1
初めて立ち寄ったカフェで、店員にわざわざ茶葉の種類を尋ねるみっともない真似はやめてくれと、他の三人は常々思っていた。あいつの隣に立っていることすら恥ずかしいから、空いているテーブルを取っておくというのを口実にして、先に席に着いておく。
「アイスティー四つ、Lサイズで。あ、ちなみに茶葉は何ですか?」
店内はやけに静かだったから、宇集院鷹臣の気取った声が三人のいる席にまで聞こえてきた。臙脂色のブレザーを羽織った左肩が、少し下がっているのが、背後からだとよく分かる。要するに姿勢が悪いのだ。
「本日の茶葉は、ニルギリを使用しております」
「あっ、じゃあ、ひとつはミルクティーにしてください! 他は……」
鷹臣は言葉を切って、背後を振り返った。店内をぐるりと一周、見渡して、連れ添いの三人の姿を探す。窓際のテーブル席を陣取っている三人はサッと目を逸らしたが、無駄だった。
「おーい! お前らはどうすんだよ!」と、明らかに彼らのほうを見て、周りを憚らない声で叫んできたからだ。
三人はため息をついて、やがてそのうちのひとり、坊主頭の少年が、「俺たちはストレートでいいよ」と、ささやき声で答えた。
トレーにLサイズのグラスを四つ乗せて、鷹臣はそろそろと通路を歩いて、三人のもとに辿り着いた。
「皆様お待たせ致しました。ニル……ニルギッ……ニルギリのアイスティーでございます」
「言えてねえじゃねえか」
うるせえ、と呟き、鷹臣はテーブルの上にトレーを置いて、自分も椅子に腰を下ろした。
「いただきまーす!」
鷹臣とは別の種類の陽気な声を張り上げたのは、龍田竜羽だった。トレーの上のアイスティーをひとつ、がしっと掴むように取り上げ、カラカラと氷の音を立てる。甘いものが好きな彼は、鷹臣が適当に取ってきたシロップの蓋をパキッと開けて、紅茶の中に入れた。
「そんなに砂糖入れたら、おまえ早々に糖尿病になるぞ」
「オレ、風邪も滅多に引かないっすよ!」
他の三人とは違い、一人だけ下級生の竜羽は、敬語を崩した口調で話す。一応、形だけでも、ひとつ年上の三人に敬意を持っていますよという主張だ。
「……引いたことはあるんだな」
「インフルエンザにも、コロナにも、おたふく風邪にもなったことあるっす」
ズボボボと音を立てて、竜羽は紅茶を吸い上げる。一気にグラスの三分の一が減った。
「そういう問題じゃない。僕はおまえの健康を心配して、助言してあげているんじゃないか」
竜羽の目の前の少年が、そう言って眼鏡をくいっと押し上げた。楕円の黒縁は細い。前に本人が、ようやく自分好みのオーバル型のものが見つかったと言っていた。つるの付け根に、工具のスパナを象った装飾がしつらえてあって、それが彼——吉田嘉長の醸し出す雰囲気によく似合っている。制服のネクタイを外し、ワイシャツのボタンは全開で、真っ赤なTシャツを見せつけている竜羽とは真逆で、嘉長はきっちりと首元までネクタイを締めている。トレードマークの眼鏡をよく何処かに置き忘れるから、最近では紐をつけて首から提げている。それを「ジジイみたいだな!」とからかったことがあるのは坊主頭の少年、蓬生秀嶺だ。嘉長に「お前も煎餅だの抹茶だの饅頭だの、年寄りが好きそうなもんばっかり食ってるじゃねえか」と言い返されて、殴り合いの喧嘩に発展しそうになった過去がある。
「ほら、ひとり三百五十円。忘れないうちに送金しろよ」
鷹臣がスマホを取り出して催促すると、他の三人も渋々ポケットから端末を出して、画面を操作する。やがて鷹臣の決済アプリに、三人分の三百五十円が入金され、残高が少し潤った。自分は収支のプラスマイナスはゼロなのに、妙に得をした気分になる。鷹臣は別添えで提供されたミルクを紅茶の中に入れて、そっと口に含んだあと、眉間に皺を寄せて、テーブルの上にグラスを戻した。
2
「なあ、よく考えたら、ここ四人しか座れねえじゃん。依頼者が来たらどうするんだよ」
秀嶺がいまようやく気付いたと言わんばかりに口を尖らせたが、店内の他の席は全部埋まっていた。
「仕方ない。お誕生日席に座ってもらうしかないだろう」
「でもそんなことしたら、通路を塞いじゃって、他の人に迷惑だろ」
「じゃあどうしろって言うんだよ」
「俺に聞くなよ。大体この席は秀嶺が取ったんだろ」
結論の出なさそうな口論に発展しかけたところで、店の自動ドアが開き、一人の男子高校生が入ってきた。四人と同じ学校の制服を着た彼は、店内を見渡して、鷹臣たち四人の姿を見留めたあと、こちらに近づいてきた。結局結論の出ないまま、鷹臣たちは男子生徒を迎え入れる。
「やあやあ、君が依頼者の」
「齋藤琢郎です」
男子生徒は、鷹臣の言葉を遮って名乗った。すみません、椅子を借りてもいいですかと、隣のテーブルの客に声をかけ、椅子を一脚持ってきて、竜羽の隣に腰を下ろした。
「そう来たか!」
少しだけ身を縮こませて、竜羽が言った。目を丸くした齋藤に、「いや、こっちの話ッス」と付け加える。
「なんか頼んでこいよ」
「いや、大丈夫です」
顔の前で手を振る齋藤は、長居をするつもりはないらしい。ごそごそと通学鞄の中からスマートフォンを取り出して、テーブルの上に置いた。
「皆さんはどんな問題でもばっちりと解決してくれる、探偵みたいな人たちだと聞いています。それで、今回俺が皆さんに依頼したいのは、部活で飼ってる犬の捜索なんですけど……」
四人は顔を見合わせた。
鷹臣、嘉長、秀嶺、竜羽が所属している、通称『アフタヌーンティー部』は正式名称を『茶葉研究部』という。なかなか類例のない風変わりなその部活は、鷹臣が立ち上げた。
【世界に数多ある茶葉を調査することで、その国の歴史、文化などを理解し、グローバルな観点から学びを得たい】と、設立理由を記入したら、申請が通ったのだ。実態はどうあれ、活動日誌をそれっぽく書いていれば、咎められることはないはずだ。
「俺ら、便利屋じゃないんだけど」
それでもいっぱしの矜恃はある。秀嶺はグラスの中の氷を口に入れてかみ砕きながら、ぶっきらぼうにそう言った。
「齋藤先輩、サッカー部ッスよね」
身を乗り出して聞いてきたのは、竜羽だ。「柴犬のケルベロスくん!」
おいおいそんなに興味津々みたいに目をキラキラさせていたら、俺の面目が丸つぶれだろうが、という意思をこめて、秀嶺は竜羽を睨みつけたが、伝わらなかったようだ。やはり思いは言葉にしないと、ちゃんと伝わらない……というあらわれか。だからと言って、なんでもかんでも口から出せばいいというものではない。
「柴犬のケルベロス?」
鷹臣が割って入ってきた。「頭が三つもあるのか?」
「んなわけねえだろ!」
ケルベロスと名付けられた柴犬は、竜羽の言うとおり、サッカー部の部員たちを中心にして飼われている犬だ。どこかの無責任な飼い主が、夜のうちに青海波学院高校の裏門に捨てたとみられている。朝練で学校の外周を走っていたサッカー部が、その現場に出くわし、犬を見つけた流れで、そのまま飼うことになったらしい。
らしいというのは、鷹臣たちがその犬に関して関わったことはなく、すべて齋藤から聞き出した情報だからだ。
「ケルベロスがいなくなったのは、三日前なんです」
一年生の竜羽はともかく、他の三人とは同学年だろうに、齋藤は丁寧な語尾を崩さずにそう言った。あまり親しくはないにしろ、同級生から他人行儀な態度を取られると、どうもむず痒くなる。
「最初はどこかで散歩してるのかなとか、すぐ帰ってくるよって軽い感じで話してたんですけど、そもそもケルベロスは、誰かが外に出さないと、どこかに行ったりなんかしないんです」
「じゃあ誰かが意図的にケルベロスを連れ出したってことか?」
やっぱりなんか買ってきますと言って、齋藤はカフェのカウンターに向かった。話がテーブルの上で宙ぶらりんになる。齋藤が戻ってくるまでのあいだ、アフタヌーンティー部の四人は、額をつき合わせたまま、無言の時間を過ごした。
「ミルクレープは好きですか?」
そう言って齋藤は、自分の分のカフェオレと共に、切り分けられたミルクレープを五切れ持ってきた。好きかと尋ねてきて、それしか持ってこないあたり、「嫌いだ」と言われるなどとはつゆほども思っていないのだろう。
「オレ、甘いもんならなんでも好きッス! 驕りッスか?」
「依頼料とでも思ってくれればいいです」
礼儀正しいサッカー部員は、有無も言わさぬ勢いで四人にミルクレープを配った。
「話の続きです。食いながら聞いてもらえれば……」
聞き役に徹しているのだから仕方ないが、四人は齋藤のペースにのせられていた。我先にとデザートフォークを手にして、ケーキにかぶりつく竜羽を心の中で嘲笑しながら、鷹臣はミルクティーを一口飲んだ。
ケルベロスの捜索は、もちろん部員総出でおこなった。練習に差し障りない程度で、自分たちなりに真剣に探したそうだ。だが、見つからなかった。手がかりも痕跡も、ひとつも残さずに、ケルベロスは忽然と姿を消してしまったのだという。
「その犬を捨てた元の飼い主が、やっぱり改心して連れ帰ったんじゃないのか?」
「俺たちもその線は考えました。でも、その可能性は低いかと」
普段、ケルベロスは部室の中にいるんですと、齋藤は言った。
「犬なんか部室に入れて、ただでさえ汗臭い場所がもっと臭くなんねえのか?」
「おい秀嶺、別にいいだろそんなことは。俺らには関係ないんだから」
「世間話の一環じゃねえか。お前はそういう人とのコミュニケーションを蔑ろにする傾向にある。だから嫌みったらしいだの、思いやりがないだの、鼻につくだのと言われてるんじゃねえのか?」
「だっ、誰だよそんなこと言ってんの! 別にどうでもいいけど」
「みんなだよ、み・ん・な」
秀嶺はにやりと笑った。大体こういうとき、発言者以外の者は大したことは言っていないものだ。それでも不特定多数の存在をちらつかされれば、言われたほうは心がざわつく。どうでもいいと言ったはずの鷹臣は、幾分落ち込んだ様子で、そっと黙り込んだ。
「俺たちの部室は、そんなに汚くないですよ」
口調は変わらなかったが、齋藤は見てもいないやつに自分たちの部室を貶されたのが癪に障ったようだ。「毎日、ちゃんと自分たちで掃除してるし、たぶん、運動部の中では一番綺麗だ!」
それまで保っていた敬語が崩れるほどに興奮した様子で、齋藤が言った。
「ボクシング部の部室は、たしかに散らかってるッスね」
竜羽は、アフタヌーンティ―部の他に、ボクシング部を兼部している。その日の気分によって、どちらの部活に顔を出すかを決めているらしい。そんな彼はすっかり自分の分のミルクレープを食べてしまったようで、まだ物欲しそうに、手がつけられていない嘉長の分を見ていた。それに気付いた嘉長は「ほら、食えよ」と皿を滑らせる。竜羽は嬉しそうに「あざっす!」と言って、すぐにフォークを突き刺して頬張った。
「話が脱線する前に、本題に戻るぞ。ケルベロスは普段、部室の中で飼われている。だけど今回、三日前に突然姿を消した。ケルベロスが外に出るには、人為的に手を加えないといけない」
嘉長は自分の顔の前に指を出しながら、話すたびに、親指から順に折っていく。
「えらそうに講釈を垂れるのかと思いきや、誰でも言えるようなことを言ってんのウケる」
「うっせえよ! お前らに任せておいたら、いつまで経っても話が進まねえだろ。齋藤くんにも迷惑だ」
嘉長と鷹臣が互いの顔に唾を吐きかけるような勢いで言い合っているのを見て、齋藤は少したじろいでいた。「い、いつもこんな感じなんですか?」と秀嶺に問うと、「そう。俺らはもう慣れたけどな」と、それだけ言った。
話が一段落して、鷹臣たちはカフェを後にした。先頭を歩く秀嶺、竜羽、齋藤の後ろで、鷹臣と嘉長は、鷹臣が「やっと『ひとだんらく』したなー」と口走ってしまったことがきっかけで、再び言い争いをはじめていた。
「お前、いつもいつも重箱の隅をつつくような指摘ばっかして、おれじゃなかったら嫌われるぞ!」
「日本語を正しく使わないと、恥をかくだろうと思って、わざわざ教えてやってんだろ」
齋藤はちょうど四人のあいだを歩くような場所にいたので、前方にいる秀嶺たちと、背後で口舌を繰り広げている鷹臣たちを交互に見比べて、ほんとうに困っていた。色黒の、すこしチャラそうな雰囲気に反して、彼は以外と律儀な性格なのかもしれない。
齋藤とアフタヌーンティー部の四人で、もう一度学校の周辺をしらみつぶしに捜索するという提案も挙げられたが、「それは非効率だ」と嘉長が一蹴した。ケルベロスの消息の手がかりがないのだ。徒労に終わる可能性が高い。
「ジョギングついでだと思って探せばいいじゃないっすか」
元々体を動かすことが好きな竜羽は口を尖らせたが、四人の上級生に一斉に見られてぐっと黙り込んだ。
「じゃあお前だけで行ってきな」
「勘弁してくださいっ、オレ、帰ってこれなくなります!」
竜羽がふざけて言っているのか、本心でそう思っているのかは分からなかった。
五人は学校に戻った。運動部の面々は、まだ部活動の真っ最中で、いろんな方向から掛け声が聞こえてくる。
「あーあ、あんな汗かいて、自分から苦しいことやって、なにが楽しいのかね」
「なに言ってんすか、オミ先輩。スポーツは良いっすよ。先輩もボクシングやりましょうよ」
「百歩譲ってなんかやるとしても、ボクシングはないわ」
「そうっすね、誘っておいてなんですけど、どっちかっつうと先輩は、地下格闘場なんかでオレたちボクサーを金にものを言わせて従えて、ふんぞり返ってそうっすもん」
宇集院っていう苗字が、いかにも金持ちそうだしと、竜羽は言った。だが実際の鷹臣は町中華屋の一人息子だ。青海波学院の近くに自宅兼店舗を構えていて、運動部のやつらが部活帰りにたらふく飯を食っていく場所として、学生のあいだでは有名だ。
鷹臣は部活のない週末に店の手伝いをしている。店番の最中に、齋藤が来店したこともあるから、今回の件は全くの初対面というわけではなかった。
鷹臣たちが向かったのは、サッカー部の部室……ではなく、アフタヌーンティー部の部室だった。スリッパの形状をした上履きをパタパタと鳴らしながら、校舎の中を歩く。青海波学院は漢字の『三』のような形で校舎が三棟建っていて、それぞれ北校舎、中校舎、南校舎と呼ばれている。屋外で活動をする部活の部室が、グラウンドの片隅に、アパートのように建っている部室棟に纏められているのに対して、文化部の活動場所は校舎の中に点在している。アフタヌーンティー部は北校舎の一階の空き教室を与えられていて、ひとつだけぽつんと離れた場所に在った。
「皆さんの部室なんか行って、なにをするんですか?」
さすがに齊藤も怪訝そうな表情をしていた。
「フフン、それは部室についてからのお楽しみだ」
