」
「……はあっ!? 兼部って、オレ、ボクシングに集中したいんスよ!」
「断る権利は君にはない」
永尾の声が一段と冷たさを増した。
「君の眼は、今後さらに研ぎ澄まされるだろう。声が聞こえない分、君は霊が放つわずかな変調に誰よりも早く気づける。宇集院たちの『監視役』として、彼らが危険な霊の被害を被る前に未然に防ぐこと。それが、君の友人の霊というイレギュラーをこの学校に留めることを黙認する、私への『礼』だと思わないか」
竜羽はううっと唸って俯いた。永尾には借りがある。それはおそらく、竜羽と永尾のあいだでしか通じ合えないものだ。
「……分かりました」
だから、そう答えるしかなかった。
五月の連休が明けた最初の平日の放課後、竜羽は永尾に渡された入部届にサインをして、茶葉研究部の部室があるという北校舎の一階までやってきた。
竜羽は、自身が強い男になることを望んでいる。だからあのとき助けてくれた宇集院は、すでに憧れの存在へと変化していた。その気持ちに気付いた瞬間、あまり乗り気ではなかった茶葉研究部への入部も、面倒ではなくなった。
「だからいつも言ってるだろう、嘉長。おれはミルクティーはミルクを先に入れないと成立しないって」
部員を咎める宇集院の声が、廊下にまで聞こえてくる。竜羽は部室の出入口に立ち、すうっと深呼吸をした。
三人の先輩には、竜羽が茶葉研究部に入部する本当の目的を悟られてはならない。だから自分は、あくまでも彼らの従順な後輩であるというイメージを植えつけることが最善だ。
(いっそ、馬鹿を演じてみるか……)
扉の磨りガラスに写った自分の影を見て、竜羽は口角を上げる。ノックをする。
「ちわーッス! 突然ッスけど、入部希望ッス!」
茶葉研究部の三人の視線が一斉に竜羽に注がれる。彼らの驚愕した表情を、竜羽が今後忘れることはないだろう。



