私立青海波学院高等学校には、かつて学生寮が存在していた。道を挟んだ隣の敷地に、いまはその名残りだけが残されている。いつからか立ち入り禁止のフェンスが設置されて、それを蹴破ったりしない限りは、中に入れないようになっている。とはいえ、雑草が生い茂って、ジャングルのようになっているそこに入りたがる物好きはいない。時代が違えば寮を使っていたかもしれない野球部の連中も、せいぜい周りの道をランニングで走る程度だ。

「ヨシヒサ!」
 廊下を歩いていると、ふいに背後から声をかけられた。吉田嘉長は立ち止まり、振り返った。この学校で自分のことを名前で呼んでくるのは、三人しかいない。『ヨシヨシ先輩』と妙な呼び名で呼んでくる後輩は例外として、あとは苗字で呼ばれるだけだ。
「吉岡、どうしたんだ」
 吉岡ネイサン。出席番号順に並べば、嘉長の前になる彼は、アメリカ人の母親を持つハーフの少年だ。黄金色の髪を短く刈り上げ、野球の練習着に身を包んでいる。
「ニホンのキュウジは、髪をボウズにするのが、カッコイイですね」と、本人も自分のヘアスタイルを気に入っているらしい。
「ヨシヒサも部活ですか? ボクと一緒に行きましょう!」
「吉岡と僕は活動場所が違うだろ。ここから一緒に行こうと思っても、逆方向だ」
「……それもそうですね。じゃあ、ヨシヒサ、また明日!」
 自分の体よりも分厚いリュックを背負って、ネイサンは廊下を駆けていく。教師に見つかれば、廊下は走るなと叱責を受けそうな勢いで、彼は嘉長の視界から消えていった。
——なんなんだ、あいつは……。
 進級して、三ヶ月が経とうとしている。二年六組。一年のときに一緒だった宇集院鷹臣とは別のクラスになった。進級すると、人間関係は概ねリセットされてしまう。人付き合いがあまり得意ではなく、そのせいで顔の広くない嘉長にとってクラス替えというイベントは、一年の中で最も気が重いものだった。
 ネイサンは、嘉長の前の席になったこともあって、始業式当日からしきりに話しかけてくる存在だった。こんな自分のなにがいいのか。アメリカの血が流れているような陽気な男は、話せれば誰でもいいと思っているのか。疎ましく思うのとおなじくらい、話しかけられるのがまんざらでもないと思っている自分がいることには、嘉長自身はまだ気付いていなかった。

「嘉長、またあのメリケン野球少年に絡まれてたな」
「チッ、見てたのかよ」
 部室に入るなり、鷹臣にからかわれた。彼もいま来たばかりのようで、机の上に置いたばかりの鞄のチャックを開けていた。
「見てたんじゃない。見えたんだよ」
 南校舎の三階に、二年生の教室が並んでいる。鷹臣は二年一組で、六組と若干の距離はあるといえど、おなじ階なのだから、ネイサンと話している様子を見られていてもおかしくはない。
「それにしても、今年の夏はいつにも増して暑いな。異常気象だよ」
「お前それ、去年も言ってたぞ」
「毎年言ってる自覚がある」
 四季の中でも、より幅を利かせているように感じる夏という季節は、もはやエアコンがないと乗り切れなくなっている。青海波学院は設立当初、各教室にエアコンはついていなかったという。アフタヌーンティー部こと、茶葉研究部の部室にも、後付けしたであろう空調機器がついていて、壁に貼り付けるように設置されている操作盤には、『冷房は温度を下げすぎないこと!』と印字されたシールが何枚も上下に重ねて貼られている。校内にエアコンを設置したことによって、「外で活動する運動部の生徒は暑い中頑張っているのに、文化部は空調の効いた部屋の中で悠々と活動するなんて不公平だ」という声が出たと聞いている。そういうケチをつけるのは大抵、当事者である生徒ではなく、一部の保護者である。炎天下の中でスポーツをするのは確かに危険を伴うし、辛い場面もあるだろうけど、それも加味した上での活動なのだ。生徒は誰ひとり、少なくとも表立っては文句を言っていないことから、その苦情はいつの間にか有耶無耶に、黙殺されていた。

 青海波学院高等学校において、新たに部を立ち上げようとしたときに、正式な活動として認められるためには、部員の最低人数が三人であること、活動の明確な目的があること、そして顧問がいることという条件がある。アフタヌーンティー部が活動出来ているのは、無論すべての条件をクリアしているからだ。
「そろそろ永尾先生、来そうだな……」
 坊主頭をぽりぽりと掻きながら蓬生秀嶺が呟いた。ユニフォームを着ていれば、ネイサンと同じように野球部にいても不思議ではない見た目の彼は、嘉長や鷹臣の同級生で、アフタヌーンティー部の一員だ。嘉長を下の名前で呼ぶ三人目。茶葉研究部という部活に所属していながら、緑茶と烏龍茶を間違えたことがある。「花粉症で、味覚がにぶっていたんだよ!」と、慌てふためいて言い訳をしていたが、部員の誰も、秀嶺がティッシュで鼻をかんでいたり、目が痒いと言っているのを見たことがない。
 そんな秀嶺だが、稀に勘が鋭いときがある。茶葉研究部顧問の永尾が部室に姿を見せたのは、秀嶺が呟いてから十五分ほどが経ったときだった。
「永尾先生! こんにちは!」
 鷹臣が声を張る。
 引き戸がガラガラと開いて、そこに立っていたのは、黒いスーツに身を包んだ女教師だった。スラリと背が高い。セミロングのストレートヘアーは日本人形のようだが、彼女もネイサンとおなじ、アメリカと日本のハーフである。それを象徴するかのように瞳の色は青色で、鷹臣たちはいつも永尾に対して、浮世離れした印象を抱いている。
「ちゃんと活動しているか」
眉も目つきも吊り気味であるから、整った目鼻立ちと相まって、厳格なイメージが拭えない。アルトの低音ボイスで喋られると、普通の会話でも身のすくむような緊張感をおぼえる。いつもはなんだか脱力している部員たちも、永尾が訪れたときばかりはしゃんと背筋まで伸ばしている。
「勿論です! 今日は緑茶について研究しようと思っていました!」
 秀嶺が出任せに口を滑らせたせいか、永尾はなにも乗っていない机を一瞥した。三人は口から心臓が飛び出そうな心地になって、永尾の返答を待つ。
「君たちの奇想天外な研究の成果を、私も楽しみにしているよ」
全然『研究』をしている様子がないだとか、いますぐ活動記録を提示しろとか、そういうふうに詰め寄られたらどうしようかという思いがよぎったが、永尾はそれだけ言って、ヒールの低いパンプスをカツンと鳴らした。
「演劇部の指導があるから、私はこれで失礼するよ。くれぐれも、羽目を外さぬよう」
「ありがとうございました!」
 三人の声が揃う。このときばかりは、いつも敬遠している体育会系さながらの挨拶を、永尾の翻った髪に投げた。
 永尾の滞在時間は、多く見積もっても二分も経っていないだろう。それでも彼女が去ったあと、三人はようやく普通の呼吸の仕方を思い出したかのように、動悸を抑えることに注力した。
 永尾は演劇部と茶葉研究部の顧問を兼任している。なにを思って鷹臣たちに協力しているのか、その真意は分からない。本人もいまのところは演劇部のほうに重きを置いているようだから、気紛れな猫のようにたまに部室を訪ねてくるだけで、鷹臣たちが普段なにをしているのか、深く追及してはこない。
 アフタヌーンティー部の部員が『茶葉を研究する』という本来の目的から逸脱した活動をおこなっている。極端にいえばそんな内容の噂が、生徒たちのあいだで流布されていることも、永尾なら知っていそうだが。

「ちわーッス! さっきすぐそこでエビシ先生とすれ違いましたけど、来てたんスか?」
 扉の開き方ひとつとっても、性格が出るものだ。勢いよく中に入ってきて、勢いよくそう言ったのは、一年生部員の龍田竜羽だ。胸元と背中に『拳闘部』と力強い毛筆で書いたような文字が印字された黒いシャツを着て、赤い短パンを履いている彼は、アフタヌーンティー部とボクシング部を兼部している。この春に加入したまさかの新入部員で、部長の鷹臣を驚かせた少年だ。
 ボクシングをやっているから肝が据わっているのか、肝が据わっているからボクシングをやっているのか、ともかく、先輩三人が恐れ多くて絶対にやらない、永尾にニックネームを付けるという所業をやってのけた部員だった。
 永尾の下の名前はシディという。永尾シディ。担当教科は英語。永尾を音読みすると、『えいび』になるため、苗字と名前を並べると連想されるのが、『ABCD』というアルファベットの並びだ。竜羽はこれを元に、彼女のことを『エビシ先生』と密かに呼んでいる。アフタヌーンティー部の内々だけでおさめておけばいいものを、彼は自分のクラスでも吹聴しているらしく、その呼び名は一気に全学年へ広まっていったのだった。
「ついさっきまでいたよ。一瞬だったけど、おれたちがちゃんと活動をしているか、見に来たらしい」
「マジッスか! なんか言われなかったッスか?」
「秀嶺が緑茶の研究をするって口走ってたけど、なんとか大丈夫だったな」
 鷹臣の口調は、普段通りに戻っていた。
「ああ。俺の日頃の行いがいいから、なにも言われなかったんじゃないかな」
「馬鹿言え。口走った張本人が一番顔を引き攣らせてたくせに」
「あの先生を前にして普通でいられるのは、この中だと竜羽だけだろうよ」
 嘉長の煽りを軽く受け流した秀嶺は、ふと竜羽のほうを見た。さっきからガサガサと、ビニール袋が揺れる音がしていたからだ。手になにかを持っている。竜羽は視線に気付いて、トコトコと部屋の中央へやってきた。
「ダンゴ先輩が好きな水饅頭を貰ってきたッス」
 竜羽は、崩れた敬語を使うくせに、アフタヌーンティー部の先輩のことは自分がつけた愛称で呼ぶ。鷹臣はオミ先輩、嘉長はヨシヨシ先輩、そして秀嶺はダンゴ先輩。   
独特のネーミングセンスだ。なぜ秀嶺が『ダンゴ』なのかというと、彼が洋菓子と紅茶より、和菓子と日本茶を好んでいて、苗字が蓬生だから。要するにヨモギ団子から着想を得ているのだ。
名付けられた三人は竜羽を無礼だと叱ることもなく、むしろその呼び名を各々密かに気に入っていた。深い人付き合いの少ない彼らにとって、そもそもニックネームを付けられる機会が皆無に近いから、単に嬉しかったのだ。
「是永キャプテンが、お礼にって。あの人の家、和菓子屋さんなんスよ」
 知ってましたか? と竜羽に問われて、他の三人は誰も首を縦に振れなかった。是永について知っていることといえば、竜羽が所属しているボクシング部のキャプテンということだけ。三人の誰もクラスメイトになったことはない。
「早速いただきましょうよ」
 水饅頭といえば、夏の風物詩だ。ガサガサと派手な音を鳴らしながら、竜羽が袋の中身を机の上に出す。透明のプラスチックトレーの中に、おなじく透明の水饅頭が八つ、並んでいた。
「うわっ、めっちゃ綺麗じゃん」
 秀嶺が感嘆の声を漏らす。透き通った饅頭は、中の餡子がくっきりと映えている。まるでガラス細工が並んでいるかのようだった。
「こし餡と抹茶餡ッスね。ひとり一個ずつあたりますよ」
 竜羽は茶器が入っている戸棚に近づき、引き戸を開いた。「和菓子だから、お茶はヌワラエリヤなんてどうッスか」
 以前、鷹臣がボールペンで書いたラベルを一瞥して、竜羽は黒猫のキャラクターが水玉のようにデザインされている茶筒を取り出した。
ヌワラエリヤとは、スリランカのヌワラエリヤで生産される銘茶だ。淡いオレンジ色のお茶は、緑茶に似た適度な渋みと優雅な花香が特徴で、ストレートティーとして楽しむのが最適だという。茶葉も緑がかっており、茶殻は緑茶のような色をしている。アイスティーにすると、より爽やかな風味が増すそうだ。
「今日はクソ暑いから、アイスティーにします。オミ先輩、ミルクティーじゃなくていいッスよね」
「ああ」
 鷹臣は頷いた。竜羽はフンフンと鼻歌を歌いながら、手際よくお茶を淹れていく。嘉長が自宅から持ってきた、なにかのブランドものだというグラスを四つ、机の上に置いて、氷をカラカラと入れた。
「うぅ……、オレはまだまだッス」
 やがて鷹臣たちの前に水饅頭とヌワラエリヤのアイスティーが並んだ。席につきながら、竜羽が嘆いた。「またクリームダウン、やっちゃったッス」
 クリームダウンとは、アイスティーを淹れたときに、液が白く濁ってしまう現象のことだ。紅茶ポリフェノールとカフェインが冷やされることで結合し、肉眼では白くにごって見えてしまう。品質には差し支えないから、特段気にする必要はないのだが、見た目が悪いだのなんだのと、鷹臣たちに呆れられてしまうのではないかと、竜羽は内心恐れていた。
「クリームダウンを気にするなんて、竜羽も段々アフタヌーンティー部の部員として、板についてきたじゃないか」
 おれはそんなの気にしないぞと続けて、鷹臣は竜羽からグラスを受け取った。