そんなに大したことをするわけではないのに、鷹臣は最後まで勿体ぶっていた。部室に入って、椅子に座ったかと思うと、机の上に置いてあったノートパソコンを開いた。
「これでチラシを作るんだ」
鷹臣はそう言って、キーボードをパチパチと叩いた。「齋藤くん、ケルベロスの写真はある?」
「あります」
齋藤がポケットから取り出したスマホの画面を、みんなが覗き込む。待ち受けにカメラ目線で舌を出している柴犬が現れる。背景は見覚えのあるグラウンド。ともすればこれがケルベロスと名付けられた犬だろう。
「センパイ、待ち受けにするほどケルベロスくんが好きだったんスね……」
「俺は犬が好きなんだ。だからケルベロスを飼うことになったとき、実はめっちゃ嬉しかったし、部の中で一番、あいつの世話をしてた自負がある」
竜羽はそのとき、なぜかにっこりと笑って齋藤の肩をぽんと叩いた。おそらく齋藤は、ケルベロスがいなくなったことに対して、サッカー部の中で最も心を痛め、躍起となって探しているのだろう。その熱意は、他の部員との温度差が生じている。だから一人で、鷹臣たちに相談をしに来たのだと思われる。
パソコンの画像処理ソフトをいじって、齋藤から受信したケルベロスの写真をはめ込む。ポップな字体で、「犬を探しています」とでかでかと書かれたその下に、ケルベロスの特徴を書き込んでいく。
名前:ケルベロス
性別:オス
犬種:柴犬
備考:多分まだ子犬です。学校の裏門に捨てられていたのを、サッカー部の部室で飼っていましたが、いなくなりました。もし見かけた方は、ご連絡ください。
青海波学院高等学校サッカー部一同
「こんな感じでいいだろうか」
顔を上げて、鷹臣が尋ねると、齋藤はこくりと頷いた。
「よっしゃ。じゃあ、これを印刷して、いろんなところに貼らせてもらおう。学校の掲示板とか、交番の掲示板とか、自治会の掲示板とか、頼んだらきっと、いいって言ってもらえるはずだ」
「でもさ、これって意味あんのか?」
「はあ?」
鷹臣に苦言を呈したのは、嘉長だった。ああん?と眉をひそめた鷹臣の目を、眼鏡のレンズ越しにぎろりと見つめる。
「いや、だってよ、こういう、何かを探してますっていうポスター、よく見るじゃん。猫とか鳥とか」
「だからなんだよ」
「ああいうのって、だんだん色褪せていって、そのうち破れてボロボロになっていってるだろ。だから、労力のわりに手がかりが集まらないってことも多いんじゃないかと思ってさ」
「やってみなきゃわかんねえだろ」
嘉長はなんでもかんでも効率を重視するきらいがあるが、それだけじゃ片付かないこともある。鷹臣と嘉長は中学の頃からの付き合いだが、それは互いに相容れない一面であった。
「文化部の部室には初めて入ったけど、随分といろんなものが置かれてるんですね」
とりあえずは事態の糸口が見つかったことに安心したのか、ようやく心が落ち着いたといったような口調で、齋藤が言った。ぐるりと一周、部室の様子を見渡している。
目を引くのは、窓際に置かれているトレーニング用のベンチやダンベルなどの筋トレ用具だった。それらはボクシング部と兼部している竜羽が持ち込んだものだが、おおよそ『茶葉研究部』と冠している部室には似合わない設備だ。逆にそれらしい設備といえば、出入口から見て左側の壁に置かれている戸棚だろう。化学室に置いているようなガラス張りの引き戸の中には、部員の皆が各地から集めた茶葉が収められている。紅茶を嗜むための茶器はもちろんのこと、お茶請けに食べるビスケットの箱も見えた。
四人の中に、人に気遣いの出来る者がひとりでもいたら、今頃齋藤にもお茶が振る舞われていたのだろうが、誰もその気付きに至らなかったようだ。
鷹臣が作成したポスターが、プリンターで印刷されていく。みんなしばらくガタガタと横揺れしているプリンターのほうを向いて、複製され、次々と吐き出されていくケルベロスの顔をじっと見つめていた。
3
吉田嘉長は、部室に戻って随分とむくれていた。彼の意に反して、印刷したケルベロスのポスターを、各所に貼ってまわったからだ。
「仕方ないじゃないッスか。齋藤先輩も、折角依頼してくれたんですし、オレたちに出来ること、やったりましょうよ」
そんな嘉長に、竜羽は紅茶とビスケットの入った小皿を出してやる。チェーンの茶葉専門店で買ってきたダージリンだ。
「イライラしているときはカモミールティーがいいって、オミ先輩がいつも言ってますけど、ヨシヨシ先輩はハーブティーが嫌いッスから、代わりにミルクティーでも飲んでください」
ミルクファーストで淹れたッスと、竜羽はカップを差し出した。嘉長は小皿のビスケットをつまみ、ミルクティーに浸した。
濡れたビスケットを口に含んで咀嚼した嘉長は、幾分か機嫌をなおしたようだ。ソーサーを持って、ミルクティーを啜る。ビスケットの甘味がミルクに溶け込んで、彼の高ぶって硬くなった神経をふわふわと柔らかくさせた。
「美味いんスか、それ……」
「気になるならお前も試してみればいい。そのためにビスケットを常備しているんだからな。あれはなにも僕専用ってわけじゃないんだ」
「……いや、いいッス。オレ、減量中なんで」
竜羽は苦笑して、息をするかのように嘘をついた。
嘉長の機嫌が元に戻ったのを確認してから、竜羽は「じゃあ、オレ、ボクシング部にも顔出したいんで失礼します!」と高らかに言うと、誰の返事も待たずに部室を出ていった。下校時刻までは三十分を切っている。トレーニングをするには、心許ない残り時間だ。
「今更なんだけどさ、あいつってなんでアフタヌーンティー部に入ったんだろうな」
竜羽がいなくなったあと、誰にともなく秀嶺が言った。急須に緑茶を淹れて、湯呑みに注いでいる。嘉長に緑茶を出したら、煎餅を浸して食うんだろうかと密かに思いながら、淹れたての茶を口に含んだ。
「そういえば入部理由、聞いてないな」
「ええっ!? それ、部長としてどうなんだよ」
秀嶺は目を見張った。鷹臣は細かいことは気にしないタイプであると心得ているつもりだったが、自分の後輩のことだろうに、随分とあっけらかんとしている。
「いやー、まさか後輩が出来るなんて思ってなかったからさ。入部してくれるだけでも嬉しかったんだよ」
ボクシング部と兼部だという、些か特殊なケースではあるが、代を繋ぐことが出来た。その事実は部を立ち上げた鷹臣にとって、後継者が出来たという喜びに直結したのだろう。だからそれほど深く考えずに手放しに竜羽を歓迎したと解釈するほかない。
「部をぶっ壊してやろうって企んでるとか、そういう変な動機じゃない限り、なんでもいいよ、おれは」
「どうせ竜羽以外に誰も入部してこなかったら、もれなく廃部だもんな」
「もしそうなったら、あいつ、ボクシング部一本で頑張るのかな」
「インターハイ出るんだったら、応援してやろうぜ」
「出れんのか? あいつ、そんなに強くねえだろ」
鷹臣と秀嶺のやり取りに、嘉長が横槍を入れた。秀嶺は「おい、後輩の活躍くらい応援してやれよ」と苦笑する。
「応援してないわけじゃない。僕はただ、事実を言っているだけだ」
先輩に弱いと烙印を押されていることなど知らずに、竜羽は今頃トレーニングに励んでいるんだろうなと、鷹臣は彼に憐れみの感情を抱いた。
「なあ、暇だから、たまには竜羽の練習風景、見にいってやろうぜ」
野球部やサッカー部みたいに、グラウンドで練習をしている部活動なら、わざわざ足を運ばなくとも通りがかりに見ることが出来るが、ボクシング部の練習場所は体育館の下にある。ちゃんとした目的を持たないと、近づかない場所だ。
秀嶺は椅子から立ち上がって、部室の扉に手をかけた。鷹臣は興味津々で、嘉長は気乗りはしないけれど、流れで着いてくるといった表情を見せながら、秀嶺の後についてきた。
「龍田? 今日は来てねえよ。お前らのところにいるもんだと思ってたけどな」
ボクシング場に近づくにつれて、汗の匂いと打撃音が大きくなっていた。隣には柔道部が練習をしている武道場があって、そちらからの物音も激しい。三人をびっくりさせるような雄叫びも聞こえてきて、きゅっと心臓が縮こまったような心地に囚われた。
鷹臣たちの応対をしてくれたのは、ボクシング部の部長をしている同級生の是永颯介だった。部員同士でスパーリングをしていたらしく、手にバンテージを巻いたままだ。額から流れ落ちる汗が目に入りそうになって、拳で顔をこすっていた。
「あれ? おかしいな。あいつ、ボクシング部に行くっつって出てったんだけどな」
鷹臣はそう言って、嘉長と秀嶺に視線を向けた。二人とも、そんな目で見つめられても分からねえよと顔を顰める。
「なんかワケありか?」
是永は後輩の動向に興味が湧いたのか、少しばかり目を輝かせて聞いてきた。「アイツ、時偶練習中になにもない空中をぼんやりと眺めていることがあるんだよ。なんか考え事をしているように見えるんだが、声をかけてみても『ボーッとしてただけっす、すみません』って言うもんだから、深くは聞けないし」
ここ最近、また宙を見つめているタイミングが多くなってきてたんだと、是永は言った。
「竜羽は多分なにも考えてないと思うぞ」
「そうだな。なにか考えているとしても、せいぜい今日の晩メシなんだろうとか、そんなことだろうよ」
「でもそんな単純なことしか考えられないやつが、俺たちに嘘をついてどこかに行ったってのは、なんか引っかかるな。どこに行ったんだろうな」
ボクシング部の見学に行きたいと言い出さなければ、おそらく竜羽が自分たちに虚偽の申告をして部室から出ていったことには気付かなかっただろう。
鷹臣は是永に礼を言って、ボクシング場を立ち去った。
『宇集院飯店』だなんて、なんとも短絡的な店名だと、鷹臣は自宅の屋号を見るたびに思う。部活が終わって帰宅する頃、店は夜のピークを迎えている。裏口から室内に入っても、二階の住居に行くには、必ず店内を通らなければならない。店が盛況なのは有難いことだが、酔っ払った常連客や、青海波学院の校内で見たことのある生徒たちと顔を合わせるのは、心の中の磊塊が深まっていく原因になりつつあった。
「鷹臣くん、おかえり」
「おう倅! 一杯やるか?」
「よう鷹臣、一緒に食うか?」
きっとみんな、鷹臣に好意をもって話しかけてくれているのだろう。それくらいのことは分かる。だから鷹臣も、店の客を邪険に扱うことはしなかった。自分の家が親の職場になっている家庭の子供は、愛想笑いが上手くなるものだ。
それなりにあしらって、さっさと二階に上がってしまおうと考え、客にぺこぺこしながら店の通路を横切ったとき、視界の端に妙なものが映った気がして、鷹臣は歩みを止めた。
——カウンター席の一番端に、龍田竜羽が座って、飯を食っている。
改めてその光景を確認したあと、鷹臣はテーブルのあいだをかき分けて、竜羽の元へと一目散に歩いていった。
「おい、竜羽!」
「あっ、オミ先輩。お疲れッス」
自分が嘘をついて帰ったのがバレていないと確信しているかのような、いつもと変わらない態度で竜羽は挨拶をした。
「お疲れッスじゃねえよ。お前、それ食ったら上に来い」
鷹臣の感情のさざめきに驚いたのか、竜羽はほとんど食べ終わっていた炒飯とラーメンを一気にかき込んで、勘定をしたあと、口をもごもごさせながら鷹臣の後ろを着いてきた。
鷹臣の部屋で、二人は向き合うかたちとなった。竜羽を椅子に座らせて、鷹臣はベッドに腰を下ろす。鷹臣が怒っている雰囲気を察知しているのか、竜羽はごくりと唾を飲み込んで、表情を強張らせていた。
「なんでおれに呼ばれたか、分かるか?」
敢えて詰問するかたちで問いかける。竜羽は視線を彷徨わせて、それからふるふると頭を横に振った。
「そうだろうな。まさかおれたちがボクシング部まで足を運ぶとは思ってもいないみたいからな」
「あっ……」
気付いたようだ。泣きそうな顔になって項垂れる。感情の起伏が分かりやすいやつだと、鷹臣はフッと笑みをこぼしそうになって、表情を取り繕った。——あくまでも今のおれは、竜羽に嘘をつかれて怒っているのだ。
「すみませんでした! オレ……」
「なにか理由でもあったのか?」
鷹臣が幾分優しい声色で問い直すと、竜羽は「ちょっと考えていることがあるんス」と、神妙な面持ちで答えた。
「……でも、今は言えません! すんません! ちゃんとオレの中ではっきりしてから言います、絶対です!」
必死の形相で、懇願するかのように言われてしまえば、鷹臣も首肯するしかなかった。
「その『考えていること』がちゃんと真実かどうかを確かめるために、今日は動いていたんだな」
「そうッス! ボクシング部に行くって言えば、先輩たちも不審には思わないだろうって思って……」
「じゃあ、おれの気まぐれがおまえにとっては災難になったんだな」
悪いことをしてしまったか、と、逆に思った。普段やらないことをやると、大体こうだ。変な気を回さずに、大人しく帰ってこればよかったのかもしれない。——知らぬが仏。鷹臣の脳内に、そんなことわざがよぎる。あるいは知ってしまったとしても、本人には敢えてそのことを言わない手もあった。言わぬが花。——でもきっと、おれの性格では、一輪の花も咲かせられないだろう。
4
一週間経っても、ケルベロスは見つからなかった。ある日ひょっこりと学校に戻ってこないかと、ちょっとは期待したりもした。
鷹臣はといえば、嫌がる嘉長や、楽しんでいるのかいないのか、よく分からない秀嶺と共にケルベロスの捜索を続けていた。捜索といっても、そんな大がかりなものでなく、校内を歩き回ったり、学校の周辺を思い付く限り散策してみたりという程度だが、我ながら律儀な性格だと思う。手がかりがないのになにかを探すという行為は、結局根気との勝負なのだと知った。
「なあ鷹臣」
「なんだ」
嘉長は突如、はあっと大きなため息をついて座り込んだ。アスファルトの上に、だ。もうこれ以上動きたくないとばかりに、手足を投げ出している。
「何日同じことやってんだ。もう五日連続だぞ」
「月曜日から探していて、今日が金曜日なんだから、そうだろうな」
鷹臣の代わりに、秀嶺が茶々を入れるかのように答えた。「なにガキみたいなことやってんだよ。さっさと行くぞ。部長様がお怒りになる前にな」
この五日間、竜羽はアフタヌーンティー部に姿を見せていない。なにをしているのかは分からないが、彼は彼でケルベロスのことを探ってくれているのだと、鷹臣は信じている。
「サッカー部に顔を出してみるか……」
学生の行動範囲は限られている。最初からそうしろよ〜とぼやく嘉長の声を背に受けながら、鷹臣は青海波学院に戻った。
「宇集院!」
齋藤は練習の真っ最中だった。鷹臣たちがグラウンドに姿を見せると、彼はすぐさま三人に気付いてチームの輪を外れ、こちらに駆け寄ってきた。
「齋藤、どうしたんだ、その怪我」
まだ真新しい擦り傷が、齋藤の剥き出しになった膝小僧に出来ていた。
