いつも自室に篭って一人で朗読していた。誰かの前で朗読するなんて、そんな日は一生来ないと思っていたのに。
自分でも信じられないほど声は滑らかにするすると、流れるように出てくる。早く終わらせようと焦って早口になることもない、緊張で声が震えることもない。紙の上の文字を目で追いながら、頭の中が真っ白になるなんてこともない。静かな狭い部屋の中、聞こえるのはただ朗読する自分の声だけ。
高瀬舟は短編小説だから、全文を朗読してもそれほど長い時間はかからない。前半部分では喜助を小舟で護送する庄兵衛が彼に今の心持ちを尋ね、喜助の身の上と自分の生活とを見比べて、二人の財産に対する価値観の違いについて考えを巡らす。後半では喜助が弟を殺した経緯を話し、彼のしたことが罪と言えるのか庄兵衛には答えが出せないまま物語は終わる。
途中、何度かつっかえることはあったものの、授業中にクラス全員の前で音読させられた時とは比べものにならないくらいスムーズに読み進められ、後半へと差し掛かった。
『喜助の弟って、よっぽど喜助のことが好きだったんだろうね』
最初に朗読した時は、そんなこと考えてもみなかった。今こうして読んでいるのは全く同じ内容のはずなのに、喜助の弟の気持ちを思うとどんなふうに読めばいいのかだんだん分からなくなってくる。
あの時のおれは、弟はただ早く楽になりたくて喜助に剃刀を抜いてくれと頼んだのだと思っていた。もちろん、その裏で兄を残して死ぬことにいくらか思うことはあっただろうが、おれはそこまで深く考えていなかった。
だけど花村の解釈を聞かされてからは、その時の弟が喜助に対して何を思っていたのかを無視することはできなくなってしまった。
『そんなことしたら、絶対一生忘れらんなくなるに決まってんじゃん』
弟は何もかも分かっていたのだろう。何もかも分かった上で、喜助にやらせたんだ。
自分を忘れてほしくなくて、だけどそんなこと言えなくて、そうするしかなかったんだと。
「……」
すぐ隣で、花村の微かな息遣いが聞こえる。それまで文字を声で追いかけるのに必死で気付いていなかった。本に視線を落としていても、花村の視線はさっきから痛いほど感じる。
花村がおれを見てる。
それをはっきりと意識した途端、心臓がドクンとひときわ大きく脈打った。
「あ……」
文章の途中で声が出なくなった。ページをめくろうとしていた指が小刻みに震えている。
まずい、と思った。この感覚には覚えがある。小学校の国語の授業で、初めて教科書の音読をさせられた時と同じだ。おれの声や息遣い、一挙手一投足までもひとつ残らず見逃すまいとしているかのようなクラスメイト達の視線。重く圧し掛かる沈黙。女子たちのくすくす笑う声。
どうにか震えを抑えないと、そう思って指にぐっと力を入れても震える指の関節は不自然に固まっていて、まるで自分の身体の一部ではないように全く自由が利かない。心臓が胸を突き破って飛び出すんじゃないかと思うほど強く速く脈打っている。喉の奥が絞められているように苦しい。
なんで、どうして急に?
