ダンケとビッテ

 1

 高校に進学する直前、父親のインドネシアへの赴任が決まった。日本から飛行機でおおよそ七時間半。熱帯の地域に位置する島国の首都に、父と母と、そして小学生の弟が暮らしている。
 蓬生秀嶺は青海波学院高等学校への進学が決まっていたため、日本に残ることを選んだ。家を出るわけではないが、少し早い自立をする感覚だった。もう高校生なのだ。大人と子供の狭間に立つ自分ではあるが、大丈夫、俺はちゃんとやっていけると、言い聞かせた。家族と離ればなれになる寂しさと、未知なる経験をするという興奮と……。感情の陰と陽が綯い交ぜとなり、秀嶺の心を大きく揺さぶった。
 一年が経った。父はそれまでも海外赴任が多く、家を空けていることが多かったが、母や弟の気配もなくなった家での生活が始まって、もうそれだけの月日が流れたのだ。
 自分でも信じられなかったが、家族を送り出してからしばらくのあいだは、枕を濡らした夜もあった。弟がインド人になって、自分の知らない言葉で話しかけてくる……みたいな夢をみて飛び起きたこともあった。しかし人間、どんな物事でも次第に慣れてくるものだ。二、三ヶ月も経てば、両親や弟のいない空間が当たり前になった。そして、もとより秀嶺はひとりで暮らしているわけではない。幼い頃から同居している祖母が、秀嶺の面倒を見てくれていたからだ。
 過去形なのには理由がある。祖母に認知症の疑いが出てきたのだ。
 予兆はあった。火にかけた鍋を空焚きしてしまったり、水道の水が出しっぱなしだったり、さっき食べた食事の献立を思い出せなかったり。今はまだ日常生活にはほとんど差し支えないが、ときどき祖母がなんだか自分とは違う場所にいるような、不思議な感覚を抱いたりする。

 秀嶺の祖母、蓬生雅は、和装のよく似合う女性だ。みやびという漢字には、『上品、奥ゆかしい』という意味がある。名は体を表すという言葉は、祖母のような人のことをたとえているのだと、秀嶺は思っている。
 「お祖母さま、夕食だよ」
 だから秀嶺が祖母のことを呼ぶときは、何故だか様付けをしている。幼い頃に染みついた習慣で、もしかしたら最初は面白がって敬称を使っていたのかもしれないが、きっかけはあまり覚えていない。
 「おかえり秀嶺。学校は楽しかったかい?」
 「今日は日曜で学校は休みだよ。俺、一日中家にいたじゃないか」
 秀嶺の返事に、雅は不思議そうな顔をした。自分の記憶と、秀嶺の発言が結びつかなかったのだろう。
 「今日はお祖母さまの好きな、ほうれん草の胡麻和えを作ってみたんだ。味をみてくれよ」
 慌てて話題を変えた秀嶺に、雅はにっこりと微笑んだ。

 「うーん。少し胡麻の風味が強いかしら。秀嶺、ほうれん草の胡麻和えを作るときの味付けの黄金比は、胡麻、醤油、砂糖で、三対一対一よ。……でも、初めてにしてはよく出来ましたね」
 秀嶺がほうれん草の胡麻和えを作ったのが初めてではないことはさておいて、雅は家族に対して世辞は言わず、感じたことをはっきりというタイプであったが、それだけではなく、良いところはちゃんと褒めてくれる人であった。だから家族関係は良好だったはずだ。結婚を機に、蓬生家に嫁いでくることとなった秀嶺の母である四季も、嫁姑の関係に憂いている様子はなかった。

 秀嶺がアフタヌーンティー部こと、茶葉研究部に入部したのは、青海波学院高等学校に茶道部がなかったからだ。茶道の『さ』の字もよく分かっていない彼だったが、それは祖母の特技のひとつであったから、興味はあった。雅が若い頃に、茶道教室を開いていた名残りで、週に一度は自宅の茶室で行われるお茶会に、お茶菓子目当てに参加していたことを懐かしく思い、自分が亭主となって雅や彼女の茶飲み友達をもてなすのもいいかもしれないと考えたのがきっかけだった。
 部員募集の噂を聞いたとき、茶葉研究部というくらいだから、きっと茶道みたいなこともするだろうと、特に深く考えもせずに、入部届を出した。日本茶というより、西洋の紅茶を主として扱う部活だと判明したのは、顧問の永尾に届けを受理されたあとのことだった。
 部長を務めているのは同級生の宇集院鷹臣という生徒で、部員はもう一人、吉田嘉長という眼鏡の男子がいた。二人は中学のときからの知り合いだという。だったら自分は部外者なのかと卑屈になったが、二人とも秀嶺の入部を心から歓迎してくれたようだったから安心したのを覚えている。
 「おれ、家が中華料理屋なんだよ。だから、中学のときはチャオズって呼ばれててさ、そのイメージを持たれるのにムカついて柔道部に入ったら、今度はギョーザ耳になっちゃって。高校に入ったらチャイナとは正反対のキャラでいこうと思って、この部活を作ろうと思ったんだ」
 入学して一ヶ月。鷹臣も、まさか茶葉研究部という部活が正式に承認されるとは思っていなかったらしい。顧問を担ってくれるという永尾が、三人を職員室へ呼び出したとき、鷹臣は興奮冷めやらぬ状態で、肩をうきうきと揺らしていた。
 2

 今年の梅雨は、季節を先取りしたような台風が、すでに三つも発生して、日本列島の海岸線を撫でるように通り過ぎていった。そのたびに警報が発令されて、休校となった。ほとんど雨も降らないし風も吹かない。むしろ台風など関係ないゲリラ豪雨のほうが、災害級の雨量をもたらすというのに、静かな空模様の下で学校を休むのは、奇妙な感覚だった。
 「竜羽は昨日、なにをしてたんだ?」
 「雨もあんま降ってなかったし、なんだか平気そうだったんで、ランニングしてました」
 台風一過とは今日みたいな日のことも指すのだろうかと思いながら、秀嶺が入部したばかりの後輩に話を振ると、彼はあっけらかんとそう言った。
 龍田竜羽。ボクシング部との兼部だが、アフタヌーンティー部に入部してきた一年生だ。
 「警報のときは外に出てたらマズイんじゃないのか? 宅トレとかで我慢してれば良かったのに」
 「え、そーッスか? でも誰にも見つからなかったから大丈夫ッスよ」
 そういう問題じゃないんだけどなあと苦笑しながらも、秀嶺はそれ以上追及しなかった。危険な目に遭う確率は低くとも、それが絶対に大丈夫だということにはならない。もしもなにかに巻き込まれたら、それが気象災害でなくとも、なぜ外に出ていたんだと問題になるだろうに、きっと竜羽はそこまでの想像が出来ていなかったのだろう。
 「そういうダンゴ先輩は、何してたんスか」
 竜羽は入部した直後、三人の先輩に愛称をつけた。その呼び名のセンスは置いておいて、秀嶺は『ダンゴ先輩』と呼ばれることに、些か嬉しさを感じていた。自分に後輩が出来たのも、その後輩に懐かれたのも、竜羽が初めてだったからだ。
 中学時代は帰宅部だった。帰宅部、なんてものは存在しないのに、部活に入っていない生徒たちをまとめてそう呼ぶのには違和感があったが、皆が言うのだから、それが一般的なのだと思っていた。
 秀嶺が部活をしていなかったのには理由がある。とはいえ特別な事情があったわけではない。単に、学校が終わると忙しくて、それどころではなかったのだ。
 中学卒業と共に、すべて辞めてしまったが、秀嶺はいくつかの習い事を掛け持ちしていた。月曜日と木曜日はピアノのレッスン、火曜日と金曜日は書道、水曜日と土曜日はスイミングスクール。いずれにおいても一流の担い手になるようにと英才教育を受けていたわけではないが、学校では習う機会の少ない教養を身につけるために、忙しい日々を送っていたのだった。