「さっき、転んじまったんだ。大したことないから、大丈夫」
ジャージに身を包んだ齋藤は、カフェで対面したときとはまた違った印象だ。「部室に救急箱が見当たらなかったんだ。だからべつにこれくらいならこのままでもいいかなって」
「保健室に行きゃあいいのに」
「めんどくせえよ」
齋藤はそう言ってヘヘッと笑った。
「齋藤、ちょっといいか」
「ああ、アイツらにちょっと抜けるって言ってくるわ」
くるりと背を向けて、齋藤はチームに戻っていく。「俺、ちょっと用事が出来たから、オマエらだけでやっといてくれ。一対一で守備練。十五分後に二対二。よろしく!」
齋藤が出した指示は、鷹臣たちにも聞こえてきた。統率がとれているのか、齋藤がこっちに戻ってきたときにはすでに部員たちはメニューを始めていた。
「こっち、座るところあるから」と促されてやってきたのは、グラウンドの端のほうにある木陰だった。学校の敷地の南側。ベンチが並んでいて、そこに座ればグラウンドと、その向こうの校舎を一望出来る。散り積もった枯れ葉が集まって、小さな山が出来ている。グラウンドでは野球部、陸上部、サッカー部が分かれて活動をおこなっているが、彼らが手分けして整備をしても、いたちごっこのようにどこからか枯れ葉が湧いてくるという。
「ごめんな。宇集院たちが毎日ケルベロスを探してくれてんのは知ってるし、本当は俺も加わらなきゃいけないって分かってるんだけど、練習試合、明日なんだ」
隣で詫びる齋藤に、鷹臣は「ああ」と頷いた。
「おれたちはただ、依頼されたことを片付けてるだけだよ」
「……もう諦めたほうがいいのかな」
ぽとりと齋藤が声を落とした。俯いた彼の横顔は、悲哀の色が滲んでいる。鷹臣はそのとき、肯定も否定も出来なかった。
「だってケルベロスがいなくなって、一週間以上も経つんだぜ。もう戻ってこないのかもしれないし、もしかすると元の飼い主が反省して、あいつを引き取ったのかもしれない」
齋藤は「だって」と言ったが、鷹臣たちは誰も彼に言葉をかけていない。勝手に話を進めているだけだ。
「事故に巻き込まれたとか、どこかで出られなくなっているとか、そういうマイナスな想定はしたのか?」
「おい嘉長!」
あたふたと秀嶺が嘉長と齋藤の顔を交互に見て、場を取り繕う。それがいくら避けて通れない話題だったとしても、言うべきタイミングというものがあるだろう。いなくなったのは人間ではない。犬だ。それでも、出来る限り命は尊ぶべきものなんじゃないだろうか。
「勿論、そういう……可能性も考えているよ」
感情を乱すことなく、齋藤は言った。嘉長の質問は、まるで想定内であったかのような口ぶりだ。
「でもよお、まだそうなったってはっきりしたわけじゃないんだから、そういうことを考えるのは、もっと後でもいいんじゃねえのかなあ。……俺はまだ、ケルベロスがどこかで生きてるって、信じていたいよ」
誰もなにも言えなかった。言えなかっただけで、鷹臣は心の中で憤っていた。デリカシーのない嘉長にではない。それはいつものことだから、もう慣れた。怒っているのは、ろくに手がかりも掴まず、ただ怠慢を引き摺るように五日間を過ごした自分にだ。
気付かなかっただけで、ケルベロスの行方に直結するヒントなんて、もしかしたらそこら中に散らばっているんじゃないか。グラウンドの全てを見渡せるこの場所から、なにか見えたりしないか。推理ドラマに出てくるような、頭の切れる探偵になりたい。——だけどそんなもの、簡単になれるわけじゃない。いま自分に出来るのは、誰かの力を借りることだ。自分ひとりではどうしようもないことも、人の力を借りれば打開策が見つかるかもしれない。三人寄れば文殊の知恵とは、よく言ったものだ。
鷹臣はベンチから立ち上がり、他の三人から少し離れたところでポケットからスマホを取り出した。通話アプリを開き、端末を耳に当てる。
「竜羽、いまどこにいる?」
「ボクシング部ッス。あっ、今日はマジッスよ」
竜羽の声に熱が籠もっているのと、背後からサンドバッグの打撃音が聞こえてくるから、今度は事実なのだろう。
「そうみたいだな」
「どうしたんスか、オミ先輩。電話をかけてくるなんて、珍しいじゃないッスか」
「部活が終わったら、店に来い。話がある」
「それは、部長命令ッスか」
「ああ、そうだ」
トーンが一段低くなった竜羽の声が、鷹臣の耳に届いた。電話越しでも分かる。きっと竜羽は、すべてを察しただろう。
——オレ、苗字と名前に、ドラゴンが入ってるじゃないッスか。だからきっと前世はティラノサウルスだと思うんスよね。
竜羽が茶葉研究部の門を叩いたとき、彼は鷹臣にケラケラと笑いながらそう言った。それが冗談なのか、本気なのか、未だに分からない。なんだか得体の知れないやつだという印象が一人歩きして、現在に至っている。そんな得体の知れないアイツが、今回はなにを見ているのか。早急にそれを知りたかったし、知ることで、行き詰まった問題を解決する糸口になるんじゃないかと思った。
5
「母ちゃん、ワンタン麺四つ。あと餃子。味噌ダレで」
「なんだい、アンタは帰ってくるなりそうつっけんどんに」
客席とカウンターのあいだで、親子の会話の応酬がはじまって、常連客たちは微笑ましげにその光景を眺めている。
「おれが四つも食うわけないだろ。嘉長たちを連れてきてんだ。テーブル借りるからな」
厨房で鍋を振るっているのは、鷹臣の父親である健太だ。普段から口数の少ない彼は、自分の妻と息子のやりとりを見て、やれやれというふうに口角を上げるしかなかった。鷹臣のあとに続いて店内に入ってきたアフタヌーンティー部の面々に「いらっしゃい」と声をかける。息子の友人たちを見た母、泉美も途端に破顔して、「あら〜、いらっしゃい。竜羽くんもいつもありがとうね〜」などと言っていた。
「息子のメシも別で作らなくて済む。こいつらからメシ代が徴収出来る。三人も客を連れてきたんだから感謝をしてほしいくらいだ」
「アンタッ! 友達をそういうふうに言うんじゃありませんっ!」
ぴしゃりと泉美の声が飛ぶ。鷹臣は口をつぐんで、店の奥の空いているテーブルを陣取った。
「竜羽、そろそろ教えてくれるか。おまえの考えを」
椅子に座るなり、鷹臣は話を切り出した。竜羽にとっては、ほっと息をつく間もないまま、本題に入られたかたちになる。
喧騒の中で、餃子が焼ける音が人々のあいだをぬって漂ってくる。すんと息を吸えば、それだけで空腹が刺激されて腹が鳴る。毎日、嫌というほど嗅いでいる匂いだが、不思議と嫌いではなかった。
先輩三人に注目されて、竜羽は少したじろいでいた。
「……いつものやつッス」
竜羽は消え入るような声でそう言った。まるでそれを周りの誰にも聞かれたくないことだというふうに、身を縮こめる。三人は、竜羽がそう言っただけで彼の言わんとすることが分かったようだ。全員で額をつき合わせて、同じ表情になる。
「聞かなくてもなんとなく分かるが、念の為教えてくれ」
嘉長に促されて、竜羽は重くなった空気に文鎮を乗せるかのように、静かに口を開いた。
「ケルベロスくんはもう、この世にはいないってことッス」
龍田竜羽には、霊感がある。幼い頃から、この世ならざるものが見える体質だった。竜羽がそれを自覚したきっかけは、日常の中に潜んでいた。
まだ小学校の低学年だった頃、通学路の交差点に立っていた、自分と同じくらいの歳の少年に話しかけると、その後近くにいた同級生に「おまえ、なにひとりで喋ってたんだ?」と問われたことによって、自分には他の人には見えないものが見えるのだと知った。
自分は他人とは違う、特別で選ばれた人間なんだと傲慢な気持ちになることはなく、むしろ自分で自分を気味悪く思った。
それからはなるべく、自分が幽霊を見る力があるなどと、誰にも話さないようにした。自分の人生の半分近くの月日を、秘密を守ることに費やした。それを鷹臣たちに話したのは、この三人ならありのままの自分を受け入れてくれるかもしれないと感じたからだ。その考えは半分正解で、半分間違っていた。三人は「実はオレ、幽霊が見えるんス」と、意を決して言った竜羽に、「ふーん、いいんじゃねえの、別に」と淡泊な反応を示し、それ以上はなにも聞いてこなかった。あれやこれやと根掘り葉掘り、いろんなことを聞かれるかもしれないと構えていた竜羽は拍子抜けした。実は三人とも、竜羽を受け入れたのではなく、(こいつ、いきなりなにを言ってるんだ?)とそれぞれが疑問に思ったが、それを誰も追及しなかったために、時間が経つにつれ興味が薄れ、結局有耶無耶になったというオチが待っていたのだった。
「鷹臣! 料理が出来たから取りにおいで!」
息子ならいつでも使えると思いやがって……。意図せず会話が遮られて、鷹臣はムッとしつつも、母親に逆らって飯抜きにされるのは嫌だったので「はーい」と返事をしてカウンターに向かった。湯気の立つ四つのどんぶりの中には、たっぷりの餡が入ったワンタンがいっぱい盛られている。黄金色に輝くスープに浮かぶそれを見て、腹が鳴る。一往復に二つずつテーブルへ持っていったあとに、餃子も受け取る。それを運んでいる最中に気が変わって、「白飯も貰うぞ」と厨房に入った。
「おーい! おまえらも白飯食うか? サービスしてやるぞ!」
茶葉が関わらなければ、遠くから呼びつけられても恥ずかしくなどならないのだ。テーブルについている三人は、笑顔になって大きく頷いた。
6
「ケルベロスくんがどこにいるのか、オレにはもう分かっています」
ケルベロス自身が教えてくれたのだという。竜羽は餃子にたっぷりと味噌ダレをつけながら、一口で頬張った。「うめえええ! やっぱオミ先輩んちの餃子、サイコーッス!!」
「だろ? ありがたく食えよ」
家業を褒められるのは満更でもなかった。鷹臣は嬉しそうにそう言って、竜羽の皿に自分の分の餃子を入れてやる。
「齋藤先輩たちは、あした練習試合があるんスよね。負けられない大事な試合だって、クラスのサッカー部のやつらが言ってました。だからケルベロスくんのことは、明日、試合が終わったあとに、先輩たちに伝えればいいと思ってたッス。……これがオレの出した結論。今週、オレはオレで動いているフリをして、オミ先輩たちを足止めさせてもらってました。あっ、フリって言っても、ちゃんと気になることは調べてましたよ。たとえば、齋藤先輩はあしたの試合に向けて、誰よりも早く来て練習をして、一番最後まで残ってたってのも言質を取ってますし」
——センパイ、待ち受けにするほどケルベロスくんが好きだったんスね……。
ケルベロスを探すためのチラシを作っていたとき、竜羽はそう言っていた。なぜあのとき、竜羽は『好きだった』と過去形で言葉を表したのか。
「竜羽、ケルベロスはもう死んでいるって、もしかしてとっくに知ってたのか。ほら、ビラを作っていたときから……」
鷹臣が尋ねると、竜羽はこくりと頷いた。
「すんませんした。あのときビラを撒くのは非効率だからってヨシヨシ先輩がキレ狂ってたから、ホントはケルベロスくん、ずっと齋藤先輩のそばにいますよって言いたかったんスけど……」
「キレ狂ってはないよ。でもやっぱあれは、僕の思ったとおり無駄足だったんだな」
「いや、案外そうじゃないかもな。……おれたちは後輩の手の上で踊らされていた気がしなくもないが、それが功を奏したといえるかもしれない」
鷹臣はレンゲの先をラーメンのスープに浸して、くるくるとかき回した。麺を食べ終わったあとにかき集めて掬い上げるネギが好きだ。醤油ベースのスープと共に、ずるずると啜る。
「なにか思い付いたのか?」
秀嶺だ。あまり会話に参加してこなかったくせに、まだワンタン麺が半分ほど残っている。彼は食べるのがゆっくりなのだ。
「ああ。竜羽の意思を尊重して、何もかも、あしたのサッカー部の試合後、はっきりさせてやる」
鷹臣には、考えがあった。これまでの状況を自分なりに整理してみて、思い付いた閃きだ。自分の考えを、ああだこうだと披露して論じるのはあまり好きではないが、隠された事実を引っ張り出すには、まだ仮説でしかない持論を餌におびき寄せるしかない。土曜日はアフタヌーンティー部の活動は休みで、本来なら店の手伝いをするのが習慣になっていたが、あした一日くらいはサボっても大丈夫だろう。
サッカーにさほど興味のない鷹臣たちにとって、試合観戦は退屈以外の何物でもなかったが、退屈にあぐねてぼーっとしている三人を尻目に、竜羽だけは楽しんでいるようだ。試合に出ている選手たちの中に、クラスメイトがいるらしく、時折誰かの名前を呼びながら、歓声を上げていた。
齋藤はゴールキーパーだった。コート全体を見渡せる位置についているから、鷹臣たちがここにいることにも気付いているだろう。
「ケルベロスくんは、齋藤先輩のそばにいます」
齋藤の活躍を見守るかのように、ゴールポストの近くに座っているらしい。「きっとケルベロスくんも、先輩の気持ちが分かってるはずッスよ」
ケルベロスに確かめたわけではない。霊は見えるが、だからといって動物のそれと意思疎通が出来る能力までをも授かったわけではないから、ケルベロスが何を考えてそこにいるのかは想像に頼るしかない。だが、竜羽から見ても、ケルベロスは齋藤に危害を加えようとしているのではないと分かった。
試合展開は、両チームが前半に一点ずつゴールを決めて、後半十分を過ぎたあたりで青海波学院が追加点を決めた。以降は拮抗が続いていた。残り時間は十五秒を切っている。そのとき、相手チームのフォワードが青海波学院のディフェンスを振り切って、トップに躍り出た。
「あいつと、齋藤先輩のタイマンッスね」
その表現が正しいのかどうかはともかく、竜羽の声を聞いて、鷹臣たちも齋藤と相手の一騎打ちに決着が委ねられたことに気付いた。一同は自分たちもサッカー部の仲間になったような心地で、ボールの行方を追った。
ボフッっとくぐもったような音が響いて、ボールが放たれた。弾丸のような鋭い軌跡を描きながら、一直線に齋藤に近づいていく。チームメイトが回り込んでフォローに入る。
齋藤は、砲弾のように迫ってきたボールを、全身で受け止めた。つまりは得点を阻止したのだ。試合終了。その瞬間、グラウンドに勝利を喜ぶ歓声が響き渡った。二対一のまま、一点差を死守しての勝利。
チームメイトたちと歓喜に浸る齋藤を見て、鷹臣はこれから彼に降りかかる現実をあまり考えたくないと思った。それを齋藤に突きつけるのは自分たちであり、彼からの依頼を遂行させるために、避けては通れない展開なのだ。
試合を終えた齋藤に接触出来たのは、さらにそれから半時間が経ったあとだった。鷹臣たちのもとに、向こうからやって来た。
「応援、来てくれたんだ。ありがとう」
別にそんなつもりで来たんじゃない。そう言いかけた嘉長を制して、鷹臣は「試合に勝てて良かったな」と、当たり障りのないことを言った。