さっきまで落ち着いて読めていたのに、なんでここまで来て。
「……湊?」
気遣わしげな声が耳に触れて、ビクッと肩が小さく跳ねた。
花村の方を見られない。早く、早く読まないと。早く。
「……」
気ばかりが焦って、声は一向に出てくる気配を見せない。口の中がカラカラに渇いている。
手のひらに嫌な汗が滲んで、ページの端がおれの汗で少しふやけているのが分かる。
ああ、やっぱりだめだった。またやってしまったんだ。
おれは、花村をがっかりさせてしまった。
本を持つ手を膝に置いて、下を向いた。
「あの……ごめん。やっぱり、できない」
やっとの思いで絞り出した自分の声は掠れている。まだ手の震えが収まらない。
「なんで?」
花村の声は思いのほか静かだった。これだけ近い距離で見ているのだから、おれの手が震えていることなんてとっくに気が付いているだろう。今のおれが普通の状態ではないことなんて、見れば分かるだろうに。
「誰かに、見られてると……上手く喋れないんだ」
「いつも俺と普通に喋ってんじゃん」
「そうだけど……そういうのとは違うっていうか」
いつも花村の前だと緊張しないで話すことができた。だから、今日もきっと大丈夫だと心のどこかで思っていた。
花村に話しかけられたくらいで浮かれて、世界がひっくり返ったなんて舞い上がってたんだ。実際のおれは以前と何ひとつ変わってなんかいない。人前だとまともに喋れない、人と目も合わせられない。
おれは一体何を勘違いしていたのだろう。
花村はじっとこっちを見ている。どんな顔でおれを見ているのか直視するのが怖くて、おれは顔を上げることができなかった。
「……悪いけど、こっち見ないでくれるか。どこか別の方を向いてもらえると」
「俺、湊が朗読するとこ見たくてナマで聴かせてって頼んだんだよ」
「え……」
恐る恐る視線だけをそっと花村に向ける。花村の目は怖いほど真剣で、いつものへらへらしている花村ではなかった。
「ただ聴くだけなら動画で済むだろ。湊がいつもどんな顔で朗読してるのか気になるから、思い切って話しかけたんだけど」
思い切って話しかけた? 花村が?
おれのことなんて、同じクラスにいるのかいないのかすら認識してなかったんじゃないのか。花村でもそんなふうに気後れするほど、おれが話しかけにくいってことなんだろうけど。
いや、そんなことよりも。
「……なんで、そんなことが気になるんだよ」
「なんでって……」
花村は口をつぐんだ。珍しく返答に詰まっている。でもそれは長くは続かず、しばらくすると花村はぷいと顔を背けてしまった。
「別にいいだろ、そんなの。気になるもんは気になるんだよ」
まるで答えになっていない。花村はそれ以上答える気がないのか、おれの方を見ないでテーブルに置いた自分のグラスを取ってジンジャーエールを飲んだ。
花村がおれから目を逸らしたことに、おれは心の中で少しだけ安堵した。花村の機嫌を損ねたかもしれないという不安はあったけど、じっと見られているよりはマシだ。
「その、誰かに見られてると喋れないっていうのはさ。相手が誰なのかとか関係なくそうなっちゃうの?」
ややあってから、花村はやけに落ち着いた声で聞いてきた。それは決しておれをからかったり興味本位でいろいろ聞き出そうとしているわけではなく、ただ冷静に今のおれの状態を分析しようとしているかのような、ひどく淡々とした口調だった。
おれも変に気を遣われたりする方がかえって余計に緊張してしまうから、そんな花村の態度に少しほっとする。花村がこっちを見ないで話してくれているのも大きいのかもしれない。
「……うん。子供の頃から、こうだった」
「なんか、原因みたいなことに思い当たる経験はある? トラウマになるようなこととか」
「原因ははっきりしないんだけど……小学生の時に授業で本読みを当てられて、上手く読めなくて笑われたのは、今でも忘れられない」
「それが原因じゃないかなあ。小さい時に大勢の人の前で失敗した経験って、大きくなってもなかなか忘れらんないもんだよ」
「そうかな……でも、それがある前からずっとこうだったけど」
「多分だけど、それまでは人前で喋んのそこまで苦手ってわけじゃなかったんでないの? みんなの前で笑われたってのが決定的な事件だったんじゃないかな」
花村の推測は妙に説得力があって、おれはまだ緊張が解けないながらも花村の洞察力に感心して聞き入っていた。
