2月29日8時40分に久米島を飛び立った飛行機は予定時刻通りに那覇に着いた。そこで乗り換えて、羽田に到着したのは12時半過ぎだった。快晴だった。しかし、心の中には暗雲が垂れ込めていた。
スマホの電源を入れると、受信通知が現れた。キャンセルの報告だった。9時、10時、12時に1件ずつ。そしてそれらはすべて常連客からのものだった。
心の中で雷鳴が轟いた。本降りの予感がした。お腹が空いていたが、モノレールに飛び乗って山手線に乗り換え、最寄りの駅に向かった。到着するとすぐに立ち食いそば屋に駆け込んで、天ぷらそばを掻き込んだ。
会社のドアを開けるなり、社員全員が顔を男の方に向けた。とても心配そうな表情だった。
「ただいま」
男は無理矢理笑みを浮かべて大きな声を出した。社長が暗い顔をしていてはいけない。どんなことがあっても元気に振舞うのだ。天ぷらそばを食べながら何度も言い聞かせたことを実践した。
1時半にも1件キャンセルの電話があったそうだ。これで計4件。
席に座ってパソコンを立ち上げた途端、会社の電話が鳴った。北海道企画担当の社員が受話器を握っていた。彼が右手の人差し指を立てた。また1件キャンセルが入ったという意味だろう。男は動揺を隠して、頷きを返した。社内はシーンと静まり返った。
*
北海道企画担当の男性社員と琉球諸島巡り担当の女性社員、それに、経理担当の男性役員の3人を会議室に呼んだ。キャンセル料をどうするか決めるためだ。北海道企画担当の社員が口火を切った。
「キャンセルされたお客様全員がキャンセル料を免除して欲しいと言われています。今回のキャンセルは自己都合ではなく緊急事態宣言を受けてのものだから、特例として扱って欲しいというのが理由です」
もっともな理由だった。しかし、物事は単純ではない。該当する旅行に関係している交通機関や宿泊施設、オプショナルツアー会社などとの協議が必要なのだ。それぞれの会社がキャンセル料についての基本的な考えを表明してくれなければ、旅行代理店は動きようがない。先ず交通各社の動向を男性社員に確認した。
「全日空はイベント中止によるキャンセルについては個別に対応してキャンセル料免除を行っているようです。しかし、それ以外の一般旅行客については、どうするのかまだはっきりしていません」
「ホテルはどうだ?」
「何も決めていないようです。というよりも、決めかねているといった方が正確かもしれません」
「そうだろうな。業界他社の様子を見ているんだろうな」
「ところで、琉球諸島巡りの方はどうなっている?」
「まだキャンセルは入っていません」
「沖縄の感染者数は?」
女性社員がノートを開いて確認した。
「2月28日現在の感染数は3名で、そのうち2名がダイヤモンドプリンセス号の乗船客です。もう1名は感染経路不明だそうです」
「そうか、北海道のような状況にはなっていないんだな」
男はホッと胸を撫で下ろした。するとその様子を見て安心したのか、「北海道と沖縄では気温が全然違いますから、新型コロナウイルスがインフルエンザと同じようなら、気温の高い沖縄では発症が増えることは少ないかも知れませんね」と男性役員が楽観的な見通しを口にした。
「う~ん、そうかもしれないが、まだなんとも言えないな。新型コロナウイルスについてはほとんど何もわかっていないからね」
すると、確かに、というような表情で役員が口を噤んだ。
「それより、キャンセル料の扱いはどうしましょう?」
客にせっつかれている男性社員が〈早く決めて欲しい〉というように、射るような視線を投げてきた。女性社員と役員からも同じ視線を感じた。社長がどういう判断を下すのか、それが彼らの最大の関心事に違いなかった。
男は、口から出かかった〈もう少し様子を見よう〉という言葉を飲み込んだ。航空会社の無料対応を待つという選択肢もあるのだが、それで本当にいいのか、という心の声が聞こえてきたからだ。
「う~ん」
腕を組んで目を瞑ると、いきなり四つの文字が浮かび上がってきた。
『先義後利』。〈人として当然あるべき道を優先して利益は後回しにする〉という意味だ。
「う~ん……」
目を開けると、3人の視線はまだ強く突き刺さっていた。それはまるで男の真価を見極めようとするように。
確かに、状況が厳しい時ほどその人の真価が試される。特に、社長となれば尚更だ。状況が混沌としていても進路を指し示さなければならない。男は自分の信念に従うことにした。困難な道を選ぶことにしたのだ。
「冬の北海道企画に対するキャンセル料は取らない。交通機関やホテルなどから請求された場合はこちらで負担する。その分は取引先と別途交渉することにしよう」
男が言い終わると同時に男性社員が立ち上がった。
「すぐに連絡を入れます。喜んでいただけると思います」
「ちょっと待て」
背を向けた彼に次の指示を与えた。
「募集を止めなければならない。募集終了の案内を今すぐホームページに掲載してくれ」
すると彼は一瞬ビクッと体を震わせたが、大きく頷いてから部屋を出て行った。
それを見届けた男は女性社員に向き合った。
「沖縄の感染状況が心配だ。いつ急増するかもわからない。感染数だけでなく、首長がどのような判断をするのかによって、観光客の動きが変わってくる。それを見ながら迅速に判断しなければならない。些細な情報でもいいからきめ細かく収集してリアルタイムに報告して欲しい」
「承知いたしました。沖縄県知事だけでなく、市長や町長の発言もフォローして、迅速に報告いたします」
彼女のこめかみがグッと締まった。そして、ノートを閉じて一礼をし、部屋から出て行った。
「大変なことになりそうですね」
彼女の後姿を追っていた役員が、そのままドアの方を見つめながら重苦しい声を出した。
「大変じゃあ済まないかもしれない」
正しい決断をしたのだと自らに言い聞かせたが、声は沈んでいた。
「会社設立以来の危機になるかも知れない……」
役員はゴクンと唾を飲み込み、さっきよりもっと重苦しい声を出した。
「運転資金がいつまでもつか、ということですね」
男は硬い表情のまま頷いた。
「信用金庫へ行って融資の相談をしてくれないか。各社が殺到する前に枠を押さえておいてもらいたい。すぐに頼む」
重く暗く沈んだ空気の中、役員の頷きが凍ったように見えた。