「絶対勝ちたい試合だったんだろ」
「ああ、そうなんだ」
齋藤曰く、今日の試合相手の白崎高校は、今年のインターハイ予選で苦汁を嘗めさせられた相手だという。部のモチベーションを上げるために練習試合といえど、今日は絶対に勝利を掴みたかった。それが部員の総意だった。
「余韻に浸っているところ悪いんだが、今日は依頼のことで来たんだ」
鷹臣はそう言って、急に歩き出した。
「着いてきてくれ」
五人分の砂利を鳴らす音がグラウンドに鳴り渡った。先程まで試合が行われていたコートを渡り、鷹臣たちがやって来たのは、昨日、自分たちが座った、グラウンド脇の木陰にあるベンチだった。
「単刀直入に言う。齋藤、ケルベロスはもう死んでいる。そしておまえは、それをすでに知っている。そうだな?」
鷹臣はベンチに腰を下ろし、正面に立った齋藤を見据えた。齋藤の喉仏がごくりと動く。閉じていた唇を少し開いたが、そこから言葉が発せられることはなかった。
「それで、いまから話すことは、おれの想像なんだが……」
いよいよこの時が来た。一度話し出してしまえば、もう後戻りは出来ない。だが、ここまで来たらすべてを明らかにするしかない。
「齋藤がおれたちに依頼してきたのは、『部活で飼っていた犬が行方不明になったから、探してほしい』……だったな」
「ああ……」
齋藤はそっと頷いた。
「でもおまえは、あのとき、ケルベロスがすでに死んでいるって知っていた。……つまりは依頼自体がおまえの自作自演だったんだ」
「ええっ!? そうだったんスか!?」
素っ頓狂な声を上げたのは、竜羽だった。おい、気付いていなかったのかよと、後輩の横顔を睨めつける。齋藤の眉がひそめられたのが見えた。
「な、なにを根拠に……」
「だから言っただろ。おれの想像だって。話はまだ終わってないぞ」
そのとき、木立のあいだに風が吹き抜けた。さわさわと木々の鳴る音がして、枝から離れた落葉が宙に舞う。齋藤はそのとき、ハッとしたように目を見開いて鷹臣の背後に視線を向けた。
「どこを見ているんだ。まだおれが話している最中なんだけど」
齋藤は項垂れるかのように俯いた。そこには先程までチームを護っていたときの気迫の欠片もない。試合のときにかいた汗ではないものが、彼の額にじわりと滲み出てきた。
「齋藤はここ半月くらいのあいだ、部員の誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰っていたと、他のサッカー部のやつらから聞いている。うちの龍田が、おれの代わりにいろいろ調べてくれていてな」
「齋藤先輩は、サッカー部のキャプテンとして、めちゃくちゃ頑張っているって、みんな言ってたッスよ」
「……でもおまえがそうやってたのは、サッカーの練習のためじゃないだろ」
ベンチの背もたれに腕をかけて、鷹臣は背後を振り返った。——散り積もった枯れ葉が集まって、小さな山が出来ている。グラウンドでは野球部、陸上部、サッカー部が分かれて活動をおこなっているが、彼らが手分けして整備をしても、いたちごっこのようにどこからか枯れ葉が湧いてくるという——。
「あそこ、なにを隠してるんだ?」
いまは落ち葉が大地に溢れかえる季節だから、木陰のそばに落ち葉の小さな山が出来ていても、さほど不自然ではないだろう。齋藤はそれを利用したのだ。みんなで掃除をして処理をしたはずの落ち葉をかき集めて、なにかを——ケルベロスの死体を隠すのに利用していた。
そうだろ? と鷹臣が問いかけると、齋藤はよたよたと力なく足を踏み出して、空いているベンチにどかりと腰を落とした。手を腿の上に投げ出したまま、はあっと大きくため息をついた。
「今日の試合のために、朝練も午後練も頑張ろうって決めたのはマジなんだ。でも、そう思って登校した最初の日の朝に、部室で死んでいるケルベロスを見つけてしまった」
可愛がっていた愛犬の急逝に、齋藤は激しく動揺したのだろう。
「みんなでアイツを育てて可愛がっていたから、このことが分かったらきっと俺みたいにテンパるかもしれないって思った。そうなったら練習に集中出来なくなるやつが出てくるかもしれない。今日の試合に影響が出るかもしれない。そんなふうに思ったら、ケルベロスが死んだことは、試合が終わるまで隠しておかないといけないと思ったんだ」
齋藤は言葉を切って、顔を上げた。鷹臣と視線がぶつかる。
「ケルベロスがいなくなったことにして、俺が探しているフリをしていたら、しばらくのあいだは大丈夫かなって考えて、お前らを巻き込んだ。……でも、なんでケルベロスはもうこの世にいないって、分かったんだ?」
「……それは、企業秘密だ」
竜羽が自身の特異な力をあまりひけらかしたくない様子なのは、アフタヌーンティ―部の皆が勘づいていた。だから、そんな後輩の意思を尊重するためには、『奥の手』を明らかにしない方法が最善だ。
「齋藤くんが『マイナスの想定』を言わなかったのは、僕たちに犬の死を連想させないようにと、密かに思っていたからなのか?」
「……そうだ」
消え入るような齋藤の返答を聞いて、嘉長はフンと鼻を鳴らした。
「あのとき、俺の誘いで宇集院たちはここに座っただろう。俺は敢えてそうしたんだ。逆にケルベロスの隠し場所の近くに誘導すれば、そこから気が逸れるかもって考えた。そんで、あまり意味が無いかもしれないと思いつつも、なるべく『死』に話題がいかないようにと思っていた。……触れられたくなかったのもあるが、俺自身が、現実をまだ受け入れられなかったからかもしれない」
人の目が多くなればなるほど、隠したものが見つかってしまう可能性が高くなる。サッカー部の連中が……いや、グラウンドで練習するすべての運動部員が、ケルベロスを見つけてしまわないように、齋藤は必死で気を配る必要があった。だからあの日も、転んで膝を擦り剥いた程度では、グラウンドを離れるわけにはいかなかったのだ。
だが、それも今日で終わりだ。
齋藤はスッと立ち上がった。
「サッカー部! 全員集合!!」
鷹臣たちがこれまでの半生において、誰も出したことがないような大声で、彼はグラウンドの整備を行っていた仲間たちをその場に呼び寄せた。
「あらためて、試合お疲れ様。今日勝てたから、またみんなのモチベも上がって、これからの活動に精が出るようになれると思う。……というのは前置きなんだけど、実は、俺からみんなに謝らなければならないことがあるんだ」
整列してキャプテンの話を聞く部員たちは、互いに顔を見合わせた。なぜサッカー部じゃない鷹臣たちがここにいるんだと言いたげな眼差しを向けてくる者もいた。
「ケルベロスのことだ。……二週間前、ケルベロスが失踪したと、みんなには言ったけど……あれは嘘だったんだ。本当はあの日の朝、俺はケルベロスが部室で死んでいるのを発見してたんだ」
誰かが息を呑んだ。マジかよ、と言葉を漏らす者もいた。それまで齋藤をぼんやりと見ていた部員たちの視線に棘が生えてきて、グサグサと彼を刺した。
「死因は分からない。夜のあいだに死んだんだろうなと、思った。なにか変なものを飲み込んじまったのかもしれないし、もしかすると病気にかかっていたのかもしれない。なにも分からなかったけど、唯一分かったのは、ケルベロスはもう、目を覚まさないってことだった」
「じゃあなんで、それをすぐにオレたちに言わなかったんすか」
列の後ろの方から声が上がった。周りの部員たちより背が高いその少年は、試合中、竜羽がしきりに「うちむらー!」と、名を呼んで応援していた相手だ。
「ケルベロスが死んだことをみんなが知ったら、今日の試合に影響が出るかもしれないと思ったんだ。おまえらが動揺して、練習や試合に集中出来なくなるかもしれないって……」
「キャプテン、オレらのこと、舐めてんすか? たかが部活で飼ってた犬一匹が死んだくらいで、オレらの誰も試合に集中出来なくなるわけないじゃないっすか。むしろそうやって変に気遣われるほうが、なんかキモイっつうか……」
内村は、先輩に対しても思ったことをズバズバと言ってのけるタイプなのだろう。隣の、おそらく同学年の少年に、「おい」と肩を小突かれてようやく、彼は口をつぐんだ。
「齋藤、あの犬を俺達の中で一番可愛がっていたのはオマエだろ。だからさ、俺達が試合に集中出来るようにっていうより、どっちかというと、齋藤が自分で現実を受け入れる準備をするために、下手な小細工ばかりやってたんじゃないのか? 他の部活のやつらまで巻き込んでよお」
最前列の一番左に立っているのは、尾張という名の部員だ。彼は副キャプテンを務めている。
齋藤は立ち尽くしたまま、なにも答えなかった。言葉が出てこない代わりに、段々と彼の目が潤んできて、「くっ……」と短く息を吐いたかと思うと、ごしごしと、目頭を手のひらでこすった。
「そう……なのかな……そうだったのかな……ごめんな、みんな。本当に申し訳ない。俺の勝手な判断で、訳の分からないことに巻き込んで。……宇集院たちも……ごめんな……」
「みんながみんな、齋藤とおなじ気持ちを持てるわけじゃないんだ。犬が死んだからって、誰もが自分の日常に支障が出るほど悲しんだりしない。でも誰も間違っちゃいない。齋藤が部員のみんなを気遣おうとしたことも、内村クンの言い分も」
秀嶺はポケットからハンカチを取り出して、齋藤に渡してやった。彼の目からとめどなく溢れている涙の理由は、一体何なのだろうか。
齋藤はくるりと踵を返してベンチの後ろに歩いていった。落ち葉が降り積もった……いや、積み上げられた場所だ。齋藤はそこにしゃがみ込んで、両手でガサガサと落ち葉をかき分け始めた。
鷹臣はごくりと唾を飲み込んだ。心の準備だ。あの落ち葉の山の中には、ケルベロスの死体がある。それを目の当たりにしなければならない。そう思った。
「心配しなくても、ケルベロスはもうここに埋めてるよ」
いつの間にか、齋藤は頭を上げて、鷹臣の顔を見ていた。心が見透かされたのだ。改めてその場所を見ると、土を掘り返したあとと、それを元通りにしようとして盛られた、明らかに不自然な小山があった。
「あの日、部活が終わってあいつらが帰ったあと、俺はケルベロスをここに埋めた。流石に放置は出来ないだろ。……あいつ、まだ小さかったからさ、それほど大変じゃなかったよ」
しかし、ここだけが不自然に盛り上がっていては、誰かが不審に思うかもしれない。だから齋藤はその後も、継続的に落ち葉を被せることによって、ケルベロスが見つからないようにと考えたのだ。
結果だけをみれば、彼の目論見は上手くいった。竜羽がケルベロスを『視る』ことが出来なければ、鷹臣は真相に気付けなかっただろう。
ザッザッと足音がして、そちらを見ると、サッカー部員たちが齋藤のそばに駆け寄るところだった。齋藤が立ち上がる。尾張が彼の隣に並んで、ケルベロスが埋まっている場所を見下ろした。
「オマエのやり方はどうかと思うけど、気持ちはちゃんと伝わったよ。な、みんな」
「おう!」
部員たちは皆、おなじ眼差しで、自分たちのキャプテンを見ていた。
「いきものを飼うっていうのは、たとえその場のノリで決めたとしても、責任がうまれるだろ。オレたちみたいなガキでも。だから、ちゃんと弔ってやろうぜ。オレもみんなも、齋藤ほどじゃないけど、ケルベロスの世話をするのは、楽しかっただろ」
部員全員の気持ちを代弁するかのように、尾張が言葉を続ける。必死で涙をこらえる齋藤の肩を叩いて、そっと、合掌をしてみせた。
7
「嘉長、秀嶺、竜羽、いくぞ」
鷹臣はそう言って、ローファーの爪先をとんとんと地面に打ちつけると、校門のほうへ歩き出した。
「あっ、おい!」
三人も慌てて後を追う。「もういいのか? あれで良かったのか?」
「サッカー部員全員が、ケルベロスの行方は分かった。だから、齋藤からの依頼は完了だ。あとはもう、おれたちの出る幕じゃないだろ。ってか、嘉長、一番面倒くさそうだったのに、後始末は気になるんだな」
「不本意だったとしても首をつっこんじまったんだ。最後までちゃんとやらないと、後味が悪いだろう」
「……ったく、素直じゃないやつめ」
秋が深まると、夏のそれとは違って陽はあっという間に沈んでいく。宇集院飯店の夜の営業時間は十七時からだが、おなじ時間でもあたりは薄暗くなっていて、互いの顔にも陰りがみえていた。
「たぶん、大丈夫ッスよ。ケルベロスくん、齋藤先輩たちのそばで、嬉しそうに尻尾を振ってます」
いちばん最後尾を歩いていた竜羽が、もう一度グラウンドの方に視線を向ける。鷹臣も嘉長も秀嶺も、グラウンドの向こう側にいるサッカー部員たちが黒い塊のようにしか見えず、そこにケルベロスがいるのかは分からなかったが、竜羽が言うのだからきっとそこには、齋藤のスマホの待ち受け画面でしか見たことのない柴犬の子犬が、幽霊となってもなお、あいつらのそばから離れずにいるのだろう。それはサッカー部の皆が、短いあいだでもケルベロスを大事に飼っていた、なによりの証だった。
「オミ先輩! オレ、今日も先輩んちにメシ食いにいってもいいッスか?」
今回の件のMVPは、犬のように人懐っこい瞳を鷹臣に向けてきた。
「ウチとしては、売り上げが上がるから助かるけど、いいのか? 脂っこいもんばっか食ってると、太るぞ」
「よく見たらオミ先輩もいい体してるッスけど、オレのほうが鍛えてるんで。そのへんのところは大丈夫ッスよ。なんだったら、メシの前に、先輩んちまで走りますか?」
「おっ、競争すっか?」
意外と乗り気なのは秀嶺で、嘉長はやっぱり、勝手にやってろよとうんざりした顔を見せた。
「おーい!」
校門を出ようとしたとき、齋藤の声が聞こえて、鷹臣たちは再び立ち止まった。ふざけてクラウチングスタートの姿勢で構えていた秀嶺は、あわててまっすぐ立ち直した。
「いつの間にかサッといなくなっちまうからビビったよ。まだここにいて良かった。……今回は、迷惑かけたな。ご……」
「謝らなくていいよ。齋藤はなにも悪くない」
頭を下げかけた齋藤は、驚いた顔をしてその動きを止めた。中途半端に前に屈んだ姿勢を、やがてゆっくりと元に戻す。
「ありがとう」
おなじ労いの言葉をかけられるなら、「ごめん」よりも「ありがとう」のほうがいい。鷹臣はスッと一歩前に踏み出して、「どういたしまして」と言うと、アフタヌーンティー部の面々に「じゃ、一件落着ってことで。行くぞ」と、顎でしゃくってみせた。
グラウンドの片隅に、廃材で作ったと思われる黒い十字架が建ったのは、週が明けた月曜日のことだった。やがて青海波学院の生徒たちのあいだで、奇妙な噂が囁かれるようになった。
——あの十字架のそばでは、グラウンド中を見渡せるような三つ首の小さな柴犬が、永遠のいのちを与えられて、今日も佇んでいるそうだ。
