何故か足は病院へ向かっていた。手入れをする人がいなくなった荒れた庭を目にする度に、入院している人のことが気になってきたのかも知れない。
大きな病院だった。しかし、人の出入りは少なく、異様な静けさに包まれていた。病院封鎖は解けていたが、外来を訪れる患者の数は激減しているようだった。
恐る恐る中に入ると、台の上にアルコール消毒のボトルが置いてあった。足元のペダルを踏むと消毒液が出てくる仕組みになっている。両手に吹き付けて裏表満遍なく消毒したあと、総合案内所で用件を告げると、若い女性職員がマスク着用を確認し、発熱や咳などの症状を訊いてきた。ないと答えて、自宅で測ってきた体温を告げた。平熱だと知って安心したような表情になったが、14日以内の渡航歴の確認を忘れなかった。ないと答えると、面会者名簿に記入するように促された。すべてを記入すると、面会カードを渡された。首から下げるようになっているものだ。面会に対する一般的な注意を受けたあと、「入室前後には必ずアルコール消毒をしてください。それから、患者さんが疲れるといけませんので、出来るだけ短い時間で面会を終わらせて下さい」と釘を刺された。
病棟へ行って、エレベーターに乗って、7階で降りた。病室のドアには名前の掲示がなく、部屋番号だけが示されていた。プライバシー保護を重視している病院だと思った。
教えられた番号を見つけたので、ノックをした。しかし、返事はなかった。もう一度ノックをすると、今度は「はい」と小さな声が返ってきた。静かにドアを開けると、大部屋ではなく個室で、怪訝そうな表情の女性がこちらを見ていた。それは無理もなかった。この顔に見覚えはないのだ。警戒されないようにドアを開けたまま、自己紹介をした。すると、怪訝そうな表情が消えて、手招きをされた。
近づくと、ベッド脇の椅子を勧められた。ベッドから起き上がろうとしたので、そのままで、と手で止めた。彼女は、わかったわ、というような笑みを浮かべて、寝たまま口を開いた。
「あなたのことは主人から聞いて知っています。通りがかりに庭の花を愛でてくれる女性がいると、見舞いに来るたびに嬉しそうに話していました。そして、娘が戻ってきてくれたみたいで会うのが楽しみだと言ってたんですよ」
見つめる瞳には優しさが溢れていた。花屋敷のご主人と奥さんとの間でそんな会話が交わされていると知って驚いたが、それ以上に、明るい表情で話してくれる奥さんの姿を見ることができたのが嬉しかった。ご主人を亡くされて悲しみのどん底に沈んでいることを想像していたから、救われた気持ちになった。それでも、返す言葉は何も思い浮かばなかった。〈ご愁傷様でした〉でもなく、〈ご心痛お察し申し上げます〉でもない別の言葉を探し続けたが、脳の引き出しにそれ以外の言葉は入っていなかった。お見舞いの菓子を差し出しながら、「お口に合えばよろしいのですが」とだけ言った。
「お心遣いありがとうございます」
奥さんが軽く顎を引いたので、脇にあるテーブルの上に紙袋を置いた。そこにはミモザの花が満開になっている写真が置いてあった。吸い込まれるように見ていると、
「きれいでしょう。今年は今までで一番豪華に咲いたよって主人が……」
その後は嗚咽に変わった。視線を奥さんに戻すと、表情が一変していた。
「この写真を……、持ってきたその日が……、最後でした……」
絞り出した途端、右の目尻から流れ落ちた悲しみの雫が耳の穴に吸い込まれていった。肩が揺れていた。両手で布団を掴んで頭まで被ると、布団全体が揺れ始めた。女は耐えられなくなって手を顔に持っていこうとしたが、その前にすべての穴から哀惜の情が溢れ出した。それを隠すように両手で顔を覆ってドアの方に向かいかけたが、遅かった。背中にすがるような嗚咽が追いかけてきて、動けなくなった。女はその場にうずくまった。



