男は昨夜ほとんど眠れなかった。緊急事態宣言発令は、想像をはるかに上回る衝撃を精神に与えていた。眠気がまったく来ないばかりか、寝酒をしてもさっぱり効果がなかった。諦めてベッドに潜り込んだが、色々な不安が次々に頭に浮かんできて目は冴えるばかりだった。枕元にCDコンポを持ってきてヒーリング・ミュージックを流したが、リラックスも癒しも得られなかった。
諦めて午前4時にベッドを抜け出した。外は真っ暗だった。夜明けまでまだ1時間以上あるので当然なのだが、ため息が出た。
電気シェーバーを持ってトイレに入った。いつもなら髭を剃り終わる頃にお通じの兆しがあるのだが、今日はほんの控え目にガスが挨拶してくれただけだった。
トイレから出て洗面所に移動し、泡石鹸で顔を洗ってから化粧水をたっぷりつけた。そして、ジェット式のヘアトニックでマッサージしたあと、ヘアクリームを塗り、ドライヤーで髪をセットした。それが終わって洗面ボウルに目を移すと、抜け毛に目がいった。数えると、28本も落ちていた。
最近抜け毛が多い。頭皮の曲がり角なのだろうか? それとも、ストレスによる一時的なものだろうか? どちらにしても気が滅入ることに違いはない。ティッシュで拭ってゴミ箱に捨てたが、その上に1本はらはらと落ちてきた。それをつまんで毛根を見ると、膨らみが見つからなかった。毛根がほとんどない抜け毛は危険信号だと何かの雑誌で読んだことがある。
薄毛予備軍か……、
寝不足の体に重い鉛が被さった。
*
ホットミルクとバタートーストで朝食を済ませたあと、寝酒が残っている頭に喝を入れるために濃いコーヒーをマグカップ一杯飲み干した。ブラックが全身を駆け巡ると少しシャンとしてきたので、タブレットを立ち上げて、〈to-do list〉に本日の予定を打ち込んだ。
・賃貸ビルの解約通知
・本社移転登記の準備
・引っ越しスケジュールの立案
・事業者向け給付金制度の確認
・最大5年間元本返済据え置き融資の確認
・その他すべきことは全部
窓が明るくなってきた。カーテンを開けると、快晴のようだった。忘れ物がないか確かめて、家を出た。
*
三つの密を避けるために早めに電車に乗ったが、予想以上に乗客がいた。マスクをしていない人がちらほらいたので、そういう人たちを避けて車両の端へ移動した。そして、いつものように吊革に掴まろうとして、ハッと気づいた。
ウイルスが付着しているかもしれない、
慌てて手を引っ込めた時、急ブレーキがかかり、アナウンスが流れた。
「急停車します。ご注意ください」
しかし、遅かった。既に隣の人にぶつかっていた。なんとか転ばずに済んだが、思い切りキツイ目で睨まれた。男はちょっとだけ頭を下げて、ゆっくり方向転換をして反対側の端の方へ歩き始めた。「俺のせいじゃないし……」とブツブツ言いながら。
会社に着くと、既に出社している人がいた。経理担当役員だった。緊急事態宣言の会見を見て眠れなくなったから、始発電車に乗って会社に来たという。
上手がいた。2人で顔を見合わせて苦笑いをしたが、男はすぐに表情を引き締めてタブレットを取り出した。そして役員の隣に座り、2人でto-do listを確認した。



