初デートは、彼女が勤務する病院の近くのイタリアンレストランだった。待ち合わせ10分前の18時20分にレストランに着いた。予約席に案内されたが、彼女はまだ来ていなかった。「何か飲まれますか?」と訊かれたが、水だけを飲んで彼女を待った。
 しかし、約束の時間になっても現れなかった。10分過ぎても、20分過ぎても、来る気配さえなかった。男は2杯目の水を飲み干していた。その間、スマホを何度も確認したが、着信履歴はなかった。すっぽかされた(・・・・・・・)という嫌な予感が脳裏を(よぎ)り、待ち惚け(・・・・)という言葉が追随した。その瞬間、彼女の顔が浮かんだ。あの日照れて上がってしまった彼女の顔だった。男は嫌な予感を急いで打ち消した。

 そんなはずはない、
 そんなことをする女性ではない、
 バカなことを考えるな、

 一瞬でも不信の念を持った自分を叱った。

 急な仕事が入ったに違いない。病院に急患はつきものなのだ。

 そう言い聞かせて、3杯目の水を一口飲んでから、入口に目をやった。すると、ドアが開いて若い女性が手を振った。しかし、男に向けてではなかった。男の後方席に座る男性に向けてのものだった。男の横を通り過ぎたその女性は、きつい香水の臭いを残して、席に座った。

 30分が過ぎても彼女は現れなかった。連絡もなかった。急に不安になった。

 まさか事故? 

 病院からこの店までは歩いて10分くらいと言っていたが、その間に事故に巻き込まれたのかもしれないと思うと、居ても立ってもいられなくなった。店の人に病院の場所と道順を訊いて、飛び出すように外に出て、早鐘のように打つ心臓を右手で押さえながら、病院への道を急いだ。しかし、事故の様子はどこにもなかった。

 病院に着いたが、外来の入口は閉まっており、夜間の入口を示す札がドアに掛けられていた。
 すぐにそこへ向かった。しかし、中へ入ることはできなかった。夜間受付を通れるのは急患か見舞いに限られていたのだ。中に入って薬局を覗きたかったし、彼女を確認したかったが、それは叶わなかった。ここで待とうかとも思ったが、万が一すれ違いになるといけないと思って店に戻ることにした。

 1時間経っても彼女はやってこなかった。連絡もなかった。それに、店は満席になっていた。男は針のむしろに座っているような居心地の悪さを感じていた。店の人は何も言わなかったが、困っているのは手に取るようにわかった。『シェフのお任せコース』を予約していたので、それを早く調理して出したいに違いない。これ以上待たせるのは無理だと思い、ホールスタッフを呼んで、料理を出すように頼んだ。そして、ビールを注文した。

 ビールと一緒に前菜が運ばれてきた。『タコのグリル、ズッキーニ添え』。もちろん2人分。白いシンプルな皿に薄く切られたズッキーニが7枚並べられ、その上にグリルした薄切りのタコが置かれ、プチトマトとレモンスライスが添えられている。レモンを絞ると、塩とコショウだけのシンプルな味つけとマッチして見事なハーモニーを奏でた。プロセッコだったら最高のマリアージュなのにな、と思いながらあっという間に食べてしまった。

 皿を下げに来たスタッフが「こちらの料理をどうしましょうか」と訊いてきたので、「そのままで」と返した。今すぐにでも来るかもしれないのだ、下げさせるわけにはいかない。

 ビールを飲み干したので白ワインを頼むと、すぐに2皿目が運ばれてきた。本日のスープだった。『ミネストローネ』。野菜たっぷりのイタリアンマンマの味。心配と不安で落ち着きのない胃に温かさと優しさが染み渡った。

 食べ終わってスプーンを置くと、目の前の2皿が寂しそうに溜息をついた。

 大丈夫だよ、
 彼女は絶対来るから、
 彼女が食べてくれるから、

 自らに言い聞かせるように彼らを慰めた。でも、それが実現しないまま3皿目が運ばれてきた。『生エビとモッツァレラのハーモニー』。丸く(かたど)ったモッツァレラの上に丸まった生エビ、その上にモッツァレラ、そして生エビと、紅白の4層が美しい。更に、その上に極細のモヤシとパセリが添えられている。ソースはかぼちゃの実と花を煮詰めたものだという。優しい甘さのソースと生エビ、そしてモッツァレラが見事に調和していて、正にハーモニー。それに白ワインが合うこと。

 とっても美味しいよ、

 座る人のいない目の前の椅子の背に話しかけた。

 布ナプキンで口を拭き終わった時、本日のパスタが運ばれてきた。『ウニのリングイネ』。鮮やかなライトグリーンの皿の上にウニを(まと)ったリングイネが上品に丸まっている。
「イタリアンパセリのソースと絡めてお召し上がりください」と言われて、ハッと気がついた。ライトグリーンは白い皿一面に塗られたイタリアンパセリのソースだった。フォークを手に取ったが、壊すのがもったいなくて、暫し目で味わった。しかし、口の中で存在感を増す消化酵素を含んだ液体と味蕾がその状態を許してくれなかった。ウニとリングイネをくるくるっと丸めてからソースに付けて口に運ぶと、濃厚なウニと爽やかなイタリアンパセリのソースが口の中いっぱいに広がった。余りの美味しさに目を瞑ると、ふっとシチリアの青い海が瞼の裏に浮かんだ。