おれはずっと、この難儀な性分の原因は自分自身にあって、自分が悪いのだと思っていた。他の人は当たり前のようにできることを何故自分だけができないのか、その原因は自分にあると思うのが至極当然な理論だと思っていた。
でも本当はそうではなくて、自分を取り巻く外界にも多少の原因があったのかもしれない。おれがこうなってしまったのはおれ自身に全ての理由があったわけではなくて、そうなっても無理のない周囲の環境にもあったのかもしれない。
そう思うと、今までずっと心の奥にあった昏く重いものが、ほんの少しだけ軽くなったような気がする。
これは自分自身の問題なのだから、誰かのせいにしてはいけないんだとずっと思っていた。でも本当はそうじゃない、何かのせいにしていいんだって、誰かに言ってほしかったのかもしれない。花村がそう言ってくれたことで、おれは今まで遮られていた暗い視界にわずかな光が差すのを感じていた。大げさかもしれないけど、救われたような気がしたのだ。
花村は何か考え込んでいるのか、黙り込んでしまった。
心が少し軽くなったとは言え、おれの手の震えは依然として収まる気配を見せない。この沈黙のせいなのだろうか。
「俺と話してる時は普通に喋ってるってことは、人前で本を読む時だけなのかな。そうなっちゃうのって」
不意に思いついたようにそう聞かれて、おれは咄嗟に頭を小さく横に振った。
「いや、そういうわけじゃない。人の目を見て雑談するのも苦手で……」
「え? でも、俺とはいつも普通じゃん」
「自分でもよく、分からないんだけど……何故か、花村だけは平気なんだ。他の人相手だとこんなに喋れないのに」
「……」
深呼吸するようにゆっくりと空気を吸い込んでみても、吐き出す息はやっぱりまだ震えている。どうしてこんなに緊張しているのか、何だかもう自分でもよく分からなくなってきた。
「誰かが見てる、人に見られてるって思うと、なんか……こう、声が出てこない。喉が苦しくて、何も言えなくなる」
その時、花村は突然身体ごとこっちを向いた。おれが顔を上げたのとほとんど同時に、本を持つ両手をぎゅっと握られる。
何が起こったのか把握できず、おれはただぼうっと花村の顔を見ていた。
「上手くできなくてもいいよ。だけど、ちゃんとこっち見て」
「……」
言葉が出てこない。今まで見たことないほど真剣な表情をした花村から、目を逸らすことができなかった。
「今ここには俺しかいないじゃん。俺は湊が上手く喋れなくても笑ったりしない、絶対に。だから、何も怖いことなんかないよ」
怖い? おれが?
花村には、おれが怖がっているように見えるのか。
「……ん」
違う、と言ったつもりだったけど、やっぱりおれの口から出たのは言葉にならない震える声だけだった。何だか、さっきより震えがひどくなってるかもしれない。
初めて触れる花村の手のひらも、指も、熱を持ってやけに熱く感じる。おれの手が冷たいからだろうか。緊張すると手が冷たくなるって、何かの本で読んだことあるし。
「どうしてこんな、震えてんの」
「……」
少しだけど責めるような口調でそう聞かれて、おれは下を向いた。そんなこと言われたって、自分じゃどうしようもないんだから仕方ないだろ。
「……そんなに、怖いの? 俺のこと」
もう声はまともに出せないと分かっていたから、おれは力いっぱい何度も頭を横にぶんぶんと振った。
花村の顔、見られない。今のおれ、一体どんな顔してるんだろう。
「じゃあ続けてよ、朗読」
「え……」
冷めた声が頭の上から降ってきて、背中を何か冷たいものがすうっと下りていくのが分かる。
「怖くないなら平気だよね。ほら、弟のセリフんとこから」
そう言いながら花村は握りしめたおれの両手を軽く持ち上げて、おれの手が持っている本のページをおれの目の高さに合わせた。
その時のおれは、緊張と震えがとうに臨界点を超えて正常な思考ができなくなっていたのだろう。花村の手を振り払えばそれで済んでいたのに、今は花村の言うとおりにしないといけない、でないとおれは花村の手から、視線から、逃げることはできないと思い込んでしまって、それを疑うことさえ思いつかなかった。
とにかく今は、この極度の緊張から逃れたい。こんなに異常なほど震えている無様な自分をこれ以上花村の視界に晒していたくない。ここから逃げ出せるのなら何だっていい、それしか頭になかった。
