今まで学校をサボりたいと思ったことは数え切れないくらいある。だけど、今日ほど切実にそう思ったことはなかった。
 仮病でも何でもいいからそれらしい理由をでっち上げて逃げてしまえば、確かに今この瞬間だけは気が楽になるかもしれない。でもきっと、明日になったらもっと学校に行きたくなくなるのをおれは知っていた。今だって毎朝自分を騙し騙し登校しているような状況なのに、この上更に学校へ行くのが億劫になる原因を増やしてどうする。
 だからその日の朝は、いつにも増して学校へ向かう足取りが重かった。朝いつも通りの時間に家を出ただけでもとんでもない偉業を成し遂げたかのような気分だった。

 昇降口が近づくにつれて、胸の中の不安が少しずつ強くなってくる。
 花村と鉢合わせしてしまったらどうしよう。どんな顔して会えばいいんだ。
 下を向いてなるべく誰とも目を合わせないように歩きながらも、さっきからずっと動悸が収まらない。下足箱の前に立って努めて平然とした態度を装いながら上履きに履き替えている間も、いつ花村が隣に来るんじゃないか、そればかりが気になって生きた心地がしなかった。
 でもおれの心配は外れたらしく、上履きに履き替えて階段を上り始めても花村は姿を見せない。ほっとしたのも束の間、もう既に教室に来ているのかもしれないと気付いてまた足取りが重くなる。

 もうここまで来たら引き返せない。
 もし教室に花村がいても、いつものように目を合わせず一日やり過ごせばそれでいいんだ。そう、いつもと何ら変わりはない、ただ下を向いて一日が過ぎるのをじっと待ってひたすら堪えていればいい。
 難しいことなんか何もない。いつも通りでいればそれでいいのだ。

 教室に入る前に、中をそっと覗き見る。既にクラスの半分くらいの生徒たちがいて友達と喋ったり本を読んでいたりと思い思いに過ごしているが、花村の席には誰もいなかった。席の周囲にも花村の姿はない。
(まだ来てないのかな……)
 それは珍しいことだった。花村は大抵いつもおれより先に登校しているか、たまに遅くなっても昇降口か一階の階段あたりで会うことが多かったのに。花村は電車通学だから、電車が遅延しているせいで遅れているということも考えられるけど、他の電車通学している奴らはいつも通り既に来ている。
 自分の席に着いても、つい斜め前の花村の席に視線を向けてしまう。さっきまで感じていたものとは違う種類の不安がもやもやと広がって胸の奥に押し寄せてくる。もしかして、何かあったのかな。

「おーい、花村おっせーよ」
「まだギリセーフだろ。あっぶねー」
 予鈴のチャイムが鳴り響くのとほとんど同時に、教室の後方の出入り口付近からはしゃいだ声が聞こえてきた。聞き慣れた声に思わずビクッと肩が震えてしまったものの、一時間目の授業で使う教科書やノートを準備しているふりをして努めて平静を装う。
「なに、花やん遅刻? 珍しくね?」
「だから遅刻じゃないって、セーフだセーフ」
「後ろに寝癖ついてんじゃん、寝坊したんだろ」
「うわっ、マジ?」
 数人の友達と喋りながら、花村はおれの席の方に近づいてくる。もうとっくにおれの姿は視認できているはずだ。おれはただ下を向いてじっとしていた。息を止めて気配を消し、花村がおれの席を通り過ぎるのを待つ。
 やがて花村の気配が離れていき、自分の席の椅子を引く音が聞こえてきて、おれはほっと小さくため息をついた。その時、花村と一緒に騒いでいたクラスメイトの山下がおれの横を通り過ぎようとして、何故かそこでふと足を止めた。

