『後姿のピアニスト』~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~


 肌寒い朝だった。
 窓が雨粒で濡れていた。
 それを見ていると、彼女の涙のような気がした。

 小降りになった10時過ぎにホテルを出て、近くのカフェに入った。クロワッサンを一口かじって、カプチーノをすすったが、なんの味もしなかった。昨日から何も食べていないのに、かじりかけのクロワッサンも飲みかけのカプチーノにも手が伸びなかった。小銭を置いて、店を出て、霧雨の中を少し歩いて、バス停に立った。

 昨日と同じ時刻のバスに乗ると、見覚えのある顔がこちらを向いた。すると、あらっ、というような表情になったが、すぐに「ボンジョルノ」と明るい声で微笑んだ。しかし、男は暗い声しか返せなかった。昨日と同じ2列目に座っても、ルームミラーは見なかった。

 車内には陽気な音楽が流れていた。天気にそぐわない明るいメロディで馴染めなかったが、雨に煙る景色をぼんやりと眺めていると、曲が変わった。イタリア語で歌われるとても静かな曲で、雨の日にピッタリのそぼ降るメロディだった。それに抱かれていると、フェードアウトして曲が変わった。大好きな曲だった。『YOUR SONG』。思わずルームミラーを見ると、運転手が男を見ていた。その口元が動くと、微かに声が聞こえてきた。歌詞を口ずさんでいるようだった。男はルームミラーから目が離せなくなった。

 曲が終わった時、運転手がルームミラー越しにウインクを投げたように見えた。それは男の目の中にすっと吸い込まれて、心の中に溶けて広がった。

 ありがとう。

 日本語で呟いた。

        *

 バスを降りると、雨は止んでいたが、低く垂れこめた雲が無理矢理我慢しているように見えた。

 ありがとう。

 空に向かって呟いた。

 昨日と同じ場所に座ると、ジーパンの尻がじっとりと濡れた。目の前に広がる海は塞ぎ込んでいるように見えた。そのせいか、砂浜を歩く人は誰もいなかった。
 不機嫌そうな海から目を逸らして、手に持った写真を見つめた。

 君が望むなら……、

 砂の上にビニール袋と写真を置いた。

 ここでいいかい?

 返事はなかった。

 もっと後ろの方がいいかい?

 返事はなかった。それでも、海からの風に吹かれて写真がわずかに動いた。

 後ろの方がいいんだね、

 10メートルほど下がって腰を下ろすと、さっきよりはるかに見晴らしがよかった。

 ここでいいかい?

 今度も返事はなかったが、さっきと同じくらいの風が海から吹いても、写真は動かなかった。

 ここでいいんだね。

 確認するように写真を見つめてから両手で砂を掘った。50センチほどの深さになるまで掘り続けた。砂は重く湿っていたが、温かかった。すると、ウミガメの卵が孵化(ふか)する映像が脳裏に浮かんだ。

 ここで生まれ変わるのかい?

 しかし、返ってきたのは沈黙だけだった。小さくため息を吐いた男は、生卵を置くようにそっとビニール袋と写真を穴の底に置いた。
 それでも、埋められなかった。埋められるはずがなかった。2つを取り出して写真に頬ずりをして、袋の上からリングに口づけをした。すると、ぽつんと雨粒がビニール袋の上に落ちた。低く垂れこめた雲は、我慢の限界だと顔をしかめていた。

 そうだね、雨が降る前に埋めないとね……、

 ビニール袋と写真に口づけをして、穴の底に戻し、その上から少しずつ砂をかけた。彼女の顔が見えるように周りから埋めていった。
 見えるのは彼女の顔だけになった。もう口づけもできないし、頬ずりもできない。砂がついた人差し指を自分の唇に当ててから、彼女の唇の上にそっと置いた。
 爪に雫が落ちた。
 雨粒ではなかった。
 肩の震えが止まらなくなった。
 嗚咽が雨を呼んだ。
 風を呼んだ。
 波しぶきを呼んだ。
 叩き付ける雨に全身を震わせた。
 体の核が共鳴した。