 「俺は家のこととか、勉強とかしてたよ」
 「ふーん、普通ッスね」
 竜羽はそう言って大きな欠伸をした。「ダンゴ先輩の家はお屋敷みたいで広いから、掃除とか大変そうッスもんね」
 たしかに『家のこと』とは言ったが、俺は家で掃除をしていると思われているのか? 秀嶺はすこし可笑しくなった。
 竜羽は自分の鞄をごそごそやって、中からタブレットを取り出した。授業で使うからと、入学時に純正のスタイラスペンと共に購入させられたものだ。学校の貸与品ではないからか、機能に制限はなく、生徒たちは授業以外でも使用している。
 「ダンゴ先輩、ベンキョー、教えてください」
 「ああ、いいぞ」
 学生の本分は学業だというが、竜羽は入学早々躓いているようだ。
 「テストのこととか考えると、憂鬱になるッス。あ、オレ、お茶淹れます!」
 ガタガタと椅子を鳴らし、竜羽は戸棚に向かった。
 「オミ先輩が言っていました。ベンキョーするときは、紅茶を飲むといいって。テアニンだとかカフェインだとかを体内に取り入れると、集中力を高める効果があるらしいッスね」
 「そうそう。常識だぞ」
 「ウッス! それもベンキョーになります!」
 常識だと嘯いてみたが、紅茶を飲んだときと飲まないときで、集中力に違いがあるのか、秀嶺はよく分かっていない。何ならそういうのはプラシーボなんじゃないかとすら思ってしまう。
 「オミ先輩がこないだ買ってきてくださった、イングリッシュブレックファストティーとかいうのがあります。……英語の朝メシのお茶?」
 「それはあいつがミルクティーを飲むときに使うやつだから、あまり使うと機嫌を悪くするぞ」
 「ひえー、それはヤバいッスね」
 「一応言っておくけど、イングリッシュブレックファストって朝ご飯のことじゃないからな。アッサムとセイロンとケニア茶をブレンドした、イギリスでは一番ポピュラーなブレンドティーのことだ」
 「紅茶の国っぽいッスね!」
 竜羽は結局、鷹臣が行きつけの茶葉専門店に出向いて買ってきた茶葉ではなく、その辺のスーパーに売っている市販のダージリンを淹れることにしたようだ。
 秀嶺も含め、竜羽にとってアフタヌーンティー部には三人の先輩が存在しているが、中でも鷹臣に対しては、他の二人に比べてより一層敬意をはらっている様子がみられる。春先に起こったとある出来事がきっかけで、竜羽はアフタヌーンティー部に入部したが、当時のことを思えば、鷹臣を崇拝したくなるのも無理はないだろう。

 頭を使っているせいか、竜羽が結構なペースで紅茶を飲んだ。ティーポットが空になったころ、鷹臣が部室にやって来た。昨日学校帰りに行きつけの美容院に行ってきたという彼は、整えたてのツーブロックの髪型が崩れるのが気になるようだ。席につくなり、髪の先をいじっている。ここに嘉長がいれば、「髪型がどうあろうと、君のルックスに差は出ない」と、褒めているのか貶しているのか、どっちとも取れる皮肉を言いそうだ。ちなみにその美容院の店名は『青海波通り三丁目』。鷹臣の家の真向かいにある個人経営の店で、所在地をそのまま店名にしているのだという。
 「竜羽、珍しく勉強か?」
 「ウッス。テストで赤点取らないために必死ッス」
 「竜羽にとっては、入学して初めてのテストだもんな。頑張れよ」
 鷹臣からはどんなことを言われても嬉しいらしい。竜羽は「ハイッ!」と元気よく答えた。
 「ん? 二人で紅茶を飲んでたのか?」
 「ああ。鷹臣も飲むか?」
 「何の茶葉を飲んでたんだ?」
 「量産型ダージリン」
 鷹臣はふんと鼻で笑うような仕草をした。カフェに行ったときも、自分で茶を淹れるときも、鷹臣はやけに茶葉の種類を知りたがる傾向にある。ほんとうに違いなんて分かっているのだろうかと、秀嶺は疑問に思っている。
 そんな鷹臣が好んでいるのは、ミルクティーだ。秀嶺の予想通り、茶棚に向かった鷹臣は、さっき竜羽が手にしていたイングリッシュブレックファストの茶葉を取り出した。
 竜羽がペンを止めて、じーっとその様子を眺めている。
 「なんだ、まだ飲み足りないのか?」
 秀嶺が尋ねると、途端に竜羽は顔を赤らめた。
 「……オレ、オミ先輩が作るミルクティーが好きなんス」
 「おっ! 竜羽もミルク・イン・ファーストの良さが分かってきたんだな!」
 秀嶺が反応するよりも早く、鷹臣は目を輝かせた。声色もなんだか高揚している。
 ミルク・イン・ファーストとは、紅茶より先にミルクをカップに注いでおくという淹れ方で、イギリスでは主流の文化だという。鷹臣はそれに強いこだわりを持っている。
 「おいおい、なんでミルクが後なんだよ。違いが分からないなら、舌を引っこ抜くぞ」と、部員たちに放いたこともあり、ミルク・イン・ファーストへの執着は並々ならぬ熱量が感じられた。
 先にミルクを注がないと、オミ先輩がうるさいから……というぼやきは心の内に留めておくことにする。きっと自分は、オミ先輩に舌を引っこ抜かれる方の人間だろうなと、竜羽は思った。

 3

 かつては貴族院議員に登り詰めた蓬生の家も、代議士であった秀嶺の、蓬生嶺一が若く病で亡くなったのち衰えはじめた。
 青海波学院高等学校は明治初頭に建てられた伝統校であるが、その創設者の中に蓬生秀一郎という名の者がいる。つまりは秀嶺の何代も前に蓬生家の当主として名を馳せていた人物だ。だが、雅が息子を政治の世界に入れぬと誓ってからは、祖母の年金と父の微禄とでは家を支えきれず、蓬生家に仕えていた幾人かの女中に暇をやった。秀嶺はそうした衰亡の貴族の血の末裔であった。
 「ただいま」
 「坊ちゃま、お帰りなさいませ」
 平日、学校から帰ると、出迎えてくれる者がいる。徳間寿子という名の、五十路を過ぎた女だ。衰亡したとはいえ、蓬生家には未だ、かつての名残が余燼のようにくすぶっている。寿子の存在は、その要因のうちのひとつだった。
 秀嶺が学校に行っているあいだ、雅の面倒を見てくれている。
 認知症の気がみられているならば、介護保険の申請をすれば、週に何日かは訪問介護や通所介護などのサービスを受けられるというのに、雅は頑として首を縦に振らなかった。曰く、「そんな得体の知れないものの世話になるほど、私はまだ落ちぶれちゃいない」そうだ。
 寿子は、雅がかつて一番信頼していた女中の一人娘だった。およそ三十年前、急逝した母の代わりに、蓬生家に入った。寿子がまだ二十代の頃のことだった。
 以来、蓬生家に、というよりは、雅に仕えるようなかたちで、家事手伝いや雑用などの仕事をおこなっていた。
 秀嶺が中学生の時分に、寿子の家庭の事情で一度は蓬生家を離れることとなったが、彼女にとってはある日突然、秀嶺に助けを求められて、再び舞い戻ってきたかたちとなったのが今の状況であった。

