その翌週、女性社員が復帰した。ドラッグストアの仕事も大変だったらしい。マスクやトイレットペーパー、ティッシュなどが売り切れる中で、喧嘩腰にクレームを付けてくる人への対応に神経をすり減らしたのだそうだ。それに、ドラッグストアならではの怖さもあったらしい。
「ドラッグストアは病気の人が来る頻度が高いので、いつも怖いなと思っていました。特に、咳をしている人を見かけた時や風邪薬の売場に立っている人を見ると、大丈夫かなと心配になりました。それに、ほとんどの人はマスクをしていますが、中にはしていない人もいて、そんな人がレジに品物を持ってくると、思わず引いてしまいそうになりました」
ドラッグストア業界全体の売上が2桁伸びており、彼女の勤務する企業でも2割以上伸びたので、アルバイトも含めて『特別手当』という名のボーナスが支給されたらしい。しかし、一人2万円だったそうで、感染の危険と隣り合わせになっている仕事に対する手当としては少なすぎると、従業員は不満を漏らしていたそうだ。それは彼女も同じで、リスクとメリットのアンバランスに悩むようになったのだという。
「会社に復帰できてほっとしています」
心の底からそう思っているような表情で鼻から息を大きく吐いた。
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全員が揃ったので、本社を兼ねた自宅のダイニングでささやかな食事会をすることにした。但し、唾が飛び交うのを避けるために、飲食の間だけマスクをずらすことにしようと男は提案した。すると、経理担当役員がニヤリと笑った。
「これがあれば大丈夫!」
彼は大きな紙袋からなにやら透明なものを取り出した。フェースシールドだった。自作したのだという。元々は医療機関に寄付しようと思って作ったものらしいが、いざ実行に移そうとした時、急に自信が無くなって取り止めたのだと末尾の声を落とした。
「素人の手作りで安っぽいけどカンベンしてね」と声の調子を戻して渡してくれたが、中々のものだった。角度が調整できるようになっていて、フェースシールドを装着したままでビールを飲んだり食事をしたり出来るのだ。皆が感心して、誰ともなく拍手が起こったため、予想外の反応に照れた彼はしきりに頭を掻いていた。
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宅配で届いた4種類のピザを小皿に分けて食べながら、Web会議ツールを使って岩手のメンバーと交流した。彼らは鍋をつついていた。
「岩手は感染ゼロですし、僕らは全員平熱で、咳・クシャミなしなので、安心して鍋をつつけます」と自慢げにリーダー格の社員が胸を張った。
「確かに。岩手は感染者がいないうえに、緊急事態宣言が解けたからいいよね」
5月14日に8都道府県を除く39の県に対して正式に解除の通達が出ていた。
「東京は大変そうですね」
東京の感染者数も激減していたが、まだ手を緩めるレベルには達していなかった。都知事からもしきりに3密回避を訴える声明が出ていた。その上で、〈新規陽性者数〉〈新規陽性者における接触等不明率〉〈週単位の陽性者増加比〉の重要3指標をモニタリングしながら緩和や再要請の判断をしていくとの方向性が示されていた。
「東京は最後になるだろうね」
残る8都道府県については、5月21日を目処に専門家の意見を聞いて判断されることになっていた。しかし、東京を含む首都圏の解除は最後になるだろうとの噂がもっぱらだった。
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ピザを食べ終わった東京組は、残った赤ワインをちびちびやりながら取り留めのない話を続けていた。男はお開きの時間を考えながら卓上の時計に目をやった。その時、「社長は結婚されないのですか?」と男性社員が何気ない感じで訊いてきた。その瞬間、役員と女性社員がフェースシールド越しに顔を見合わせ、首を横に振った。その話は訊いてはいけないというふうに。
「結婚しようと思っていた女性がいた」
言うつもりがなかった言葉が突然、口を衝いた。
「あっ」
訊いてはいけないことを質問したと感づいた男性社員が、しまった、というような表情になった。役員と女性社員はテーブルを片づけようと腰を浮かした。
「白血病だった」
3人の視線が男に集まった。
役員と女性社員は中腰のままだった。
男は座るように目で合図した。
「急性骨髄性白血病と告げられた日のことは忘れられない」
役員と女性社員が静かに腰を下ろした。
「手遅れだった……」
沈痛な表情になった男性社員が俯いた。



