気が気ではなかった。岩手県に出張させていた社員に指示を出してから10日が経っていた。彼に出したオファーは短期間で結果が出るものではないので、せっつくような電話は控えていたが、それでも返事が待ち切れなかった。4月2日、たまらなくなって電話をかけた。

「どうなった?」

 すると、「時間がかかって申し訳ありません。社長が希望される条件に当てはまるところが中々なくて……、それに私も土地勘がないので……」と消え入りそうな声が返ってきた。

「ダメだったか……」

 思わず沈んだ声が出たが、「いえ」と即座に否定された。

 えっ?

 その意味がわからず戸惑っていると、「遅くなりましたが、やっと条件に合うところが見つかりました」と尻上がりに声が明るくなった。

 見つかった? 

 なんでそれを先に言わないんだよ、と口に出かかったが、「遅くなって、本当に申し訳ありませんでした」という神妙な声に反応して、気の抜けたような声が出てしまった。

「そうか、見つかったか、そうか……」

        *

 東京都知事が発した『オーバーシュート(感染爆発)』『ロックダウン』都市封鎖)』という言葉を聞いた瞬間、『移動制限』『旅行自粛』ということがすぐに頭に浮かんだ。それは、旅行業界にとって致命的な事態に陥るということだった。つまり、事業継続の瀬戸際に立たされることを意味していた。

 売上がゼロになったらどれくらい持ちこたえられるのか? 

 信用金庫の融資枠は確保していたが、それは当面の経費を賄うレベルでしかなかった。新型コロナウイルスに対応するワクチンも治療薬もない中で感染爆発が起こったら、数週間程度の移動制限では済まないだろう。とすると何か月にも渡る可能性がある。売上ゼロで経費だけが出て行く期間が何か月も続くことになるのだ。そんなことになったら、とても会社を続けることはできない。廃業しか道が無くなる。それを避けるためには早急な一手が必要だった。特に、家賃と人件費への対策が急務だった。
 毎月支払っている家賃は共益費込みで65万円。解約する場合は3か月前に予告する必要があった。その上、原状回復するための費用が掛かることになる。但し、敷金を家賃の6か月分預け入れているので、持ち出しにはならないだろう。
 問題は人件費だ。社員の平均年齢は33歳と若いが、全員正社員なので給与以外の経費が馬鹿にならない。最も大きいのが社会保険料の会社負担分だ。それ以外にも福利厚生費や退職金の積み立てなどもある。全部合わせると、社員10名の年間人件費は5,000万円に達する。月に直すと400万円を超える。これをなんとかしなければならない。といって解雇することはなんとしてでも避けたい。社員は同志なのだ。家族なのだ。見捨てるわけにはいかない。絶対に雇用は守ると決めている。しかし、仕事が無くなることがわかっているのに指をくわえているわけにはいかない。
 出した答えは二つだった。
 一つ目、オフィス契約を解除して、本社を自宅に移す。
 二つ目、社員が当面働けるところを探す。
 着手順は逆だ。二つ目の目処が付いてから一つ目を実行する。社員の代替勤務先が見つかる前にオフィス契約を解除することはできない。

        *

 10日前、男が出した指示は〈岩手県の大規模農業法人との交渉〉だった。彼らは外国人労働者を数多く雇っていた。外国人技能実習制度を活用した農業経営を行っていたのだ。しかし、今回のコロナ騒動によって多くの外国人が帰国した結果、収穫だけでなく種まきや植え付けといった作業までが滞ってしまっていた。更に、入国制限によって新たな人材の来日が困難になり、農業の現場では深刻な人手不足に見舞われることになった。
 男はそこに目を付けた。一時的に社員を農業法人に派遣したらどうかと思ったのだ。もちろん、社員に農業経験はない。ど素人だ。しかし、若くて体力がある。物覚えも早い。しかもITを活用する能力が高いので、生産性改善へのお役立ちができるかもしれない。それに、農業経験を観光につなげられる可能性だってある。農業+観光=アグリツーリズムだ。世界ではアウトドア派を中心にその市場規模が急拡大しているが、日本ではまだほとんど知られていないし、市場自体が立ち上がっているとは言えない。でもだからこそチャンスなんだ。そう考えた男は、岩手で観光新所を探させていた社員に指示を出して交渉に当たらせていたのだ。