「あっ、そうだ花村。オレ先週の金曜に見ちゃったんだけどさー、お前と湊くん二人でカラオケ行ってたよな?」

 さっと全身から血の気が引いた。
 山下の無駄にでかい声のせいで、それまでそれぞれの友達と喋っていたクラスメイト達が一斉にこっちを向く。顔を上げると、斜め前の席に座ろうとしていた花村と目が合った。
「……」
 さっきまで笑って友達とはしゃいでいたのに、花村はもう笑っていない。カラオケでおれの手を握っていた時と同じ、少し驚いたような目でおれをじっと見ている。
 花村の隣の席にいる清水がこっちを見ながら、半笑いで声を上げた。
「えーなんか、意外なんだけど。花やんと湊って今まで喋ってるとこ一回も見たことないよ?」
 教室のあちこちから小さなざわめきが起こる。
「湊くんってどんな曲歌うの? ってか、歌えんの?」
「カラオケ行って歌わなかったら気まずいじゃん」
「うわ、なんか意味深~。お前たち二人っきりで何やってたの? ここで言えること?」
 ひやかすような言葉を投げつけてくるのは男子だけだったが女子たちもただ黙って聞いているわけではなく、くすくす笑いながらこっちを見ていて、中には何かひそひそと喋っている奴もいる。その嘲笑は花村ではなくおれ一人に向けられているものだと、喋っている内容を聞かなくても分かった。

 迂闊だった。学校の最寄り駅の周辺なんて、どこにクラスの連中の目が潜んでいるか分かったものではないのに。やっぱりあんなところで待ち合わせなんかするべきじゃなかったんだ。
 もし誰か見知った奴の目に留まればこうなることは予測できていたはずなのに、どうしてあの時のおれはそんなことも思いつかなかったのか。

「おい、いい加減にしろよ。俺ら別に、何も……」
 花村は少し遠慮がちに止めようとしている。だけど、すっかり悪ノリしている奴らの耳には届いていないようだ。
 おれの席の横に立った山下はにやにやと薄ら笑いを浮かべながら、腰をかがめておれの顔を覗き込んでくる。
「湊くーん、大丈夫だった? 花村に何か変なことされてない?」
「山下ぁ〜、やめろって。それセクハラ」
「えーだって気になるじゃん。湊くんって真面目なのに、花村が変なこと教えたりしてないか心配で」
「つか、花やんも湊も男じゃん」
「花村ってソッチ系だったの? だから彼女作んないんだ」
「うわー確かに! この間も北高の超可愛い女子から告られてんのに振っちゃってたからさあ、なーんか怪しいとは思ってたんだよな」
「理想が高すぎるのかと思ってたけど、ただ単に女に興味ないってだけかあ」

 下卑た笑い声が頭の中で反響して、ひどく不快だ。ぎゅっと握りしめた手のひらには汗がじっとりと滲んでいる。心臓の音がうるさい。
 こっちを見てにやにやと厭な笑いを浮かべている奴らのずっと向こうで、花村だけがおれを真っ直ぐに見つめている。不安そうな……いや、何か言いたそうに、じっとおれを見ている。

 何なんだよ。
 言いたいことがあるなら、さっさと言えよ。
 おれと違ってお前は人前でも緊張しないで普通に話せるくせに、なんで何も言わないんだよ?
 あの時だって。

『俺……今すごく、せつない』

 熱を帯びた目。
 あの時の花村が見ていたおれもきっと、同じ目をしていた。
 おれの手の震えと花村の指の震えが重なる感覚は、今もまだはっきりと覚えてる。

 おれは咄嗟にガタンと席を立つと、その場から駆け出した。クラスの奴らにどう思われるとか、そんなこと気にしていられる場合じゃなかった。

 花村が、怖い。
 あいつのおれを見る目が、もうあの時までのそれとは違うものになっていると分かってしまったからだ。
 そしてきっと、それは花村だけじゃなくて。

 教室を出た途端、背後からどっと笑い声が巻き起こった。
「あ~あ、湊くんカワイソー。泣いちゃったんじゃない?」
「バッカお前、元はと言えば山下がなんか変な方向に話持ってくからだろー」
「花やん、湊はピュアなんだからさー。あんまり弄ぶなよ」

