ラウンジに客はまばらだったが、演奏を始める時間になった。ピアノチェアに座って鍵盤に指を置き、目を瞑って頭の中にメロディが流れてくるまで待った。楽譜を見るのを良しとしないからだ。というより、そもそも楽譜を見ながら演奏するのは好きではない。感情が入らないからだ。音譜をなぞるような演奏に意味があるとは思えなかった。いや、それどころか観客を騙す行為だとさえ思った。プロなら完全に暗譜して演奏に臨むべきなのだ。いや、それも違う。覚えたものを再現しても意味はない。自らの血肉になっていないものは本物とは言えない。偽物とまでは言えないとしても、誰かの借り物にしか過ぎない。だから常に想いを込めて鍵盤と踊る。時には優しく、時には激しく、時には寂しく、時には喜びを爆発させ、時には悲しみに打ち震えて、鍵盤と踊る。
バート・バカラックの顔が瞼に浮かび、それがカレン・カーペンターの微笑みに変わった。『遥かなる影((THEY LONG TO BE)CLOSE TO YOU)』のメロディが満ちてきた。
あなたの傍にいたい……、
夢見るような想いを伝えたい……、
わたしの指が放つメロディがあの人の元へ届きますように……。
演奏を終えると、ドキドキしながら振り向いた。
もしかしたら、またあの人が……、
でも、そこには誰もいなかった。小さな溜息をついてフロアに視線を戻したが、誰も自分を見ていなかった。もちろん拍手はなかった。また溜息をついた。そして、仮面を被った。『マスカレード(THIS MASQUERADE)』の旋律が頭の中に浮かぶと同時に、指がイントロを弾き始めた。
わたしは仮面舞踏会に紛れ込んだ哀れな女。
誰にも注目されず、誰にも踊ってもらえない。
カレン・カーペンターのハスキーな声が消え、この曲を作った彼の独特なダミ声に変わった。今日の気分はレオン・ラッセルだった。3曲目も彼の曲を選んだ。
『スーパースター(SUPERSTAR)』
偶然だが、これもカーペンターズが取り上げて大ヒットした曲だ。
指が勝手に動いて次の曲を弾き始めた。
『ア・ソング・フォー・ユー(A SONG FOR YOU)』
あなたに捧げる愛の歌。
あなたの暖かい拍手を待ちわびるわたしのための歌。
でも、演奏が終わっても拍手は聞こえてこない。振り向いても、あの人はいなかった。
溜息をついて自分の服を見ると、花が哀しげに揺れていた。
どうして?
スイートピーに向かって呟いた。すると、済まなさそうな囁きが聞こえた。
私の花言葉は『優しい思い出』だけではないの、他にもあるのよって。
そうか、そうだった、他にもあった。
女はその花言葉を思い出した。
それは、『別離』