震える唇を必死でこじ開けて、喉の奥から声を絞り出す。
「『す……すまない、どうぞ、堪忍……してくれ。どうせ……なおりそうにもない病気……だから、早く死んで……少しでも、兄きにらくが、させたいと思ったのだ』」
途中で何度もつっかえながらも、どうにか続きを声に出して読み始めることはできた。
喜助の弟が喉を切るも手が滑って剃刀が刺さったまま抜けなくなり、苦しんでいるところに喜助が帰ってきた場面だ。弟のセリフはこれと、この先にあともうひとつある。
剃刀が喉に刺さってまともに喋れない苦しさを自分なりに想像しながら読んだおれの朗読を聴いて、花村は『ドキドキした』と言っていた。
あれって、褒めてくれてたのかな。なんかそういうのとは少し違ってたような気もする。花村は一体どういう意味で、どんなつもりであんなことを言ったのだろう。そんなこと考えてる場合じゃないのは分かっていたけど、何故か今になってあの時の花村の言葉が気になってきて仕方ない。
「『……も、物を、言うのが……せつなくって、いけない。どうぞ手を借して……抜いてくれ』」
「次の弟のセリフ、読んで。短いから本見なくても読めるでしょ」
急に花村の手がおれの手をぐいと下に引いて、目の前から本のページが消えた。代わりにおれの視界に映ったのは、花村の怖いほど真剣な目だけ。
「……」
「早く」
苦しい。
さっきから心臓が異常な速さで脈打っていて、まともに呼吸できない。
花村がおれを見てる。
おれの手の震えも、この異常な脈拍も、とっくに花村は気付いている。それだけじゃない、この震えっぱなしで情けなく上擦った声も、全部聴かれてる。
頬が火を噴くように熱いから、きっと顔も真っ赤になってる。
どうしておれ、こんなに。
「『……い、医者が、なんになる、ああ、苦しい……早く、抜いてくれ、頼む』」
もし実際に剃刀が喉に刺さっても、ここまで苦しくはならないだろうと思う。
本当に苦しいと、ただ早く楽になりたいと、それしか考えられなくなるんだ。弟もきっとこうだったのだろう。
苦しい。早く楽になりたい。
救いを求めるような気持ちで、おれは花村の目を縋るようにじっと見た。
花村は何かに驚いているように、でも声は上げず、ただおれを見ている。その瞳の奥には今にも泣き出しそうな情けない顔をしたおれがいた。
ふと、花村の片手がおれの手から離れて、そのすぐ後に頬に熱いものが触れた。花村の右手の人差し指だった。
「は、花村……?」
花村の指も微かに震えている。花村はわずかにまつ毛を伏せて、小さくため息をついた。
「湊の震えが、うつったのかも」
「……」
ほんの少しだけ、花村との距離が近づいたのが分かる。花村がおれに顔を寄せたのか、おれが花村に近づいたのか、どっちなのかは分からない。今にも鼻と鼻が触れてしまいそうなほど近くで、花村はじっとおれの目を見つめている。唇に触れる花村の吐息は、熱を帯びて震えていた。
「俺……今すごく、せつない」
『恋してる時って、喉に剃刀が刺さってるのと同じくらい苦しいってこと?』
あの時の花村が言ったことを、急にはっきりと思い出す。
どうしたらいいのか分からなくて、おれはただ花村の目をじっと見ているだけだった。
「手握っただけでこんなんじゃ、もっと触ったらどうなっちゃうんだろうね」
「え……」
両手に力が入らない。ソファの上にばさっと音を立てて本が落ちた。
天井の照明が部屋を煌々と照らす中、おれだけは花村の影の中にいた。影の中に閉じ込められて、身動きがとれない。頭の後ろが痺れたように感覚を失っていく。
さっき読んだばかりの弟のセリフの後、喜助もこんなふうにどうすればいいのか分からなくてただ弟の顔を見ていたはずだ。何度も読んだから覚えてる。その時の心情を、喜助はこう語っていた。
『こんな時は、不思議なもので、目が物を言います』
きっと今のおれもそうなのだろう。今おれの目は、言葉よりも饒舌におれの考えていることを花村に訴えかけている。花村の目を見れば分かる。
――触りたい。
その途端、どうしようもなく怖くなった。
花村に見られたくない。見られて、自分の胸の内を知られてしまうのが怖い。
「……っ、やめろ!」
渾身の力を振り絞って、花村の手を振り解いた。
「あっ……」
あんなにガチガチに固まって全く自由の利かなかった手が、もうとっくに動かせるようになっていたことを初めて知った。