 嘉長は水饅頭をかじった。ぷるんとした生地に、なめらかな舌触りの餡子が絡む。ほのかな甘味が口の中いっぱいに広がって、「美味い」と思わずこぼした。
「嘉長が手放しに褒めるなんて、珍しいな。明日は雨か?」
「そうッスよ」
「え?」
「だから、オミ先輩の言うとおり、明日は雨ッス」
 竜羽は饅頭を一口で頬張って、もごもごと口を動かしている。こいつには、食いものをゆっくりと味わうという心思はないのかと、嘉長は彼をチラリと見たが、言葉に出さない気持ちが、竜羽に伝わることはなかった。
「ですから、今日は予定を変更して、オレはボクシング部に行くッス。ランニングはやっぱ外でやらねえと、気持ちよくないッスから。オレは饅頭を届けに来ただけなんで。じゃ、ごちそーさまっした!」
 アイスティーを一気飲みして、竜羽は慌ただしく部室を出ていった。ばたばたと足音が遠ざかっていく。あとに残された三人は静かになった空間で互いに顔を見合わせた。
「それにしても、最近は暇だなあ」
 のんびりと間延びした口調で言うのは秀嶺だ。「この紅茶、なんか緑茶とおなじ味がするな。饅頭によく合う」
「暇なのは、そのぶん平和だってことだろ。いいじゃないか」
 鷹臣はそう言って、窓を開けた。遮断されていた外音が一気に流れ込んでくる。グラウンドの運動部の掛け声が風に乗って、北校舎まで聞こえてきた。あの掛け声の中に、ネイサンの声も混じっているのだろうかと、嘉長は思った。
「野球部はそろそろ大会が始まるんだろ」
「あ、ああ、そうらしいな」
 ネイサンのことを考えたのが見透かされたかのような話の振り方をされて、嘉長はすこしたじろいだ。
「あのメリケン野球少年も、甲子園、目指してんのかな」
「さあ、どうだろうな」
 窓枠に手をかけて、外を眺めている鷹臣に問われて、嘉長は言葉をはぐらかしたが、話している途中で思い出したことがあった。
「ボクたちだって、コウシエンを目指す資格はありますよね」と、ネイサンがふいに尋ねてきたのは、つい半月ほど前のことだっただろうか。嘉長の朧気な記憶の中に、ネイサンのすこし悲しげな声だけが、なぜか鮮明に思い出された。あのとき、自分は何と返しただろうか。考えても、海馬の奥底に沈んだ自分のことは、いつまで経っても思い出せなかった。



 唐突に話を振られて、そのときは意味が分からなかったけれど、あとになってよくよく考えると、あのときのあいつは、こういうことが言いたかったのかと気付くときがよくある。
 嘉長は、自分の地頭が良くないから、相手の言っていることが瞬時に理解出来ないのかと思っていたが、「基本的におまえは人の話を聞いていない」と鷹臣に言われたとき、妙に腑に落ちた。
「お前の父親って、愛人がいるんだって?」と、かつて同級生に聞かれたときも、ぼんやりとしていたから、相手の言っていることが直ちに理解出来なかった。

 嘉長の父、吉田嘉幸は、四十二歳になった今、全国に展開している老舗デパート、星菱百貨店の外商部の部長職に就き、未だ若き管理職として家族を養っている。富裕層を相手とする外回りの仕事も多く、故に自分の家庭を疎かにしている一面がある。
 かつては海外出張も多かったから、嘉長は幼い頃、父親というものは、家におらず、常に仕事をしている人種だと思っていた。ほとんど家におらず出ずっぱりの父の代わりを担わんばかりの勢いで、母の千鶴は嘉長を甲斐甲斐しく育ててきた。この時代になってもなお、男は仕事、女は家事や育児に専念するという昔ながらのしきたりが吉田家には蔓延っていた。
 嘉長の名前にある『嘉』という字は、吉田家の嫡男の通り字だ。つまりは嘉幸の正妻は千鶴であり、嘉長は吉田家の正当な後継ぎだということになる。だからといって、父親が通っていた高校に自分も入学したのは、そういうことを意識したわけではない。嘉長は、父親の後を追って、おなじ道に進むつもりもないし、むしろ親ながら、その存在は反面教師のようなものだと思っている。

 寝耳に水。ただの世間話をするようなノリで、父親の愛人の有無を問われた嘉長は、同級生の前で目を見開き、間抜けに口を開けたまま呆けてしまった。親が不貞をはたらくというのは物語としてはありがちな設定だが、それがまさか自分の人生の一ページに彩られようとしているとは予想だにしていなかったからだ。
「なんだよその顔。まさか知らなかったのか?」
 悪びれる様子もなく、その同級生は冷笑を浮かべていた。当たり前だ。彼はなにも悪いことなどしていない。強いて言うならば金持ちの息子だとお高くとまっているように見えてウザかった嘉長の鼻っ面を折ってやろうと、密かに画策していた。その程度だった。
「な、なに言ってんだよ、墨田……」
 柄にもなく狼狽えているのが自分でも分かった。口の中の水分が一気に干上がって、喉がカラカラになる。そんな感覚を、嘉長は抱いた。なにも悪いことなどしていないのは嘉長もおなじで、墨田が吹きかけてきた話が事実なのだとしたら、父親のとばっちりを受けていることになる。とんでもないことだ。それに気付いて、嘉長はだんだんと腹の底が煮え立ってきた。
「いやあ、オレも親から聞いただけなんだけどさ、結構うわさになってるみたいだぜ。吉田んとこの親父さんが、お袋さん以外の女を連れて、ラブホテルに入っていったのを見たってよ」
 まだ中学生だと言っても、ラブホテルという単語は知っているし、大人たちが何をしにそこに行くのかも知っている。家がありながら、そこでまぐわえないから場所を借りるのだ。——家族には見られたくない、見られてはいけないことをする。行き着くまでの過程のあいだにも人々の目があるというのに、そこの警戒心が甘くなるのはどうしてなのだろうか。
「ぼ、僕は知らない。そんなこと……」
 関係ないから……とは言えなかった。墨田の言ったことが本当なら、家庭を揺るがす事態だと思ったし、そうなれば、息子の自分に関係ないなんて言えるわけがない。
 嘉長はなんとかその場をやり過ごして家に帰ったが、父にも母にも、真実を確かめられるはずはなかった。

「仮にそうだとしてもさ、嘉長は悪くないじゃん。だから、そんなに気に病む必要はないんじゃないか?」
 あっけらかんと言うのは、柔道着を肩にかついで隣を歩く鷹臣だった。授業が終わって部活に行こうとする彼は、最近塞ぎ込んで考え事ばかりしている嘉長を案じて、「なんか、大丈夫か? あんま言いたくないけど、おまえ、いろいろ噂になってんぜ」と話しかけた。噂の内容については聞かなくても分かる。みんな他人の不幸やゴシップが好きなのだ。同級生の親の不貞の噂に、学生だというのに——いや、学生だからこそ飛びついたのだ。純粋と不純のあいだを生きる彼らの、情け容赦のない好奇心が牙を剥いて、嘉長にまで襲いかかってきたといえる。
「……君には関係ない」
 嘉長は、ふっと視線を逸らした。教室を出て、昇降口に向かって廊下を歩く。鷹臣が一歩遅れて後ろから着いてくる気配がしたが、それを無視した。
「なあ嘉長、おれたち友達だろ」
「なんだよそれ。そんなキモイこと言うキャラだったのか?」
「なんかこういうの言ってみたくてな。ちょうどいいシチュエーションだっただろ」
 鷹臣は、帯を持ってぶら下げていた道着をぶんぶんと振り回している。途中で帯がほどけて、纏めていた道着が空中で飛散した。
「うわっ!」
 ひときわ大きな声を上げて、散らばった道着を拾う鷹臣を無視して、嘉長は先へ進んだ。
「おい待てよー!」
 鷹臣の呼びかけには答えず、嘉長は足早に下校した。