「だから、そんなんじゃないって! もうやめろよ」

 笑い声の中で、確かに花村の怒鳴る声が聞こえた。
 今まで花村があんなふうに怒りを露わにして怒鳴るのを聞いたことは一度もない。
 教室が水を打ったようにしんと静まり返っても、おれは廊下を走るのをやめなかった。少しでも遠く、あの教室から離れたかった。

 *

 朝のホームルーム開始を告げるチャイムが鳴り響いている。もう廊下にも階段にも生徒の姿はない。
 一階へ続く階段を駆け下りている途中、踊り場のところで突然後ろから誰かに手首をぐいと掴まれ、驚いてそこで立ち止まる。振り向くと、そこにいたのは肩で息をしている花村だった。
 追いかけてきていたのか。全く気付かなかった。
「……どこ、行くの」
 乱れた呼吸の隙間から、花村は掠れた声でそう言った。
「別に……いいだろ。どこでも」
「湊」
「離せよ」
 手を振り解こうとしたけど、花村の手はおれを離そうとしない。黙ったまま、ただじっとおれの顔を見ている。

 花村の視線が怖い。
 もう今の花村の前では、どんな隠し事もできないような気がする。
 あの時、あの目で真っ直ぐに見つめられた時、おれは自分がずっと恐れていたものの正体を初めて知ったのだ。誰かに見られていると思うとまともに喋れなくなるのは、心の中を覗き込まれているようで怖かったからだ。自分の中の恐れを他の誰かに見つけられてしまうのがたまらなく怖かったからだ。
 もちろん、そんなこと現実には起こり得ないと分かっている。他人が胸の内で考えていることなんて、見ただけで分かるはずがない。
 でもあの時、花村は確かにおれの心の中を見ていた。おれの目を通して、おれの中の恐れを覗こうとしていた。
 あんなふうに真っ直ぐな目で見つめられたのは初めてだったから、おれはどうしたらいいのか分からなかった。目を逸らすなり、笑って誤魔化すなり、いくらでも逃げる手段はあったはずなのに、そのどれもおれにはできなかった。どんなに取り繕って隠しても花村には暴かれてしまうのだと、あの瞬間に分かってしまったから。

「……ごめん」

 消え入りそうなほど小さな声で、花村はそう呟いた。おれの手首を掴む花村の手はひどく熱を持っている。
「なんで……花村が、謝るんだよ」
 下を向いてやっと絞り出した声は、少し震えていた。
「もっと学校から離れた店にすればよかった。クラスの奴に見られるなんて、思ってなくて……」
「……」
「それと、あの時のことも。湊に嫌な思いさせたの、本当に悪いと思ってる」
 かっと全身の血が逆流するような感覚で、めまいがした。花村の手が握っている手首だけじゃない、顔も身体も全てが熱い。
 花村の顔が見られない。きっと今のおれ、真っ赤な顔してる。
「俺のこと、怖かっただろ。ごめん」
 何言ってんだ。怖くなんかない。
 そう言おうとしたけど、きっとそれも嘘だと花村にはすぐに気付かれてしまうのだろう。あの時あんなに震えているところを見られて、誰かに見られていると喋れなくなることも知られて、花村にはもう隠しようがない。
 唇をぎゅっと噛んで、身体の奥底から込み上げてくる何かを必死で抑えつける。

 触りたい。
 あの時おれは、確かにそう思っていた。
 今にも触れてしまいそうなほど近くにあった花村の頬に、唇に、たまらなく触りたいと思った。どうしてそんなことを思ったのか、自分でも分からない。だけど、自分と同じ男に対してそんなことを思うのは普通ではないということだけは分かる。
 きっとあの時のおれは極度の緊張で、どうかしていたのだろう。それだけで片付けてしまえたら楽だったのに、そうではないということをおれはたった今知ってしまった。
 手首が、熱い。花村の触れているところだけが、異常なほど熱を持って疼いている。

 これだけは花村に知られるわけにはいかないのだ。
 おれのこの熱の疼きを知ったらきっと、花村はもう二度とおれに話しかけてこなくなる。それどころか、おれに近づくことすらためらうようになるだろう。