花村は弾かれたようにおれから離れ、後ろに手をついておれを見ている。さっきまでの真剣な、でもどこか虚ろな目をしていた花村ではなく、いつもの見慣れた花村に戻っている。ひどく驚いているような、まるでたった今我に返ったかのような、そんな表情をしていた。
腹の底に熱が溜まっている。花村に気付かれないよう、おれは花村から更に離れて立ち上がった。
頬が熱い。それだけじゃない、手も、花村に触られていた場所だけが不自然なほど熱を持って疼いている。
「お、おれは……っ」
身体の奥から込み上げてくる何かを振り払うように、カバンを掴んでその場を駆け出した。
「湊!」
背後で花村が呼ぶ声が聞こえても、おれは足を止めなかった。
どこをどう走ってきたのか分からない。無我夢中で走って、見慣れた駅の西口にたどり着いたところで脚がふらついてようやく立ち止まった。柱の陰に隠れるようにして乱れた呼吸を抑えつける。あんなに震えていた手も脚も、もう震えていない。
「……」
少しずつ息が落ち着いてくるのに従って、頭の中もゆっくりと冷静さを取り戻していく。おれはようやくさっき起きたことの全てを思い出した。
震えていた花村の指。
熱を帯びた目。
唇に触れた吐息の熱さ。
何もかもがまだそこにあるように、鮮明に残ってる。
喉の奥がまだ苦しい。もう呼吸は落ち着いているのに。
自分でも信じられないほど声は滑らかにするすると、流れるように出てくる。早く終わらせようと焦って早口になることもない、緊張で声が震えることもない。紙の上の文字を目で追いながら、頭の中が真っ白になるなんてこともない。静かな狭い部屋の中、聞こえるのはただ朗読する自分の声だけ。
高瀬舟は短編小説だから、全文を朗読してもそれほど長い時間はかからない。前半部分では喜助を小舟で護送する庄兵衛が彼に今の心持ちを尋ね、喜助の身の上と自分の生活とを見比べて、二人の財産に対する価値観の違いについて考えを巡らす。後半では喜助が弟を殺した経緯を話し、彼のしたことが罪と言えるのか庄兵衛には答えが出せないまま物語は終わる。
途中、何度かつっかえることはあったものの、授業中にクラス全員の前で音読させられた時とは比べものにならないくらいスムーズに読み進められ、後半へと差し掛かった。
『喜助の弟って、よっぽど喜助のことが好きだったんだろうね』
最初に朗読した時は、そんなこと考えてもみなかった。今こうして読んでいるのは全く同じ内容のはずなのに、喜助の弟の気持ちを思うとどんなふうに読めばいいのかだんだん分からなくなってくる。
あの時のおれは、弟はただ早く楽になりたくて喜助に剃刀を抜いてくれと頼んだのだと思っていた。もちろん、その裏で兄を残して死ぬことにいくらか思うことはあっただろうが、おれはそこまで深く考えていなかった。
だけど花村の解釈を聞かされてからは、その時の弟が喜助に対して何を思っていたのかを無視することはできなくなってしまった。
『そんなことしたら、絶対一生忘れらんなくなるに決まってんじゃん』
弟は何もかも分かっていたのだろう。何もかも分かった上で、喜助にやらせたんだ。
自分を忘れてほしくなくて、だけどそんなこと言えなくて、そうするしかなかったんだと。
「……」
すぐ隣で、花村の微かな息遣いが聞こえる。それまで文字を声で追いかけるのに必死で気付いていなかった。本に視線を落としていても、花村の視線はさっきから痛いほど感じる。
花村がおれを見てる。
それをはっきりと意識した途端、心臓がドクンとひときわ大きく脈打った。
「あ……」
文章の途中で声が出なくなった。ページをめくろうとしていた指が小刻みに震えている。
まずい、と思った。この感覚には覚えがある。小学校の国語の授業で、初めて教科書の音読をさせられた時と同じだ。おれの声や息遣い、一挙手一投足までもひとつ残らず見逃すまいとしているかのようなクラスメイト達の視線。重く圧し掛かる沈黙。女子たちのくすくす笑う声。
どうにか震えを抑えないと、そう思って指にぐっと力を入れても震える指の関節は不自然に固まっていて、まるで自分の身体の一部ではないように全く自由が利かない。心臓が胸を突き破って飛び出すんじゃないかと思うほど強く速く脈打っている。喉の奥が絞められているように苦しい。
なんで、どうして急に?