初めて立ち寄ったカフェで、店員にわざわざ茶葉の種類を尋ねるみっともない真似はやめてくれと、他の三人は常々思っていた。あいつの隣に立っていることすら恥ずかしいから、空いているテーブルを取っておくというのを口実にして、先に席に着いておく。
「アイスティー四つ、Lサイズで。あ、ちなみに茶葉は何ですか?」
店内はやけに静かだったから、宇集院鷹臣の気取った声が三人のいる席にまで聞こえてきた。臙脂色のブレザーを羽織った左肩が、少し下がっているのが、背後からだとよく分かる。要するに姿勢が悪いのだ。
「本日の茶葉は、ニルギリを使用しております」
「あっ、じゃあ、ひとつはミルクティーにしてください! 他は……」
鷹臣は言葉を切って、背後を振り返った。店内をぐるりと一周、見渡して、連れ添いの三人の姿を探す。窓際のテーブル席を陣取っている三人はサッと目を逸らしたが、無駄だった。
「おーい! お前らはどうすんだよ!」と、明らかに彼らのほうを見て、周りを憚らない声で叫んできたからだ。
三人はため息をついて、やがてそのうちのひとり、坊主頭の少年が、「俺たちはストレートでいいよ」と、ささやき声で答えた。
トレーにLサイズのグラスを四つ乗せて、鷹臣はそろそろと通路を歩いて、三人のもとに辿り着いた。
「皆様お待たせ致しました。ニル……ニルギッ……ニルギリのアイスティーでございます」
「言えてねえじゃねえか」
うるせえ、と呟き、鷹臣はテーブルの上にトレーを置いて、自分も椅子に腰を下ろした。
「いただきまーす!」
鷹臣とは別の種類の陽気な声を張り上げたのは、龍田竜羽だった。トレーの上のアイスティーをひとつ、がしっと掴むように取り上げ、カラカラと氷の音を立てる。甘いものが好きな彼は、鷹臣が適当に取ってきたシロップの蓋をパキッと開けて、紅茶の中に入れた。
「そんなに砂糖入れたら、おまえ早々に糖尿病になるぞ」
「オレ、風邪も滅多に引かないっすよ!」
他の三人とは違い、一人だけ下級生の竜羽は、敬語を崩した口調で話す。一応、形だけでも、ひとつ年上の三人に敬意を持っていますよという主張だ。
「……引いたことはあるんだな」
「インフルエンザにも、コロナにも、おたふく風邪にもなったことあるっす」
ズボボボと音を立てて、竜羽は紅茶を吸い上げる。一気にグラスの三分の一が減った。
「そういう問題じゃない。僕はおまえの健康を心配して、助言してあげているんじゃないか」
竜羽の目の前の少年が、そう言って眼鏡をくいっと押し上げた。楕円の黒縁は細い。前に本人が、ようやく自分好みのオーバル型のものが見つかったと言っていた。つるの付け根に、工具のスパナを象った装飾がしつらえてあって、それが彼——吉田嘉長の醸し出す雰囲気によく似合っている。制服のネクタイを外し、ワイシャツのボタンは全開で、真っ赤なTシャツを見せつけている竜羽とは真逆で、嘉長はきっちりと首元までネクタイを締めている。トレードマークの眼鏡をよく何処かに置き忘れるから、最近では紐をつけて首から提げている。それを「ジジイみたいだな!」とからかったことがあるのは坊主頭の少年、蓬生秀嶺だ。嘉長に「お前も煎餅だの抹茶だの饅頭だの、年寄りが好きそうなもんばっかり食ってるじゃねえか」と言い返されて、殴り合いの喧嘩に発展しそうになった過去がある。
「ほら、ひとり三百五十円。忘れないうちに送金しろよ」
鷹臣がスマホを取り出して催促すると、他の三人も渋々ポケットから端末を出して、画面を操作する。やがて鷹臣の決済アプリに、三人分の三百五十円が入金され、残高が少し潤った。自分は収支のプラスマイナスはゼロなのに、妙に得をした気分になる。鷹臣は別添えで提供されたミルクを紅茶の中に入れて、そっと口に含んだあと、眉間に皺を寄せて、テーブルの上にグラスを戻した。
2
「なあ、よく考えたら、ここ四人しか座れねえじゃん。依頼者が来たらどうするんだよ」
秀嶺がいまようやく気付いたと言わんばかりに口を尖らせたが、店内の他の席は全部埋まっていた。
「仕方ない。お誕生日席に座ってもらうしかないだろう」
「でもそんなことしたら、通路を塞いじゃって、他の人に迷惑だろ」
「じゃあどうしろって言うんだよ」
「俺に聞くなよ。大体この席は秀嶺が取ったんだろ」
結論の出なさそうな口論に発展しかけたところで、店の自動ドアが開き、一人の男子高校生が入ってきた。四人と同じ学校の制服を着た彼は、店内を見渡して、鷹臣たち四人の姿を見留めたあと、こちらに近づいてきた。結局結論の出ないまま、鷹臣たちは男子生徒を迎え入れる。
「やあやあ、君が依頼者の」
「齋藤琢郎です」
男子生徒は、鷹臣の言葉を遮って名乗った。すみません、椅子を借りてもいいですかと、隣のテーブルの客に声をかけ、椅子を一脚持ってきて、竜羽の隣に腰を下ろした。
「そう来たか!」
少しだけ身を縮こませて、竜羽が言った。目を丸くした齋藤に、「いや、こっちの話ッス」と付け加える。
「なんか頼んでこいよ」
「いや、大丈夫です」
顔の前で手を振る齋藤は、長居をするつもりはないらしい。ごそごそと通学鞄の中からスマートフォンを取り出して、テーブルの上に置いた。
「皆さんはどんな問題でもばっちりと解決してくれる、探偵みたいな人たちだと聞いています。それで、今回俺が皆さんに依頼したいのは、部活で飼ってる犬の捜索なんですけど……」
四人は顔を見合わせた。
鷹臣、嘉長、秀嶺、竜羽が所属している、通称『アフタヌーンティー部』は正式名称を『茶葉研究部』という。なかなか類例のない風変わりなその部活は、鷹臣が立ち上げた。
【世界に数多ある茶葉を調査することで、その国の歴史、文化などを理解し、グローバルな観点から学びを得たい】と、設立理由を記入したら、申請が通ったのだ。実態はどうあれ、活動日誌をそれっぽく書いていれば、咎められることはないはずだ。
「俺ら、便利屋じゃないんだけど」
それでもいっぱしの矜恃はある。秀嶺はグラスの中の氷を口に入れてかみ砕きながら、ぶっきらぼうにそう言った。
「齋藤先輩、サッカー部ッスよね」
身を乗り出して聞いてきたのは、竜羽だ。「柴犬のケルベロスくん!」
おいおいそんなに興味津々みたいに目をキラキラさせていたら、俺の面目が丸つぶれだろうが、という意思をこめて、秀嶺は竜羽を睨みつけたが、伝わらなかったようだ。やはり思いは言葉にしないと、ちゃんと伝わらない……というあらわれか。だからと言って、なんでもかんでも口から出せばいいというものではない。
「柴犬のケルベロス?」
鷹臣が割って入ってきた。「頭が三つもあるのか?」
「んなわけねえだろ!」
ケルベロスと名付けられた柴犬は、竜羽の言うとおり、サッカー部の部員たちを中心にして飼われている犬だ。どこかの無責任な飼い主が、夜のうちに青海波学院高校の裏門に捨てたとみられている。朝練で学校の外周を走っていたサッカー部が、その現場に出くわし、犬を見つけた流れで、そのまま飼うことになったらしい。
らしいというのは、鷹臣たちがその犬に関して関わったことはなく、すべて齋藤から聞き出した情報だからだ。
「ケルベロスがいなくなったのは、三日前なんです」
一年生の竜羽はともかく、他の三人とは同学年だろうに、齋藤は丁寧な語尾を崩さずにそう言った。あまり親しくはないにしろ、同級生から他人行儀な態度を取られると、どうもむず痒くなる。
「最初はどこかで散歩してるのかなとか、すぐ帰ってくるよって軽い感じで話してたんですけど、そもそもケルベロスは、誰かが外に出さないと、どこかに行ったりなんかしないんです」
「じゃあ誰かが意図的にケルベロスを連れ出したってことか?」
やっぱりなんか買ってきますと言って、齋藤はカフェのカウンターに向かった。話がテーブルの上で宙ぶらりんになる。齋藤が戻ってくるまでのあいだ、アフタヌーンティー部の四人は、額をつき合わせたまま、無言の時間を過ごした。
「ミルクレープは好きですか?」
そう言って齋藤は、自分の分のカフェオレと共に、切り分けられたミルクレープを五切れ持ってきた。好きかと尋ねてきて、それしか持ってこないあたり、「嫌いだ」と言われるなどとはつゆほども思っていないのだろう。
「オレ、甘いもんならなんでも好きッス! 驕りッスか?」
「依頼料とでも思ってくれればいいです」
礼儀正しいサッカー部員は、有無も言わさぬ勢いで四人にミルクレープを配った。
「話の続きです。食いながら聞いてもらえれば……」
聞き役に徹しているのだから仕方ないが、四人は齋藤のペースにのせられていた。我先にとデザートフォークを手にして、ケーキにかぶりつく竜羽を心の中で嘲笑しながら、鷹臣はミルクティーを一口飲んだ。
ケルベロスの捜索は、もちろん部員総出でおこなった。練習に差し障りない程度で、自分たちなりに真剣に探したそうだ。だが、見つからなかった。手がかりも痕跡も、ひとつも残さずに、ケルベロスは忽然と姿を消してしまったのだという。
「その犬を捨てた元の飼い主が、やっぱり改心して連れ帰ったんじゃないのか?」
「俺たちもその線は考えました。でも、その可能性は低いかと」
普段、ケルベロスは部室の中にいるんですと、齋藤は言った。
「犬なんか部室に入れて、ただでさえ汗臭い場所がもっと臭くなんねえのか?」
「おい秀嶺、別にいいだろそんなことは。俺らには関係ないんだから」
「世間話の一環じゃねえか。お前はそういう人とのコミュニケーションを蔑ろにする傾向にある。だから嫌みったらしいだの、思いやりがないだの、鼻につくだのと言われてるんじゃねえのか?」
「だっ、誰だよそんなこと言ってんの! 別にどうでもいいけど」
「みんなだよ、み・ん・な」
秀嶺はにやりと笑った。大体こういうとき、発言者以外の者は大したことは言っていないものだ。それでも不特定多数の存在をちらつかされれば、言われたほうは心がざわつく。どうでもいいと言ったはずの鷹臣は、幾分落ち込んだ様子で、そっと黙り込んだ。
「俺たちの部室は、そんなに汚くないですよ」
口調は変わらなかったが、齋藤は見てもいないやつに自分たちの部室を貶されたのが癪に障ったようだ。「毎日、ちゃんと自分たちで掃除してるし、たぶん、運動部の中では一番綺麗だ!」
それまで保っていた敬語が崩れるほどに興奮した様子で、齋藤が言った。
「ボクシング部の部室は、たしかに散らかってるッスね」
竜羽は、アフタヌーンティ―部の他に、ボクシング部を兼部している。その日の気分によって、どちらの部活に顔を出すかを決めているらしい。そんな彼はすっかり自分の分のミルクレープを食べてしまったようで、まだ物欲しそうに、手がつけられていない嘉長の分を見ていた。それに気付いた嘉長は「ほら、食えよ」と皿を滑らせる。竜羽は嬉しそうに「あざっす!」と言って、すぐにフォークを突き刺して頬張った。
「話が脱線する前に、本題に戻るぞ。ケルベロスは普段、部室の中で飼われている。だけど今回、三日前に突然姿を消した。ケルベロスが外に出るには、人為的に手を加えないといけない」
嘉長は自分の顔の前に指を出しながら、話すたびに、親指から順に折っていく。
「えらそうに講釈を垂れるのかと思いきや、誰でも言えるようなことを言ってんのウケる」
「うっせえよ! お前らに任せておいたら、いつまで経っても話が進まねえだろ。齋藤くんにも迷惑だ」
嘉長と鷹臣が互いの顔に唾を吐きかけるような勢いで言い合っているのを見て、齋藤は少したじろいでいた。「い、いつもこんな感じなんですか?」と秀嶺に問うと、「そう。俺らはもう慣れたけどな」と、それだけ言った。
話が一段落して、鷹臣たちはカフェを後にした。先頭を歩く秀嶺、竜羽、齋藤の後ろで、鷹臣と嘉長は、鷹臣が「やっと『ひとだんらく』したなー」と口走ってしまったことがきっかけで、再び言い争いをはじめていた。
「お前、いつもいつも重箱の隅をつつくような指摘ばっかして、おれじゃなかったら嫌われるぞ!」
「日本語を正しく使わないと、恥をかくだろうと思って、わざわざ教えてやってんだろ」
齋藤はちょうど四人のあいだを歩くような場所にいたので、前方にいる秀嶺たちと、背後で口舌を繰り広げている鷹臣たちを交互に見比べて、ほんとうに困っていた。色黒の、すこしチャラそうな雰囲気に反して、彼は以外と律儀な性格なのかもしれない。
齋藤とアフタヌーンティー部の四人で、もう一度学校の周辺をしらみつぶしに捜索するという提案も挙げられたが、「それは非効率だ」と嘉長が一蹴した。ケルベロスの消息の手がかりがないのだ。徒労に終わる可能性が高い。
「ジョギングついでだと思って探せばいいじゃないっすか」
元々体を動かすことが好きな竜羽は口を尖らせたが、四人の上級生に一斉に見られてぐっと黙り込んだ。
「じゃあお前だけで行ってきな」
「勘弁してくださいっ、オレ、帰ってこれなくなります!」
竜羽がふざけて言っているのか、本心でそう思っているのかは分からなかった。
五人は学校に戻った。運動部の面々は、まだ部活動の真っ最中で、いろんな方向から掛け声が聞こえてくる。
「あーあ、あんな汗かいて、自分から苦しいことやって、なにが楽しいのかね」
「なに言ってんすか、オミ先輩。スポーツは良いっすよ。先輩もボクシングやりましょうよ」
「百歩譲ってなんかやるとしても、ボクシングはないわ」
「そうっすね、誘っておいてなんですけど、どっちかっつうと先輩は、地下格闘場なんかでオレたちボクサーを金にものを言わせて従えて、ふんぞり返ってそうっすもん」
宇集院っていう苗字が、いかにも金持ちそうだしと、竜羽は言った。だが実際の鷹臣は町中華屋の一人息子だ。青海波学院の近くに自宅兼店舗を構えていて、運動部のやつらが部活帰りにたらふく飯を食っていく場所として、学生のあいだでは有名だ。
鷹臣は部活のない週末に店の手伝いをしている。店番の最中に、齋藤が来店したこともあるから、今回の件は全くの初対面というわけではなかった。
鷹臣たちが向かったのは、サッカー部の部室……ではなく、アフタヌーンティー部の部室だった。スリッパの形状をした上履きをパタパタと鳴らしながら、校舎の中を歩く。青海波学院は漢字の『三』のような形で校舎が三棟建っていて、それぞれ北校舎、中校舎、南校舎と呼ばれている。屋外で活動をする部活の部室が、グラウンドの片隅に、アパートのように建っている部室棟に纏められているのに対して、文化部の活動場所は校舎の中に点在している。アフタヌーンティー部は北校舎の一階の空き教室を与えられていて、ひとつだけぽつんと離れた場所に在った。
「皆さんの部室なんか行って、なにをするんですか?」
さすがに齊藤も怪訝そうな表情をしていた。
「フフン、それは部室についてからのお楽しみだ」