 互いに素直になれない関係だと分かっている。もしかすると、さっきの鷹臣の発言は、冷やかしではなく本音だったのかもしれない。
 帰宅して自室に戻ったとき、嘉長はそう考えた。部屋を見渡す。これまで、なにも思わずに使っていた家具たちが、自分のものではないような、もっと言えば自分がこの家の者ではないような、そんな感覚を持った。
 綻びが見えはじめた。立ち上がり、部屋を出る。キッチンで夕食の支度をしていた千鶴の後ろに立つ。
「あら、どうしたの?」
 千鶴は嘉長の気配に気付いて、振り返った。「お腹空いた? もうちょっと待っててね。今日はビーフシチューよ」
 ダイニングのテーブルの中央には、籠に入ったバゲットが置かれている。家人以外はあまり立ち入ることのない場所なのに、花瓶に花が生けてある。千鶴が家を守っているのだ。母はどんな想いで、家に帰らぬ夫を待っているのだろうか。
「……なんでもない」
 嘉長は静かにそう言って、席についた。
 自分が何不自由なく生活出来ているのは、嘉幸の稼ぎのおかげであることは明白だ。だから黙っていろというのか。今の生活を手放したくないなら、子供は子供らしく、何も気付かないふりをして生きていけというのか。
 パンをシチューに浸せば、たちまちルウを吸収して味も食感も変わる。嘉長はそれを好んで食べるが、中には嫌な顔をする者もいる。それとおなじだ。千鶴と嘉長を愛していたはずの嘉幸は、その一方で愛人を囲っている。
 嘉長がテーブルマナーを無視して、好みの食べ方で食事をするのとおなじように、嘉幸はこの国の一般的なモラルを無視して、自分の好きなように欲を満たしている。嘉長は、自分のやっていることに対して、誰にも迷惑をかけていないからいいだろうと思う。ならば嘉幸は、妻子を疎かにしているわけではないから、少しくらいの女遊びならいいだろうと思っているのか。
 千鶴はなぜ、夫と息子の愚行に沈黙を貫いているのか。いや、嘉長が今よりもっと幼い頃は、「そんなはしたないことをするんじゃありません」と言ってきた気がする。
「いいじゃないか、それくらい。なにもここは公共の場ではないんだ」
 千鶴が嘉長を窘めると、そこに嘉幸が同席していれば寛容な父親であるかのように笑う。いいじゃないか、それくらい。——千鶴はやがて、嘉長になにも言わなくなった。
 嘉幸に対してもそうだったのだろうか。夫の愛人の存在に気付いた千鶴が、嘉幸に迫った夜があったかもしれない。しかし嘉幸の女癖の悪さが治ることはなかった。
 家庭の安寧を——ひいては嘉長を守るために、やがて千鶴は見ぬふりをするようになった。嘉長の行儀の悪さについて咎めるのを諦めたのとおなじように。
 すべては嘉長の想像でしかない。高校生となったいまも、あのときの真相を両親に尋ねることはしていない。それに触れれば、自分の生きる場所が崩れてしまう気がするから。
 わだかまりは心の底で、ずんと重くのしかかっている。ほんの少しの隙間を見つけて感情を侵食しようと蠢いているそれから顔を背けて、嘉長は今日も生きている。



「相変わらずおまえんちは、いつ来ても綺麗だよな。なんか、モデルルームみたいだ!」
「僕は鷹臣の家みたいなところでも、全然いいんだけどな」
「おまえ、それ、おれんちを下に見てるだろ」
「別にそういうつもりじゃないよ」
 鷹臣は、自室の二倍ほどの広さはある嘉長の部屋で、盛大に手足を伸ばして、仰向けに寝転んでいた。ベッド代わりになりそうなビーズクッションを下に敷いている。
 壁の一面を埋めるかのように設置された本棚から、漫画本を何冊も持ってきて読んでいる。
「あー、おれ、嘉長んちに住みたいよ。こんなに漫画あったら、退屈しないだろ?」
「漫画が目当てなのか?」
 嘉長の問いには答えず、鷹臣はニヤリと笑ってそれっきり本に没頭しはじめた。しばらくのあいだ、静寂の中に、紙をめくる音だけが響く。
 嘉長は英語の問題集とノートを机の上に広げた。鷹臣の本を読む音に、ペンをはしらせる音が重なる。会話がなくても、苦痛ではなかった。
「なあ、今日はおばさん、いねえんだろ」
 ふいに鷹臣の声がして見ると、彼は漫画を一冊読み終えたようだった。
「いないよ。夜勤だから」
「じゃあ、晩メシ作ってやるよ」
「冷蔵庫になにがあるか、わかんないぞ」
 嘉長は、いまよりもっと幼い頃からずっと、家事に関しては時折トイレや浴室の掃除をするくらいで、料理や洗濯に関しては母親に任せっきりだ。卵が割れるかどうかも怪しいし、砂糖と塩を並べられて、どっちが砂糖でしょうと聞かれれば正解できるかどうかも分からない。
 嘉長が高校に入学してから、千鶴は社会に出て働くようになった。家計が苦しくなったからではない。吉田家に嫁いでくる以前から、彼女は密かに人の役に立てる仕事に就きたいという願望を抱いており、嘉長の義務教育が終わったのを機に、介護職員として老人ホームに勤めるようになった。
 高校生ともなれば、もう自分のことは自分で出来る。そう思って、嘉長も千鶴が働くことを快諾した。そうして時折、鷹臣が吉田家を訪れて、嘉長のために料理の腕を振るうようになったのだ。
「まったくなにもないわけじゃないだろ。いいよ、あるもんで作るから。なんだったら、スーパーにでも行くか?」
「そこまでしなくていいって」
 鷹臣の自宅は、両親が町中華屋を営んでいる。営業時間は昼が十時から十五時、夜は十七時から二十二時。店を開ければずっと出ずっぱりだから、鷹臣は食事を自分で用意ことが多い。だから自然と料理が出来るようになった。和洋中、満遍なく作れるが、得意料理は青椒肉絲と炒飯と餃子。これは、町中華『宇集院飯店』のレシピを参考にしている。
「嘉長んちのキッチンは広くて使いやすいから羨ましいよ。おれんちは古いから『台所』って感じだけど嘉長んちは『キッチン』って言ったほうが似合うだろ」
 読み終わった漫画本を棚に戻して、鷹臣はうーんと背伸びをした。
「さ、作りにいくか」
 部屋を出た鷹臣のあとをついていく。彼の背中は、今もまだ広く、柔道をやっていた名残がある。中学がおなじだったから、互いにどんな学生生活を送ってきたのかはよく知っている。あいつは昔から変わらない——というのは月並みな言葉だが、根本的な部分は、ほんとうに何も変わっていない。驚いたのは、鷹臣が高校生になって、自分で部活を立ち上げたこと。そしてそこに、嘉長を巻き込んできたことだった。

「冷蔵庫を拝見しまっす!」
 キッチンに突入するなり、鷹臣は観音開きの冷蔵庫の扉を開いた。
「おっ、いろいろ入ってんじゃん。どれ使ってもいいんだろ」
 自分の不在時に、息子の友人がやって来て、何やら料理をしていることは、千鶴も承知している。そのせいか、鷹臣がこうして訪問してくる日に、冷蔵庫の中がすっからかんだという時は、今までに一度もなかった。
 鷹臣が料理をしているあいだ、嘉長はダイニングに座って、その様子を見ている。口は挟まない。下手なことを口走って、挙げ足をとるようにからかわれると癪だからだ。
「今日はなにが食いたい」と鷹臣が尋ねても、嘉長から返ってくる言葉は大体いつもおなじ。「なんでもいい」

「出来たぞ!」と言って、鷹臣がテーブルに持ってきたのは、中華丼だった。鶏ガラスープも付いている。
「これもおまえんちのメニューなのか?」
「おれんちのは正式にはウズラが入ってるけどな」
 味付けは、宇集院飯店のレシピ通りだと、鷹臣は得意げに言った。彼に渡されたレンゲを受け取って食べると、やはり美味かったが、急に照れくさくなって手放しで褒めるのは憚られた。
「どうだ? 美味いか?」
「まあ、食べられる味だ」
 そう言ってがつがつと丼の中を減らしていく嘉長を見て、鷹臣はフフッと笑った。
「おまえの天の邪鬼なところは慣れた。それは美味いってことだな」
 夕食を一緒に食べて、リビングで時間を潰したあと、鷹臣は自分の家に帰っていく。夜の八時とか、九時のあいだくらいだ。
 一応、嘉長も門扉のところまでは見送りに出る。家の中に戻って、静まりかえった空間の中に身を浸すと、さっきまでの時間は、嘘だったんじゃないかという感覚におそわれる。
 此処には自分以外には誰もいないけれど、自分の知っているすべての人は、おなじ世界の何処かで日常を送っているのだと思うと、不思議な気持ちになる。自分が見ている世界と、そうじゃない世界。それらが同時に、おなじ時間を辿っている。

 鷹臣の姿が見えなくなって、自分も家に入ろうとしたときだった。
「ヨシヒサ!」
 聞き覚えのある、それでいてなんだかとっつきにくい声がして、嘉長はびくんと肩を震わせた。振り返ると、家の前の道路に、ネイサンがいて、小走りでこちらに駆けよってくるところだった。
「ココは、ヨシヒサの家だったんですね!」
 門の表札には『吉田』と書いてあるが、わりとありふれた苗字であるから、簡単には嘉長に結びつかなかったのだろう。クラスメイトに会うなんてびっくりだと思っていそうな表情をしている。
「君はここでなにをやってるんだ」
 ネイサンの金髪は、暗がりの中でもよく目立つ。スポーツブランドのジャージを着た彼は、照れたように、その頭をぽりぽりと掻いた。
「ルーティーンのランニングです。ココの住宅街は道路が綺麗ですから、とても走りやすいんです」
「部活でも走っているだろうに、それ以外でもさらに走るのか?」
「ハイ! フィジカルを鍛えるために必要な努力です」
 スポーツをやっているやつらは、どうしてこんなにも自信が満ちあふれているように見えるのだろうか。体を鍛えると、アドレナリンだのセロトニンだの、そういう快楽物質が体内に溢れ出てきて、思考もポジティブになると聞いたことがある。
「じゃあヨシヒサ、また学校で会いましょう!」
 嘉長が返事をするいとまもなく、ネイサンは軽快な足音を住宅街に響かせながら、走り去っていった。



 アフタヌーンティー部の部員四人だけをみても、家庭環境はそれぞれ違う。部長の鷹臣は家族総出で町中華屋を営んでいるから、仲は良い。
 秀嶺は祖母と二人暮らしをしている。彼には両親と弟がいるが、高校入学直前に、貿易商社に勤めている父親のインドネシアへの赴任が決まったため、三人とも、いまは海外で暮らしている。
 竜羽はああ見えて、プライベートなことをあまり話してこないから、彼の家庭環境のことは知らない。毎日帰る家があるから、親がいるのは確かだろう。
 家庭が一番冷え切っているのは、四人の中では自分なんじゃないだろうかと嘉長は思っている。
 おなじ部活の仲間内だけでみても、こんなに違いがあるのだから、たとえば青海波学院高等学校の生徒の数だけ、多種多様な家庭環境が存在している。だとすると、中には嘉長よりも大変な家庭があるのかもしれない。