 「寿子おばちゃん、蓬生です。雅の孫の、秀嶺です」
 ちょうど夕食の支度をしていた時間だった。家の固定電話が鳴って、「はい、徳間です」と受話器を上げると、食い気味に少年の声が返ってきた。
 「……坊ちゃま?」
 蓬生家から離れて、三年が過ぎようとしていた。それなのに、電話の向こうの少年の声に、懐かしさではなく馴染みを感じた。昨日まですぐそばで彼の声を聞いていたかのような錯覚。だからなのか、秀嶺が柄にもなく焦っている様子なのがすぐに分かった。
 「どうかなさいましたか?」
 蓬生の家との雇用の関係はとうに終結している。形式上はそうであっても、長年の習慣は抜けないものだ。秀嶺に対する言葉遣いも、当時のままだった。
 秀嶺は穏やかでのんびりした性分だったから、そんな彼が電話越しにも伝わるほどの焦燥を抱いている様子なのは、きっとなにか大変なことが起こったにちがいないと、寿子の心も急き立った。
 「祖母がそちらにお邪魔していませんか?」
 「お見えにはなっておりませんが」
 心当たりのある場所へ、手当たり次第に連絡しているのかもしれないと推察した。
 「そうですか……」
 幾分気落ちした様子で、電話を切ろうとした秀嶺に、寿子は「お待ちください」と声をかけた。受話器の向こうで、秀嶺が息を吸った音が聞こえた。
 「御隠居様のお姿が見当たらないのですか?」
 「……そうなんです。昨日から」
 そこから深く話を掘り下げると、雅は昨日の朝までは家にいたそうだ。秀嶺が学校から帰ると、雅は不在で、きっと何処かに外出しているのだろうと、軽く考えていたらしい。一晩経って、再び学校から帰ってきたとき、無人の家を見て、流石におかしいと思ったという。寿子はそこで、雅の息子夫婦、つまり秀嶺の両親が、いまは国外にいることを知った。
 放っておくわけにはいかなかった。蓬生家には恩義がある。母を、そして自分を使用人として迎え入れてくれたから、路頭に迷わずに済んだのだ。同じく使用人のひとりとして働いていた男が、寿子のいまの夫だ。
 寿子は夫の悠道に連絡を入れ、蓬生家に向かった。数年ぶりに見上げた蓬生の屋敷の門構えは、自分が働いていた頃と比べて少し、陰ってみえた。インターフォンだけが新しいものに付け替えられていて、そこだけがちぐはぐだった。
 寿子がそのインターフォンのボタンを押そうとしたとき、「寿子さん?」と、背後から声がした。ハッと息を呑む。腕を引っ込めて振り返ると、渦中の人物——蓬生雅が立っていた。
 「御隠居様……」
 しばらく呆けていたかもしれない。無言のまま二人で向かい合っていると、やがて蓬生家の玄関が開いて、秀嶺が姿を見せた。
 「ばあちゃ……お祖母さま!!」
 一瞬顔を出した、年頃の少年に相応しい呼び名はすぐに引っ込んで、言葉は取り繕われた。だが、何処に行ってたんだよと続いたその口調は、現代っ子ならではの話し方になっていた。
 「なんですか騒々しい。近所の集まりに行くと、朝に伝えたでしょう」
 「昨日から帰らなかったくせに、なに訳の分からないことを言ってんだよ。おかげで俺は心配して、いろんなところに電話しまくったんだからな」
 まあ! と、雅は悲鳴のような声を上げた。
 「秀嶺、貴方、わたくしが少し出かけただけで、いちいち慌てふためくんじゃありません。年端もいかぬ子供じゃあるまいし、そのあたりの分別くらいついているでしょうに」
 「少し……って……。じゃあお祖母さまの『少し』っていうのは連絡もなしに一晩家に帰ってこないってことかよ!」
 秀嶺は静かに憤っていた。口調に感情が滲み出ている。雅は孫の言動に理解を示さず、こちらも怒りの熾火がちろりと姿をみせたようだ。
 「秀嶺、貴方って人は……。人様の前でわたくしに恥をかかせるのが、そんなに楽しいのですか!」
 このまま言葉の応酬を続けていても、会話が噛み合うことはないだろうと、寿子は思った。子育ても落ち着いてきたから、介護職として働きはじめたという知り合いから聞いたことがある。認知症の老人は、自分が現実に有り得ない発言をしたとしても、それが正しいと思い込んでいるから、他人に否定されればたちまち気分を害するのだと。
 「坊ちゃま、とりあえず、中に入りましょう。御隠居様も、さあ」
 気が付けば、二人のあいだを取り持っていた。さあさあと雅の背中をそっと押しながら、蓬生の屋敷へと足を踏み入れる。もう二度と立ち入ることはないと思っていた場所に、こんなにも早く舞い戻ってくるとは。
 「寿子おばちゃん、お祖母さまは俺が高校生になってから、なんだか様子がおかしいんだ」
 勝手知ったる他人の家とは、いまの状況のことをいうのだろう。だが、自分が住み込みで働いていた頃とは様子が随分と違っていた。埃ひとつも見のがさないと言わんばかりに掃除の行き届いていた屋敷の床は、今は表面がうっすらと白んでいる。ものが乱雑に散らばった居間で、寿子は秀嶺から雅に認知症の疑いがあること、それに両親と弟が、いまは海外に住んでいて、長く不在にしていることを聞いた。
 「秀嶺、いくら寿子さんがお相手とはいえ、お客様には、お茶の一杯くらい出すことよ」
 お構いなくと言っても、お構いなしに湯呑みが出てくるのだろう。雅は昔から秀嶺を厳しく躾けてきた。無論、そこには雅なりの愛情が込められているはずだ。そうでなければ秀嶺が、不特定多数の誰かに頼ってまで、祖母の身を案じることはしなかっただろう。
 それ以来、寿子は再び蓬生家に通うこととなった。どれだけそれに当てはまる症状が出ていたとしても、医師による診断がなければ、認知症はあくまでも『疑い』なのだそうだ。雅は病院にかかることを嫌い、極力近づかないようにしている。だからたとえ秀嶺が受診を促したとしても、徒労に終わるだけだろう。
 秀嶺が学校に行っているあいだは、せめて学業に集中出来るように、その間の雅の面倒は寿子が見る。
 その提案をしたとき、給金がどうだの、自分の家のことで人様に迷惑をかけるわけにはいかないだのと、やたらと秀嶺は渋っていたが、結果的には寿子が自分の意見を押し通すかたちとなった。半ば強引に説き伏せれば、秀嶺は自分の言い分を引っ込める性格であることを熟知した者ならではの対応だった。

 「寿子おばちゃん、ただいま。お祖母さまは?」
 「お帰りなさいませ、坊ちゃま。御隠居様は、お部屋にいらっしゃいますよ」
 ちょうど洗濯物を取り込んで畳んでいる最中だった。秀嶺の帰宅は、いつもより少し早かった。
 「今日は部活が休みだったんだ」
 「……坊ちゃま、お召し物が少し汚れているようですが」
 「やだなあ、お召し物だなんて。ただの学校の制服じゃないか」
 秀嶺は困ったように眉をひそめて苦笑したが、ちょっと痛いところを突かれたかのような、そんな口調になっていた。
 寿子に言われて、秀嶺は自分が着ているブレザーをまじまじと眺める。
 「うわっ、マジだ……」
 雅に会話を聞かれれば、「マジ……なんてはしたない言葉を使うんじゃありません!」と窘められそうだと寿子は思った。だが、この孫なら「マジって言葉は、江戸時代の頃から使われてたらしいよ」と、食ってかかるかもしれない。
 「洗濯をしてしまいますから、上着を脱いでくださいな」
 「いいよ、これくらい。もう俺も高校生なんだから、自分で出来るって」
 秀嶺はそう言ってすたすたと自分の部屋へ向かった。
 ——仲間と取っ組み合いの喧嘩をしそうになったと言ったら、お祖母さまは卒倒するだろうか。
 ベッドの上に鞄と脱いだ制服を落とすように置いて、秀嶺は考えた。
 今日の部活で、吉田嘉長と言い合いになった。きっかけはたぶん、些細なことだった。
 以前から眼鏡を何処かに置き忘れる癖のあった嘉長が、蔓の部分に紐をつけて首からぶらさげて部室にやってきたのだ。雅が本や新聞を読むときなど、桃色の眼鏡を同じように首からさげている。秀嶺はそれを連想して、嘉長に「なんだそれ、ジジイみたいだな!」と言った。冗談のつもりだった。鷹臣も含めて、自分たちは軽口のつもりで互いに辛辣な言葉を掛け合ったりする。だから今回もそれと同じようなノリだった。
 軽く受け流されると想定していた秀嶺は、嘉長がぎろりと睨んできたので、そこで自分はマズイことを言ったのかもしれないと思った。
 物事には、言っていいことと悪いことがある。秀嶺でも、そんなことは重々承知していたが、ときには自分の意図しないかたちで、言葉を受け止められることがある。
 「お前も煎餅だの抹茶だの饅頭だの、年寄りが好きそうなもんばっかり食ってるじゃねえか」
 そしてそれは、秀嶺自身もおなじだった。嘉長が報復のつもりで言ったのか、秀嶺のように単なる軽口を叩いたのか、真意は分からなかったが、秀嶺はそれを過剰に受け取ってしまった。
 「なんだとっ!」
 ガシャンと派手な音がして、座っていた椅子が後ろにひっくり返った。嘉長は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐにスッとその表情は消え、正面から秀嶺を見据えた。
 「どうした、そんなに興奮して。ガキじゃあるまいし、いちいち突っかかってくんなよ」
 きっかけを作ったのも、一人で勝手に怒っているのも秀嶺だ。自分でも気付いていた。だからこそ、余計にあとには引けなかった。
 気が付けば言葉もなく、嘉長の元に歩いていって、彼の胸倉を掴んでいた。いつも首元まできっちりと結んでいるネクタイが歪み、ワイシャツには大きな皺が入った。
 「なっ……、何やってんだよ!」
 互いに喧嘩慣れしていないから、いつも以上にやり取りがぎこちなかった。秀嶺も嘉長も、顔を真っ赤にしてもみ合いはじめた。そしてどちらからともなくバランスを崩して、床に倒れ込んだ。秀嶺の背中が床に叩きつけられて、マウントポジションを取られる。机の脚が視界の端に映って、思わずそれを掴んだ。
 「おいっ! おまえらなにやってんだ!」
 部室の扉が開いて、鷹臣と竜羽が入ってきた。「……え? ヨシヨシ先輩とダンゴ先輩って、そういう関係だったんスか……?」
 「あれ? 知らなかったのか竜羽。こいつらはなあ……」
 「ちがう!!」
 秀嶺と嘉長の声が重なる。嘉長が勢いよく立ち上がって、秀嶺は四肢が自由になった。竜羽はまだ疑いの眼差しをこちらに向けている。鷹臣がにやにやとしながらなにか言いたげに見ているからだろう。
 「二人とも、そういうのは互いの家でやったらどうだ? おまえらの家はどっちも広いから、誰にも見られずに出来るだろ」
 「だから違うって言ってるだろ!」
 また声が重なる。秀嶺と嘉長は互いに顔を見合わせて、そしてどちらからともなく、ゲラゲラと笑った。
 「じゃあ誤解されるようなこと、頼むからもうしないでくれよ。いま入ってきたのがおれたちだから良かったものの、永尾先生だったらどうするんだよ」
 「エビシ先生はおっかなさそうッスけど、案外『君たちの嗜好を否定するつもりはないが、場所を弁えるように』とか言って、大目に見てくれるんじゃないッスか」
 「かもな。ってか竜羽、先生のモノマネ、全然似てないからな」
 今度は鷹臣と竜羽が笑い合う。そのあいだに秀嶺は「悪かったよ、ごめん」と嘉長に頭を下げた。嘉長も、うぅ……とか、あぅ……となどと唸ったあと、「ごめん」とぼそぼそ言った。
 その後、三人と同じ空間にいるのが気まずくなった秀嶺は、一人先立って帰宅することにした。
 帰路についているとき、ふと思い浮かんだことがある。鷹臣はもしかすると、秀嶺と嘉長のあいだになにがあったのか、本当はちゃんと理解していて、場を和ませるために敢えてあんなことを言ったのではないか。その可能性は、きっと零よりは百に近いだろう。