さっきまで落ち着いて読めていたのに、なんでここまで来て。
「……湊?」
気遣わしげな声が耳に触れて、ビクッと肩が小さく跳ねた。
花村の方を見られない。早く、早く読まないと。早く。
「……」
気ばかりが焦って、声は一向に出てくる気配を見せない。口の中がカラカラに渇いている。
手のひらに嫌な汗が滲んで、ページの端がおれの汗で少しふやけているのが分かる。
ああ、やっぱりだめだった。またやってしまったんだ。
おれは、花村をがっかりさせてしまった。
本を持つ手を膝に置いて、下を向いた。
「あの……ごめん。やっぱり、できない」
やっとの思いで絞り出した自分の声は掠れている。まだ手の震えが収まらない。
「なんで?」
花村の声は思いのほか静かだった。これだけ近い距離で見ているのだから、おれの手が震えていることなんてとっくに気が付いているだろう。今のおれが普通の状態ではないことなんて、見れば分かるだろうに。
「誰かに、見られてると……上手く喋れないんだ」
「いつも俺と普通に喋ってんじゃん」
「そうだけど……そういうのとは違うっていうか」
いつも花村の前だと緊張しないで話すことができた。だから、今日もきっと大丈夫だと心のどこかで思っていた。
花村に話しかけられたくらいで浮かれて、世界がひっくり返ったなんて舞い上がってたんだ。実際のおれは以前と何ひとつ変わってなんかいない。人前だとまともに喋れない、人と目も合わせられない。
おれは一体何を勘違いしていたのだろう。
花村はじっとこっちを見ている。どんな顔でおれを見ているのか直視するのが怖くて、おれは顔を上げることができなかった。
「……悪いけど、こっち見ないでくれるか。どこか別の方を向いてもらえると」
「俺、湊が朗読するとこ見たくてナマで聴かせてって頼んだんだよ」
「え……」
恐る恐る視線だけをそっと花村に向ける。花村の目は怖いほど真剣で、いつものへらへらしている花村ではなかった。
「ただ聴くだけなら動画で済むだろ。湊がいつもどんな顔で朗読してるのか気になるから、思い切って話しかけたんだけど」
思い切って話しかけた? 花村が?
おれのことなんて、同じクラスにいるのかいないのかすら認識してなかったんじゃないのか。花村でもそんなふうに気後れするほど、おれが話しかけにくいってことなんだろうけど。
いや、そんなことよりも。
「……なんで、そんなことが気になるんだよ」
「なんでって……」
花村は口をつぐんだ。珍しく返答に詰まっている。でもそれは長くは続かず、しばらくすると花村はぷいと顔を背けてしまった。
「別にいいだろ、そんなの。気になるもんは気になるんだよ」
まるで答えになっていない。花村はそれ以上答える気がないのか、おれの方を見ないでテーブルに置いた自分のグラスを取ってジンジャーエールを飲んだ。
花村がおれから目を逸らしたことに、おれは心の中で少しだけ安堵した。花村の機嫌を損ねたかもしれないという不安はあったけど、じっと見られているよりはマシだ。
「その、誰かに見られてると喋れないっていうのはさ。相手が誰なのかとか関係なくそうなっちゃうの?」
ややあってから、花村はやけに落ち着いた声で聞いてきた。それは決しておれをからかったり興味本位でいろいろ聞き出そうとしているわけではなく、ただ冷静に今のおれの状態を分析しようとしているかのような、ひどく淡々とした口調だった。
おれも変に気を遣われたりする方がかえって余計に緊張してしまうから、そんな花村の態度に少しほっとする。花村がこっちを見ないで話してくれているのも大きいのかもしれない。
「……うん。子供の頃から、こうだった」
「なんか、原因みたいなことに思い当たる経験はある? トラウマになるようなこととか」
「原因ははっきりしないんだけど……小学生の時に授業で本読みを当てられて、上手く読めなくて笑われたのは、今でも忘れられない」
「それが原因じゃないかなあ。小さい時に大勢の人の前で失敗した経験って、大きくなってもなかなか忘れらんないもんだよ」
「そうかな……でも、それがある前からずっとこうだったけど」