「ヨシヨシ先輩、ぼーっとして、どうしちゃったんスか」
 中庭が見えるだけの窓の外の景色を眺めていると、トレーニングベンチに仰向けになって、ダンベルを上下に揺らしている竜羽が、不思議そうな顔をして嘉長を見ていた。
「ああ、考え事をしていただけだ」
 嘉長はそう言って、再び窓の外に視線を戻した。鷹臣と秀嶺は、ホームルームが長引いているみたいで、部活に来るのが遅れている。机の下でこっそりと打ったのだろう、遅れる旨を記した鷹臣からのメッセージがアプリに送られてきたのは、少し前のことだった。
 部室の鍵を開けてしばらくすると、竜羽がやって来たので、それから二人で時間を潰している。
「そういえばさっき、メリケン野球少年の先輩が、ヨシヨシ先輩を探してたッスよ。部室にいるんじゃないかと伝えたんで、あとで来るかもしれません」
 用事だったら、教室にいるときに言えばいいのに……。
「あいつの名前は吉岡ネイサン。くれぐれも鷹臣がつけた変なあだ名を、本人の前で呼ぶんじゃないぞ」
「ウッス!」
 そんなこと分かってますよと、竜羽は思ったかもしれない。だが、彼はニッと笑って、明朗な声で返事をした。

 鷹臣とネイサンのどちらが先に部室にやって来るか。嘉長は心の中で相手のいない賭けをした。やがてコンコンと遠慮がちに扉をノックする音がして、ネイサンのほうが先にやってきたのだと分かった。
「ヨシヨシ先輩! 吉岡先輩が来られたッス」
 扉を開けて応対したのは竜羽だった。トレーニングをして、体温が上がったのか、額に汗を光らせながらネイサンを招き入れる。
「ヨシヒサ、急にごめんなさい」
 練習着に身を包んだネイサンは、頭にかぶっていた野球帽をとって、ぺこりと会釈をした。同級生で、何ならクラスメイトだから、そんなにかしこまらなくていいのにと思いながら、嘉長はネイサンを椅子に座らせた。
「どうしたんだ、こんなところにまでやって来て」
 ネイサンはしばらくもじもじとしていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「今日はヨシヒサにお願いがあって来ました。ヨシヒサが所属している、アフタヌーンティー部は、いろんなナゾを解決してくれると、評判ですから」
 嘉長はため息をついた。鷹臣が立ち上げたこの部活は、自分たち部員の意向とは少し違う評判が立っていると、嘉長も承知していた。
 鷹臣は時折舞い込んでくる、その評判を飾り立てる『依頼』に関しては、寛容な態度を貫いているから嘉長も嫌々ながら関わらざるを得ない。
「それで? ネイサンのお願いってのはなんだ」
「……はい。野球部にまつわるウワサです」
 ネイサンはそう言って、膝の上に置いた手を、ぎゅっと握った。
「ヨシヒサも知ってのとおり、ボクたち野球部は、夏のコウシエンのために、いま全力で練習をしています。青海波学院高等学校が、最後にコウシエンにいってから、今年でちょうど二十五年が経とうとしています。シハンセイキの節目に、今年こそはゼッタイにキップをつかむぞと、ボクたちは一丸となって頑張っているつもりです」
 嘉長とネイサンが向かい合って話をしている傍らで、竜羽は部室の備品のティーポットから、カップに湯を注いでいる。ちょろちょろと水面を叩く飛沫の音に反応して、ネイサンはちらりと竜羽のほうに視線をやった。
「水を差す……ということわざがあります」
「えっ!? お茶、いらなかったッスか?」
 竜羽がなにを勘違いしたのか、目を見張って口を挟んできた。
「いえ。そういうつもりで言ったわけでは、ありません。ティーブレイクですよね。アナタはボクのことをカンガミて、お茶を淹れてくれたんでしょう」
 先輩に敬語を使われて、竜羽もどうしていいか分からないようだった。いつもよりだいぶ大人しい態度で、「アールグレイのストレートッス。良かったら」と、二人の前にカップを置いた。
 ネイサンは竜羽に丁寧にお辞儀をしたあと、カップには手を触れずに、話を続けた。
「毎年のことだそうです。この時期になると、野球部の部員の誰かが、怪我をするのは。……ボクが入部した去年もそうでした。そのときのキャッチャーだったオールドボーイが、グラウンドに向かう途中、階段で足を捻ってしまい、結局試合には出られなかったということがありました」
「たまたまじゃないのか」
「……ヨシヒサ、ボクの話を最後まで聞けば、そんな言葉は、アナタの口から出てこなくなると思います!」
 嘉長とネイサン、二人の言葉の熱量には、温度差があるようだ。少し声の大きくなったネイサンは、ハッとしたように口をつぐみ、取り繕うように紅茶のカップに手を伸ばした。
「……スミマセン。すこし熱くなってしまいました。ですが、過去のことを調べれば、たまたまだなんて言葉を、簡単には言えなくなるでしょう。いま、二年一組で行われているホームルームの内容は、二十五回目に、この時期に起こった野球部員の怪我についてですから」

 アフタヌーンティー部の中でも、鷹臣と竜羽にはその気があるが、体育会系の人間という者は、後先を考えずに、その場のノリで行動することが多い。
 二年一組のホームルームを長引かせている元凶となったのは、野球部員が悪ふざけをして、自分で怪我をしたという出来事だった。
「リキヤは、エースとして、今度の試合に登板する予定でした」
 二年一組の生徒、西田力也は、二年生ながらその才能を認められ、野球部のエースピッチャーとして活躍している男子生徒だ。鷹臣と秀嶺が時折、世間話の一環で彼の名前を出すことがあり、嘉長も彼の存在は知っていた。
「リキヤがふざけて机の上に登って、踊りを踊っていたときにバランスを崩し、机から落ちて怪我をしたという情報がきたのは、つい先程のことです」
 スマホの通話アプリの、野球部のグループチャットに、二年一組の力也以外の野球部員から、情報が回ってきたという。鷹臣のように、机の下でこっそりとスマホをいじっていたのだろう。
「着地した際に、足を捻ってしまったそうです。来週の土曜日から始まる試合には、間に合わないだろうという見立てです」
「……それって……」
 スポーツには疎い嘉長でも分かる。
「はい。ボクたちは、エースを欠いたまま、試合に臨まなければならない、ということです」
「なんだか、そのリキヤってやつの、自業自得だとしか思えないんだけどなあ……」
 嘉長はそう言って、カップを持ち、アールグレイを口に含んだ。柑橘の香りが口いっぱいに広がる。戸棚にあるビスケットを浸したいなと思ったが、ネイサンの手前、我慢した。
「ネイサン、夏の大会前に、野球部員が怪我をしたことは分かった。でも、君は僕たちになにをさせようとしているんだ」
「犯人を見つけてほしいんです」
 ネイサンは、食い入るように返事をした。
「犯人って……。おかしくないか? リキヤくんは、自分で机から落ちたんだろう。君はそれを誰かの仕業だと考えているのか?」
「毎年おなじ時期に、野球部の生徒が怪我をするのはおかしいと思いませんか?」
 ネイサンは質問を質問で返してきた。「それも二十五年連続です。ヨシヒサがリキヤのことをジゴウジトクだと思いたい気持ちは分かりますが、ボクにとってはそれは不自然でしかありません」
「ヨシヨシ先輩!」
 嘉長とネイサンの会話が少し途切れたそのとき、トレーニングベンチに座って二人の会話を聞いていた竜羽が割り込んできた。
「うちの野球部って、昔は強かったんスよね。野球部は全寮制だったけど、今その建物は廃墟になっている。甲子園出場が途切れた二十五年前からずっと、毎年誰かが怪我をしているんなら、その当時になにがあったのか調べてみたらいいんじゃないスか」
 あっけらかんと言った竜羽と、ネイサンの顔を見比べる。ネイサンはそのとき、竜羽に、まるで感謝を述べるかのような眼差しを向けていた。





「メリケン野球少年くんも、随分と奇妙な依頼をしてきたなあ。嘉長、それで彼の依頼は引き受けたのか?」
 ホームルームがようやく終わったといって、鷹臣が部室にやってきた。秀嶺は家の用事だとかで、今日は部活に参加せずに帰宅している。
「竜羽が無駄な口を挟んできたから、流れで受けざるを得なかっただけだ」
「ええっ!? オレのせいッスか?」
「大丈夫だ竜羽。いつもの嘉長の天の邪鬼病だ」
「なら安心ッス。オレも協力しますから、一緒にやったりましょうよ!」
「おれも手伝うぞ」
「オミ先輩がいれば、百人力ッス!」
 そうは言ったものの、何も手がかりはない。二十五年前、青海波学院高等学校の硬式野球部になにがあったのか、まずはそれを調べる必要があるというのが、三人の出した結論だった。

「たまに私のところに来たかと思えば、予想外の質問をしてくるね」
 演劇部の活動場所は、『六角堂』と呼ばれている専用のホールがあてがわれている。六角堂はその名の通り六角形の平屋建ての建物で、体育館のステージのような舞台と、パイプ椅子などを並べれば客席としても使えるスペースがある。演劇部の演目の発表や、自校主催の吹奏楽部の演奏会など、文化活動の発表会の場として使われている場所だ。
 三人は、永尾に『二十五年前、当時の野球部に何があったのか』という話を聞き出すために六角堂までやって来た。北校舎の裏口を出ると、敷地の北側一帯に広がっている自転車置き場があるが、そこから敷地外に出て道路を横断した先に、六角堂とプールやテニスコートが隣接し合っている。プールでは水泳部と水球部が、テニスコートではテニス部が、それぞれ技を磨き合っていた。
「二十五年前のことは、私も流石に分からない。当時の私は、今の君たちよりも幼い時分だったし、そもそもこの国にはいなかったからね」
 永尾は、だだっ広いスペースで一人椅子に腰掛けて、演劇部の練習を見守っていたようだ。嘉長と鷹臣はそんな永尾のそばで姿勢を正して立っていたが、竜羽は演劇部の練習をチラチラと見ていた。
「四半世紀の年月ともなれば、その間にこの学校も様変わりしているだろう。当時の事情を知る先生がたも少ない。……あるいは知っていても立場上話せないこともあるかもしれない。君たちが探している事実に辿り着くためには、私たち教師を頼るより、たとえば当時の高校生……つまりは青海波学院高校の卒業生に接触してみるほうがいいかもしれないね」
 相変わらず、生徒のことを大切に思っているのか分からないようなクールな物言いだったが、きちんと助言はしてくれた。
 三人は永尾に礼を言って六角堂を後にした。
「卒業生……っていってもなあ。……あっ、そうだ。たしか図書室に歴代の卒業アルバムが置かれているだろう。それを見にいこうぜ!」
 校舎に戻る途中、鷹臣が閃いた。他に手立てはないから、とりあえず彼の言うとおりにすることになった。出来ることや思い付いたことはとりあえずやってみる。それが『依頼』をこなすためのモットーだ。