 4

 電話が鳴った。自分のスマホではなく、家の固定電話だ。雅はちょうど庭に出ていたので、秀嶺が電話を取った。
 「はい、蓬生でございます」
 「あ、兄ちゃん!」
 かしこまった口調で応答したが、随分と聞きなじみのある、しかし少しばかり懐かしい声が、耳に飛び込んできた。
 「秀銘! 元気か?」
 両親と一緒に異国に飛び立った弟だった。秀嶺の高校の入学式の日に、両親とともに青海波学院までついてきて、その足で空港に向かったから、それ以来会っていない。今年十歳になる彼は、日本にいれば小学四年生だ。自分が同じ年齢の頃、どんな子供だったかは記憶から消えかけているけれど、秀銘は当時の自分より利発な子に育っているような気がしてならなかった。
 「うん、元気だよ! ぼく、ジャカルタの日本人学校に通ってるんだ!」
 地名を聞いても、頭の中の世界地図では場所は思い描けない。それがインドネシアの首都であることは、中学時代に世界の主要都市を暗記させられた名残でかろうじて覚えていた。
 「日本人学校……?」
 ポケットから取り出したスマホで検索してようやく、秀銘が放った言葉の輪郭が見えてきた。
 「うん。ぼくは日本からは離れたけど、こっちにいながら日本の小中学校と同じように学べるんだ。兄ちゃん、知らなかったの?」
 「それくらい知ってるさ」
 虚勢だった。弟よりちょっとだけでも優れた兄でいたい。そんな見栄が、秀嶺の嘘を誘った。
 「今日、学校の授業でね、インドネシア語を習ったんだ。その中に、とっても素敵な言葉があったから兄ちゃんに伝えたくって」
 電話の向こうの秀銘は、興奮した様子で、嬉々としてそう言った。
 「なんだい?」
 「兄ちゃん、『ラサ・サヤン・ゲ』」
 「うん、ありがとな」
 まったく意味が分からなかったが、悪い意味ではないと解釈して、礼を言ってみる。まさかこの流れで、秀銘が自分のことを口汚く罵っているわけではないだろう。鷹臣や嘉長じゃあるまいし……と、部活仲間でも友人でもある彼らのことが頭に浮かぶ。
 「兄ちゃん、寂しい?」
 ふいに、秀銘の声のトーンが落ちた。
 「……いや、俺は大丈夫だよ。お祖母さまも一緒にいるからな。そういう秀銘はどうなんだ」
 「……ぼくは……兄ちゃんに会いたいよ」
 秀銘、それは俺もだよ、という言葉が、喉まで出かかっていた。だけど本音を堰き止めるものが、舌の付け根に生えてきたように、息が詰まった。
 「父さんの仕事場がまた日本になったら、ちゃんと帰ってくるからね」
 「あ、ああ……」
 原因不明の不安が心の中をさっと通り過ぎて消えていく。受話器を握りしめる手に力が入った。
 「じゃあ、また電話するね。ばいばい、兄ちゃん」
 一方的に通話が切れて、不通音が鼓膜に届いた。
 『ラサ・サヤン・ゲ』
 秀銘がふいに言った言葉が、脳の中を反響している。あれは一体どういう意味なのだろう。手に持っていたスマホの画面を開いて、検索窓にカタカナで文字を入れてみる。数秒待つと、その言葉の意味を解説する文章が画面に表示された。
 ——愛しく思う気持ち。それは相手を慈しむ意味でも、憐れむ意味でも使われるという。誰かへの愛情や、故郷への郷愁を表現するときに言う言葉だということが分かる。それを伝えてきた秀銘の心情を慮ると、ぎゅっと感情を握り潰されたような感覚がはしって、胸が痛くなった。
 「秀嶺、電話ですか?」  
 雅が室内に戻ってきたようだ。庭の木蓮の枝を少しばかり手折ってきたのか、彼女の手には白い花が一輪握られていた。背後から呼びかける鈴を振るような声に、秀嶺はスマホを隠すようにポケットへしまい、「うん」と頷いた。
 「秀銘からだったよ。お祖母さまも話したかったかい?」
 「そうねえ。折角孫がかけてきてくれたんだものね。あの子、向こうの言葉を言ったりしなかった?」
 雅の言葉に、秀嶺はぎくりとした。
 「……どうして分かったの?」
 「だって、貴方の顔が少し、寂しそうだったから。あの子はきっと、もう向こうの風の色に染まり始めているのね」
 雅はそう言って居間に入り、畳の上に音もなく座った。着慣れた和服の裾が、静かに流れる。認知症の疑いが出てきてからというもの、雅の言葉は時折、現実と妄想のあいだを行き来しているのではないかと感じられるときがあった。
 「秀銘がね、『ラサ・サヤン・ゲ』って言葉を教えてくれたんだ」
 「まあ……懐かしいこと」
 雅の瞳が、ふっと遠くを見た。そのときの彼女は、まるで夢見心地の中にいるような表情をしていた。
 「お祖母さま、その言葉を知っているの?」
 「ええ。スラバヤ通りの夕暮れ時に、よく流れていた歌よ。あそこにはたくさんの店が並んでいてね。そのうちの一軒の主人が、古い蓄音機で音楽を鳴らしていたわ。……紅茶が好きな嶺一さんのために、わたくしはその店でひとつの銀の匙を買って、彼に贈ったわ」
 「銀の匙……? お祖母さまが、ジャカルタで?」
 初耳だった。亡き祖父、嶺一と雅がインドネシアと関わりがあったことなど、一度も聞いたことがない。祖父は厳格な代議士であり、海外赴任の経験もなかったはずだ。ともすると、二人はその国へ旅行などで訪れたのだろうか。
 「ええ。でもね、秀嶺。あの方は結局、それを青海波学院に隠してしまったの。青い波の影に。……そう、貴方がいつも着ている制服の胸元にあるものとおなじ、あの龍の鱗の下にね」
 青海波学院高校の校章は、学校名のとおり、青海波模様をしつらえたデザインだ。鱗のような、それでいて海の波のような、扇の模様は雅の言うように、獲物を狙う龍の胴体のように見えてくる。
 そのときだった。秀嶺の脳を、電気がはしったかのような感覚がして、ある閃きが思い浮かんだ。雅の顔を一瞥してから、秀嶺はそっと口を開いた。
 「お祖母さま、あのさ、前に一晩いなくなったときがあっただろ?……もしかしてあのとき青海波学院に行っていたのか?」
 雅は木蓮の花に鼻を寄せ、目を細めた。一年以上も前のことだ。少し前のことを忘れてしまうお祖母さまがそんなこと、覚えているわけないじゃないか。
 だが、秀嶺の考えに反して、雅には心当たりがあるようだった。
 「懐かしい香りがしたのよ。アッサムの、少し土の匂いが混じったような重たい香り。旧校舎の奥、かつて私たちがお茶を点てていた場所には、まだ嶺一さんの気配が残っていたわ。……でも、鍵が掛かっていたの。だから、窓を少しだけ、お借りしたのだけれど」
 窓を、お借りした。その穏やかな表現の裏側を察して、秀嶺は戦慄をおぼえた。
 あの日の夜、誰もいない記念館。もしも祖母が、認知症による異常なまでの執着心で窓を割り、中へ侵入していたのだとしたら。
 「お祖母さま、そのとき、なにか持って帰ってきたりしなかった?」
 「あら、失礼な。私は蓬生の家の女ですよ。人様のものをくすねるような真似はいたしません。わたくしはただ……返してもらおうとしただけ。嶺一さんがスラバヤ通りで拾い上げてくださった、わたくしの想い出を」
 雅はそれきり、口を閉ざしてしまった。再び口を開いた時には、「さて、夕飯はほうれん草の胡麻和えにしましょうか。以前教えた黄金比は覚えていますか?」と、いつものお祖母さまに戻っていた。