 でもそれは、今までと何が違うというのか。おれと花村はそもそも最初からそうだったんじゃないのか。
 おれ達はこの半年の間、同じクラスにいるのに話すことも、目を合わせることもなかった。同じ空間にいても別々の場所にいるような、それが普通の状態だった。
 ただ元に戻るだけだ。なのにおれは、何をこんなに恐れているんだろう。

「もう、さ。おれに話しかけるの、やめた方がいいよ」
 どのみち、おれと花村が話すことなんてもうないんだ。一度だけ生朗読を聴かせたらそれで終わり、最初からそういうことになっていたのだから。
「……なんで?」
 花村はひどく冷めた声で聞き返してくる。おれは下を向いたまま、花村の視線から逃げるように続けた。
「花村には友達がいっぱいいるだろ。おれみたいな暗くてキモい奴と一緒にいたら、花村もおれと同類だと思われる」
「いいよ、別に」
「よくないだろ」
「俺がいいって言ってんだから、いいだろ」

 どうして分かんないんだよ。
 おれだってこんなこと、言いたくないのに。

「……っ、いいからもう、離せよ!」
 花村の手を思いきり強く振り解いた瞬間、それまでずっと抑えつけていたものが溢れ出した。
 花村は信じられないものでも見るような目でおれを見ている。
 頬を生温いものが滑り落ちていく。

「……もう二度と、話しかけんな。迷惑だ」

 それを手で雑に拭いながら、おれは階段を駆け下りていった。

 苦しい。
 もし実際に剃刀が喉に刺さっても、ここまで苦しくはならないだろうと思う。
 喉が痛くて、まともに息ができない。苦しい。

 きっと喜助の弟もこんな気持ちだったんだ。
 自分が喜助の負担になっている。自分の大切な人が、自分のせいで苦しんでいる。
 弟だって、本当は死にたくなんかなかったはずだ。本当はずっと喜助と一緒に暮らしていたいと思ってたはずだ。なのに自分が病気のせいで働くことができなくて、喜助の負担になっている。喜助に迷惑をかけてる、喜助の人生の邪魔になってるって思ったら、もう堪えられなくなってしまったんだ。喜助をそんなに苦しめてまで生きることに何の意味があるのか、もうこれ以上生きていけないって、そう思ったのだろう。
 本当はずっと喜助と一緒にいたかったのに、喜助のためを思って一人で先に死ぬ道を選んだんだ。

 今のおれも同じだ。
 おれは、花村の邪魔をしてる。花村の負担になっている。
 花村にはあいつを慕う友達がたくさんいて、本来はおれなんかとは住む世界が違うんだ。おれは、花村と一緒にいていい人間じゃない。
 そんなことずっと前から分かってたのに、おれはいつから勘違いしていたのだろう。

 朗読を褒められて、いい気になって、花村に話しかけてもらえたくらいで、おれ一人で勝手に舞い上がっていただけだ。
 花村にとってはおれなんて最初からその他大勢の一人でしかない、取るに足らない存在だったのに。そこにいようがいまいが、花村の世界には何の影響もない。おれがいなくなったところで何も変わることはなく、花村の世界はいつも通りに回っていく。
 だけどおれにとって、あれは世界をひっくり返すような出来事だったのだ。花村に話しかけられたあの瞬間、おれの世界は変わってしまったのだ。
 そしてもう二度と、前と同じ状態には戻らない。花村と言葉を交わす前のおれにはもう、戻れない。

「……っく、う……」
 泣くのを堪えるのがこんなに苦しいなんて知らなかった。
 ずっと一人で部屋に篭って朗読していれば、こんなに苦しむこともなかったのに。
 なんでおれに話しかけたりしたんだよ。お前にとっては些細なことだったのかもしれないけど、おれにとってはそうじゃないのに。
 こんな気持ち、知りたくなかった。
 どんなに欲しくても手に入らないのなら、最初から知りたくなかったのに。