 図書室に入った三人は、一目散に目当ての卒業アルバムが収められている棚に向かった。持ち出し厳禁のシールが背表紙に貼ってあって、厳重に管理されているのか、それらはカウンターから丸見えの棚に並べられている。司書や図書委員の生徒の視線を浴びながら、鷹臣が広げた該当のアルバムを、他の二人も覗き込んだ。
「……鷹臣、竜羽」
 室内は読書や勉強をしている生徒がちらほらいるから、彼らの集中を妨げるわけにはいかない。だからほとんど内緒話に近い声量で、嘉長は二人の名を呼んだ。
「気が付いたことがある。僕の父が、当時高校三年だったはずだ」
「マジッスか」
 竜羽が目を丸くして囁いた。早生まれの嘉幸は当時、十七歳で高校三年生。このアルバムの何処かに、若かりし頃の父がいるはずだと思うと、嘉長の心臓がどくんと跳ねた。
 嘉長は鷹臣からアルバムを受け取って、ペラペラとページをめくった。父の過去の話など、今までまともに聞いたことがなかった。年齢も辛うじて覚えているくらいだ。今まで疎ましさすらも感じていた、青海波学院の卒業生だという父親の学歴が、嘉長のなかで初めて役に立つかもしれないと考えた。
「あ……、これ」
 三年F組。昔はクラスをアルファベットで分類していたみたいだ。そのページに、『吉田嘉幸』と名前が添えられている少年の写真が載っていた。
「嘉長の父ちゃん、学生時代は丸刈りだったんだな。それに昔は学ランだったのか。おれ、そっちのほうが良かったな」
 他の男子生徒の頭髪にバリエーションがあるから、男子は全員丸刈りだという校則があったわけではなさそうだ。
「本当だ。……じゃあ、もしかして……」
 さらにページをめくる。探しているのは部活動のページだ。ものの数秒でそこに辿り着く。三年生だけで、一クラス出来そうな人数の野球部員の集合写真の中で、先程見たばかりの自分の父親が笑顔を作っているのを目の当たりにした嘉長は、思わず大きくため息をついてしまった。
「ヨシヨシ先輩、メガネ、外してみてください」
 竜羽に言われるがまま裸眼になると、「やっぱ親子だけあって、そっくりッス!」と喜ばれてしまったから、すぐに眼鏡をかけ直した。
「じゃあ、当時のことを知る一番の近道は、僕の父に話を聞くってことか……」
 すこし出来すぎていやしないかと、嘉長は思った。ネイサンが嘉長に依頼をしてきたことも、永尾の助言で、すぐにこの事実を発見したことも、まるで見えないなにかに上手く導かれているような、気味の悪い感覚がぞわりと背筋を撫でていったのだった。
「そうみたいだな。嘉長、頼めるか?」
 自分の親に昔の話を聞くだけなのだから、そんなにかしこまらなくともいいだろうと普通は思うだろうし、実際に不思議そうな顔をしている。
 鷹臣はうっすらと、嘉長の家の事情に気付いているのかもしれない。中学時代、学校で流れていた噂は本当で、それが今も親子関係に尾鰭を引いているのだと。
「分かった。なるべく早くやってみるよ」
 問題は、嘉幸と会えるのがいつになるかということだったが、嘉長のその不安は、帰宅してすぐに解消された。
 ガレージに、嘉幸の愛車であるSUVが停まっているのを見て、父が在宅しているのが分かった。
「ただいま」
 両親がどちらも在宅していることは月に数回、あるかないか。このタイミングでそれを引き当てられた自分の運の良さに、思わず笑ってしまいそうになる。
「おかえり」
 千鶴はキッチンに立っていた。夕食の支度をしてくれているのだろう。そういえば肉が焼ける音と匂いが、廊下にまで漂ってきている。
「お父さん、帰ってるんだね」
「書斎にいるみたいよ」
 ほんの一瞬、言葉に棘を感じた。嘉幸のことを突き放すような物言いに、気づかないふりをする。
 嘉長はリビングを出て、階段を上がった。ダークブラウンの木目調の階段は、途中で踊り場があって、そこから折り返すかたちで二階に繋がっている。踊り場には納戸があって、嘉長が幼い頃に使っていた玩具や古い衣類などが仕舞われている。
 嘉長の一人部屋は、階段を上がってすぐの左手の扉の向こうにあるが、その隣が書斎になっている。嘉長は、まず自室に荷物を置いたあと、もう一度廊下に出た。
 書斎に近づくと、何やらぼそぼそと話し声がする。嘉幸の声しか聞こえないから、誰かと通話をしているのだろうと思った。
「それで、ねえさんは元気か?」
 扉をノックするタイミングを図っていたとき、沓摺りの隙間を音が這うかのように、嘉幸の声がはっきりと漏れ出てきた。「そうか。元気ならいいんだ。また顔を見にいくよ」
 嘉幸には姉がいる。嘉長にとっては叔母にあたるその女性は、体が丈夫ではなく、最近はよく病院にかかったりしていると聞いたことがある。小学生の頃に何度か会ったきりで普段の付き合いは軽薄だが、父は大方その人のことを話題にしているのだろうと把握した。
 嘉幸はその後、相手の話に相槌を打つようにうんうんと声を発し、やがて「じゃあ、また連絡するから。今は自宅にいるから、長話は出来ないんだよ」と言って通話を終えたようだった。
 嘉長はそのタイミングを逃すまいと、すぐに握りこぶしを扉に当てた。
「お父さん、ただいま。僕だけど」
「嘉長か? ちょっと待ってろ。いま開けるから」
 先程の通話のときよりも鮮明な声で、返事が返ってきた。十秒ほど待っていると、扉が解錠される音がして、中から嘉幸が姿を現した。
「会いたかったぞ、嘉長!」
 もう高校生にもなる息子の姿を見るなり、嘉幸は嬉しそうに破顔した。先程アルバムの中に収められていた部活写真の笑顔と脳内で重ね合わせてみて、やはり面影があることに気づく。あの写真の野球少年をそのまま老けさせたような、そんな感じだった。
 普段から活発に動き回っているからか、中年を過ぎてもなお嘉幸の体型は、崩れていない。実年齢より十も若く見られることがあると本人が以前に言っていたが、ジレのスーツがよく似合う、働き盛りの男として魅力的に見られているのだろう。学生時代にスポーツに打ち込んでいた、体育会系の片鱗はいまも隠れてはいないようだった。
「話があるんだ。入っていいかな」
 父の迎合には取り合わず、嘉長は静かにそう言った。嘉幸の女癖の悪さを知らない大人たちからは、「いつも明るくて爽やかで、頼りがいのありそうなお父さんだね」という評価を与えられることが多い。彼の本性が露見したとき、そう言った人々が掌を返すさまが容易に想像出来る。
 書斎には嘉幸の不在時に出入りしたことがある。三方の壁にぎっしりと中身の詰まった本棚があり、窓際には机と上等な革張りの黒い回転椅子が置かれている。机の上にはノートパソコンが置かれていて、いまは画面に英文のメールの文章が映し出されている。『Saturday』という単語だけが、嘉長の目に飛び込んできたのは、その意味を知っているからだろうか。
「おっと、それは仕事の機密情報が書かれているんだ。いくら嘉長でも見せられないな」
 嘉長が画面を見ていることに気付いた嘉幸は、ハハハと苦笑してパソコンを閉じた。
「それで、話ってなんだ?」
 嘉長はうんと頷いて、椅子に座った。くるりと座面を回して、父親の顔を見上げる。
「お父さんは高校生のとき、野球部だったんだね」
 なにかスポーツをやっていた気配はずっとあったが、嘉幸がそれを話題にしてきた記憶がない。それはスポーツにあまり興味のない嘉長を慮ってのことだと思っていたが、いまはなにか別の理由があるようにも感じられてきた。
「そうだな。学校で聞いたのか?」
「聞いたわけじゃない。たまたま知ったんだ。僕がいま調べていることと、関係があって」
 嘉長は、部活で調べ物をしていると誤魔化した。各部活の歴史を調べていると。その一環で過去の卒業アルバムを見ていたら、たまたま嘉幸の写真を見つけたのだと伝えると、父の表情が少しだけ陰ったように見えた。
「お父さんの頃の野球部は強かったんだよね。寮もあって……いまも建物だけは残っているけど……、そこで部員たちは生活していたって。でもなんで寮は廃止されて、野球部も弱くなっちゃったんだろう」
 しばらく間が空いた。そのあいだに嘉幸は折りたたみの丸椅子を広げて、そこに腰を下ろした。
「……嘉長、いまはなにも伝わっていないのか? その、昔の野球部については」
 なんだか歯切れの悪い物言いだと思った。低い声で、口の中で言葉をもごもごと転がしているかのような感じだ。
「野球部のあいだではそういう話があるのかもしれないけど、少なくとも僕は知らないよ」
「……そうか。確かに時間が経っているもんな。二十五年だ。思えば、子供が産まれて、社会人に育つくらいの時間が経っているといえる」
「なにかあったんだね」
 ずり落ちそうになった眼鏡を押し上げ、嘉長は尋ねた。ああと頷いた嘉幸は視線を宙に彷徨わせたあと、静かに口を開いた。

二十五年前、青海波学院高等学校の硬式野球部は、五年連続の夏の甲子園出場を目指していた。それが実現すれば開校以来初の快挙で、選手たちを筆頭に、父兄や野球部ではない生徒たちも一丸となって、ひとつでも多く白星を増やそうと盛り上がっていた。
 事件が起きたのは、予選の決勝戦を勝ち抜いて、選手たちが悲願を達成した夜のことだった。
 野球部の部員のひとりが、寮の屋上から飛び降り自殺を図ったのだ。
 その部員の名は、酒名健太といった。彼は寮の自室の机の上に、遺書を残していた。
『僕は、いじめを受けていました』という一文ではじまったその遺書には、酒名が野球部に在籍していたあいだに部内で受けていたいじめについて綴られていた。
 酒名は高校二年生だった。強豪と言われていた当時の野球部の中で、彼は入部当初、一年生ながらレギュラーとして活躍していたが、次第に能力は伸び悩んでいった。酒名は、部内で『メイシュ』と呼ばれていた。苗字を音読みにして、逆さから読んだのが語源だというのは表向きの理由で、実際はそこに揶揄の意味が含まれていた。——エラーの名手。
酒名は次第に、練習試合などでエラーを連発するようになった。伸び悩んだ彼の成績はそこから上がることなく、学年が変わる頃にはレギュラーはおろか、ベンチメンバーからも外された。夏の大会が終わった秋口から始まっていた彼へのいじめは、その時期を境に激化していった。かつては仲間として苦楽を共にし、青春を駆け抜けようと誓ったはずの先輩や同級生から、執拗な嫌がらせを受けた酒名は、次第に心を閉ざし、それでも大好きな野球を続けるために、暴力や暴言に耐え忍んだという。
『いじめを受けるほうにも、原因があるという人が世の中には存在します。だとすればきっと、僕のプレーで皆さんに迷惑をかけ続けた。なのに、僕は部に居座り続けた、というのが原因なのでしょう』
 酒名は、自分がメイシュと呼ばれていたほんとうの理由を知っていた。自分の境遇は、自分の日々の行いが招いた結果だと思っていた。だからいじめられても仕方ない。自分がみんなに迷惑をかけないように上手くなれば、きっと今よりも環境は良くなると信じていた。だが、状況は悪くなる一方だった。練習に参加すれば周りの目が気になって、体がうまく動かなかった。心身が萎縮して、墓穴を掘るばかりだった。
『僕が生きていても、皆さんに迷惑をかけるだけです。ほんとうに申し訳ございませんでした』
 酒名の遺書はそう締めくくられていた。
 
