店から出た途端、零度を下回る外気がコートの上から男を抱いた。ほろ酔いだったが一気に素面(しらふ)に戻された。見上げると空には星が瞬いていた。

 なんていう名前の星なんだろう? 
 すばるかな? 
 オリオン大星雲かな? 
 でも、裸眼で見えるわけないか、

 溜息をついたら、白い息が目の前を覆った。

        *

 冷気に追い立てられてホテルに戻った男を暖房が心地良く迎えてくれた。

 こんな時は人肌が恋しくなるな……、

 ロビーを見渡してみたが、新聞を読んでいるオジサン一人とフロントの若い男性しか目に入らなかった。

 これが現実だよな~。

 男はエレベーターで5階まで上がった。

        *

 明かりを点けても部屋は暗かった。最低限の照明しかないのだから仕方がない。この値段で多くのことを望むのは欲張り過ぎだ。男はコートのままベッドにゴロンと横になった。すると、何かが気になった。なんだろうと思って横を見ると、もう一つのベッドが寒そうに震えていた。男は体を起こして隣のベッド移り、横になった。しかし、同じことだった。元のベッドが寒そうに震えていた。

 ツインも善し悪しだな……、

 男の独り言が低い天井に吸い込まれていった。

        *

 ふと寒気(さむけ)がして目が覚めた。2時間ほど眠ってしまったようだ。暖房をつけていたが、部屋の温度はぬるいお湯のようだった。旧式のセントラルヒーティングではこれが限界なのだろう。この値段で文句を言っても始まらない。備え付けのポットでお湯を沸かして体を中から温めることにした。

 空港の売店で買った焼酎をテーブルの上に置いた。飲みきりサイズのペットカップだ。ガラスコップの三分の一くらいのところまで注いで、その上からお湯を足した。〈お湯が先で焼酎があと〉というのが本当の割り方らしいが、男にはどうも馴染めなかった。逆の方がしっくりくるのだ。邪道と言われても関係ない。人に迷惑をかけるわけではないのだから、自分のやりたいようにやればいいのだ。そう、私は私だ。

 コップを近づけると、華やかな香りが鼻に抜けた。

 う~ん、初めての感覚。

 一口含むと、爽やかな風味が広がった。芋とも麦とも違うすっきりとした飲み口がたまらない。タンタカタ~ン♪ と口ずさみたくなるような軽快な飲み口だ。それに、ほんのりとした甘さがデザート感覚で楽しい。男は生れて初めてのシソ焼酎を堪能した。

 体が温まってきたので、コートを脱ぎ、小さな机に向かって仕事を始めた。炉端焼き店で写した料理の写真をカメラからパソコンにインポートして整理しなければならない。一つ一つ確認してホームページにアップできそうなものをピックアップした。

 パソコンでの作業を終えると、バッグから大学ノートを取り出した。青いCampus。しおりを挟んだページを開くと、昨日のことが書いてあった。日記代わりのメモ書きだ。その隣に今日のタイトルを付けた。

『釧路良いとこ一度はおいで』

 自分で書いて自分で笑ってしまった。ちょっとダサすぎ。2重線で消して書き直した。

『釧路記念日』

 暫く眺めて口に出してみた。

「くしろきねんび」

 悪くない。ありふれていそうで、そうでもない。この微妙な感じが受けそうな気がした。とはいっても、〈なんとか記念日〉というのはよくあるパターンだ。有名なものに俵万智の『サラダ記念日』という歌集がある。読んだことはないけれど。

 羽田空港からたんちょう釧路空港へ、そして、連絡バスで釧路駅前へ、更に、和商市場と炉端焼き、今日一日を思い出して、ペンを握った。
 この瞬間が好きだ。パソコンの画面に向かって入力するのではなく、ノートに字を書いていくことが好きなのだ。自分のへたくそな字を見ていると、生きているという実感がする。誰でもない、世界でたった一人の存在である自分が生きているという実感がするのだ。
 文書ソフトのフォントではそうはいかない。日本だけで何百万人、何千万人が使っているフォントにオリジナリティーはない。自筆の文字だからこそ存在感を表せる。アナログとバカにされてもこれだけは譲れない。私は私だ。

 今日一番印象に残ったのは……炉端焼き店を出て見上げた夜空だった。無数の星が煌めく夜空。キンと冷えて乾燥した空気が大気の透過性を上げて、普段は見ることのできない星々まで目にすることができた。

 立ち上がって小さな窓に近づいた。残念ながらはめ殺しの窓だったので、ガラス越しに見るしかなかったが、それでも部屋の明かりを消して、顔をくっつけて、夜空を見上げた。でも、星が見えたと思ったら、息で窓が曇った。すぐに拭いて息を止めて夜空を見上げると、西南の空にピアノの形をした星座が見えた。

 もしかしてピアノ座? 

 首を傾げた時、息が苦しくなった。慌てて後ろを向いて息を吐いたあと、大きく吸い込んで、また窓に向き合った。

 間違いない、ピアノ座だ。

 何故か確信して息が続くまで見つめ続けると、もう限界という時、ふと、ピアノを弾く手が見えた。そして、後姿が。

 ピアニスト? 

 そう思った時、我慢できなくなって息を一気に吐き出した。その途端、窓が白く曇って何も見えなくなった。でも、もう拭かなかった。明かりを点け、小さな机に戻り、大学ノートのタイトルを書き直した。