2日後、突然ドアが激しく叩かれたと思ったら、わたしの名前が呼ばれました。何度も呼ばれました。
「いるんでしょ。早く開けて!」
母の声でした。わたしは聴いていた音楽を止めて、息を殺して存在を消しました。それでも母はドアを叩き、名前を呼び続けました。わたしは両方の耳を塞いで耐えました。耐え続けました。すると、暫くして音と声が止みました。耳を澄ましていると、ドアポストに何かが落ちた音がしました。そして、靴音が遠ざかっていきました。そーっとドアに近づいて覗き穴から外を確認すると、母の後姿が小さくなっているのが見えました。それで肩から力が抜けていきました。ドアポストの中を確認すると、封筒が入っていました。わたしが出てこないことを想定して事前に書いたものだろうと思いました。こんなもの、と破ろうとしましたが破れませんでした。先ほど覗き穴から見た母の後姿が余りにも悲しそうだったからです。脱力感が全身を覆いました。それからは、何をする気も起らずボーっとしていました。
翌日の空は悲しげに曇っていました。椅子に座ると、テーブルの上にある封筒がわたしを見つめていました。手に取りましたが、すぐに戻しました。でも、もう一度手に取りました。破るためです。でも、破れませんでした。開けることも破ることもできず、気が変になりそうでした。いたたまれなくなって部屋を飛び出しました。
どういう訳か足は隣町へ向かっていました。それでも、今までと違って通り過ぎる景色はすべて灰色に見えました。錐体細胞が脳にグレーの信号しか送っていないのではないかと思うくらいでした。モノクロの世界の中を歩き続けました。
気がつくと、リサイクルショップの前に立っていました。店先に並んだその商品を見た途端、目に色彩が戻ってきました。真っ赤に塗られた自転車に釘付けになったのです。それは新品みたいにピカピカと光っていました。思わず近づいて値札を見ると、8,400円と手書き文字で書かれていました。中古にしては結構高いと思いました。新品でも1万円位で売っていますから。
「あら?」
店から出てきた奥さんがわたしを見て、目を丸くしました。
「遊びに来ました」
本当はそうではありませんでしたが、色彩が戻った脳がこの言葉を選んだようでした。
「素敵なママチャリですね」
褒めたつもりでしたが笑われました。「あなたみたいな若い人がママチャリなんて」と声を立てて笑われました。 ママチャリのどこがおかしいのだろう、と首を傾げていると、笑いを治めた彼女が、ハンドルからぶら下がっている丸いPOPをわたしに向けました。そこには、『シティーサイクル』と書かれていました。その時初めてママチャリ以外の言葉を知りましたが、お洒落な名前だなと思いました。
元々の価格は25,000円位で、サイズは26インチ、外装変速6段という優れモノだと説明してくれました。そして、「ビビッドカラーが素敵でしょ」と冴えた赤色のスポークを鮮やかな手つきで撫でました。するとどうしてかその仕草に色気を感じてしまい、シティーサイクルが艶めかしく見えました。恥ずかしくなったわたしは、目を逸らしてしまいました。
「ごゆっくり遊んでいってください」
彼女は自転車を勧めることもなく店の中に戻っていきました。
考えてみると、わたしの行動範囲は限られていました。徒歩では限界があるし、かといって公共交通機関を度々使うわけにもいかないからです。なので、自転車が必須のように思えてきましたが、8,400円という価格が引っ掛かりました。プライスカードと睨めっこして、う~んと唸ってしまいました。
欲しい、
でも、高い。
高い、
でも、欲しい。
欲望の神と節約の神が頭の中で戦っていると、ご主人がマグカップを持ってきて、「ラジカセと寝袋の具合はいかがですか?」と声をかけてきました。どう返事しようかと迷っていると、「温かいうちにどうぞ」とコーヒーを勧めてくれたので、素直に受け取って、フーフーして一口含みました。ミルクたっぷり砂糖多目のコーヒーでした。食道から胃へ温かな思いやりが流れたような気がしました。その瞬間、買うしかないと思いました。でも、すぐには切り出せませんでした。「温かい寝袋に包まれてラヴソングを毎日聴いています。音は最高に素晴らしいです」と先ほどへの返事をして、頷くように頭を下げました。
「それは良かった。安心しました。モノを売るのではなく満足を売りたいと思っていますので、とても嬉しいです」
ご主人はにこやかな笑みを浮かべてから、「ごゆっくり遊んでいってください」と奥さんと同じ言葉を発して店の中に消えていきました。後姿を見送りながら、押しつけがましさがまったくないオーナー夫妻の対応に涙腺が緩みそうになりました。