「それ、結局どうなったの?」
「大問題になったよ。ニュースでも全国的に報道されて、俺たちはその年の甲子園の出場を辞退した」
 嘉幸は虚ろな目つきで、嘉長の、その向こうを見ていた。
「お父さん、まさかそのいじめ……に加担してたわけじゃないよね」
「俺は酒名に直接手を下していたわけじゃないが、それでもターゲットが自分に向かないように見て見ぬ振りをしていたという点では、俺もあいつらと同罪なんだろうな」
 その後、寮制度は廃止され、いじめの首謀者たちは退学処分となった。野球部は休部扱いとなり、大幅な活動自粛が実施された。部員たちが酒名に対して行ったことは、彼の死の原因となったのは確かなのだろうが、自殺として処理されたその一件で、誰かが罪に問われることはなかったそうだ。
 一人の生徒が犠牲になったその事件も、時間が経てば風化して人々の記憶から消えていく。学校を運営していくうえで大きな障害になると判断して、口を閉ざした大人たちが沢山いて、彼らの行動がそれに拍車をかけたのかもしれない。
 二十五年前になにがあったのかは分かった。だが、それが二十五回も連続で続く怪我人の続出と何の関係があるのだろうか。
 嘉長はその後、そんなことをずっと考えていたが、ひとりでは到底、結論など導き出せなかった。



「なんだか、大変なことがあったんだなあ」
 秀嶺ののんびりとした声が耳に届いて、嘉長はハッと我に返った。「ホイ、お前の好きなダージリン。あとビスケットも持ってきてやったぞ。おばあさ……ばあちゃんがまた沢山買ってきちゃってさ、お裾分け」
「……ありがとう」
 ソーサーが机の上に置かれたとき、カチャリと音がした。「なあこれ、秀嶺が戸棚の奥に隠してる、高級なカップセットじゃないのか」
「なんか今日は気分を変えたくってさ。俺のいないあいだにメリケン野球少年が、とんでもない依頼をしてきたんだろ」
「そう。それで父親にも、過去に野球部でなにがあったのかを聞いてきた。僕からすれば、父親が野球部だったって事実にビックリだよ」
「ん? 嘉長は親とそういう話をしたりしなかったのか?」
「それは人それぞれだって。秀嶺の家の基準が普通だって思うなよ」
 それまでじっと二人の会話を聞いていた鷹臣が、ふいに口を挟んだ。嘉長の家庭環境の輪郭だけでもぼんやりと知っているから、それ以上気まずくならないように気を回したのだ。
「……で、嘉長。メリケン野球少年くんの依頼はどう解決するつもりなんだ。手立てはあるのか?」
「こんなこと言うと、バカみたいだって思われるかもしれないけどさ」
「改めてそんなこと、思わねえよ」
「なんだよそれ。そんなんじゃ、普段から僕のことをバカにしてるように聞こえるんだけど」
 鷹臣は意味ありげに笑った。
「チッ。まあいいや。……僕が思っているのは、また竜羽の世話にならないと解決しない問題かもしれないってことだ」
「良かったよ。嘉長があいつのことを素直に受け入れてくれて」
 今日はボクシング部の練習に参加していて不在の竜羽は、先輩三人にはない特殊な体質を持っている。それは、この世ならざる者——つまり幽霊が視えるという能力だ。彼のその力は、以前アフタヌーンティー部に舞い込んできた『依頼』を解決するのに、大いに役立った。
「たしかに二十五年連続、この時期に野球部員の誰かが怪我をするなんて、祟りだとしか思えないもんな」
 鷹臣はそう言ってうんうんと頷き、冷蔵庫から紙パックの牛乳を取り出した。お気に入りの茶葉で、ミルクティーを淹れるらしい。
 嘉長も鷹臣も秀嶺も、竜羽が自分から「実はオレ、幽霊が見えるんス」と言ってきたときには、冷笑してやろうかと思った。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、竜羽の発言を流してしまったくらいだ。だがそのあとに、それまで行き詰まっていた依頼が竜羽のおかげで解決したときには、彼の言葉を信じるしかなかった。そのときの評判が青海波学院の生徒たちのあいだで話題になって、霊障絡みの案件が増えたような気がする。
秀嶺が「じゃあ竜羽は霊能力者なのか?」と尋ねたとき、「オレはたしかに幽霊が視えるッスけど、闘ったり、お祓いをしたりは出来ませんからね」と念を押すように言っていた。だからもし今回の件で、酒名が悪霊となって取り憑いているとしたら、一体どうしたらいいのだろう。
「怪我をしたリキヤくんは、大丈夫なのか?」
 嘉長が尋ねると、鷹臣と秀嶺はふたりして頷いた。
「足を捻っただけでそれ以外はピンピンしている。野球のプレーには支障がありまくりみたいだけどな」
「保健室には佐倉くんが付き添ってたな」
 秀嶺の言った佐倉とは、フルネームを佐倉光太という。二年一組に在籍している男子生徒で、野球部の部員だ。半月前に行われた生徒会の役員選挙で、生徒会長に選ばれたばかりだから、嘉長も彼の名前くらいは記憶にあった。
「佐倉くんは眉目秀麗、文武両道を体現したような爽やかでいいやつだよ。おれたちと違ってひねくれてないし」
 先の選挙では、女子生徒の票は概ね佐倉に流れていったという噂がある。それが事実かどうかは分からないが、選挙では他を引き離してダントツの得票数だったという。嘉長は廊下で彼の姿を見る程度の関わりしかないが、たしかにいつも誰かに囲まれている人気者、という感じの男子生徒だという見立てだ。
「まあ、そんなあいつが中心となって、西田くんを慰めたりしたんだろう。だからそんなに落ち込んでいないのかもな」
「いや、素振りを見せないだけで、相当落ち込んでるんじゃないのか。だってエースだったんだろ」
 自分だったら……と、嘉長は思う。たぶん、しばらく立ち直れないだろう。
「そんな西田くんのためにも、おれたちでちゃんと解決してやらないとな」
 普段、なんだか他人を見下しているような気配すら感じる鷹臣は、時々こうして、優しい一面を見せるときがある。だからその根底は、鷹臣も『いいやつ』なんだろうなとは思う。そしてその恩恵を、嘉長も昔から受けている。

 三人でダージリンを堪能したあと、部室を出た。野球部が練習しているグラウンドに向かう。空調の効いている室内と違って、初夏の外気は、一瞬全身に浴びただけで目が眩みそうになるほどに暑かった。
 同じような頭髪の部員が多い中、やはりネイサンの金髪は目立つ。地毛だと主張しても、黒に染めてこいと押し通す時代錯誤な教師はいないから、彼も助かっているだろう。
「シートノックってやつか? あれ」
「そうなんじゃないかな」
 バッターボックスにいる部員が、各ポジションを叫びながら球を打っている。ダイヤモンドの形に散らばった部員たちが、打球に食らいつくように体を動かしていた。
 ネイサンがいるのはそこではなく、グラウンドの隅っこの方だった。ワインドアップの姿勢をとったあと、キャッチャーが構えたミットに球を投げ込んでいる。
「あれ? メリケン野球少年はピッチャーだったんだな」
「僕も知らなかった」
 素人が集まればこの程度である。嘉長たち三人がぞろぞろとやって来たのに、ネイサンが気付いたらしい。「ヨシヒサ!」とよく通る声で名を叫ばれて、嘉長は少したじろいだ。
「スミマセン先輩、少しだけ抜けてもいいですか」
 ネイサンのことわりの声がこちらまで聞こえた。キャッチャーの先輩は、この大事な時期に、部外者が無遠慮に来るなよと思っているのかもしれない。チラリとこちらを一瞥したあと、彼は「五分だぞ」とネイサンに言っていた。
「ネイサン、突然ごめんな」
 だから一応、謝っておいた。
「ダイジョウブです。なにか分かったのですか」
「それより、君はピッチャーだったんだな」
「リキヤの代わりの代わりです。ボクがエースではありません。ジュニアハイスクールの頃に投げていたことがあると言ったら、じゃあ投げてみろとセンパイから言われたんです」
 西田が抜けて、二番が一番に、三番が二番になったということか。
「急ピッチでこしらえたピッチャーなんて、通用するんでしょうか……」
 ネイサンの不安げな声に、三人は誰も気にかけた言葉をかけてやれなかった。

 嘉長は手短に、二十五年前になにがあったのかをネイサンに話して聞かせた。
「その話はボクも知っています。入部したときに、センパイから語られました。野球部以外の皆さんには馴染みが薄くなってしまった事件かもしれませんが、野球部の中では伝統的に語り継がれていることだと聞きました」
「その事件で自殺した部員が、今回のネイサンの依頼に大きく関わっているかもしれないと僕が言ったら、君は笑うか?」
 嘉長の問いに、ネイサンはキッと表情を引き締めた。
「ノー。ボクは決して人をバカにしたりなどいたしません」
「それなら安心だ。でも、それを明らかにするには、もうひとり、アフタヌーンティ―部の部員の力を借りなきゃいけないんだ」
「ボクがヨシヒサの部活へお邪魔したときにいらした、ボクサーボーイですね」
 嘉長は頷いた。「あいつは今日、ボクシング部に行っている。あしたはこっちに来るだろうから、答えを出すのはそれからでいいか」
「あしたはボクたち、オフなんです。丁度良かった。ボクにも付き合わせてください」
 週末の試合に備えて、練習は休みだという。これはおそらく前から決まっていたことで、西田のことがあって慌ててオフ日にしたわけではなさそうだ。



「その酒名先輩が悪霊だったらどうするんスか! 前にも言いましたけど、オレ、ユーレイとは闘えませんよ!」
「じゃあなんのためにボクシングやってんだよ」
「うぅ、オミ先輩ひどいッス」
 竜羽は、酒名が幽霊となって存在しているという前提のもとに騒いでいる。単純そうにみえて、時に鋭い彼のことだから、アテがあるのだろうか。
「寮の廃墟。あそこ立ち入り禁止になってるッスよね。実はオレ、あそこから並々ならぬ霊気を感じるんス。怖いから近づきたくなかったッスけど、メリケン先輩たちが困ってるなら、オレも男だ。一肌脱ぐッス」
 竜羽はそう言って、ワイシャツのボタンを外した。
「まさか服を脱ぐんじゃないだろうな」
「ヨシヨシ先輩、いくらオレでも、そこまでアホじゃないッスよ。でも、もしなんかあったときのために、闘う準備はしておくッス」
 軽装のほうが、体が動かしやすいのだという。竜羽はTシャツと短パン姿になって、拳をポキポキと鳴らした。
 幽霊とは闘えないと言ったのに、闘う準備をするという。矛盾しているが、竜羽には勇気を振り絞るために、自分を奮い立たせているのだろう。