 あ~~~~~~~~~、

 自分の声だとは思えない叫びが体の奥から噴き出した。すると、打ち消すように海鳴りが襲いかかり、男の叫びを包み込んだ。そして、渦を巻くように空へ連れ去って消えた。

 彼女の傍を離れることはできなかった。
 埋めたところに手を置いたまま動かなかった。
 びしょ濡れの体は冷え切り、感覚は無くなっていた。
 このまま死んでもいいと思った。
 一緒に遠い所へ行きたいと思った。
 穏やかになった海は子守歌のような波を寄せていた。

 …………

 いつの間にか眠っていた。
 夢を見ていた。あの運転手の夢だった。あの曲をずっと口ずさんでいた。男はルームミラー越しにそれをじっと見ていた。
 目的地に着いてバスを降りたが、バス停から動かず、運転手が戻ってくるのを待った。ずっとずっと待った。
 バスが戻ってきてドアが開くと、運転手が微笑んだ。男は微笑みを返してバスに乗り込んだ。
 一番後ろの席に座って、遠ざかる海岸を見ると、彼女を埋めた場所を月光が照らした。すると、砂の中から彼女が舞い上がって、男が遠ざかっていくのを上空から見つめていた。
 彼女が息を吐くと、男の左手の小指に何かが絡まった。でも、何も見えなかった。もう一度息を吐くと、その息は男の指に絡まった何かと一緒に空へ舞い上がっていった。そして、物凄い勢いで東の方角へ飛んでいった。それを見届けた彼女は砂の中に戻っていった。

 …………

 寒くて目が覚めた。
 まだ生きていた。
 彼女のところへは行けなかった。
 それが辛くて動けずにいたが、芯からの震えに促されて、立ち上がった。
 そして、重い足でバス停に向かった。

 暫くしてバスが来た。全身ずぶぬれの状態で乗り込んだ。偶然にも運転手はあの女性だった。乗車は拒否されなかった。発車すると、すぐにバスの中が温かくなり始めた。空調を冷房から暖房に切り替えてくれたようだった。男の他には誰も乗っていなかった。運転手と2人だけだった。
 陽気なリズムがバスの中を支配していた。レゲエだった。スッチャカ、スッチャカ、弾むようなギターのカッティングが運転手の肩を揺らせていた。

 男が降りるバス停に到着した。

 ありがとう。

 日本語で言って頭を下げた。すると、ちょっと待って、というふうに運転手が男の二の腕に触った。そして、一語一語確かめるように言葉を発した。

「When one door of happiness closes , another opens」

 その言葉をもう一度ゆっくり口にして、男の腕をギュッと握った。そして、大丈夫よ、というふうに男の目を見て頷いた。
 ドアが開いた。
 男はバスを降りた。
 雨の中、遠ざかるバスを見送った。
 すると、運転手の声と表情が蘇ってきた。

「When one door of happiness closes , another opens」

 一つの幸せな扉が閉じた時、別の扉が開く。

 バスが視界から消えた時、ポケットからスマホを取り出して、スペルを間違えないように気をつけながら入力した。
 すぐに検索結果が表示された。ヘレン・ケラーの言葉だった。続きがあった。

「When one door of happiness closes , another opens; but often we look so long at the closed door that we do not see the one which has been opened for us」

 一つの幸せな扉が閉じた時、別の扉が開く。しかし、多くの場合、我々はその閉まった扉をいつまでも見つめているために、新たに開いた幸せの扉が見えない。

 この言葉を何度も口に出して、その意味するところを考えた。
 何度も考えた。
 でも、自分にとって意味のある言葉だとは思えなかった。

 彼女との扉が閉まって、自分はその扉を見続けている。
 それは間違いない。
 でも、新たに開く幸せの扉は必要ない。
 望んでいるのは彼女との扉が再び開くことなのだ。
 彼女以外との扉が開こうとどうしようと関係ないのだ。
 だから、閉まった扉を見続けながらこれからも生きていくのだ。

 いつまでも一緒だからね、

 呟きを乗せて雨の中に彼女を探した。
 そして返事を待った。
 しかし、いつまで待っても彼女は姿を見せず、声は聞こえなかった。
 それでも雨の中で待ち続けた。
 雨が彼女の所に連れて行ってくれるのを期待しながら。