そんなに大したことをするわけではないのに、鷹臣は最後まで勿体ぶっていた。部室に入って、椅子に座ったかと思うと、机の上に置いてあったノートパソコンを開いた。
「これでチラシを作るんだ」
鷹臣はそう言って、キーボードをパチパチと叩いた。「齋藤くん、ケルベロスの写真はある?」
「あります」
齋藤がポケットから取り出したスマホの画面を、みんなが覗き込む。待ち受けにカメラ目線で舌を出している柴犬が現れる。背景は見覚えのあるグラウンド。ともすればこれがケルベロスと名付けられた犬だろう。
「センパイ、待ち受けにするほどケルベロスくんが好きだったんスね……」
「俺は犬が好きなんだ。だからケルベロスを飼うことになったとき、実はめっちゃ嬉しかったし、部の中で一番、あいつの世話をしてた自負がある」
竜羽はそのとき、なぜかにっこりと笑って齋藤の肩をぽんと叩いた。おそらく齋藤は、ケルベロスがいなくなったことに対して、サッカー部の中で最も心を痛め、躍起となって探しているのだろう。その熱意は、他の部員との温度差が生じている。だから一人で、鷹臣たちに相談をしに来たのだと思われる。
パソコンの画像処理ソフトをいじって、齋藤から受信したケルベロスの写真をはめ込む。ポップな字体で、「犬を探しています」とでかでかと書かれたその下に、ケルベロスの特徴を書き込んでいく。
名前:ケルベロス
性別:オス
犬種:柴犬
備考:多分まだ子犬です。学校の裏門に捨てられていたのを、サッカー部の部室で飼っていましたが、いなくなりました。もし見かけた方は、ご連絡ください。
青海波学院高等学校サッカー部一同
「こんな感じでいいだろうか」
顔を上げて、鷹臣が尋ねると、齋藤はこくりと頷いた。
「よっしゃ。じゃあ、これを印刷して、いろんなところに貼らせてもらおう。学校の掲示板とか、交番の掲示板とか、自治会の掲示板とか、頼んだらきっと、いいって言ってもらえるはずだ」
「でもさ、これって意味あんのか?」
「はあ?」
鷹臣に苦言を呈したのは、嘉長だった。ああん?と眉をひそめた鷹臣の目を、眼鏡のレンズ越しにぎろりと見つめる。
「いや、だってよ、こういう、何かを探してますっていうポスター、よく見るじゃん。猫とか鳥とか」
「だからなんだよ」
「ああいうのって、だんだん色褪せていって、そのうち破れてボロボロになっていってるだろ。だから、労力のわりに手がかりが集まらないってことも多いんじゃないかと思ってさ」
「やってみなきゃわかんねえだろ」
嘉長はなんでもかんでも効率を重視するきらいがあるが、それだけじゃ片付かないこともある。鷹臣と嘉長は中学の頃からの付き合いだが、それは互いに相容れない一面であった。
「文化部の部室には初めて入ったけど、随分といろんなものが置かれてるんですね」
とりあえずは事態の糸口が見つかったことに安心したのか、ようやく心が落ち着いたといったような口調で、齋藤が言った。ぐるりと一周、部室の様子を見渡している。
目を引くのは、窓際に置かれているトレーニング用のベンチやダンベルなどの筋トレ用具だった。それらはボクシング部と兼部している竜羽が持ち込んだものだが、おおよそ『茶葉研究部』と冠している部室には似合わない設備だ。逆にそれらしい設備といえば、出入口から見て左側の壁に置かれている戸棚だろう。化学室に置いているようなガラス張りの引き戸の中には、部員の皆が各地から集めた茶葉が収められている。紅茶を嗜むための茶器はもちろんのこと、お茶請けに食べるビスケットの箱も見えた。
四人の中に、人に気遣いの出来る者がひとりでもいたら、今頃齋藤にもお茶が振る舞われていたのだろうが、誰もその気付きに至らなかったようだ。
鷹臣が作成したポスターが、プリンターで印刷されていく。みんなしばらくガタガタと横揺れしているプリンターのほうを向いて、複製され、次々と吐き出されていくケルベロスの顔をじっと見つめていた。
3
吉田嘉長は、部室に戻って随分とむくれていた。彼の意に反して、印刷したケルベロスのポスターを、各所に貼ってまわったからだ。
「仕方ないじゃないッスか。齋藤先輩も、折角依頼してくれたんですし、オレたちに出来ること、やったりましょうよ」
そんな嘉長に、竜羽は紅茶とビスケットの入った小皿を出してやる。チェーンの茶葉専門店で買ってきたダージリンだ。
「イライラしているときはカモミールティーがいいって、オミ先輩がいつも言ってますけど、ヨシヨシ先輩はハーブティーが嫌いッスから、代わりにミルクティーでも飲んでください」
ミルクファーストで淹れたッスと、竜羽はカップを差し出した。嘉長は小皿のビスケットをつまみ、ミルクティーに浸した。
濡れたビスケットを口に含んで咀嚼した嘉長は、幾分か機嫌をなおしたようだ。ソーサーを持って、ミルクティーを啜る。ビスケットの甘味がミルクに溶け込んで、彼の高ぶって硬くなった神経をふわふわと柔らかくさせた。
「美味いんスか、それ……」
「気になるならお前も試してみればいい。そのためにビスケットを常備しているんだからな。あれはなにも僕専用ってわけじゃないんだ」
「……いや、いいッス。オレ、減量中なんで」
竜羽は苦笑して、息をするかのように嘘をついた。
嘉長の機嫌が元に戻ったのを確認してから、竜羽は「じゃあ、オレ、ボクシング部にも顔出したいんで失礼します!」と高らかに言うと、誰の返事も待たずに部室を出ていった。下校時刻までは三十分を切っている。トレーニングをするには、心許ない残り時間だ。
「今更なんだけどさ、あいつってなんでアフタヌーンティー部に入ったんだろうな」
竜羽がいなくなったあと、誰にともなく秀嶺が言った。急須に緑茶を淹れて、湯呑みに注いでいる。嘉長に緑茶を出したら、煎餅を浸して食うんだろうかと密かに思いながら、淹れたての茶を口に含んだ。
「そういえば入部理由、聞いてないな」
「ええっ!? それ、部長としてどうなんだよ」
秀嶺は目を見張った。鷹臣は細かいことは気にしないタイプであると心得ているつもりだったが、自分の後輩のことだろうに、随分とあっけらかんとしている。
「いやー、まさか後輩が出来るなんて思ってなかったからさ。入部してくれるだけでも嬉しかったんだよ」
ボクシング部と兼部だという、些か特殊なケースではあるが、代を繋ぐことが出来た。その事実は部を立ち上げた鷹臣にとって、後継者が出来たという喜びに直結したのだろう。だからそれほど深く考えずに手放しに竜羽を歓迎したと解釈するほかない。
「部をぶっ壊してやろうって企んでるとか、そういう変な動機じゃない限り、なんでもいいよ、おれは」
「どうせ竜羽以外に誰も入部してこなかったら、もれなく廃部だもんな」
「もしそうなったら、あいつ、ボクシング部一本で頑張るのかな」
「インターハイ出るんだったら、応援してやろうぜ」
「出れんのか? あいつ、そんなに強くねえだろ」
鷹臣と秀嶺のやり取りに、嘉長が横槍を入れた。秀嶺は「おい、後輩の活躍くらい応援してやれよ」と苦笑する。
「応援してないわけじゃない。僕はただ、事実を言っているだけだ」
先輩に弱いと烙印を押されていることなど知らずに、竜羽は今頃トレーニングに励んでいるんだろうなと、鷹臣は彼に憐れみの感情を抱いた。
「なあ、暇だから、たまには竜羽の練習風景、見にいってやろうぜ」
野球部やサッカー部みたいに、グラウンドで練習をしている部活動なら、わざわざ足を運ばなくとも通りがかりに見ることが出来るが、ボクシング部の練習場所は体育館の下にある。ちゃんとした目的を持たないと、近づかない場所だ。
秀嶺は椅子から立ち上がって、部室の扉に手をかけた。鷹臣は興味津々で、嘉長は気乗りはしないけれど、流れで着いてくるといった表情を見せながら、秀嶺の後についてきた。
「龍田? 今日は来てねえよ。お前らのところにいるもんだと思ってたけどな」
ボクシング場に近づくにつれて、汗の匂いと打撃音が大きくなっていた。隣には柔道部が練習をしている武道場があって、そちらからの物音も激しい。三人をびっくりさせるような雄叫びも聞こえてきて、きゅっと心臓が縮こまったような心地に囚われた。
鷹臣たちの応対をしてくれたのは、ボクシング部の部長をしている同級生の是永颯介だった。部員同士でスパーリングをしていたらしく、手にバンテージを巻いたままだ。額から流れ落ちる汗が目に入りそうになって、拳で顔をこすっていた。
「あれ? おかしいな。あいつ、ボクシング部に行くっつって出てったんだけどな」
鷹臣はそう言って、嘉長と秀嶺に視線を向けた。二人とも、そんな目で見つめられても分からねえよと顔を顰める。
「なんかワケありか?」
是永は後輩の動向に興味が湧いたのか、少しばかり目を輝かせて聞いてきた。「アイツ、時偶練習中になにもない空中をぼんやりと眺めていることがあるんだよ。なんか考え事をしているように見えるんだが、声をかけてみても『ボーッとしてただけっす、すみません』って言うもんだから、深くは聞けないし」
ここ最近、また宙を見つめているタイミングが多くなってきてたんだと、是永は言った。
「竜羽は多分なにも考えてないと思うぞ」
「そうだな。なにか考えているとしても、せいぜい今日の晩メシなんだろうとか、そんなことだろうよ」
「でもそんな単純なことしか考えられないやつが、俺たちに嘘をついてどこかに行ったってのは、なんか引っかかるな。どこに行ったんだろうな」
ボクシング部の見学に行きたいと言い出さなければ、おそらく竜羽が自分たちに虚偽の申告をして部室から出ていったことには気付かなかっただろう。
鷹臣は是永に礼を言って、ボクシング場を立ち去った。
『宇集院飯店』だなんて、なんとも短絡的な店名だと、鷹臣は自宅の屋号を見るたびに思う。部活が終わって帰宅する頃、店は夜のピークを迎えている。裏口から室内に入っても、二階の住居に行くには、必ず店内を通らなければならない。店が盛況なのは有難いことだが、酔っ払った常連客や、青海波学院の校内で見たことのある生徒たちと顔を合わせるのは、心の中の磊塊が深まっていく原因になりつつあった。
「鷹臣くん、おかえり」
「おう倅! 一杯やるか?」
「よう鷹臣、一緒に食うか?」
きっとみんな、鷹臣に好意をもって話しかけてくれているのだろう。それくらいのことは分かる。だから鷹臣も、店の客を邪険に扱うことはしなかった。自分の家が親の職場になっている家庭の子供は、愛想笑いが上手くなるものだ。
それなりにあしらって、さっさと二階に上がってしまおうと考え、客にぺこぺこしながら店の通路を横切ったとき、視界の端に妙なものが映った気がして、鷹臣は歩みを止めた。
——カウンター席の一番端に、龍田竜羽が座って、飯を食っている。
改めてその光景を確認したあと、鷹臣はテーブルのあいだをかき分けて、竜羽の元へと一目散に歩いていった。
「おい、竜羽!」
「あっ、オミ先輩。お疲れッス」
自分が嘘をついて帰ったのがバレていないと確信しているかのような、いつもと変わらない態度で竜羽は挨拶をした。
「お疲れッスじゃねえよ。お前、それ食ったら上に来い」
鷹臣の感情のさざめきに驚いたのか、竜羽はほとんど食べ終わっていた炒飯とラーメンを一気にかき込んで、勘定をしたあと、口をもごもごさせながら鷹臣の後ろを着いてきた。
鷹臣の部屋で、二人は向き合うかたちとなった。竜羽を椅子に座らせて、鷹臣はベッドに腰を下ろす。鷹臣が怒っている雰囲気を察知しているのか、竜羽はごくりと唾を飲み込んで、表情を強張らせていた。
「なんでおれに呼ばれたか、分かるか?」
敢えて詰問するかたちで問いかける。竜羽は視線を彷徨わせて、それからふるふると頭を横に振った。
「そうだろうな。まさかおれたちがボクシング部まで足を運ぶとは思ってもいないみたいからな」
「あっ……」
気付いたようだ。泣きそうな顔になって項垂れる。感情の起伏が分かりやすいやつだと、鷹臣はフッと笑みをこぼしそうになって、表情を取り繕った。——あくまでも今のおれは、竜羽に嘘をつかれて怒っているのだ。
「すみませんでした! オレ……」
「なにか理由でもあったのか?」
鷹臣が幾分優しい声色で問い直すと、竜羽は「ちょっと考えていることがあるんス」と、神妙な面持ちで答えた。
「……でも、今は言えません! すんません! ちゃんとオレの中ではっきりしてから言います、絶対です!」
必死の形相で、懇願するかのように言われてしまえば、鷹臣も首肯するしかなかった。
「その『考えていること』がちゃんと真実かどうかを確かめるために、今日は動いていたんだな」
「そうッス! ボクシング部に行くって言えば、先輩たちも不審には思わないだろうって思って……」
「じゃあ、おれの気まぐれがおまえにとっては災難になったんだな」
悪いことをしてしまったか、と、逆に思った。普段やらないことをやると、大体こうだ。変な気を回さずに、大人しく帰ってこればよかったのかもしれない。——知らぬが仏。鷹臣の脳内に、そんなことわざがよぎる。あるいは知ってしまったとしても、本人には敢えてそのことを言わない手もあった。言わぬが花。——でもきっと、おれの性格では、一輪の花も咲かせられないだろう。
4
一週間経っても、ケルベロスは見つからなかった。ある日ひょっこりと学校に戻ってこないかと、ちょっとは期待したりもした。
鷹臣はといえば、嫌がる嘉長や、楽しんでいるのかいないのか、よく分からない秀嶺と共にケルベロスの捜索を続けていた。捜索といっても、そんな大がかりなものでなく、校内を歩き回ったり、学校の周辺を思い付く限り散策してみたりという程度だが、我ながら律儀な性格だと思う。手がかりがないのになにかを探すという行為は、結局根気との勝負なのだと知った。
「なあ鷹臣」
「なんだ」
嘉長は突如、はあっと大きなため息をついて座り込んだ。アスファルトの上に、だ。もうこれ以上動きたくないとばかりに、手足を投げ出している。
「何日同じことやってんだ。もう五日連続だぞ」
「月曜日から探していて、今日が金曜日なんだから、そうだろうな」
鷹臣の代わりに、秀嶺が茶々を入れるかのように答えた。「なにガキみたいなことやってんだよ。さっさと行くぞ。部長様がお怒りになる前にな」
この五日間、竜羽はアフタヌーンティー部に姿を見せていない。なにをしているのかは分からないが、彼は彼でケルベロスのことを探ってくれているのだと、鷹臣は信じている。
「サッカー部に顔を出してみるか……」
学生の行動範囲は限られている。最初からそうしろよ〜とぼやく嘉長の声を背に受けながら、鷹臣は青海波学院に戻った。
「宇集院!」
齋藤は練習の真っ最中だった。鷹臣たちがグラウンドに姿を見せると、彼はすぐさま三人に気付いてチームの輪を外れ、こちらに駆け寄ってきた。
「齋藤、どうしたんだ、その怪我」
まだ真新しい擦り傷が、齋藤の剥き出しになった膝小僧に出来ていた。
