翌日、ベーカリーの仕事が終わったあと、勤務時間を延長してもらえないか、オーナー夫妻に相談を持ち掛けた。ピアノの仕事が無くなって収入が半分以下になるので、フルタイムで働かせて欲しいとお願いした。しかし、
「ごめんなさい。そうしてあげたいのだけど、いま人手は足りているから、これ以上増やすことは考えていないの」
申し訳なさそうに奥さんが頭を下げると、ご主人が話を引き継いだ。
「これからお客さんの動きがどうなるか見極めないと、うちの店もどうなるかわからないからね」
頭の中は今後のことでいっぱいのようだった。
「今の状況は重々承知しています。無理を言って申し訳ありません。でも、もし午後勤務の人が辞められることがあれば、お声掛けしていただけるとありがたいのですが」
哀願すると、「わかってます」と静かな声が返ってきた。そして、「その時は真っ先に声をかけるから安心して」と優しい声になった。
女は深々と頭を下げて、店を辞した。
*
そのままアパートに帰る気になれなかったので花屋敷に立ち寄ると、退院して家に戻ってきた奥さんが庭で〈カランコエ〉の花がらを摘んでいた。女が声をかけると、あらっというような表情になって手招きをした。女は庭に入って、奥さんと並んで花がら摘みを手伝った。
ピンクの花を手にした奥さんの横で黄色のそれを摘んでいると、「カランコエの原産地って知ってる?」と女の顔を覗き込んだ。
「さあ……」
頭の中には何も思い浮かんでこなかった。
「マダガスカルなの」
一瞬、世界地図を思い浮かべたが、どこにあるのかわからなかった。
「アフリカ大陸の西に浮かぶ島よ」
そう言われてもピンとこなかった。
「アニメの映画見たことない?」
あっ!
一気にマダガスカルが身近になった。ニューヨークの動物園からケニアに送り返される途中で船にアクシデントがあり、流れ着いた島がマダガスカルだった。
確か、ライオンとシマウマとキリンとカバだったような……、
10年以上前に見た映画のシーンを必死になって思い出そうとした。
「あの映画が大好きでシリーズを全部見たのよ」
続編は、2と3とスピンオフ作品があってどれも面白かったと笑った。女は最初のしか見たことがなかった。
「夫も大好きで、特にシマウマのマーティーの大ファンだったわ。面白いことを言う度に笑い転げて……」
そこで途切れた。顔を見ると、暗い影が射していた。何か声をかけたかったが、言葉が何も見つからなかった。カランコエの花がらを黙々と摘んだ。
暫くして、奥さんに声が戻ってきた。
「何をしても、何を見ても思い出すの」
辛そうな声だった。
「毎朝起きる度にふっと帰ってくるような気がしてね、でも、夜になっても帰ってこないの……」
深い溜息が漏れた。
「残された身は辛いわね」
胸が締め付けられた。
「ごめんなさい、こんなこと話すつもりじゃなかったのに……」
女は大きく首を横に振った。
「あなたも私と同じなのにね」
父と母の顔が瞼に浮かぶと、気持ちが重たくなってきた。するとそれを察したのか、奥さんはいきなり立ち上がって、う~ん、と背伸びをしたあと、女に向き直った。
「お昼ごはん一緒にどう?」
頷くと、庭に入る前に玄関ドアに引っ掛けておいたビニール袋のことを思い出した。パンが2つ入っているビニール袋だ。今日店から貰ったのは『熟成ミルク食パン』と『マロンデニッシュ』だった。
「それなら、フルーツサラダとミルクティーでいただくのはどう?」
異論があるはずはなかった。思わずくりくりっと目が動いた。
「決まりね。では、ガーデンランチといきましょ」
庭にある白いテーブルの上に大きくて真っ白な陶器の皿を置き、その上でパンを切り分けた。
「お待ちどうさま」
奥さんがサラダとミルクティーをトレイに乗せて運んできた。庭で受け取ってテーブルの上に並べると、一気に春の匂いがした。レタスの上にイチゴが山のように盛られていた。『あまおう』と『とちおとめ』と『紅ほっぺ』だという。
なんという贅沢!
女は思わず唾を飲み込んだ。
一口頬張ると、なんとも言えない風味が口の中に満ちて、一気に頬が落ちた。貧しい食生活をしている女にとって、盆と正月とクリスマスがいっぺんにやってきたような至福の時間が始まった。
三種類の極上イチゴをたらふく食べてお腹を擦っていると、奥さんがコーヒーを持ってきてくれた。花がら摘みをしていた時の悲しそうな表情はもうどこにも痕跡が残っていなかった。良かった、と胸を撫で下ろした。少しでも元気になってもらえたらこんなに嬉しいことはない。時々遊びに来て一緒に庭いじりをしてもいいなと思った。本当は、ピアノの仕事が首になった愚痴を聞いてもらいたかったのだが、コーヒーと共にぐっと飲みこんでお腹の中にしまった。