「立ち入り禁止の場所に入るんスから、先生たちに見つからないようにしないといけないッスね。とくにエビシ先生に見つかったらどうなるか、考えたくもないッス」
 それは先輩三人も同感だった。校庭でネイサンと合流するつもりだったが、そこにいたのは野球部全員だった。
「こんなにぞろぞろ来ちゃったら、誰かに見られてしまうんじゃないのか」
 秀嶺が心配そうに言ったが、チームのモチベーションを大きく左右する事象なのかもしれないと思うと、邪険には扱えなかった。
 結局アフタヌーンティー部と野球部の全員で、立ち入り禁止の区域に立ち入った。
かつて寮だった建物は、工事現場にあるようなフェンスに囲まれている。かつての栄光はどこへやら、すっかり朽ち果てたその場所は、時代の流れに着いていけずに置いてけぼりをくらった、くたばり損ないのようだった。
「いるッス」
 竜羽は鷹臣のそばで、短くそう言った。彼の視線は上空——寮の正面玄関らしき扉の上の窓の辺りに向けられている。
「あの窓の向こうで、こっちを見てます。……オレたちが来るのを待っていたのかもしれません」
 竜羽の小さな喉仏がごくりと動いた。
「竜羽に視えているその幽霊が、酒名さんなのか」
「オレはその方の顔は知らないから分かんないッスけど、多分そうだろうと思いますよ。ちょうどオレたちと同じくらいの歳で、学ランを着て、髪は坊主ッス」
 そのとき、野球部の群衆の中から、「うぅっ」というくぐもった呻き声が聞こえた。聞き覚えのある声だと思って嘉長がそちらを見ると、ネイサンが頭を抱えてうずくまっていた。
「吉岡!」「おい、どうしたネイサン!」
 野球部員たちのあいだに、困惑のさざ波が起こる。
「あああっ!!! うぅぅっ……!!」
 ネイサンは突如全身に襲いかかってきた激痛と戦っていた。神経のひとつひとつを引きちぎられているような感覚。全身に脂汗が噴き出してくる。目が血走って、なんとか苦痛から逃れようと悶えている。
「あんにゃろう!」
 竜羽が衝動的に駆け出して、寮の方に向かって突進していく。
「おい、竜羽!!」
 一瞬遅れて、鷹臣があとを追った。そして嘉長と秀嶺が、その後ろに続く。
 寮の出入口の扉に、本来はめられているはずのガラスは、移りゆく時間の中で、人為的に破壊されたのか、それとも自然と割れたのか、ともかく人間が容易に中に入れる程度に粉砕されて、地面に散らばっていた。
 竜羽は危険を顧みずにその空いた枠をくぐって、建物の中に入っていった。
 建物の中に入るのは、無論全員が初めてだった。床のタイルは劣化し、ひび割れている。埃や入り込んだ落ち葉などが、室内の隅の方に蓄積されている。出入口のすぐ正面に上へ続く階段があり、酒名の霊はそこを昇った場所にいるのだと、一同は推察した。
 竜羽は一目散に階段を駆け上がった。建物全体の老朽化は否めないものの、床を踏み外して転落するとか、そういう危険はなさそうだ。嘉長たちも引き続きあとを追う。
「なにやってんだ、オマエ!」
 階段を昇りきったところは、やはり先程の窓がある場所だった。そこから左右に廊下が続いていて、アパートの共用通路のように、一定の間隔で扉が並んでいる。
 竜羽はなにもない虚空に向かって声を荒げたが、彼にはそこにいる酒名が視えているのだろう。
「オマエの自殺に、吉岡先輩は関係ないだろ! 関係ない人を巻き込むんじゃねえ!」
 ネイサンの苗字をちゃんと認識していたんだなと、漂っている緊迫感とは場違いの気付きが、嘉長の脳内を走った。
 ちょうど隣に立った鷹臣と目が合う。反対側には秀嶺も追いついてきて、先輩三人で後輩の後ろ姿を見守るようなかたちとなった。
「そういえば前に聞いたことがある。この寮は、明らかに廃墟で、学校の他の建物と比べると不釣り合いなのに、なんでいつまでも残しているんだろうっていう話になってさ。俺はリノベーションとかして、また使うときが来るんじゃないかと思ってたんだけど、どうやら違うみたいなんだ」
 秀嶺が正面を向いたまま言う。
「何度か取り壊そうとしたらしいんだけど、そのたびに作業員が怪我をしたり、機械が壊れたりして、うまく進まなかったって。学校は予算とかあるだろうし、そういうことが続くようなら、立ち入り禁止にして放置しておいたほうがいいってなったみたいだよ」
 この世界には時折、科学では証明できない事象が起こる。此処では霊的ななにかがあるのではないかと、お祓いを依頼したこともあるそうだ。
「先輩」
 竜羽はこちらに背中を向けたまま、語りかけてきた。
「オレ、幽霊は視えますけど、視えるだけなんです。目の前には酒名さんがいます。だけど、オレの力では、酒名さんの声を聴くことはできません。だから、オレの想像でしかないけれど、酒名さんは怒ってるんじゃなくて、悲しんでいるんじゃないかって思うッス」
——僕のことを忘れないでいてほしい。
酒名はそう思っているんじゃないかと、竜羽は言った。
「酒名さんがここでいじめに遭って自殺してしまったという事件は、確かに昔起こったことッス。でもオレたちはそのことを知らなかったッスよね。野球部の方々は知ってたみたいッスけど、全校生徒の規模からすれば、それはほんの一部の人たちしか知らないことになる」
 野球部の皆さんをここに呼んできてくれませんかと、落ち着いた口調で竜羽が続けたので、鷹臣が階下に降りていき、やがてどたどたと騒がしい足音を引き連れて戻ってきた。
 野球部員たちが廊下に並ぶ。みんな、唇をきゅっと結んで、不安げな表情を隠せずにいた。
「酒名さんはここにいるッス」
 竜羽は一同に背を向けたままだ。部員たちの中には、霊的な現象を信じていない者もいるだろう。荒唐無稽なことを言う一年坊主だと思っているかもしれない。だが竜羽は、事実しか言っていない。
「いまから酒名さんに、オレの体の中へ入ってきてもらいます。憑依ってやつッス」
「そんなことして平気なのかよ」
 鷹臣が思わず口を挟んだ。
「大丈夫ッスよ。でも酒名さんが実はとんでもない悪霊で、みなさんに危害を加えようとしたら、オミ先輩がオレごとぶっ飛ばしてください」
 これほど根拠のない「大丈夫」を、一同は初めて経験する。嘉長はごくりと唾を飲み込んだ。その間に竜羽が「ぐっ……」と呻き、ふらりとよろめいたあと、転ぶことはなく、くるりと体の向きをこちらに向けた。

『皆さんこんにちは。僕が酒名健太です』
 声も話すときの表情も、竜羽のものだったが、口調は普段の彼と明らかに違っていた。これが竜羽のひとり芝居なのだとしたら、相当な実力の俳優になれるんじゃないだろうかと思った。
『二十五年前、僕が自ら命を絶った件は、もう皆さんも知っていることだと思います。そして僕の件を含めて二十五年連続、夏の予選がはじまるこの時期に、野球部の部員が怪我をする原因が僕であると、皆さんは薄々勘づいていることでしょう』
「……っ、ふざけんなよ。お前のせいで、うちのエースは試合に出られなくなってんだぞ!」
 その声を皮切りに、そうだそうだと、酒名を非難する声が噴出した。竜羽の中にいる酒名の存在を、各々が受け入れたのだ。信じがたくとも、受け入れざるを得ない状況だった。
『これまで巻き込んでしまった歴代の部員の皆さんには悪いと思っています。でも、僕は誰かを殺したわけじゃない。本来なら届かない僕の声を伝えるために、仕方がなかったんです』
「なんだよそれ。自分の行為を正当化してるだけなんじゃねえのか?」
 さっきと同じ誰かの声だ。そのすぐあとに「岡部キャプテン、やめてください」と囁く佐倉の声が聞こえた。
『でも、僕の事件を知っている皆さんは、心の何処かで、これは昔自殺した部員の祟りかもしれないと思ったこともあるんじゃないでしょうか』
 酒名はむしろ、そうなるのを望んでいたという。
『自ら命を絶った僕が言うのは烏滸がましいですが、自殺なんて絶対にしてはいけません。いじめられて追い詰められて、僕にはその方法しか逃げ道は思い付かなかった。死ななくてもよかったんじゃないか。たとえば野球部を辞めるとか、転校するとか、もっと他の人に助けを求めるとか、本当はいくらでも方法があったと思います。でもあのときは、死ぬのが一番楽になれる近道だと思っていました。生きてさえいれば何とかなるなんていう励ましも、心には響きませんでした。……飛び降りて魂が肉体から離れて、ぐちゃぐちゃになった僕の体を見下ろしたとき初めて、僕は後悔したんです。でももう、何もかもが遅かった』
 自身への悔恨と、自分をここまで追い詰めた仲間たちへの遺恨と、そういうものを抱えて、酒名はこの場所に縛り付けられたという。
『死んだら天国に行くとか、地獄に行くとか、そういうのは許されませんでした。いまもそんなところがあるのか、僕には分かりません。ただ僕は、最期に心に刻み込んだ感情に縛られて、今も青海波学院に囚われています』
 酒名の言葉を聞く一同は、じっと黙って竜羽を見ていた。
『いじめられる原因を作ったのは、僕だったのかもしれません。自分の人生の結末を決めたのも、僕自身です。だから……だからこそ僕は、僕と同じ目に遭う誰かを作りたくなかった。少なくとも青海波学院からは、同じ悲劇を生んではいけないんです!』
 部活のいじめが原因で自殺した生徒がいる。それは当時の当事者たちが学校からいなくなっても、四半世紀の時代が巡っても、そしてこれからそれ以上の時が経っても、確かにここで起こった事実だ。その悲劇を消し去ることなど出来るはずがない。
——忘れられたくなかった。と、酒名は言った。
『僕がどんなふうにいじめられたのかとか、どんな死に方をしたのかとか、そういうことを覚えておいてほしいんじゃないんです。人はいとも簡単に、誰かを死に追いやることも出来るということ。それが僕たちみたいな子供同士であったとしても、充分に起こり得るのだということを、覚えておいてほしいんです。……過去にはこの建物を壊そうとされたこともありました。建物が無くなれば、ここで起きたことも、今よりもっと忘れ去られてしまうかもしれない。……そう考えた僕は、何度も工事を邪魔してしまいました。……きっと僕が抱えているのは怨念で、その想いが強いほど、生きている人達に危害を与えやすいみたいです』
 普通の人間にも見えるようなかたちで、ここで起きた悲劇を風化させたくない。だから寮を取り壊すわけにはいかない。手当たり次第に誰かを恨むのではなく、その一心で、酒名はこの場所に留まり続けているのだ。
『僕の存在が怨霊だとか、野球部員が怪我をするのは祟りだとか、そんなふうに思われてしまうのは当然です。……それでもいいと思いました。僕がいま体を借りているこの少年のような、特異な体質を持った人間でない限り、僕の存在は感じ取れませんから』
 人間は、定期的に戒めないと、あらゆる物事を忘れてしまういきものだ。自分には関係ないと思っていれば他人事のように思うだろう。だが酒名が危害を加えれば、当事者となり得る。巻き込まれたほうはたまったものじゃないだろうが、酒名が物理的に生きた人間たちと関わりを持つためには、必要なことだったのではないだろうか。