 その夜、翌日の準備をしていた秀嶺は、制服のブレザーに何か異物が入っているのを確認した。
 ポケットに手を入れても何も出てこなかったから、ハンガーに裏返して吊るし、裏地を調べた。すると、内ポケットのさらに裏側、綻びかけた布の隙間に、一滴の銀色の光が潜んでいるのを見つけた。指先で摘み出したのは、小さな、持ち手が極端に短いスプーン——。その名称は定かではないが、部活で、鷹臣が同じような形のものをいつも使っている。茶葉を計量する専用のスプーンなんだぜと、得意げに言っていたのを思い出した。
 「……これ、お祖母さまが言っていた銀の匙ってやつじゃないのか。俺が学校から持ち帰ってしまったのか?」
 そもそもこんなものがなぜ衣服の中に紛れ込んでいて、なんで今まで気付かなかったのだ。知らぬあいだに誰かが自分のポケットに滑り込ませたのか。
 スマホの画面では、先ほど検索した言葉の意味がまだ光っている。
 『ラサ・サヤン・ゲ』——愛しき人への、憐れみ。
 窓の外では、まだ初夏の夜風が、庭の木々をざわつかせている。明日、学校へ行けば、この銀色の光が、とてつもなく重い『罪』の象徴に変わっているのではないか。秀嶺は、掌の中の冷たい感触を握りしめ、一晩中微睡みと覚醒を繰り返す羽目になった。

 翌朝、登校した秀嶺を待っていたのは、潮を含んだ風に乗って学園中を駆け巡る不穏な噂だった。正門近くにある青海波学院創立記念館。明治期の創立当初の資料を展示するその古い洋館の周りに、数人の教員が険しい表情で集まっていた。
 「……盗まれたっていうのか? たかが、あんな古いスプーンを一本」
 廊下ですれ違った嘉長が、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせて呟くように言った。昨日の取っ組み合いの熱はすっかり冷め、彼の関心はすでにこの奇妙な事件へと移っているようだった。
 「嘉長、知ってるのか?」
 「昨日、教師たちが職員室で話してるのを小耳に挟んだんだ。記念館から展示品の『銀のキャディースプーン』が紛失していたらしい。でも、それがいつから無くなっていたのかが分からないって。警察を呼ぶかどうかで揉めてるっぽい。学校の体面があるからな」
 秀嶺の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。ブレザーのポケットの中には、昨夜見つけた『それ』らしきものがある。指でつまめる程度のものが、急にずしりと重くなって、自分の身体を底なしの沼へと引きずり込んでいくような感覚に陥った。
 放課後になって、秀嶺は逃げるように部室へ向かった。中に入ると、鷹臣が神妙な面持ちで、アンティークの図鑑を広げているのに遭遇した。
 「秀嶺、ちょうどいいところに。お前の実家なら、こういうのに心当たりはないか?」
 鷹臣が指し示したページには、持ち手に複雑な唐草模様——いや、それはインドネシアの伝統的な錫細工に似た意匠の、古びた銀のスプーンが載っていた。
 「これが、盗まれたスプーン……?」
 「ああ。だけど、妙なんだよ。記念館にはもっと高価な金銀細工があった。犯人は、わざわざ警備をかいくぐって、この市場価格では二束三文のスプーンだけを持ち去ったんだ」
 「……そのスプーンには、『スラバヤ通り』の刻印が入っていたりするのか」
 秀嶺の言葉に、部室の空気が止まった。嘉長が眼鏡を指で押し上げ、竜羽がプロテインを飲む手を止めて秀嶺を凝視する。
 「……スラバヤ通りってなんだ?」
 鷹臣が眉をひそめてそう言った。
 秀嶺は震える手で、ポケットの中から鈍い銀色を放つ一本のキャディースプーンを取り出した。それを、鷹臣が開いている図鑑のページの上に置く。写真と実物。寸分違わぬその造形が、秀嶺以外の三人の視線を釘付けにした。
 「これ……俺の鞄の中に入ってたんだ。昨日見つけたんだけど……」
 「なんだって!?」
 鷹臣が身を乗り出す。
 「前にさ、祖母が一晩、家に帰ってこなかったことがあったんだ。学校に行ったのかって聞いたら、なんとなく認めてた。でも、どうやって中に入ったんだろう。警備はどうしたんだ? そもそも、なにが目的で学校に来たんだ?」
 秀嶺の心の中の戸惑いを表すかのようにはじめた自問を拾い上げて、嘉長が手元のタブレットを操作しながら答えた。
 「……秀嶺、お前は自分の家のことを知らなさすぎる。蓬生家はかつての貴族院議員だったんだろ。この学校が建っている土地を寄付したのはお前の先祖で、創設者のひとりとして名前が載っている。だから蓬生家の者なら、警備の届かない場所を知っていても不思議じゃない。認知症で記憶が混濁していても、身体が覚えているルートがあったとしたら……」
 「でも、動機がないッスよ」
 竜羽が割って入った。
 「祖母にこんなものをわざわざ盗む理由なんて……」
 「『盗んだ』んじゃないとしたら?」
 鷹臣がスプーンの短い柄を、ハンカチ越しに指でなぞった。「これがもともと、蓬生家から学校に渡っていたものだとしたらどうだ? 秀嶺、こう言っちゃなんだが、お前の家は当時ほどの勢いはないだろ。おばあさんは、家から失われていく誇りを、無意識のうちに取り戻しに来たんじゃないか?」
 秀嶺は、昨日聞いた弟の声を思い出していた。『ラサ・サヤン・ゲ』  ——愛しき人への、愛する感覚。慈しみ、あるいは、憐れみ。秀嶺の心の中にもそのようなものが一気に駆け巡って、バチバチと弾けたような感覚がはしる。顔も見たことのない、自分のルーツとなった先人たち。彼らは蓬生家の伝統に、なにを積み上げてきたのだろう。