マグカップを近くの台に置いて、改めて自転車を見ました。キズは見つかりませんでした。塗装も剥げていませんでした。手でペダルを回すと、軽やかな音がして後輪が回りました。擦れるような音はしませんでした。ハンドルのブレーキをキュッと締めると、即座に後輪が止まりました。心地良い止まり方でした。前カゴの状態を確かめましたが、グラグラせず、しっかりと固定されていました。前輪のタイヤを両手の親指でおすと、押し返されました。最良の空気圧だと思いました。後輪のスタンドのロックレバーを軽く蹴って解除し、スタンドを上げました。ハンドルを持ってサドルにまたがると、とてもしっくりきました。まるで誂えたかのように馴染んだのです。思わずペダルを漕ぐと、スーッと走り出しました。ギアチェンジに挑戦すると、スムーズに変わりました。丁寧に注油されているようでした。気持ち良くなってそのまま漕ぎ続けましたが、ハッと気づいてブレーキを掛けました。オーナーに断りもせずに自転車を走らせていたからです。急いで店に引き返して無断で自転車を走らせたことを詫びると、彼らは咎めることもなく、「この辺りを一回りしてきたらどうですか」と更なる試乗を促してくれました。言葉に甘えて、自転車にまたがって走り出しました。
商店街を抜けて住宅街に入ると、裸の落葉樹に交じって所々で咲く寒椿の濃いピンク色の花が手を振ってくれました。暫く走ると、小さな赤い実が目に飛び込んできました。センリョウでした。角を曲がると、黄色の花が迎えてくれました。ロウバイでした。自転車を止めて、香りを嗅ぐと、とてもいい匂いがしました。フルーティーな甘い香りが鼻をくすぐりました。
商店街に戻る途中に表面が綿毛のようなもので包まれた花芽を見つけました。モクレンでした。この柔らかい毛を見ると、思わず撫でたくなりましたが、撫でませんでした。花芽を折ってしまったら大変なことになるからです。「春に大きな花を咲かせてね」と小さく手を振ってその場を離れました。
店に戻ると、2人はお客さんを見送っているところでした。
「どうでした? 気持ち良かったでしょう」
笑顔で自転車を受け取ったご主人がスタンドを立ててくれました。
「最高に気持ち良かったです。これ下さい」
いきなり購入の意思表示をしたので、ご主人はちょっとのけ反るような格好になりましたが、「気に入っていただいて良かった」と嬉しそうな顔を返してくれました。それから「ちょっと待ってくださいね」と言って店から油差しと布を持ってきて、可動部分への注油と全体の拭き取りをしてくれました。その動作は我が子に接するような優しさに溢れていました。満足を売るだけでなく愛情を売っているのだと思うと、ちょっと感動しました。
今回は値切りたいと思いませんでした。値切ったらこの自転車の価値が下がると思ったからです。1万円を渡すと、1,600円が返ってきました。プライスカードのままで売ってくれて、ホッとしました。お釣りを財布にしまっていると、「これを使ってください」と空気入れを手渡されました。思わず受け取ってしまいましたが、いくらなんでも頂く訳にはいかないと思って、押し返しました。でも、「この自転車に付いていたものですからご心配なく」とご主人に押し返されてしまいました。と言われても付属品とはどうしても思えなかったのでどうしようか迷いましたが、これ以上遠慮するのは却って失礼にあたると思ったので、厚意に甘えることにしました。謝意を伝えて自転車にまたがり、前カゴに空気入れを収納しました。
いつものように2人が見送ってくれました。漕ぎ出すと、「お気をつけて」という温かい声が後姿に向かって追いかけてきました。ペダルを漕ぎながら右手を上げて手を振ると、2人が大きく振り返してくれるのを背中が感じ取りました。幸せいっぱいの気分でペダルを漕ぎ続けました。
低速ギアから1段ずつ高速ギアに上げていきました。スピードが増すにつれて頬に当たる風が冷たくなりましたが、寒いとはまったく思いませんでした。却って心地よく感じたくらいです。すれ違う自動車やバイク、歩行者の誰もがわたしの自転車を見ているようで、ちょっと自慢気にペダルを漕いでしまいました。
アパートが見える角まで来たのでギアを低速にしてスピードを落としましたが、角を回った時、「あっ」と声が出て、思わずブレーキをかけました。見覚えのある後姿がドアの前に立っていたからです。母でした。間違いなく母でした。また来たのか、と嫌な気分になりました。自転車を止めて建物の陰から様子を窺いました。
母はドアを叩いてわたしの名前を呼んでいました。すると、隣のドアが開きました。出てきたおじさんが母になにやら言っていました。よく聞こえませんでしたが、うるさい、とでも言っているようでした。不機嫌そうな表情でした。母は申し訳なさそうに頭を下げました。でも、おじさんは許してくれないようでした。母は何度も頭を下げましたが、おじさんは、いい加減にしろ、と捨て台詞を吐いたような表情で勢いよくドアを閉めました。母は隣のドアに向かって深くお辞儀をしました。それからわたしのドアに右の掌をペタッと付けてそのままじっとしていました。
暫くして、うな垂れるように頭を下げたと思ったら、スローモーションのように振り返って、こちらへ向かってきました。わたしは慌てて建物の中に入りました。息を殺してじっとして見ていると、気づかれずに通り過ぎましたが、駅の方へ向かって歩く母の背中が微かに震えているように見えました。しかし、心は揺れませんでした。遠ざかる背中に向かって「二度と来るな!」と吐き捨てました。