「多分だけど、それまでは人前で喋んのそこまで苦手ってわけじゃなかったんでないの? みんなの前で笑われたってのが決定的な事件だったんじゃないかな」
花村の推測は妙に説得力があって、おれはまだ緊張が解けないながらも花村の洞察力に感心して聞き入っていた。
おれはずっと、この難儀な性分の原因は自分自身にあって、自分が悪いのだと思っていた。他の人は当たり前のようにできることを何故自分だけができないのか、その原因は自分にあると思うのが至極当然な理論だと思っていた。
でも本当はそうではなくて、自分を取り巻く外界にも多少の原因があったのかもしれない。おれがこうなってしまったのはおれ自身に全ての理由があったわけではなくて、そうなっても無理のない周囲の環境にもあったのかもしれない。
そう思うと、今までずっと心の奥にあった昏く重いものが、ほんの少しだけ軽くなったような気がする。
これは自分自身の問題なのだから、誰かのせいにしてはいけないんだとずっと思っていた。でも本当はそうじゃない、何かのせいにしていいんだって、誰かに言ってほしかったのかもしれない。花村がそう言ってくれたことで、おれは今まで遮られていた暗い視界にわずかな光が差すのを感じていた。大げさかもしれないけど、救われたような気がしたのだ。
花村は何か考え込んでいるのか、黙り込んでしまった。
心が少し軽くなったとは言え、おれの手の震えは依然として収まる気配を見せない。この沈黙のせいなのだろうか。
「俺と話してる時は普通に喋ってるってことは、人前で本を読む時だけなのかな。そうなっちゃうのって」
不意に思いついたようにそう聞かれて、おれは咄嗟に頭を小さく横に振った。
「いや、そういうわけじゃない。人の目を見て雑談するのも苦手で……」
「え? でも、俺とはいつも普通じゃん」
「自分でもよく、分からないんだけど……何故か、花村だけは平気なんだ。他の人相手だとこんなに喋れないのに」
「……」
深呼吸するようにゆっくりと空気を吸い込んでみても、吐き出す息はやっぱりまだ震えている。どうしてこんなに緊張しているのか、何だかもう自分でもよく分からなくなってきた。
「誰かが見てる、人に見られてるって思うと、なんか……こう、声が出てこない。喉が苦しくて、何も言えなくなる」
その時、花村は突然身体ごとこっちを向いた。おれが顔を上げたのとほとんど同時に、本を持つ両手をぎゅっと握られる。
何が起こったのか把握できず、おれはただぼうっと花村の顔を見ていた。
「上手くできなくてもいいよ。だけど、ちゃんとこっち見て」
「……」
言葉が出てこない。今まで見たことないほど真剣な表情をした花村から、目を逸らすことができなかった。
「今ここには俺しかいないじゃん。俺は湊が上手く喋れなくても笑ったりしない、絶対に。だから、何も怖いことなんかないよ」
怖い? おれが?
花村には、おれが怖がっているように見えるのか。
「……ん」
違う、と言ったつもりだったけど、やっぱりおれの口から出たのは言葉にならない震える声だけだった。何だか、さっきより震えがひどくなってるかもしれない。
初めて触れる花村の手のひらも、指も、熱を持ってやけに熱く感じる。おれの手が冷たいからだろうか。緊張すると手が冷たくなるって、何かの本で読んだことあるし。
「どうしてこんな、震えてんの」
「……」
少しだけど責めるような口調でそう聞かれて、おれは下を向いた。そんなこと言われたって、自分じゃどうしようもないんだから仕方ないだろ。
「……そんなに、怖いの? 俺のこと」
もう声はまともに出せないと分かっていたから、おれは力いっぱい何度も頭を横にぶんぶんと振った。
花村の顔、見られない。今のおれ、一体どんな顔してるんだろう。
「じゃあ続けてよ、朗読」
「え……」
冷めた声が頭の上から降ってきて、背中を何か冷たいものがすうっと下りていくのが分かる。
「怖くないなら平気だよね。ほら、弟のセリフんとこから」
そう言いながら花村は握りしめたおれの両手を軽く持ち上げて、おれの手が持っている本のページをおれの目の高さに合わせた。
