沖縄取材中も会社からは嬉しい報告が続いていた。『冬の北海道企画』が絶好調で、『真冬のカヌー体験ツアー』の申し込みも多いという。1月に続いて2月も過去最高の売上になりそうだった。
男は気合を入れて沖縄の取材に取り組んだ。といっても、有名な観光地を紹介することは考えていなかった。沖縄本島のビーチや国際通り屋台村、牧志公設市場、美ら海水族館、琉球ガラス村、中城城、平和祈念公園、エイサーなどは何処も大手旅行代理店によってしっかり押さえられているからだ。有名な観光地を紹介しても勝ち目はない。だから、知る人ぞ知る密やかな景勝地、沖縄本島を外した取材に集中することを決めていた。
キーワードは、沖縄ではなく琉球。
だから、新ではなく古。
人工的なものではなく自然。
物質ではなく精神。
有ではなく無。
今までも『琉球諸島巡り』は人気だったが、更に情報を増やして注目度を上げてお客さんを惹きつけなければならない。男は気合を入れて島々を渡り歩いた。
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太平洋と東シナ海に囲まれた琉球諸島は数多くの島々から成り立っている。奄美群島、慶良間諸島、先島諸島、そして尖閣諸島。なんと160の島々が点在しているのだ。そのうち、有人島が47で、無人島が113。飛行場は本島を入れて13あるので、飛行機と高速船を使えば、離島への移動も意外とスムーズだ。
慶良間の海岸は美しい。世界有数の透明度と言われる美しい海に囲まれているだけでなく、多様なサンゴ礁とそれを利用した豊かな生態系を育んでいる。周辺の海はザトウクジラの繁殖地にもなっている。
石垣島の川平湾も美しい。湾内には小さな島が点在し、エメラルドグリーンの海が広がっている。ここも透明度が高く、色鮮やかな魚やサンゴ礁を間近に見ることができる。
宮古島の与那覇前浜も外せない。エメラルドグリーンとエメラルドブルーが織りなす海の美しさは超一級品だ。空と海の青さを独り占めにして欲しい。
波照間島の海岸も引けを取らない。日本最南端の有人島である波照間の名前は『最果てのウルマ(サンゴ礁)』に由来するだけあって、サンゴ礁の美しさは半端ない。それに、遠浅が沖の方まで続き、海の中を歩いていると足元に魚が戯れてくる。そんな有りえない体験も期待できるのだ。
男は新たな情報をアップするために夢中になってシャッターを押し続けた。手付かずの自然の宝庫を前に我を忘れて写真を撮り続けた。観光客が少ない2月にどれだけ訴求できるか、それが勝負の分かれ目なのだ。北海道企画が好調なうちに『琉球諸島巡り』を大きな柱にしなければならない。会社の未来を双肩に乗せて島々を渡り歩いた。
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『琉球諸島巡り』の新たな情報と写真をホームページにアップした翌日から予約が入り始めた。順調な滑り出しだ。社員からの報告を受けて思い切りガッツポーズを作った。
その後も新たな写真とオプショナルツアーをアップする度に予約が入り続けた。この調子でいけば2月だけでなく3月も過去最高の売上を記録できそうだ。取材を終えた男は久米島で琉球諸島最後の夜を迎えた。
今日の夕食はクルマエビ料理と決めていた。久米島は人口8千人の小さな島ながら、養殖クルマエビの生産量が日本一なのだ。それに、ミネラル豊富な海洋深層水を使って育てているので、旨味や甘味が強く、エビ特有の臭みがないと言われている。東京に戻る前にこれを堪能しないわけにはいかない。男はカメラを持ってクルマエビ専門店に繰り出した。
沖縄の地ビールで一人乾杯をしたあと、早速クルマエビの刺身を堪能した。ぷりぷりした身が甘いこと甘いこと。思わず、幸せだな~、と加山雄三ばりに鼻を擦った。
次は塩焼き。これは外せない。シンプルイズベスト! 香ばしい匂いに刺激されて頭からバリバリとがっつくと、パリパリの殻とプリッとした身と濃厚なミソの甘みが加わって、極上の旨味が口の中いっぱいに広がった。
幸せだな~。
加山雄三の連チャンをやってしまった。そして、若大将張りにビールをグイっと呷ると、これがまた合うこと。一気に飲み干してお代わりを注文した。
次は何にしようかと迷っていたら、お店の人が『ガーリック炒め』を勧めてくれた。ガーリックとオリーブオイルでさっと炒めるのだという。無論、一も二もなく従った。これが大正解。シンプルな塩焼きを味わったあとだけにガーリックの刺激がたまらない。ビールと共にゴクゴクガツガツいってしまった。最高でした。ご馳走様。
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大満足エビ腹を抱えてホテルに戻った男は、資料の整理を終えたあと、昨日買ったクースをロックでチビチビやることにした。
テレビをつけると、天気予報をやっていた。ライトアップされた薔薇園からの中継だった。明日、2月29日は久米島も東京も晴れの予報だと告げたお天気お姉さんが好みのタイプだったので、テレビに向かってグラスを掲げて乾杯したりして、結構いい気分でクースを飲み続けた。
天気予報が終わると、コマーシャルに変わった。それをボーっと見ていたら、ニュース番組が始まった。トップニュースは、北海道知事が発した『緊急事態宣言』だった。
緊急事態宣言?