 インドネシアの首都、ジャカルタにあるスラバヤ通りは、偽物と本物が入り混じる骨董品の街だ。
 秀嶺はスプーンを光にかざした。すると、複雑な意匠の隙間に、小さな、しかし決定的な違和感を見つけた。
 「……待てよ。このスプーン、持ち手の付け根が不自然だ」
 秀嶺の指摘に、嘉長が棚の抽斗からルーペを取り出して覗き込む。
 「本当だ。ここ、ネジ式になっている……。中に、何か入っているぞ」
 嘉長が慎重に持ち手を回すと、小さな音を立ててスプーンが二つに分かれた。中から転がり出てきたのは、極薄の、黄ばんだ古い紙の破片だった。
 そこには、秀嶺の書く文字の筆跡によく似た、しかしもっと古風の力強い文字で、ある座標と、英文が記されていた。
  ——Surabaya Street 113. To R. From M.
 「スラバヤ通り、百十三番地。トゥー、アール、フロムエム……?」
 「……オミ先輩、英語読めたんスね」
 ぽろりとデリカシーのない発言をした竜羽の肩を、鷹臣はゴツンと小突いた。
 「竜羽、こういうときは、先輩すげーッス! とでも言って、顔を立てておくもんだ。たとえおまえがそう思っていなかったとしてもな」
 「ウッス、すみませんした」
 あとには引かない謝辞を口にして、竜羽はぎゅっと目をつぶった。「それにしてもなんだか、ナゾトキって感じでワクワクするッスね!」
 顔の前に拳を構えて、シャドーボクシングをはじめる。
 「なんだ竜羽、おまえの考えている謎解きってのは、拳を使うのか?」
 「いやこれは、気合いを入れるための……ぎっ、儀式みたいなものッス!」
 あっ、オミ先輩、お茶を淹れるッスと、竜羽は慌てて話をそらした。
 「そういやインドネシアも、紅茶が有名なんだぜ。知ってるか? 秀嶺」
 「いや、初耳だ」
 「戦前はインドやセイロンと並んで紅茶の一大生産国だった。戦争で茶畑は荒廃しちゃったみたいだけど、その後持ち直して、生産量と輸出量が世界第四位になってる。なかでも有名なのはジャワ。明るい色で、香りも新鮮でマイルドなんだけど、コクが足りないから、ブレンドや増量用に使われることが多いんだぜ」
 得意げに言う鷹臣の知識は、部室に置いてある紅茶の図鑑から仕入れたものだろう。茶葉研究部に一年以上在籍していながら、秀嶺も嘉長も、その図鑑を読んだためしがない。読まなくとも、ことあるごとに鷹臣が勝手に知識をひけらかしてくるからだ。鷹臣の蘊蓄を嬉しそうに、そしてうやうやしく耳を傾けているのは、いつも竜羽だけだった。
 部長を崇拝している気のある竜羽が淹れたのは、『メガラヤ』という種類の茶葉だった。世界で最も降水量の多いインドのメガラヤ州で獲れるファーストフラッシュの葉で、鷹臣がわざわざ百貨店の茶葉専門店で入手したものだ。雲の住処という意味の地名を冠した場所で栽培されるその茶葉は、鷹臣によると爽快感があり、メロンやブドウのような香りが広がるという。
 「メガラヤって、ファーストフラッシュとセカンドフラッシュでは、ぜんぜん味が違うんだ。またセカンドフラッシュを見つけたら買ってきてやるよ」
 竜羽から紅茶の入ったカップを受け取った鷹臣は、椅子に座って湯気を鼻に吸い込みながら、誰にともなくそう言った。
 「ダンゴ先輩の分ッス」
 「ああ、ありがとう」
 鷹臣、嘉長、秀嶺の順にカップを渡し、竜羽は最後に自分の分を両手に抱えて椅子に腰掛けた。
 「あれ?」
 そんな竜羽と目が合った瞬間、秀嶺に向かって彼は目を見張った。秀嶺はコップの淵に唇をつけて紅茶を飲もうとしていたが、気圧されて茶の代わりに唾をごくりと飲み込んだ。
 「なんだ? 竜羽……」
 竜羽はきゅっと唇を結んで、やたら真剣な顔をしていた。
 「ダンゴ先輩……そのブレザー、なんかいつもと違うくないッスか?」


 5

 まったく心当たりのないことを言われたせいで、秀嶺は口を半開きにしたまま固まっていた。数秒ののちにようやく竜羽が言ったことが理解できたかのように、ブレザーを脱いだ。
 「わけの分からないこと言うなよ。これは俺が家から着てきたやつだ」
 口を尖らせたが、竜羽が何の根拠もなしに突飛したことを言うやつではないと、秀嶺は知っている。
 「いつも先輩が着ているものに比べると、ちょっと色あせている気がするんスけど、オレの気のせいかな……」
 秀嶺は脱いだばかりのブレザーを手にとって、怪訝な表情を浮かべながら他の三人のものと見比べる。竜羽は、他人が着ている服の違いなどが分かるのだろうかともう一度彼の顔を見ると、ぐわっと彼の腕が伸びてきて、ひったくるようにブレザーが奪われた。
 「おっ、霊視か?」
 たとえば嘉長などに、非科学的なことを言うなよとすぐに窘められそうな発言をしたのは鷹臣だったが、嘉長はなにも言わなかった。竜羽が、『霊視が出来る』と知っているからだ。
 龍田竜羽は霊を視ることが出来る、アフタヌーンティー部の唯一の部員だ。だから彼が入部してからこっち、どうにもこうにも心霊絡みのいざこざが増えた気がする。いや、増えたというよりは、そういう案件を取り扱えるようになったといったほうが正しい。
 竜羽は自分の能力をおおっぴらにひけらかして得意がることはしないが、舞い込んでくる依頼だとかトラブルの中に霊的ななにかが絡んでいるときは、忌憚なく力を貸してくれるのだ。
 「違うッス。ダンゴ先輩には、先輩にちょっとだけ似た、三十か四十くらいのオジサンが憑いているときがあるッスけど、今はいないし」
 サラッととんでもないことを言う後輩だ。だが秀嶺は動じなかった。その『憑いている』という人物に、心当たりがあるからだ。——祖父、蓬生嶺一の享年は、三十九歳だと聞いている。守護霊ってやつだろうかと、秀嶺は思った。
 「……ダンゴ先輩、やっぱこのブレザー、おかしいッス。なんつうか、生地が古いというか……年季が入ってるように見えるッス」
 もしも竜羽の言っているとおりだとしたら、自分はなにも気付かずに着ていたということか。竜羽からブレザーを受け取っても、最初はなにもピンとこなかった。
 「秀嶺、おれにも見せてくれ」
 鷹臣は、秀嶺が返事をする前にブレザーをまじまじと眺めた。嘉長も彼の横に立って、覗き込んでくる。自分たちのブレザーも脱いで、秀嶺のものと見比べてみる。
 「おい見てみろ、これ、おれたちのものと比べると、縫い目が違うぞ!」
 鷹臣が声を張り上げて、秀嶺のブレザーの袖口をみんなに示した。他の三人が着ている制服は、量産性に優れたミシン縫いだ。しかし、秀嶺が脱ぎ捨てたその一着は、布の合わせ目や裏地の始末が、驚くほど丁寧な手仕事によって仕上げられていた。 「……ここも違う」
 嘉長がボタンを覗き込む。
 「僕たちの制服のボタンはプラスチック製だが、これは真鍮だ。長年磨き込まれたせいで角が取れて、鈍い光沢を放っている。……秀嶺、君はこれを、今朝自分で着たのか?」
 「……ああ。昨日自分で準備したもののはずだ」
 昨夜、布団に入る前に、枕元に準備した。それは覚えている。だが、改めて問われると、だんだん自信がなくなってくる。秀嶺はへたへたと椅子に座り込むと、困ったような表情を隠せずに、机の上に置かれたブレザーを見つめていた。
 秀嶺が眠っている一晩のあいだに、制服がすり替えられたのだとしたら、そんなことをする人は蓬生家には一人しかいない。——雅だ。他の家族はインドネシアにいるし、寿子は家に帰っている。でも、制服がすり替えられたのは昨晩ではなかったとしたら……。いや、そもそも一体誰が何のために……?
 考えれば考えるほど、結論から遠ざかっていくようだ。思考が堂々巡りになる。
 「いくらファッションに無頓着でも、古い制服を着ていて気付かないことなんかあるのかな……」
 「現に秀嶺は気付かなかったじゃないか。君は烏龍茶と緑茶の違いも分からないような鈍い男なんだから、大いにあり得るだろう」
 秀嶺の過去の失態を持ち出して、嘉長は皮肉たっぷりに言った。
 「そうだなあ、秀嶺はぼんやりしているところがあるからなあ」と、鷹臣も否定しない。
 「オレも是永キャプテンのシャツを間違えて着てたことがあるッス」
 嘘かまことか、判断がつけづらいようなことを竜羽が言った。
 「おまえとあいつは体格もまったく違うのに、どうやったら間違えるんだよ」
 「練習終わりにヘトヘトでボーッとしてるときに着替えたら、是永キャプテンのシャツだったんスよ。キャプテンに言われるまで気付かなかったッス。大体オレが着替えを置いていたところに、キャプテンが服を置いてるもんだから悪いんス」
 三人の会話を聞きながら、秀嶺は考えていた。蓬生家が青海波学院高等学校の創立に関わっていたとしたら、古い制服が家にあるのは分からないでもない。だからやはり、雅が秀嶺の制服を入れ替えたのだと考えるのが一番安直だった。