「さっき、転んじまったんだ。大したことないから、大丈夫」
ジャージに身を包んだ齋藤は、カフェで対面したときとはまた違った印象だ。「部室に救急箱が見当たらなかったんだ。だからべつにこれくらいならこのままでもいいかなって」
「保健室に行きゃあいいのに」
「めんどくせえよ」
齋藤はそう言ってヘヘッと笑った。
「齋藤、ちょっといいか」
「ああ、アイツらにちょっと抜けるって言ってくるわ」
くるりと背を向けて、齋藤はチームに戻っていく。「俺、ちょっと用事が出来たから、オマエらだけでやっといてくれ。一対一で守備練。十五分後に二対二。よろしく!」
齋藤が出した指示は、鷹臣たちにも聞こえてきた。統率がとれているのか、齋藤がこっちに戻ってきたときにはすでに部員たちはメニューを始めていた。
「こっち、座るところあるから」と促されてやってきたのは、グラウンドの端のほうにある木陰だった。学校の敷地の南側。ベンチが並んでいて、そこに座ればグラウンドと、その向こうの校舎を一望出来る。散り積もった枯れ葉が集まって、小さな山が出来ている。グラウンドでは野球部、陸上部、サッカー部が分かれて活動をおこなっているが、彼らが手分けして整備をしても、いたちごっこのようにどこからか枯れ葉が湧いてくるという。
「ごめんな。宇集院たちが毎日ケルベロスを探してくれてんのは知ってるし、本当は俺も加わらなきゃいけないって分かってるんだけど、練習試合、明日なんだ」
隣で詫びる齋藤に、鷹臣は「ああ」と頷いた。
「おれたちはただ、依頼されたことを片付けてるだけだよ」
「……もう諦めたほうがいいのかな」
ぽとりと齋藤が声を落とした。俯いた彼の横顔は、悲哀の色が滲んでいる。鷹臣はそのとき、肯定も否定も出来なかった。
「だってケルベロスがいなくなって、一週間以上も経つんだぜ。もう戻ってこないのかもしれないし、もしかすると元の飼い主が反省して、あいつを引き取ったのかもしれない」
齋藤は「だって」と言ったが、鷹臣たちは誰も彼に言葉をかけていない。勝手に話を進めているだけだ。
「事故に巻き込まれたとか、どこかで出られなくなっているとか、そういうマイナスな想定はしたのか?」
「おい嘉長!」
あたふたと秀嶺が嘉長と齋藤の顔を交互に見て、場を取り繕う。それがいくら避けて通れない話題だったとしても、言うべきタイミングというものがあるだろう。いなくなったのは人間ではない。犬だ。それでも、出来る限り命は尊ぶべきものなんじゃないだろうか。
「勿論、そういう……可能性も考えているよ」
感情を乱すことなく、齋藤は言った。嘉長の質問は、まるで想定内であったかのような口ぶりだ。
「でもよお、まだそうなったってはっきりしたわけじゃないんだから、そういうことを考えるのは、もっと後でもいいんじゃねえのかなあ。……俺はまだ、ケルベロスがどこかで生きてるって、信じていたいよ」
誰もなにも言えなかった。言えなかっただけで、鷹臣は心の中で憤っていた。デリカシーのない嘉長にではない。それはいつものことだから、もう慣れた。怒っているのは、ろくに手がかりも掴まず、ただ怠慢を引き摺るように五日間を過ごした自分にだ。
気付かなかっただけで、ケルベロスの行方に直結するヒントなんて、もしかしたらそこら中に散らばっているんじゃないか。グラウンドの全てを見渡せるこの場所から、なにか見えたりしないか。推理ドラマに出てくるような、頭の切れる探偵になりたい。——だけどそんなもの、簡単になれるわけじゃない。いま自分に出来るのは、誰かの力を借りることだ。自分ひとりではどうしようもないことも、人の力を借りれば打開策が見つかるかもしれない。三人寄れば文殊の知恵とは、よく言ったものだ。
鷹臣はベンチから立ち上がり、他の三人から少し離れたところでポケットからスマホを取り出した。通話アプリを開き、端末を耳に当てる。
「竜羽、いまどこにいる?」
「ボクシング部ッス。あっ、今日はマジッスよ」
竜羽の声に熱が籠もっているのと、背後からサンドバッグの打撃音が聞こえてくるから、今度は事実なのだろう。
「そうみたいだな」
「どうしたんスか、オミ先輩。電話をかけてくるなんて、珍しいじゃないッスか」
「部活が終わったら、店に来い。話がある」
「それは、部長命令ッスか」
「ああ、そうだ」
トーンが一段低くなった竜羽の声が、鷹臣の耳に届いた。電話越しでも分かる。きっと竜羽は、すべてを察しただろう。
——オレ、苗字と名前に、ドラゴンが入ってるじゃないッスか。だからきっと前世はティラノサウルスだと思うんスよね。
竜羽が茶葉研究部の門を叩いたとき、彼は鷹臣にケラケラと笑いながらそう言った。それが冗談なのか、本気なのか、未だに分からない。なんだか得体の知れないやつだという印象が一人歩きして、現在に至っている。そんな得体の知れないアイツが、今回はなにを見ているのか。早急にそれを知りたかったし、知ることで、行き詰まった問題を解決する糸口になるんじゃないかと思った。
5
「母ちゃん、ワンタン麺四つ。あと餃子。味噌ダレで」
「なんだい、アンタは帰ってくるなりそうつっけんどんに」
客席とカウンターのあいだで、親子の会話の応酬がはじまって、常連客たちは微笑ましげにその光景を眺めている。
「おれが四つも食うわけないだろ。嘉長たちを連れてきてんだ。テーブル借りるからな」
厨房で鍋を振るっているのは、鷹臣の父親である健太だ。普段から口数の少ない彼は、自分の妻と息子のやりとりを見て、やれやれというふうに口角を上げるしかなかった。鷹臣のあとに続いて店内に入ってきたアフタヌーンティー部の面々に「いらっしゃい」と声をかける。息子の友人たちを見た母、泉美も途端に破顔して、「あら〜、いらっしゃい。竜羽くんもいつもありがとうね〜」などと言っていた。
「息子のメシも別で作らなくて済む。こいつらからメシ代が徴収出来る。三人も客を連れてきたんだから感謝をしてほしいくらいだ」
「アンタッ! 友達をそういうふうに言うんじゃありませんっ!」
ぴしゃりと泉美の声が飛ぶ。鷹臣は口をつぐんで、店の奥の空いているテーブルを陣取った。
「竜羽、そろそろ教えてくれるか。おまえの考えを」
椅子に座るなり、鷹臣は話を切り出した。竜羽にとっては、ほっと息をつく間もないまま、本題に入られたかたちになる。
喧騒の中で、餃子が焼ける音が人々のあいだをぬって漂ってくる。すんと息を吸えば、それだけで空腹が刺激されて腹が鳴る。毎日、嫌というほど嗅いでいる匂いだが、不思議と嫌いではなかった。
先輩三人に注目されて、竜羽は少したじろいでいた。
「……いつものやつッス」
竜羽は消え入るような声でそう言った。まるでそれを周りの誰にも聞かれたくないことだというふうに、身を縮こめる。三人は、竜羽がそう言っただけで彼の言わんとすることが分かったようだ。全員で額をつき合わせて、同じ表情になる。
「聞かなくてもなんとなく分かるが、念の為教えてくれ」
嘉長に促されて、竜羽は重くなった空気に文鎮を乗せるかのように、静かに口を開いた。
「ケルベロスくんはもう、この世にはいないってことッス」
龍田竜羽には、霊感がある。幼い頃から、この世ならざるものが見える体質だった。竜羽がそれを自覚したきっかけは、日常の中に潜んでいた。
まだ小学校の低学年だった頃、通学路の交差点に立っていた、自分と同じくらいの歳の少年に話しかけると、その後近くにいた同級生に「おまえ、なにひとりで喋ってたんだ?」と問われたことによって、自分には他の人には見えないものが見えるのだと知った。
自分は他人とは違う、特別で選ばれた人間なんだと傲慢な気持ちになることはなく、むしろ自分で自分を気味悪く思った。
それからはなるべく、自分が幽霊を見る力があるなどと、誰にも話さないようにした。自分の人生の半分近くの月日を、秘密を守ることに費やした。それを鷹臣たちに話したのは、この三人ならありのままの自分を受け入れてくれるかもしれないと感じたからだ。その考えは半分正解で、半分間違っていた。三人は「実はオレ、幽霊が見えるんス」と、意を決して言った竜羽に、「ふーん、いいんじゃねえの、別に」と淡泊な反応を示し、それ以上はなにも聞いてこなかった。あれやこれやと根掘り葉掘り、いろんなことを聞かれるかもしれないと構えていた竜羽は拍子抜けした。実は三人とも、竜羽を受け入れたのではなく、(こいつ、いきなりなにを言ってるんだ?)とそれぞれが疑問に思ったが、それを誰も追及しなかったために、時間が経つにつれ興味が薄れ、結局有耶無耶になったというオチが待っていたのだった。
「鷹臣! 料理が出来たから取りにおいで!」
息子ならいつでも使えると思いやがって……。意図せず会話が遮られて、鷹臣はムッとしつつも、母親に逆らって飯抜きにされるのは嫌だったので「はーい」と返事をしてカウンターに向かった。湯気の立つ四つのどんぶりの中には、たっぷりの餡が入ったワンタンがいっぱい盛られている。黄金色に輝くスープに浮かぶそれを見て、腹が鳴る。一往復に二つずつテーブルへ持っていったあとに、餃子も受け取る。それを運んでいる最中に気が変わって、「白飯も貰うぞ」と厨房に入った。
「おーい! おまえらも白飯食うか? サービスしてやるぞ!」
茶葉が関わらなければ、遠くから呼びつけられても恥ずかしくなどならないのだ。テーブルについている三人は、笑顔になって大きく頷いた。
6
「ケルベロスくんがどこにいるのか、オレにはもう分かっています」
ケルベロス自身が教えてくれたのだという。竜羽は餃子にたっぷりと味噌ダレをつけながら、一口で頬張った。「うめえええ! やっぱオミ先輩んちの餃子、サイコーッス!!」
「だろ? ありがたく食えよ」
家業を褒められるのは満更でもなかった。鷹臣は嬉しそうにそう言って、竜羽の皿に自分の分の餃子を入れてやる。
「齋藤先輩たちは、あした練習試合があるんスよね。負けられない大事な試合だって、クラスのサッカー部のやつらが言ってました。だからケルベロスくんのことは、明日、試合が終わったあとに、先輩たちに伝えればいいと思ってたッス。……これがオレの出した結論。今週、オレはオレで動いているフリをして、オミ先輩たちを足止めさせてもらってました。あっ、フリって言っても、ちゃんと気になることは調べてましたよ。たとえば、齋藤先輩はあしたの試合に向けて、誰よりも早く来て練習をして、一番最後まで残ってたってのも言質を取ってますし」
——センパイ、待ち受けにするほどケルベロスくんが好きだったんスね……。
ケルベロスを探すためのチラシを作っていたとき、竜羽はそう言っていた。なぜあのとき、竜羽は『好きだった』と過去形で言葉を表したのか。
「竜羽、ケルベロスはもう死んでいるって、もしかしてとっくに知ってたのか。ほら、ビラを作っていたときから……」
鷹臣が尋ねると、竜羽はこくりと頷いた。
「すんませんした。あのときビラを撒くのは非効率だからってヨシヨシ先輩がキレ狂ってたから、ホントはケルベロスくん、ずっと齋藤先輩のそばにいますよって言いたかったんスけど……」
「キレ狂ってはないよ。でもやっぱあれは、僕の思ったとおり無駄足だったんだな」
「いや、案外そうじゃないかもな。……おれたちは後輩の手の上で踊らされていた気がしなくもないが、それが功を奏したといえるかもしれない」
鷹臣はレンゲの先をラーメンのスープに浸して、くるくるとかき回した。麺を食べ終わったあとにかき集めて掬い上げるネギが好きだ。醤油ベースのスープと共に、ずるずると啜る。
「なにか思い付いたのか?」
秀嶺だ。あまり会話に参加してこなかったくせに、まだワンタン麺が半分ほど残っている。彼は食べるのがゆっくりなのだ。
「ああ。竜羽の意思を尊重して、何もかも、あしたのサッカー部の試合後、はっきりさせてやる」
鷹臣には、考えがあった。これまでの状況を自分なりに整理してみて、思い付いた閃きだ。自分の考えを、ああだこうだと披露して論じるのはあまり好きではないが、隠された事実を引っ張り出すには、まだ仮説でしかない持論を餌におびき寄せるしかない。土曜日はアフタヌーンティー部の活動は休みで、本来なら店の手伝いをするのが習慣になっていたが、あした一日くらいはサボっても大丈夫だろう。
サッカーにさほど興味のない鷹臣たちにとって、試合観戦は退屈以外の何物でもなかったが、退屈にあぐねてぼーっとしている三人を尻目に、竜羽だけは楽しんでいるようだ。試合に出ている選手たちの中に、クラスメイトがいるらしく、時折誰かの名前を呼びながら、歓声を上げていた。
齋藤はゴールキーパーだった。コート全体を見渡せる位置についているから、鷹臣たちがここにいることにも気付いているだろう。
「ケルベロスくんは、齋藤先輩のそばにいます」
齋藤の活躍を見守るかのように、ゴールポストの近くに座っているらしい。「きっとケルベロスくんも、先輩の気持ちが分かってるはずッスよ」
ケルベロスに確かめたわけではない。霊は見えるが、だからといって動物のそれと意思疎通が出来る能力までをも授かったわけではないから、ケルベロスが何を考えてそこにいるのかは想像に頼るしかない。だが、竜羽から見ても、ケルベロスは齋藤に危害を加えようとしているのではないと分かった。
試合展開は、両チームが前半に一点ずつゴールを決めて、後半十分を過ぎたあたりで青海波学院が追加点を決めた。以降は拮抗が続いていた。残り時間は十五秒を切っている。そのとき、相手チームのフォワードが青海波学院のディフェンスを振り切って、トップに躍り出た。
「あいつと、齋藤先輩のタイマンッスね」
その表現が正しいのかどうかはともかく、竜羽の声を聞いて、鷹臣たちも齋藤と相手の一騎打ちに決着が委ねられたことに気付いた。一同は自分たちもサッカー部の仲間になったような心地で、ボールの行方を追った。
ボフッっとくぐもったような音が響いて、ボールが放たれた。弾丸のような鋭い軌跡を描きながら、一直線に齋藤に近づいていく。チームメイトが回り込んでフォローに入る。
齋藤は、砲弾のように迫ってきたボールを、全身で受け止めた。つまりは得点を阻止したのだ。試合終了。その瞬間、グラウンドに勝利を喜ぶ歓声が響き渡った。二対一のまま、一点差を死守しての勝利。
チームメイトたちと歓喜に浸る齋藤を見て、鷹臣はこれから彼に降りかかる現実をあまり考えたくないと思った。それを齋藤に突きつけるのは自分たちであり、彼からの依頼を遂行させるために、避けては通れない展開なのだ。
試合を終えた齋藤に接触出来たのは、さらにそれから半時間が経ったあとだった。鷹臣たちのもとに、向こうからやって来た。
「応援、来てくれたんだ。ありがとう」
別にそんなつもりで来たんじゃない。そう言いかけた嘉長を制して、鷹臣は「試合に勝てて良かったな」と、当たり障りのないことを言った。