 突如、フッと竜羽がよろめいて、今度は自分で支えられそうになかったから、鷹臣は慌てて彼の肩を掴んだ。
「あっ……、オミ先輩……終わったッスか」
 まるで寝起きのときのように目をしょぼしょぼさせながら、竜羽は小さな声でそう言った。酒名の魂が抜けて、もとの竜羽に戻ったのだ。
「……言いたいことは分かったけどさ、そのたびに俺らの誰かが怪我をするのは勘弁してほしいよな」
 先程、酒名に対して不満を爆発させていた主将の岡部が、語気の勢いをなくした言葉をもらした。
「……おれたちの誰も、酒名さんのことを忘れていないってことがあの人に伝われば、野球部に危害が加わることはなくなるかもしれないぞ。……そのためにはおれたちみんなが、酒名さんのような人を二度と生み出さないようにする。過去の悲劇をなかったことにせず、ちゃんと語り継いでいく。……ちょっとずつでも、そうしていかないか。おれたちも協力するからさ」
「鷹臣、またそうやってカッコつけて、無責任なこと言うなよ」
 嘉長は思わず口を挟んだ。僕たちには関係ないことだろう。正直、そう思ってしまう自分がいる。だから目を逸らした。本当は鷹臣が口から出任せで、その場しのぎのことを言っているのではないと分かっている。鷹臣と知り合ってから、そしてなんだかんだとつるむようになってから、彼が自分とは違う、人に手を差し伸べられる人間なのだと知った。それを痛感させられるとき、心の中の邪な気持ちがぎゅっと締めつけられるみたいに痛くなる。夏のまぶしすぎる日差しから目を背けたくなるのと同じで、まっすぐに誰かと向き合う鷹臣を見たくなかった。
「ああん? なんでだよ! 別にカッコつけてなんかないだろ! おまえこそ訳の分からない難癖をつけて、おれに絡んでくんなよ!」
 端からみれば、きっと自分は面倒くさい奴なのだろうなと思う。こんな自分にずっと付き合ってくれているアフタヌーンティー部の三人は、きっと相性の歯車が互いにちゃんと噛み合った、貴重な奴らなんだろう。——酒名さんも、そういう人達に恵まれていたら、今もまだ生きていたのだろうか。
 どんなに失敗しても、気にすんなよと笑って受け止めてくれる人。たとえば嘉長にとって、鷹臣のような存在が彼に一人でもいたら、もっとかけがえのない青春を謳歌出来ていたのかもしれない。
 酒名が歩いた道は、もしかするとこの先、この中の誰かが辿る道かもしれない。誰もがいまの良好な関係のまま、ずっと過ごせる保証はない。
 嘉長は鷹臣から目を逸らして、野球部員たちに近づいていった。
「ネイサン」
 列の後ろのほうに控えめに立っていた、今回の件の依頼者を呼ぶ。いつの間にか、彼のことをするりと下の名前で呼んでいることに気付いた。「さっき、痛がってたけど、大丈夫か」
 何を言われるんだろうと思っていたのだろうか、目を丸くして表情を硬くしていたネイサンは、フッと笑みをこぼした。
「ダイジョウブです。きっとサカナさんはボクを通して、みなさんをここに呼び寄せようとしたんだと思います。そう思うことにしますヨシヒサ、色々とありがとうございました」
「……どういたしまして。思ってたより深刻な感じじゃなくて、良かったよ」
 嘉長はそう言って、照れたように笑みをこぼした。



 青海波学院高等学校硬式野球部は、エース不在のまま予選に挑むことが正式に決定した。
「ヨシヨシ先輩が、試合を観たいだなんて、意外すぎるッス! このミラクルが、野球部にも通じるといいッスね!」
 嘉長たちアフタヌーンティー部の四人は、試合会場となった、市民公園の中にある球場に足を運んでいた。
「今回の事の顛末として、野球部がどうなったのか知っておきたかっただけだ。試合の内容に興味があるわけじゃない」
「そんなこと言って、試合観る気満々の格好じゃないッスか」
 後輩がそう言ってからかってくるのも無理はなかった。嘉長は、暑さ対策のグッズを色々揃えて、リュックに入れて持ってきているのだ。
「嘉長は昔から、なんでも形から入るタイプだからさ」
「君たちがなにも準備してこないかもしれないから、気を回してやっただけじゃないか。竜羽はそんな海に着たみたいな格好で、日焼けするぞ。ほら、熱中症にならないように、塩分取れよ」
「ついでに焼こうと思ってるんスよ」
 ヘラヘラと笑う竜羽の手に、塩分を補給するためのタブレットを押しつけた。

——あれ?
 球場の中の違和感に気付いたのは、試合が後半に差し掛かった頃だった。鷹臣と竜羽は、野球のルールを知っているらしく、二人して試合の行方に感情を揺さぶられていた。秀嶺は公園の売店で買ってきたらしいフライドポテトを食べながら、無言で球場を眺めている。
 試合展開についていけない嘉長は、客席を観察したり、空を眺めて飛行機雲の行方を追ったり、時折客席から湧き起こる歓声に驚いたりと、落ち着きがなかった。だからだろうか。見てはいけないものが、視界に入ったのは。
 最初は見間違いかと思った。でもそんなもの、見間違えるはずがないとも思った。眼鏡を外して、目を擦る。そうすれば、今見たものは消えるんじゃないかと思ったが、幽霊じゃあるまいし、そんなことが起こるわけがない。
「さっきからキョロキョロして、なにやってんの」
 隣に座っていた秀嶺が不思議そうな顔をして尋ねてきた。嘉長は咄嗟に立ち上がって、「僕も売店でなにか買ってくるよ」と言った。
「あっ、じゃあおれたちの分もなにか買ってきてくれよ。竜羽、オミ先輩が奢ってやろう。なにが食いたい?」
「うわっ! マジッスか! アザーッス! じゃあ、あんパンと牛乳がいいッス!」
「だってよ。嘉長、おれはオレンジジュースとホットドッグな」
 鷹臣にお金を握らされて、ほんとうに売店に行く羽目になった。観客席のあいだをぬって歩く途中も、外野席から目が離せないでいた。そこに行かなくとも、もう誤魔化しようのないくらい、誰がいるのか分かっているのに、嘉長の足取りは、気持ちに急かされるように速くなった。

「お父さん、こんなところで何やってるの」
 嘉長は一度球場の外に出て、外野席へと足を踏み入れた。無料で観戦出来るこちらの方は、内野より席が埋まっていた。——そのうちのひとつに、嘉幸が座っていたのだ。
「……よ、嘉長? お、お前こそこんなところで、何やってるんだ」
 明らかに嘉幸は狼狽えていた。座ったまま、背後に立って自分を見下ろしている嘉長の顔を見たあと、すぐにサッと視線を逸らす。嘉幸の隣には女の人が座っている。歳は彼と同じくらいだろうか。髪は金髪で、青い瞳。外国人の女性だった。今は二人のあいだに距離があるが、嘉長が内野から見ていたときは、互いに体を密着させていた。そう、まるで仲睦まじいカップルのように。
「誤魔化さないでよ。お父さん、今日は仕事だって、朝出ていくとき言ってたよね。それともこれ、仕事なの?」
 近くに座っている観客が、修羅場の予感を感じて、興味深げにこちらをチラチラ見ている。嘉長と目が合うと、気まずそうにサッと視線を逸らされた。
 そのとき、再び嫌な予感がした。
「オー、ヨシユキ、この子が、アナタのもうひとりのムスコですか?」
 喋り方が、あいつにそっくりだった。思わず顔を上げて、試合の行方を……いや、『あいつ』の姿を探す。試合の展開はさっぱりだったが、いまは青海波学院が守備についているくらいは分かる。——マウンドには、あいつが立っていたからだ。

「本当は休みのはずなのに。早起きして急いで出かけていくんだもの。お父さんをそんなに夢中にさせるものを、私も見てみたいわ」
 嘉幸を見送ったあと、誰にともなく千鶴がぼやいていた。その声の矛先は、明らかに嘉長に向けられていたが、どう答えればいいか分からなくて、そのときはなにも言えなかった。だが今は、流石の嘉長でも母がこぼした言葉の意味が分かる。
 素知らぬふりをしていたが、千鶴は知っていたのだ。自分の夫が、今日は仕事に行くのではなく、愛人に会いに行くのだと。
 知らなかったのは、僕だけだったのだろうか。
 いつだったかあいつが、家の近くにいたことがあった。ランニングの通り道だと言っていたが、「ココはヨシヒサの家なんですね」と驚いていた気配があった。あのとき、あいつがすべてを知っていたとしたら……。あいつは自分の父親の家を見に来ていたのかもしれない。
——それで、ねえさんは元気か?
 嘉長の記憶に戻ってきた、嘉幸の声。父の過去を垣間見たあの日に聞いた声は、彼の姉を案ずる意味ではなかったのだ。そしてあのとき、咄嗟に嘉幸が隠した英文のメール。『Saturday』と書かれていた文章の送信元は、おそらくこの金髪の女性なのだろう。きっと、今日、この球場で落ち合う約束をするためのメールだったのだ。

 風が吹く。雲間から日差しが出てきて、嘉長は思わず手のひらを目の上にかざした。
 そのとき、キン!と、バットが鳴った。嘉長は相手の打者が打った打球の行方を目で追う。放物線の軌道は高く、空の雲と同化して見えづらくなる。外野を守る選手が高くグラブをかざしている。
 嘉長は視界を遮らないようにと、手のひらをどけて、ごくりと唾を飲み込んだ。日差しは相変わらず眩しい。打球が落ちてくる。
 野球の試合は生まれて初めて観たが、急に心の底から熱いものがこみ上げてきて、ネイサン、負けるんじゃないぞと、マウンドに向かって大声で叫びたくなった。