子供たちを花屋敷に呼んでピアノを教えることは叶わなかった。NPO法人の理事長に相談したところ、難しいと言われたのだ。希望する全員に教えるのであれば良いが、何人かにだけ教えるのは止めて欲しいと言われた。公平でも平等でもないというのが理由だった。
 言われてみればその通りだった。ここに来ている子供が全員希望した場合、それに対応することはできない。花屋敷にそんなキャパシティはないし、女一人で対応するのは無理だった。

「なんらかの負い目を持っている子供たちにこれ以上ストレスをかけたくないの」

 差別されている、自分は選ばれなかった、そんな理不尽な目に遭わせたくないのだときっぱり言われた。女は頷くことしかできなかった。

「気を悪くしないでね。あなたの気持ちはとても嬉しいの。何か役に立ちたいという想いから来ていることはよくわかっているし、とてもありがたいと思っているの。ただね、いろんな影響を考え抜かないと逆効果になることもあるということを知ってもらいたいの」

 良かれと思ってやったことがとんでもないことを引き起こす例をたくさん見てきたのだと戒めるような表情を浮かべた。

 女が花屋敷に戻って伝えると、奥さんはただ黙って一度だけ大きく頷いた。それは2人にとって残念なことではあったが、それでも支援を続けたいという気持ちが変わることはなかった。定期的に野菜を届けることに加えて、届けた日は子供が家に帰るまで相手をしてあげることを決めた。

「これだけでも立派なボランティアよ」

 暗くなっていた女の気持ちが少し軽くなった。

        *

「『ピアノの宿』というのはどう?」

「えっ? なんのことですか?」

 ボランティアが休みの日、家事が一段落して、お茶を飲んでいる時だった。突然のことだったので意味がわからず戸惑っていると、「岩手に帰ろうかなって思って」と意味ありげな笑みを浮かべた。
 メルマガとホームページに夢中になっている奥さんは、朝採れ野菜が届く度に「元気だ! 岩手だ! 野菜がうまい!」と口ずさんで、踊るような仕草をした。その姿を見る度に笑ってしまったが、娘と夫の思い出が詰まった花屋敷にいる辛さを紛らわせているように見えなくもなかった。

「本気なんですか?」

 奥さんは頷いたあと、笑みが消えた。寂しそうな目になった。

「あなたが同居してくれるようになって辛い気持ちは薄れてきたけど、『おやすみなさい』と言って自分の部屋に戻ると、娘や夫のことが一気に思い出されて眠れなくなるの。この家には思い出が多すぎる……」

 そして視線を外すように椅子から立ち上がって、窓辺に立った。

「それにね」

 振り返った。

「あの人達みたいに新たな挑戦がしたいの」

 花屋敷を守るだけの人生から卒業したいのだという。

「夫が手塩にかけて育てた庭を手放すのは断腸の思いなんだけど……」

 視線を庭に戻した。色とりどりの紫陽花が咲き誇っていた。

「でもね」

 また振り返った。

「朽ちるだけの人生を過ごしたくないの。光に向かって生きていきたいの」

 強い意志が目の中に宿っているように見えた。

「一緒に岩手に行ってくれない?」

 今は誰も住んでいない実家を改造して、2人で古民家宿をやりたいのだという。
 でも、どう返事していいかわからなかった。口籠ったまま奥さんから視線を外した。

        *

 その夜のテレビで〈移動制限解除〉のニュースが伝えられた。すべての都道府県の県境をまたぐ移動が明日から可能になるのだ。

「でも、まだ行かない方がいいわよね」

 6月18日の東京の感染者数は41人だったと男性アナウンサーが深刻そうな表情で伝えていた。

「そうですね。東京アラートが解除されてからの方が却って多くなったみたいだし……」

 感染経路がわかっていない人が22人、夜の繁華街に関連している人が10人、と女性アナウンサーが詳細を伝えた。

「感染しても症状が出ない人も多いらしいからね」

 自分が非感染者だと断言できないもどかしさを奥さんが訴えた。

「もう少し様子を見ましょう。その間に色々な準備をしておきましょう」

 女はまだなんとも返事をしていなかったが、奥さんの中では既成の事実として動き出しているようだった。この家の売却交渉も始まっているような気がした。