「絶対勝ちたい試合だったんだろ」
「ああ、そうなんだ」
齋藤曰く、今日の試合相手の白崎高校は、今年のインターハイ予選で苦汁を嘗めさせられた相手だという。部のモチベーションを上げるために練習試合といえど、今日は絶対に勝利を掴みたかった。それが部員の総意だった。
「余韻に浸っているところ悪いんだが、今日は依頼のことで来たんだ」
鷹臣はそう言って、急に歩き出した。
「着いてきてくれ」
五人分の砂利を鳴らす音がグラウンドに鳴り渡った。先程まで試合が行われていたコートを渡り、鷹臣たちがやって来たのは、昨日、自分たちが座った、グラウンド脇の木陰にあるベンチだった。
「単刀直入に言う。齋藤、ケルベロスはもう死んでいる。そしておまえは、それをすでに知っている。そうだな?」
鷹臣はベンチに腰を下ろし、正面に立った齋藤を見据えた。齋藤の喉仏がごくりと動く。閉じていた唇を少し開いたが、そこから言葉が発せられることはなかった。
「それで、いまから話すことは、おれの想像なんだが……」
いよいよこの時が来た。一度話し出してしまえば、もう後戻りは出来ない。だが、ここまで来たらすべてを明らかにするしかない。
「齋藤がおれたちに依頼してきたのは、『部活で飼っていた犬が行方不明になったから、探してほしい』……だったな」
「ああ……」
齋藤はそっと頷いた。
「でもおまえは、あのとき、ケルベロスがすでに死んでいるって知っていた。……つまりは依頼自体がおまえの自作自演だったんだ」
「ええっ!? そうだったんスか!?」
素っ頓狂な声を上げたのは、竜羽だった。おい、気付いていなかったのかよと、後輩の横顔を睨めつける。齋藤の眉がひそめられたのが見えた。
「な、なにを根拠に……」
「だから言っただろ。おれの想像だって。話はまだ終わってないぞ」
そのとき、木立のあいだに風が吹き抜けた。さわさわと木々の鳴る音がして、枝から離れた落葉が宙に舞う。齋藤はそのとき、ハッとしたように目を見開いて鷹臣の背後に視線を向けた。
「どこを見ているんだ。まだおれが話している最中なんだけど」
齋藤は項垂れるかのように俯いた。そこには先程までチームを護っていたときの気迫の欠片もない。試合のときにかいた汗ではないものが、彼の額にじわりと滲み出てきた。
「齋藤はここ半月くらいのあいだ、部員の誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰っていたと、他のサッカー部のやつらから聞いている。うちの龍田が、おれの代わりにいろいろ調べてくれていてな」
「齋藤先輩は、サッカー部のキャプテンとして、めちゃくちゃ頑張っているって、みんな言ってたッスよ」
「……でもおまえがそうやってたのは、サッカーの練習のためじゃないだろ」
ベンチの背もたれに腕をかけて、鷹臣は背後を振り返った。——散り積もった枯れ葉が集まって、小さな山が出来ている。グラウンドでは野球部、陸上部、サッカー部が分かれて活動をおこなっているが、彼らが手分けして整備をしても、いたちごっこのようにどこからか枯れ葉が湧いてくるという——。
「あそこ、なにを隠してるんだ?」
いまは落ち葉が大地に溢れかえる季節だから、木陰のそばに落ち葉の小さな山が出来ていても、さほど不自然ではないだろう。齋藤はそれを利用したのだ。みんなで掃除をして処理をしたはずの落ち葉をかき集めて、なにかを——ケルベロスの死体を隠すのに利用していた。
そうだろ? と鷹臣が問いかけると、齋藤はよたよたと力なく足を踏み出して、空いているベンチにどかりと腰を落とした。手を腿の上に投げ出したまま、はあっと大きくため息をついた。
「今日の試合のために、朝練も午後練も頑張ろうって決めたのはマジなんだ。でも、そう思って登校した最初の日の朝に、部室で死んでいるケルベロスを見つけてしまった」
可愛がっていた愛犬の急逝に、齋藤は激しく動揺したのだろう。
「みんなでアイツを育てて可愛がっていたから、このことが分かったらきっと俺みたいにテンパるかもしれないって思った。そうなったら練習に集中出来なくなるやつが出てくるかもしれない。今日の試合に影響が出るかもしれない。そんなふうに思ったら、ケルベロスが死んだことは、試合が終わるまで隠しておかないといけないと思ったんだ」
齋藤は言葉を切って、顔を上げた。鷹臣と視線がぶつかる。
「ケルベロスがいなくなったことにして、俺が探しているフリをしていたら、しばらくのあいだは大丈夫かなって考えて、お前らを巻き込んだ。……でも、なんでケルベロスはもうこの世にいないって、分かったんだ?」
「……それは、企業秘密だ」
竜羽が自身の特異な力をあまりひけらかしたくない様子なのは、アフタヌーンティ―部の皆が勘づいていた。だから、そんな後輩の意思を尊重するためには、『奥の手』を明らかにしない方法が最善だ。
「齋藤くんが『マイナスの想定』を言わなかったのは、僕たちに犬の死を連想させないようにと、密かに思っていたからなのか?」
「……そうだ」
消え入るような齋藤の返答を聞いて、嘉長はフンと鼻を鳴らした。
「あのとき、俺の誘いで宇集院たちはここに座っただろう。俺は敢えてそうしたんだ。逆にケルベロスの隠し場所の近くに誘導すれば、そこから気が逸れるかもって考えた。そんで、あまり意味が無いかもしれないと思いつつも、なるべく『死』に話題がいかないようにと思っていた。……触れられたくなかったのもあるが、俺自身が、現実をまだ受け入れられなかったからかもしれない」
人の目が多くなればなるほど、隠したものが見つかってしまう可能性が高くなる。サッカー部の連中が……いや、グラウンドで練習するすべての運動部員が、ケルベロスを見つけてしまわないように、齋藤は必死で気を配る必要があった。だからあの日も、転んで膝を擦り剥いた程度では、グラウンドを離れるわけにはいかなかったのだ。
だが、それも今日で終わりだ。
齋藤はスッと立ち上がった。
「サッカー部! 全員集合!!」
鷹臣たちがこれまでの半生において、誰も出したことがないような大声で、彼はグラウンドの整備を行っていた仲間たちをその場に呼び寄せた。
「あらためて、試合お疲れ様。今日勝てたから、またみんなのモチベも上がって、これからの活動に精が出るようになれると思う。……というのは前置きなんだけど、実は、俺からみんなに謝らなければならないことがあるんだ」
整列してキャプテンの話を聞く部員たちは、互いに顔を見合わせた。なぜサッカー部じゃない鷹臣たちがここにいるんだと言いたげな眼差しを向けてくる者もいた。
「ケルベロスのことだ。……二週間前、ケルベロスが失踪したと、みんなには言ったけど……あれは嘘だったんだ。本当はあの日の朝、俺はケルベロスが部室で死んでいるのを発見してたんだ」
誰かが息を呑んだ。マジかよ、と言葉を漏らす者もいた。それまで齋藤をぼんやりと見ていた部員たちの視線に棘が生えてきて、グサグサと彼を刺した。
「死因は分からない。夜のあいだに死んだんだろうなと、思った。なにか変なものを飲み込んじまったのかもしれないし、もしかすると病気にかかっていたのかもしれない。なにも分からなかったけど、唯一分かったのは、ケルベロスはもう、目を覚まさないってことだった」
「じゃあなんで、それをすぐにオレたちに言わなかったんすか」
列の後ろの方から声が上がった。周りの部員たちより背が高いその少年は、試合中、竜羽がしきりに「うちむらー!」と、名を呼んで応援していた相手だ。
「ケルベロスが死んだことをみんなが知ったら、今日の試合に影響が出るかもしれないと思ったんだ。おまえらが動揺して、練習や試合に集中出来なくなるかもしれないって……」
「キャプテン、オレらのこと、舐めてんすか? たかが部活で飼ってた犬一匹が死んだくらいで、オレらの誰も試合に集中出来なくなるわけないじゃないっすか。むしろそうやって変に気遣われるほうが、なんかキモイっつうか……」
内村は、先輩に対しても思ったことをズバズバと言ってのけるタイプなのだろう。隣の、おそらく同学年の少年に、「おい」と肩を小突かれてようやく、彼は口をつぐんだ。
「齋藤、あの犬を俺達の中で一番可愛がっていたのはオマエだろ。だからさ、俺達が試合に集中出来るようにっていうより、どっちかというと、齋藤が自分で現実を受け入れる準備をするために、下手な小細工ばかりやってたんじゃないのか? 他の部活のやつらまで巻き込んでよお」
最前列の一番左に立っているのは、尾張という名の部員だ。彼は副キャプテンを務めている。
齋藤は立ち尽くしたまま、なにも答えなかった。言葉が出てこない代わりに、段々と彼の目が潤んできて、「くっ……」と短く息を吐いたかと思うと、ごしごしと、目頭を手のひらでこすった。
「そう……なのかな……そうだったのかな……ごめんな、みんな。本当に申し訳ない。俺の勝手な判断で、訳の分からないことに巻き込んで。……宇集院たちも……ごめんな……」
「みんながみんな、齋藤とおなじ気持ちを持てるわけじゃないんだ。犬が死んだからって、誰もが自分の日常に支障が出るほど悲しんだりしない。でも誰も間違っちゃいない。齋藤が部員のみんなを気遣おうとしたことも、内村クンの言い分も」
秀嶺はポケットからハンカチを取り出して、齋藤に渡してやった。彼の目からとめどなく溢れている涙の理由は、一体何なのだろうか。
齋藤はくるりと踵を返してベンチの後ろに歩いていった。落ち葉が降り積もった……いや、積み上げられた場所だ。齋藤はそこにしゃがみ込んで、両手でガサガサと落ち葉をかき分け始めた。
鷹臣はごくりと唾を飲み込んだ。心の準備だ。あの落ち葉の山の中には、ケルベロスの死体がある。それを目の当たりにしなければならない。そう思った。
「心配しなくても、ケルベロスはもうここに埋めてるよ」
いつの間にか、齋藤は頭を上げて、鷹臣の顔を見ていた。心が見透かされたのだ。改めてその場所を見ると、土を掘り返したあとと、それを元通りにしようとして盛られた、明らかに不自然な小山があった。
「あの日、部活が終わってあいつらが帰ったあと、俺はケルベロスをここに埋めた。流石に放置は出来ないだろ。……あいつ、まだ小さかったからさ、それほど大変じゃなかったよ」
しかし、ここだけが不自然に盛り上がっていては、誰かが不審に思うかもしれない。だから齋藤はその後も、継続的に落ち葉を被せることによって、ケルベロスが見つからないようにと考えたのだ。
結果だけをみれば、彼の目論見は上手くいった。竜羽がケルベロスを『視る』ことが出来なければ、鷹臣は真相に気付けなかっただろう。
ザッザッと足音がして、そちらを見ると、サッカー部員たちが齋藤のそばに駆け寄るところだった。齋藤が立ち上がる。尾張が彼の隣に並んで、ケルベロスが埋まっている場所を見下ろした。
「オマエのやり方はどうかと思うけど、気持ちはちゃんと伝わったよ。な、みんな」
「おう!」
部員たちは皆、おなじ眼差しで、自分たちのキャプテンを見ていた。
「いきものを飼うっていうのは、たとえその場のノリで決めたとしても、責任がうまれるだろ。オレたちみたいなガキでも。だから、ちゃんと弔ってやろうぜ。オレもみんなも、齋藤ほどじゃないけど、ケルベロスの世話をするのは、楽しかっただろ」
部員全員の気持ちを代弁するかのように、尾張が言葉を続ける。必死で涙をこらえる齋藤の肩を叩いて、そっと、合掌をしてみせた。
7
「嘉長、秀嶺、竜羽、いくぞ」
鷹臣はそう言って、ローファーの爪先をとんとんと地面に打ちつけると、校門のほうへ歩き出した。
「あっ、おい!」
三人も慌てて後を追う。「もういいのか? あれで良かったのか?」
「サッカー部員全員が、ケルベロスの行方は分かった。だから、齋藤からの依頼は完了だ。あとはもう、おれたちの出る幕じゃないだろ。ってか、嘉長、一番面倒くさそうだったのに、後始末は気になるんだな」
「不本意だったとしても首をつっこんじまったんだ。最後までちゃんとやらないと、後味が悪いだろう」
「……ったく、素直じゃないやつめ」
秋が深まると、夏のそれとは違って陽はあっという間に沈んでいく。宇集院飯店の夜の営業時間は十七時からだが、おなじ時間でもあたりは薄暗くなっていて、互いの顔にも陰りがみえていた。
「たぶん、大丈夫ッスよ。ケルベロスくん、齋藤先輩たちのそばで、嬉しそうに尻尾を振ってます」
いちばん最後尾を歩いていた竜羽が、もう一度グラウンドの方に視線を向ける。鷹臣も嘉長も秀嶺も、グラウンドの向こう側にいるサッカー部員たちが黒い塊のようにしか見えず、そこにケルベロスがいるのかは分からなかったが、竜羽が言うのだからきっとそこには、齋藤のスマホの待ち受け画面でしか見たことのない柴犬の子犬が、幽霊となってもなお、あいつらのそばから離れずにいるのだろう。それはサッカー部の皆が、短いあいだでもケルベロスを大事に飼っていた、なによりの証だった。
「オミ先輩! オレ、今日も先輩んちにメシ食いにいってもいいッスか?」
今回の件のMVPは、犬のように人懐っこい瞳を鷹臣に向けてきた。
「ウチとしては、売り上げが上がるから助かるけど、いいのか? 脂っこいもんばっか食ってると、太るぞ」
「よく見たらオミ先輩もいい体してるッスけど、オレのほうが鍛えてるんで。そのへんのところは大丈夫ッスよ。なんだったら、メシの前に、先輩んちまで走りますか?」
「おっ、競争すっか?」
意外と乗り気なのは秀嶺で、嘉長はやっぱり、勝手にやってろよとうんざりした顔を見せた。
「おーい!」
校門を出ようとしたとき、齋藤の声が聞こえて、鷹臣たちは再び立ち止まった。ふざけてクラウチングスタートの姿勢で構えていた秀嶺は、あわててまっすぐ立ち直した。
「いつの間にかサッといなくなっちまうからビビったよ。まだここにいて良かった。……今回は、迷惑かけたな。ご……」
「謝らなくていいよ。齋藤はなにも悪くない」
頭を下げかけた齋藤は、驚いた顔をしてその動きを止めた。中途半端に前に屈んだ姿勢を、やがてゆっくりと元に戻す。
「ありがとう」
おなじ労いの言葉をかけられるなら、「ごめん」よりも「ありがとう」のほうがいい。鷹臣はスッと一歩前に踏み出して、「どういたしまして」と言うと、アフタヌーンティー部の面々に「じゃ、一件落着ってことで。行くぞ」と、顎でしゃくってみせた。
グラウンドの片隅に、廃材で作ったと思われる黒い十字架が建ったのは、週が明けた月曜日のことだった。やがて青海波学院の生徒たちのあいだで、奇妙な噂が囁かれるようになった。
——あの十字架のそばでは、グラウンド中を見渡せるような三つ首の小さな柴犬が、永遠のいのちを与えられて、今日も佇んでいるそうだ。