 新婚旅行はミラノからシチリアまで足を延ばしたいな、

 まだ付き合ってもいないのに、彼女との将来を夢想した。その途端、その想いを壊すかのように誰かが立ち上がった。食事が終わったカップルだった。男性がカードで支払いをして、彼女と手を繋いで出て行った。

 現実に戻った男の視線は手の付いていない4皿に向かった。テーブルの半分では収まりきらず、こちらのスペースの一部に侵入していた。
 思わずため息が漏れ、それに促されるようにスマホを見た。もう何度目だろう。しかし、着信はなかった。彼女を信じる気持ちに変わりはなかったが、邪悪な囁きが耳の奥でどんどん大きくなっていた。

 いくら待っても彼女は来ないよ、
 信じても無駄だよ、

 男は頭を振ってその囁きを消して、残りのリングイネをすべて口に入れた。

 来る、来る、来る! 

 噛む度に心の中で呟いて邪悪な囁きを追い出した。それでも、ドアから入ってくる人は一人もいなかった。

 デザートが運ばれてきた。『マチェドニア』。細かくカットされた色々なフルーツがアイスクリームと共にワイングラスの中で色彩を放っていた。日本のフルーツポンチと違ってさっぱりとした酸味が心地良かった。

 食べ終わるのを見計らったように、『エスプレッソ』が運ばれてきた。これで最後だ。立ち上がってテーブルの真上から写真を撮ると、メニューのすべてが納まった。
『タコのグリル、ズッキーニ添え』
『ミネストローネ』
『生エビとモッツァレラのハーモニー』
『ウニのリングイネ』
『マチェドニア』
『エスプレッソ』
 記念すべき初デートを祝う特別なメニューになるはずだった。
 座ってもう1枚撮った。彼女の笑顔を思い浮かべて撮った。主のいない寂しそうな椅子の背しか写っていなかったが……。

 エスプレッソを飲み干して、トイレに行った。用を済ませて手を洗って鏡を見ると、目元がほんのり赤くなっていたが、瞳は青ざめているように見えた。上着のポケットからスマホを取り出して、最後の確認をした。着信はなかった。邪悪な囁きが戻ってきた。

 ジ・エンド! 

 うな垂れるしかなかった。スマホをポケットにしまって、席に戻った。

 ホールスタッフを呼んで料理を片づけるように頼むと、彼は無言で頷いて、厨房の方へ行き、木製のワゴンを手で押して戻ってきた。しかし、すぐに片づけようとはしなかった。その目は躊躇っているように見えた。

 本当によろしいんですか? 
 もう少しお待ちになったらいかがですか? 

 彼の手はワゴンのハンドルを握ったままだった。

 この人は自分と一緒に彼女を待っていてくれたんだな、と思うと、その気持ちが嬉しかった。それでも、区切りは付けなければならない。男は右の掌を上に向けて、皿の方へ動かした。すると彼は頷いて前菜の皿に手を伸ばしたが、でも掴まず、視線を男に向けた。

 本当にいいんですね? 

 男は小さく顎を引いた。

 わかりました。

 彼は皿に視線を戻して、ゆっくりと手を添えた。
 その時だった。
 ドアが開いた。
 誰かが飛び込んできた。
 髪が乱れていた。
 息を弾ませていた。
 男を見た。
 頬を抓った。
 頬から手を離した。
 唇が動いた。
 しかし声は届かなかった。
 でもわかった。
 ごめんなさい。
 男は彼女の目を見ながら小さく頷いた。
 息を整えた彼女がテーブルに近づくと、ホールスタッフが椅子を引いた。

 ごゆっくりお召し上がりください。

 笑みを残して、空のワゴンと共に厨房に消えた。

        *

 勤務が終わってロッカールームで着替えをしていた時、妊娠中の同僚が急にお腹の張りと痛みを訴えたため、ずっと付き添っていたのだという。薬剤部に同期入職して親しくしていたから心配で、ずっと手を握っていたのだという。幸い破水などはなかったため緊急入院にはならなかったが、それでも心配で、同僚のご主人が病院に到着するまで側にいたのだという。

「電話もしないでごめんなさい」

 謝り続ける彼女に、気にしなくていいからと笑いながら手を振ったが、実は、なんて可愛いんだろうとときめいて(・・・・・)いた。

        *

 髪型と化粧を直してきた彼女と料理を写真に納めた男は、プロセッコをツーグラス頼んで、彼女と乾杯をした。同期の薬剤師が健康でかわいい赤ちゃんを産めますように、と。そして、記念すべき初デートのハプニングに感謝、と。
 その瞬間、彼女の目から涙が一筋流れた。この店に向かって走りながら最悪のことばかり考えていたのだという。当然怒って帰っているだろうし、謝罪の電話をしても出てくれないだろうし、もう二度と会ってくれないだろうし、取り返しのつかないことをしてしまったと自分を責め続けていたのだという。だから店に飛び込んで席にいる男を見た瞬間、現実だとは思えなかったらしい。だから頬を抓ったのだという。そして、痛くて幸せだった、とはにかんだような笑顔を見せた。その笑顔を見て、運命の人に出会ったことを悟った。

 この人と共に人生を歩く! 

 心の声に頷いた。