 交渉した農業法人はどこも「猫の手でも借りたい」「手伝ってもらえるなら何人でも雇いたい」と言っていたらしい。しかし、男が社員に指示していたもう一つの条件がクリアできなかった。それは、使われなくなった古民家を無料で貸してもらうという条件だった。農業+観光だけでは男の新プランは完成しない。そこに古民家生活というものが付随して初めて完成するのだ。農業+観光+古民家生活こそが、新たな観光資源になると考えたのだ。つまり、コロナ以降の新アグリツーリズムということになる。

 社員は岩手県内を駆けずりまわって男が出した条件を満たす農業法人を探したが、簡単には見つからなかった。それでも人伝(ひとづて)に捜し歩いて、やっとハウス野菜栽培を大規模に行っている会社に辿り着いた。そこでは年間を通じてトマトを栽培しながら多品種の青物野菜を手掛けていた。二代目になってから規模の拡大に着手し、その主な担い手として外国人技能実習生を活用していた。しかし、今回のコロナ騒動で12人いた外国人が全員帰国してしまい、まったく手が回らない状態になった。二代目は血眼になって働いてくれる人を探したが、簡単には見つからず頭を抱えていたのだという。

 彼が提示した条件は時給850円だった。8時間労働で1日6,800円。月に直すと約17万円になる。東京基準からするとかなり低いが、魅力的な提案が付随していた。毎日の昼食は賄いで出すというのだ。おまけにトマトは食べ放題だという。更に、管理している大きな古民家が空いているので自由に使っていいという。親戚筋に当たる大家は東京に住んでいるらしいが、岩手に帰ってくる予定がないらしい。管理を委託された手前、換気は定期的に行っているが、掃除にまでは手が回っていないので、使ってくれた方が助かると言われたらしい。

 男は即行で岩手に向かった。現地・現物・現実を確認するためだ。信頼している社員の報告とはいえ、自らの目で確かめずに決断を下すことはできない。

        *

 4月3日の昼、現地に到着した男はオーナーの案内でビニールハウスを見て回った。
 大型のハウスが10棟あった。敷地面積は2千坪を超えているという。生産品種はトマトと青物野菜が半々ということだった。その場でトマトを食べさせてもらった。丸かじりがおいしいと言われたので、がぶっといったが、程よい酸味と上品な甘みに感動した。それに、有機肥料と無農薬で栽培しているので、安心と安全も併せてお届けしていると強調された。更に、清潔な環境を心がけていると言うだけあって、ハウス内は汚れもゴミもなく、隅々まで管理が行き届いているようだった。
 これなら社員を働かせても大丈夫だ。オーナーの人柄と労働環境に惚れたのでほとんど心は決まったが、もう一つの条件を確認しなければ最終判断はできない。古民家だ。早速、案内を頼んだ。

 素晴らしい古民家だった。築100年の平屋建てで、和室が7室に台所と土間という堂々たる建屋だった。土地の広さは350坪で、裏には林が広がっていた。
 中に入ると、畳はかなり使い古されたものだったが、却ってそれが古民家らしさを醸し出していた。台所は2つのスペースで構成されていた。板の間にテーブルを置いた場所と囲炉裏のある場所だ。囲炉裏の周りには(わら)で編んだ円座(えんざ)が置かれていた。座ると、何故かとても懐かしい感じがした。それに、温かかった。合成繊維に慣れている現代人にとって自然が紡ぐ温かさは特別なように感じた。
 目の前には天井から吊るされている自在鉤(じざいかぎ)があり、見ていると、何故か薪が燃えて、五徳(ごとく)の上に網が乗っている光景が目に浮かんだ。
 網の上ではネギと大根が焼かれていた。
 皿の上には前沢牛が出番を待っていた。
 その周りには串に刺したヤマメが(あぶ)られていた。
 脂が一滴落ちた。
 その瞬間、五徳の上が鍋に変わった。
 郷土料理の『ひっつみ』だった。
 小麦粉をこねて薄く伸ばしたものを手で引きちぎって、野菜やキノコや鶏肉などと一緒に煮込む料理だ。
 温かい湯気が鼻をくすぐると、カツオ出汁の香りがお腹の虫を刺激した。
 さあ、腹いっぱい食べるぞ! 
 口の中は唾液で溢れそうになっていた。

「気に入っていただけましたか?」

 えっ⁉ 

 白昼夢と現実の狭間で自らの置かれている状況が一瞬わからなくなった。火の気のない囲炉裏が目に戻ってくるまで少し時間がかかった。

「いや~、いいですね」

 何事もなかったように声を取り繕った。

「では、」

 オーナーが決断を促した。
 男は立ち上がって彼の手を握った。
 契約成立の瞬間だった。