男が30歳の時、知人の紹介で知り合った女性との交際が始まった。病院の薬局に勤務している4歳年下の薬剤師だった。小柄でちょっとふくよかな女性で、丸顔にショートヘアが似合っていた。縦に流れる前髪のラインが優しい雰囲気を醸し出していたし、笑うとえくぼが左側の頬にだけできて、なんとも可愛らしかった。
当時、男は大手旅行代理店に勤務していたが、給料の割に仕事が多く、いつも遅くまで残業を強いられていた。それに土日が休みではなかったので、学生時代に付き合っていた女性とは休日のスケジュールが合わなくなり、いつの間にか疎遠になった。
その後、会社の女性社員と何度か付き合ったが、どの人とも長く続くことはなかった。デートをした翌日にまた会社で顔を合わせる女性に新鮮な感情を抱き続けることはできなかった。それだけでなく、音楽と読書しか興味がない男と波長が合う女性は皆無に等しかった。それも、音楽はロックとジャズ、読書は経営書とマーケティング本というのでは、話が合わないのは当然かもしれなかった。
先輩の誘いで合コンに行ったこともある。しかし、まったく馴染めなかった。全員取り繕っていたし、雑談に見せかけた質問は品定めそのものだった。香水の匂いがプンプンしているのも落ち着かなかった。自分には合わない世界だと思って1回で止めた。
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30歳になっても彼女のいない男は、生涯独身でも構わないと思うようになっていた。なんだか女性と付き合うのが面倒くさくなっていた。ところが、意外なところから恋のキューピッドが現れた。
男は月に1回か2回、ジャズクラブに行っていたのだが、ある時、席が隣同士になって知り合った3歳年上の男性と音楽の好みが一致し、意気投合して、親しく付き合うようになった。その彼が連れてきたのが彼女だった。奥さんの妹だという。そして、その日が誕生日だった。4人が一つのテーブルを囲み、男は彼女と向き合う形になった。照れ臭かったが、会社の女性とも合コンに来ていた女性とも違う素朴な感じに何故か惹かれた。
ライヴが終わり、会場が明るくなったと思ったら、いきなりケーキが運ばれてきた。クラブからのバースデープレゼントだという。突然のことに照れて上がってしまった彼女はローソクの火をうまく消すことができずに困った表情になったので、男は助け舟を出した。もう一度、と右手の人差し指を立てて促した。それでもまた微かな息しか吐けなかったが、男がこそっと息を吹きかけて消すことに成功したので、助かりました、ありがとう、というように男に向かって両手を合わせた。会場からの拍手にまた照れて恥ずかしそうに俯いたが、その姿を見て心が揺れた。
彼女を守りたい、
生れて初めてそんな気持ちになった。