 部活が終わったあと、秀嶺は鷹臣と共に職員室に寄った。ブレザーを手に抱えた彼が向かったのは、永尾のところだった。
 「永尾先生、少しだけいいですか」
 背筋をピンと伸ばしてノートパソコンのキーボードを叩いていた永尾は、その手を止めてちらりと二人を見た。射抜くような視線はそのまま秀嶺のブレザーへと注がれる。
 「座りなさい」
 ちょうど隣の教師の椅子が空いていた。秀嶺はそこに座って、もう一脚を適当なところから持ち出してきた鷹臣が隣を陣取った。
 「君たちが私のもとへ部活終わりに顔を出すとは珍しいね。余程のことがあったとみえる」
 「そうなんです!」
 秀嶺の代わりに、鷹臣が言った。その勢いのまま、彼はかくかくしかじかと、秀嶺のブレザーが入れ替わった経緯を話した。
 「蓬生、制服をよく見せてみなさい」
 「は、はい」
 秀嶺はごくりと唾を飲み込んで、そろそろと腕を伸ばし、制服を永尾に渡した。
 「これは……」
 制服を受け取るなり、永尾の表情が変わった。「龍田はなにも言っていなかったか?」
 「えっ!?」
 突然後輩の名前が永尾の口から飛び出してきて、秀嶺と鷹臣は面食らった。思わず二人で顔を見合わせる。
 「私は君たちの顧問。部員の実態を把握しているのは、当然のことだろう。それとも君たちは、私の目が、そこらの平凡な教師と同じように節穴だと言いたいのかな」
 「いえ、そういうわけじゃ……」
 口ごもる。では永尾は知っていたのか。竜羽に霊感があるということを。
 「竜羽はブレザーの件についてはなにも。ただ、俺には祖父の霊が憑いていることがあると言っていました」
 「そうか」
 永尾は短く言って、ブレザーを秀嶺に返した。「二人とも、私についてきなさい」

 言われるがままに永尾の背中を追っていく。職員室を出て、廊下を歩く。西日のさす校舎に、永尾のパンプスの音と、二人ぶんのスリッパの音が響く。部活終わりの生徒たちが、永尾の姿を見てギョッとしたあと、「さようなら」と挨拶を囁いてそそくさと去っていく。説教でもされると思っているのか、憐れみの目を秀嶺と鷹臣に投げかけながら通り過ぎていく生徒もいた。
 校舎を出て向かったのは、創立記念館だった。校門のそばにある洋館は、旧校舎だという。この国の首都にある駅舎を模したような赤レンガと白い花崗岩のストライプの洋館だ。『青海波学院高等学校 校舎』と書かれた木簡が正面の入口に掲げられていて、その横に『青海波学院高等学校 記念館』と後付けの看板がある。
 秀嶺はかつて、ここに一度立ち入ったことがある。入学式の日、一般開放されていたときに、家族で中を見学したのだ。
 朝の騒ぎは落ち着いていて、建物の周りには誰もいなかった。記念館といっても、普段は開放されておらず、たまに悪戯好きの生徒が忍び込んで教師に大目玉を喰らっていることがある。
 「君たちも今朝の騒ぎは知っているね」
 入口の扉の鍵穴に、旧式の鍵を差し込みながら、永尾が言った。二人は「はい」と頷いた。
 「記念館からキャディースプーンが無くなったとか」
 「そのとおり。だが、このたび紛失が発覚したのは、それだけではない」
 永尾は言葉を切って、秀嶺がまだ手に持っているブレザーを一瞥した。「歴代の我が校の制服のうち、初代のブレザーが忽然と消えていたのだ」
 入りなさいと促されて、二人は記念館の中に足を踏み入れた。
 埃っぽい。秀嶺は思わず何度かくしゃみをした。電気のスイッチが見当たらないのか、永尾はポケットからペンライトを取り出して、辺りを照らした。
 「ここは創立当時、校舎として使われていた建物だ。君たちは普段、単独での立ち入りを禁じられているだろう。行事などで学外から来訪者があったときに開放することはあるが、我々教師も、特段用がなければ中に入ることはない」
 「……だったら、中のものが無くなっているっていう発見が遅れることはあるんですよね」
 「心当たりがあるのかな」
 ペンライトの光が、薄暗い館内を照らしている。正面入口から入ると、そこは昇降口となっていて、若干朽ち果てた木製の下駄箱が並んでいるのが分かった。
 「あまり触らないほうがいい」
 永尾に言われて、鷹臣は伸ばした腕をヒュッと引っ込めた。「木のささくれが、君の指に刺さるかもしれないからね」
 「ここから無くなった物のどちらもが、俺の家にあったんです。気付かなかったとはいえ、俺は今日このブレザーを着ていました。俺がこれらを持ち去った犯人だと疑われても、仕方がないというか……」
 「おれはそんなこと思ってないけどな」
 口ごもった秀嶺に、鷹臣はあっけらかんとそう言った。目を見張って彼を見る。この男は、こうして妙に安心感を抱かせてくることがある。普段はかっこつけしいで、こちらが頭を抱えたくなるほど馬鹿なことも仕出かすから、幻滅することのほうが多いのに。
 「ケーサツが状況証拠だけで犯人を決めつけないって根拠は、きっとこういうときに秀嶺を犯人だと思い込んでしまえば、冤罪を生み出してしまうからなんだろうな。物事の真実ってのは、ちゃーんと納得がいくまで調べないと、見えてこないもんなんだよ、きっと」
 「宇集院の言うとおりだ。私も、君が制服やキャディースプーンをここから持ち出したとは、露程も思っていない。では誰がそれらを持ち出し、その果てに君の手に渡ったのか。蓬生、それを確かめられるのは君だけだ。スプーンと制服は、私が預かろう。君は帰宅し、真実を見つけ出してきなさい」

 勢いに負けて、言われるがままにブレザーとスプーンを永尾に渡した秀嶺は、帰宅したあと、雅を居間に呼び出した。
 「なんですか、秀嶺。そんな怖い顔をして」
 「お祖母さま、答えて。俺の制服をどこにやったの」
 雅は目を丸くした、「秀嶺、なにを言っているのですか。そんなこと、わたくしが知るはずないでしょう。貴方はもう高校生なんだから、自分の持ち物くらいきちんと管理をしなさい。最近は寿子さんが来てくださるからと言って、少し甘えているのではありませんか?」
 「ボケてるから覚えてないのか?」
 「まあっ! まあっ、あっ、貴方、なんてことを……」
 雅の顔からサッと血の気が引いて、唇がわなわなと震えはじめた。認知症の人に、「あなたはボケている」と言っても、それを認めないことが多いのは、秀嶺も知っている。それに雅はプライドが高いから、自尊心を傷つけられたと思って激昂するのは目に見えていた。それでも気が急いて、理性が言葉を止められなかったのだ。
 数分前のことも忘れていることがある雅が、昨晩のことを、果たして覚えているのだろうか。
 「発言を撤回しなさい、秀嶺! いくらわたくしが身内といえど、人を馬鹿にするような発言は見過ごせませんよ。貴方、まさかお友達のこともそうやって揶揄していたりするんじゃないでしょうね」
 秀嶺はカッとなった。まるで話をそらされたように感じた。会話を中断して、咄嗟に立ち上がる。足早に居間を出た彼が向かったのは、雅の部屋だった。中に入り、クローゼットを開く。秀嶺の予想通り、そこにブレザーが畳んで置かれていた。
 (やっぱりあったじゃないか……)
 手に取ってブレザーを広げる。それが本当に自分のものであるかという確証はなかったが、この家にはもう、他人の制服なんてないはずだ。そう思って、秀嶺はブレザーを回収した。

 部屋に戻った秀嶺は、幾分か冷静さを取り戻していた。生地の織り方もボタンの素材も、昼間に見た鷹臣たちの制服とおなじだ。——これが俺の制服だとしたら、どうしてお祖母さまの部屋に……? 容易く思い付くのは、やはり理由はどうあれ雅が移動させたということだ。……でもなにかが引っかかる。それがなにか分からない。
 机に座って、考える。これまでのことを。青海波学院高等学校に入学してから、蓬生家でなにが起こり、自分はなにに気付かないでいたのか。