左手で持っていたグラスを落としそうになった。右手で支えながらグラスをテーブルに置き、リモコンに持ち替えて、音量ボタンの⊕を3回押した。キャスターが切迫した表情で経緯を説明し始めた。
「本日午後5時半から対策会議を開いた道は、状況がより深刻になっているとして緊急事態宣言を出し、3月19日までの3週間、外出を控えるように呼びかけました。現在までの累積感染者数は63人となっており、感染拡大のスピードを抑えることが最優先であるとの判断によるものです。飲食店やスポーツジムなどでの接触による感染の可能性が出ているので、特に週末については外出を控えてもらいたいと呼びかけています。また、観光客に対しても、人が多く集まる場所への行程を変更するなど、適切に判断してもらいたいと呼びかけました」
その後の説明によると、交通機関は平常通り運行されるようだし、小売り各社は時短はしても営業は続けるということだった。しかし、緊急事態宣言が出された北海道にわざわざ出かける観光客がいるだろうか? 現在好調な『冬の北海道企画』への影響がないとは言えないだろう。
背中にじわ~っと嫌な汗が浮き出てきたような感じがしたので、すぐに会社に電話を入れた。でも、「本日の営業は終了致しました」という録音メッセージが流れるだけだった。
直ちに北海道企画を担当する社員の携帯アドレスにメールを入れた。キャンセルの有無を至急連絡して欲しいと。すると、間を置かずに返信があった。
「今ニュースを見ています。大変なことになるかも知れません。本日退社時点ではキャンセルはありませんでしたが、明日朝一番で確認して連絡致します」
もうこれ以上ホテルでできることはなかった。
あとは祈ることだけだ。
我が社に影響がないことを祈ることだけだ。
………、
本当にそうだろうか? いや、違う。そんなことをしても意味はない。北海道企画でキャンセルが続出した場合の対応を考えなければならない。通常のキャンセル料は旅行開始日の前日から起算して20日前から発生し、旅行当日に近づくほど高くなる。それを適応できるのだろうか? 適応してもいいのだろうか?
そう思うと居ても立ってもいられなくなり、酔いを冷ますために冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、コップ1杯一気に飲んだ。
胃が冷えると、頭もスッキリしてきた。頬を両手でバシンと叩いて、気合を入れた。
先ず、今回の宣言は旅行者に対する移動制限ではない。次に、北海道企画の主な行き先は釧路や根室などで札幌や函館などの人が多く集まる場所ではない。だから、影響は軽微であると思われる。しかし、知事は外出の自粛を呼びかけている。特に週末には外出しないで欲しいと言っている。そして、飲食店などでの接触に気をつけて欲しいとも訴えている。ということは、知事の本音は旅行者には北海道に来ないで欲しいということに違いない。ということは、知事の気持ちを慮って旅行を取り止めた人にキャンセル料を請求してもいいのだろうか?
う~ん、難しい問題だ。簡単には解けない。しかしこれは大事なポイントだ。お客様との絆に影響する重要な判断になる。会社の利益を優先すれば常連客は離れていくだろう。といって、利益を無視した対応をすれば会社の経営は危うくなる。どっちを取っても茨の道が待っていることになる。
前門の悪魔、後門の死神。
男の体に震えが走った。



