岩手では並行して新たなプロジェクトが進んでいた。それは男の指示によるものではなく、若手社員たちによる自主的な取り組みだった。ICT技術をフル活用してトマト栽培の生産性を向上させようとするプロジェクトだった。人手や経験、勘に頼った農業からデータを重視する農業への転換を目指すものであり、ハウス内部の温度や湿度、炭酸ガス濃度、日照時間などをセンサーで測定し、それをクラウド上に集め、分析し、スマホで確認しながら最適な換気や灌水を自動化するものだった。それだけでなく、最適な収穫時期を予測し、それを知らせる機能も備えていた。

 リーダー格社員の話によると、このプロジェクトには新型コロナウイルスの影響によって倒産の危機に瀕した会社と社員を救ってくれた岩手県への恩返しの気持ちから始まったようだった。彼らは岩手県の行く末を心配しており、真剣な議論が続いたという。その論点は岩手県の現状を冷静に分析することであり、それを踏まえた上で対策を練ったのだという。

【分析結果】
 ・岩手県は高齢化が物凄いスピードで進んでいる上に若者の流出が拡大している
 ・今のまま放置していると生産人口が激減してしまう
 ・それだけでなく、若者の減少は出産数の減少に繋がる。今でさえ14万人しかいない年少人口が10万人を切るようなことになったら岩手県は消滅してしまうかもしれない
 ・手遅れになる前に若者が県外へ、特に首都圏に流出するのを止めなければならない
 ・進学や就職で首都圏に行った人たちの多くが帰ってこないのを仕方がないことと諦めているが、それではいつまで経っても変わらない
 ・若者を引き止めるような新たな産業を一気に立ち上げることは難しいが、農業に付加価値を付けて生産性を向上させれば、若者の就農希望が増えるかもしれない
 ・今までは一人前になるまでに10年が必要と言われていたが、データ管理によって作業を標準化できれば、経験の少ない若者でも立派な仕事をすることができる
 ・そうすれば、過疎化が進む地域に若者が戻ってきて農業を始めるきっかけになる

「彼らの熱気にあおられっぱなしですよ」

 リーダー格社員は電話をしてくるたびにそう言ったが、それは男も同じだった。電話からでも十分に感じられる熱気で期待が膨らむばかりだった。

        *

 分析に基づいた提案書が届いたのは6月25日だった。読んでいて、目頭が熱くなった。内容もさることながら、若手社員の行動力に感動したのだ。これは誰かに指示されたものではない。彼らが自主的に始めたものなのだ。社会経験がまだ数年しかない彼らの成長を感じて、胸がいっぱいになった。
 しかし、喜んでいるだけでは前に進まない。実行しようとすれば少なからず投資が発生するのだ。それは、ハウス野菜栽培会社のオーナーの負担が増すことを意味している。
 この厳しい状況の中で新規投資を考える経営者は皆無に等しいだろう。まずやるべきことは経費削減であり、手元資金の確保なのだ。例えどんなに素晴らしい計画であっても、状況が好転しない限り踏み切ることはないだろう。男はオーナーへのプレゼンを許可したが、甘い期待は持たないようにと釘を刺すのを忘れなかった。

        *

 翌26日、オーナーへのプレゼンが行われた。リーダー格社員によると、オーナーは腕を組んでじっと聞き入り、プレゼンが終わるまで微動だにしなかったらしい。しかも、プレゼンの最後に「総投資額は500万円」と告げると、オーナーは眉間に皺を寄せたという。
 それを見て社員たちに緊張が走り、空気が凍ったように感じたらしい。このような厳しい時期に多額の投資が必要な提案をすべきではなかったと誰もが思ったらしい。
 しかし、オーナーの返事はそんな心配を吹き飛ばすものだった。「やりましょう」という揺るぎない声が返ってきたのだという。

「オーナーは凄い人ですよ」

 リーダー格社員が漏らした感嘆の声が男の耳に響いた。
 オーナーはプロの農業経営者であると共にプロの投資家でもあったようだ。新型コロナウイルスの影響で株式市場が混乱している中、タイミングを見計らった売買で利益を上げていたのだ。株価が18,000円を割った4月第1週に余裕資金の多くを株につぎ込んだらしい。多くの投資家が売りを浴びせている時に買いに走ったのだという。世界中が金融緩和でジャブジャブの状態になっているから反騰するのに時間はかからないという読みからだった。
 彼の読みは当たった。多くの企業が大幅な減収減益に追い込まれ、企業倒産が続出し、失業率が一気に上がっているのに株価だけが急上昇した。そして、一時的に23,000円を回復した6月第2週にすべての株を売った。粗利益は600万円を超えていたらしい。税引き後でも500万円を手にすることができたようだ。株に投資した元本を維持しながら、新な余裕資金を手にすることができたのだ。
 しかし、オーナーの凄いところはそれだけではなかった。事業投資のタイミングについても確固たる信念を持っていたのだ。「景気の底で投資するのが勝ち組のセオリーです」と言ったというのだ。企業が受注を渇望する不景気の時にこそ投資すべきだと言い切ったという。更に、「相見積もりを取ればもっと少ない額の投資で済むと思いますよ」と表情を変えずに断言したという。

「凄い人だな……」

 リーダー格社員と同じ言葉が男の口から漏れた。