「ついに移動解禁ですね」
6月19日の朝、誰よりも早く出社してきた男性社員の明るい声が響いた。それは、旅行再開への期待に溢れる声であり、予約ゼロが続く状況の中で一筋の光明を感じた喜びの声に違いなかった。
「やっと本業に戻れますね」
何から手を付けようかとワクワクしたような目で男を見つめた。
それは、彼だけではなかった。続いてやってきた経理担当役員と40代の女性社員も明るい声で同じ言葉を口にした。
「う~ん、そう簡単には……」
男は元の仕事に戻るべきかどうか悩んでいた。
旅行業界は悲惨な状態に陥っていた。大手旅行代理店は軒並み大幅な減収減益になり、中小に至っては目も当てられない程の深刻な経営危機に直面していた。更に、今後の見通しがまったく読めない状況が続いていた。終息に向かっている日本と違って、外国、特にアメリカと南米、ロシア、インドの感染者数が急増していた。アメリカは200万人を超え、ブラジルは100万人を超えていた。ロシアは50万人を超え、インドもそれに肉薄していた。世界の感染者数は終息どころか増加しているのだ。そのせいで外国との往来はぱったりと止まり、インバウンドによる消費は無いに等しいまでに落ち込んでいた。
それに、ワクチンと治療薬の目処がまだ立っていなかった。いくつかの候補の治験が進んでいるが、効くかどうかは結果が出るまでわからない。2週間ごとに変異を繰り返す新型コロナウイルスに対応するワクチンが開発できるのか、既存薬の転用ではなく根本的な新薬が開発できるのか、その答えは誰も持っていなかった。
加えて、ウイルスが夏場に弱いという定説も通用しないようだった。色々な要因があるにせよ、アメリカ南部のテキサス州やフロリダ州で感染者が増加しているのだ。テレビのニュースでは水着で海に遊ぶ人たちの映像の上に感染者数の推移表が重ねて表示されていたが、気温の上昇と感染者数が反比例するというデータはどこにも見出せなかった。それは、これから本格的な夏を迎える日本にとっても他人事であるはずがなかった。
「喜ぶのはまだ早い。それに、元に戻ることがいいことなのかどうか、ゼロベースで考え直した方がいいように思う」
3人は戸惑うような表情を浮かべたが、男の中にもまだ最適解はなかった。
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『朝採れ野菜定期便』は想像を超える勢いで売上が拡大していた。テストマーケティングを終えて次の段階に進めた途端、注文客数が一気に200人を超えたのだ。採れたての野菜がその日に届くことと、今まで経験したことのない瑞々しさ、自然な甘さが顧客の心を掴んだようだった。そのせいか、新規が増えるだけでなく、リピート客がしっかりと固定化した。その上、毎週注文してくれる人が三分の二を超えた。高級ホテルの落ち込み分を補うまでには至っていなかったが、それでも、野菜の廃棄量は大幅に減少していた。
それは嬉しいことだったが、反面、男の頭を悩ませる問題が日毎に大きくなっていた。対象を全国に拡大していたメルマガの受信者から問い合わせが急増していたのだ。東京都限定販売の定期便のことを知った顧客が、自分も注文したい、どうやって注文したらいいのか、というメールを送ってきたのだ。それは日を追う毎に増えていた。
困ったことになった。要望に応えたいのはやまやまだが、物理的に無理だった。東京都以外には流通ルートを持っていないため、朝採れ野菜をその日の内に届けることができないのだ。既存の宅配便を利用したら早くても翌日の配達になる。遠隔地では数日後になる。そうなると、新鮮なイメージは激減する。当然リピートは来ない。そんな商売をするわけにはいかない。しかし、要望は増え続けている。男は頭を抱えた。
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なんの解決策も浮かばないまま時間だけが過ぎていったが、ある日、突然、岩手の女性社員から答えがもたらされた。野菜を休眠状態にできる技術情報をネットで見つけたというのだ。それは、一見なんでもない透明なフィルムの中に秘密が隠されていた。肉眼では確認できない微細な穴が無数に空いており、その穴によって二酸化炭素の濃度が調整できるのだという。
野菜の鮮度は周りにある酸素や二酸化炭素の量に左右される。常に空気に触れて周りに酸素がある状態では呼吸が進んで腐敗が加速するし、逆に、密封して酸素を遮断すれば酸欠状態になって腐敗が進む。だから、どちらの場合も時間を追って新鮮さが失われていく。それに対して、酸素濃度と二酸化炭素濃度を最適に調整することができれば、野菜を休眠状態にでき、新鮮さが長続きするというのだ。その濃度は、酸素で5~10パーセント、二酸化炭素で10~15パーセントであるらしい。
彼女は早速そのフィルムを取り寄せて、配送実験にとりかかった。男の自宅兼本社を届け先として比較実験を行うのだ。離島からの注文があることを考えて、宅配便を使って収穫の5日後に届く野菜と定期便を使って収穫当日に届く野菜の鮮度を比較するものだった。
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男は目隠しをされて、リビングで待ち受けていた。そこに、女性社員が二つの皿を持ってきた。一つは特殊なフィルムで包装して宅配便で送った5日前のトマト、もう一つは定期便で送った朝採れのトマト。
女性社員は二つの皿を机の上に置いて目隠しを解き、右掌を上にして男の方へさっと動かした。さあお試しになって、と促すように。
男はそのうちの一つを手に取り、色や皮の状態、ニオイを確かめた。口に入れて噛むと、ジュワッと口の中に新鮮な酸味と甘さが広がった。続いてもう一方を食べた。しかし、違いはほとんど感じられなかった。
それを伝えると、彼女は手を叩いて喜びを表した。するとすぐに本社の3人が目隠しをせずに食べ比べた。男と同じ感想を漏らすと、ヤッター! という歓声と拍手が沸き起こった。それは、東京都以外に住む顧客への対応が可能になった瞬間だった。そして、観光業以外の柱ができた瞬間でもあった。