 ——物事の真実ってのは、ちゃーんと納得がいくまで調べないと、見えてこないもんなんだよ、きっと。

 昼間、鷹臣が言っていた言葉が脳裏に蘇ってきたとき、秀嶺はハッとして、部屋を飛び出した。向かったのは、家の固定電話の前だ。受話器をとって、国際電話の番号にダイヤルする。日本とインドネシアの時差は二時間。今はまだ、向こうは夕暮れどきだろう。
 『スラマット ソレ』
 数回の呼び出し音のあと、秀銘のたどたどしい現地の言葉が聞こえた。それにどう返せばいいのか分からなくて、秀嶺はただ「もしもし」と言った。
 「あっ! 兄ちゃん!」
 秀銘の声がぱあっと華やいだ。兄が連絡をよこすなんて、予想外だったのだろう。だが、秀嶺はそんな弟の感情の起伏を気にしている余裕はなかった。
 「秀銘、正直に答えろ」
 『どうしたの?』
 「俺の入学式の日、一緒に青海波学院の記念館を見学したよな。お前、あのとき、記念館からなにか持ち出さなかったか?」
 『い、今更なに言ってんの? そんな前のこと、覚えているわけないじゃん』
 受話器越しでも分かる、明らかな狼狽。達観しているように見えても、まだまだこいつは子供なんだなと思う。
 「嘘をついても、兄ちゃんにはお見通しなんだぞ」
 沈黙。秀銘が息を呑んだ音が聞こえた。
 「……ごめんなさい。あのときね、綺麗なスプーンが落ちていたの。拾って、あとで届けようと思っていたのに、そのまま忘れちゃって、持って帰ってきちゃったんだ。日本を出発する前、お祖母さまにこっそり打ち明けて、渡したんだけど……」
 秀銘は、ごめんなさいと、消え入るような声で繰り返した。その言葉を聞く秀嶺の目には、夜の闇に沈む庭が映っている。
 「大丈夫だよ、秀銘。兄ちゃんが、ちゃんと返しておくからな。……またゆっくり話そう」
 「うん。そのとき、お祖母さまもぼくに大丈夫だって言ってくれたんだ」
 それだけ言って、秀嶺は会話を終えた。

 6

 「おれの行きつけの美容院は、青海波通り三丁目っていうんだけどさ、店が建ってる住所をそのまま店名にしてんだよな。つまりなにが言いたいかっていうと、『スラバヤ通り百十三番地』っていう店があったんだってこと」
 鷹臣が話をすると、どんなことでも得意げに言っているように見える。話の内容によってはイラッとすることがあるけれど、今回に至っては秀嶺も興味深げに耳を傾けていた。

 騒動から、数日が経っていた。秀嶺の目の前には、事の発端となったキャディースプーンが置かれていて、部室の電灯の光を反射して鈍く光っている。それが何故此処にあるのかというと、学校から、秀嶺を通じて蓬生家に返却されたからだ。
 「てか、記念館の管理もガバガバだよな。結局、個人の私物を、展示品だと思って保管していたってことだろ?」
 鷹臣がケラケラと笑って言った。
 翌日学校に行った秀嶺は、永尾に理事長室へ来るようにと呼び出された。スプーンのことでいろいろと詰問を受けるのだろうと覚悟して足を運んだ秀嶺を待っていたのは、学校側からの謝罪だった。
 永らく記念館に展示してあったキャディースプーンは、学校に寄贈されたものではないという事実が発覚した。このスプーンの持ち主は秀嶺の祖父、蓬生嶺一で、まだ記念館が校舎として使われていた頃の在校生であった彼が所属していた『茶道部』の部室に、置き忘れたままになっていたものを寄贈品だと勘違いされたまま、記念館に展示されていたのだという。
 その日、学校から帰った秀嶺は、返してもらったキャディースプーンを、雅に見せた。それを見るなり、彼女は遠い目をしながら、ぽつりぽつりと、想い出を話してくれたのだ。
 「わたくしが学生の頃、駅前にお洒落で美しい雑貨を売っている店があったの。このスプーンは、わたくしが、紅茶好きな嶺一さんに誕生日プレゼントとして贈ったもの。彼ったら、このスプーンに仕掛けがあることをすぐに見抜いてね。Surabaya Street 113. To R. From M.と書いた用紙を、柄の中に仕込んだんですよ。『このスプーンはスラバヤ通り百十三番地という店で買った。雅から、嶺一へ』という意味を込めてね。……でも、彼はやがてそのスプーンを紛失してしまったのです。わたくしよりも、彼のほうが落ち込んでいたわ。それにしても当時は探しても探しても出てこなかったものが、今になってすんなりと出てくるんですもの。不思議なこともあるものね」

 「ダンゴ先輩のおじいさんはきっと、先輩を通じて自分の持ち物を取り返してほしかったんじゃないッスか?」
 オカルティックな話題になると、竜羽の得意分野だから、四人の中で一番勘が冴え渡る。彼の仮説によるとこうだ。
 きっかけは秀銘がスプーンを持ち出してしまったこと。それで一瞬は蓬生家にスプーンが戻ったけれど、スプーンの所有者は青海波学院だと思っていた雅が学校に返しにいった。——彼女が一晩帰らなかった日のことだ。彼女はこっそりと校内に侵入したのではなく、正規の方法で学校に赴き、手続きを行ったのかもしれない。
 「ダンゴ先輩のおばあさんが、オレみたいに霊感があるとは限らないッスけど、認知症だって周りの人から疑われている人が、少々変なことを言っても、妄想だなんだって片付けられちゃうことのほうが多いのかもしれないッスよね。たとえホントのことを言ってたとしても」
 秀銘からの電話で聞いた『ラサ・サヤン・ゲ』の話を雅にしたときに、彼女が話したふわふわと抽象的な会話。記憶と妄想が混濁している彼女の脳内では、『スラバヤ通り百十三番地』での出来事が、本物のスラバヤ通りで繰り広げられた出来事に変換されていたのかもしれない。それとおなじように、スプーンを返しに学校に立ち寄ったとき、彼女の目の前に、どんな形であれ嶺一が現れたとしたら。
 「蓬生家は学校創立の関係者。だから学校側も特に人をつけることなくおばあさんを記念館の中に通したんだとしたら、スプーンを返さないばかりか、制服を持ち去ってしまっても分からないよな」
 嘉長が口を挟んできた内容が本当だとしたら、学校側の管理があまりにも杜撰だということになるが、可能性のひとつだと考えれば、想定できる範囲だろう。
 ——雅はスプーンを返そうと記念館に入ったが、そこで何らかの出来事が起こり、スプーンは返さずに、当時嶺一が着ていたブレザーの制服と共に、立ち去ってしまった。

 『わたくしはただ……返してもらおうとしただけ。嶺一さんがスラバヤ通りで拾い上げてくださった、わたくしの想い出を』

 自分が生きているという記憶がどんどん無くなっていくというのは、どんな感覚なのだろう。自分の存在を、崩れかけている記憶を繋ぎ止めるために、雅が過ちを犯したのだとしたら……。
 薄れていく記憶があるのなら、彼女が選んだ罪も、情状酌量のもとで薄れていってくれないだろうか。——そうする方法は簡単だ。この件に関して、もう誰もこれ以上踏み込まないこと。スプーンが蓬生家に戻ったのなら、波風を立てる必要もないだろう。

 「でも、秀嶺、おまえ、なんで古い制服なんか着てたんだよ」
 最後に後脚で砂をかけるかのように、鷹臣が尋ねてきた。
 「ああ。それはな」
 困ったように笑って、秀嶺がオチを明かす。あの日、秀嶺が着ていた制服が汚れているのを見つけた寿子が、替えの制服にと、古いブレザーを用意したのだ。勝手知ったる他人の家。寿子は、雅の部屋のクローゼットにそれが畳まれているのを知っていた。青海波学院には何の関係もない彼女は、制服の新旧なんて気にも留めなかった。だから雅の部屋に、なぜ秀嶺の制服が置かれているのだろうと思っていたものの、それが替えの制服だと思い込んだのだといっていた。
 「結局坊ちゃまが制服を洗濯に出した気配はございませんでしたし、身の回りのことは御隠居様が面倒を見ておられるから、あそこに替えがあるものだと、勝手に思ってしまったのです」と、あたふたと寿子は弁明していた。
 「前から思ってたけど、秀嶺、おまえはぼんやりしてるけど、蓬生家ってみんなそうなのか? 同い年なのに、弟キャラみたいだよなおまえは!」
 ケラケラと屈託なく笑う鷹臣の前で、顔を赤らめて俯く秀嶺は、『弟』という言葉に、秀銘は今なにをしているのだろうかと連想していた。