その時のおれは、緊張と震えがとうに臨界点を超えて正常な思考ができなくなっていたのだろう。花村の手を振り払えばそれで済んでいたのに、今は花村の言うとおりにしないといけない、でないとおれは花村の手から、視線から、逃げることはできないと思い込んでしまって、それを疑うことさえ思いつかなかった。
とにかく今は、この極度の緊張から逃れたい。こんなに異常なほど震えている無様な自分をこれ以上花村の視界に晒していたくない。ここから逃げ出せるのなら何だっていい、それしか頭になかった。
震える唇を必死でこじ開けて、喉の奥から声を絞り出す。
「『す……すまない、どうぞ、堪忍……してくれ。どうせ……なおりそうにもない病気……だから、早く死んで……少しでも、兄きにらくが、させたいと思ったのだ』」
途中で何度もつっかえながらも、どうにか続きを声に出して読み始めることはできた。
喜助の弟が喉を切るも手が滑って剃刀が刺さったまま抜けなくなり、苦しんでいるところに喜助が帰ってきた場面だ。弟のセリフはこれと、この先にあともうひとつある。
剃刀が喉に刺さってまともに喋れない苦しさを自分なりに想像しながら読んだおれの朗読を聴いて、花村は『ドキドキした』と言っていた。
あれって、褒めてくれてたのかな。なんかそういうのとは少し違ってたような気もする。花村は一体どういう意味で、どんなつもりであんなことを言ったのだろう。そんなこと考えてる場合じゃないのは分かっていたけど、何故か今になってあの時の花村の言葉が気になってきて仕方ない。
「『……も、物を、言うのが……せつなくって、いけない。どうぞ手を借して……抜いてくれ』」
「次の弟のセリフ、読んで。短いから本見なくても読めるでしょ」
急に花村の手がおれの手をぐいと下に引いて、目の前から本のページが消えた。代わりにおれの視界に映ったのは、花村の怖いほど真剣な目だけ。
「……」
「早く」
苦しい。
さっきから心臓が異常な速さで脈打っていて、まともに呼吸できない。
花村がおれを見てる。
おれの手の震えも、この異常な脈拍も、とっくに花村は気付いている。それだけじゃない、この震えっぱなしで情けなく上擦った声も、全部聴かれてる。
頬が火を噴くように熱いから、きっと顔も真っ赤になってる。
どうしておれ、こんなに。
「『……い、医者が、なんになる、ああ、苦しい……早く、抜いてくれ、頼む』」
もし実際に剃刀が喉に刺さっても、ここまで苦しくはならないだろうと思う。
本当に苦しいと、ただ早く楽になりたいと、それしか考えられなくなるんだ。弟もきっとこうだったのだろう。
苦しい。早く楽になりたい。
救いを求めるような気持ちで、おれは花村の目を縋るようにじっと見た。
花村は何かに驚いているように、でも声は上げず、ただおれを見ている。その瞳の奥には今にも泣き出しそうな情けない顔をしたおれがいた。
ふと、花村の片手がおれの手から離れて、そのすぐ後に頬に熱いものが触れた。花村の右手の人差し指だった。
「は、花村……?」
花村の指も微かに震えている。花村はわずかにまつ毛を伏せて、小さくため息をついた。
「湊の震えが、うつったのかも」
「……」
ほんの少しだけ、花村との距離が近づいたのが分かる。花村がおれに顔を寄せたのか、おれが花村に近づいたのか、どっちなのかは分からない。今にも鼻と鼻が触れてしまいそうなほど近くで、花村はじっとおれの目を見つめている。唇に触れる花村の吐息は、熱を帯びて震えていた。
「俺……今すごく、せつない」
『恋してる時って、喉に剃刀が刺さってるのと同じくらい苦しいってこと?』
あの時の花村が言ったことを、急にはっきりと思い出す。
どうしたらいいのか分からなくて、おれはただ花村の目をじっと見ているだけだった。
「手握っただけでこんなんじゃ、もっと触ったらどうなっちゃうんだろうね」
「え……」
両手に力が入らない。ソファの上にばさっと音を立てて本が落ちた。
天井の照明が部屋を煌々と照らす中、おれだけは花村の影の中にいた。影の中に閉じ込められて、身動きがとれない。頭の後ろが痺れたように感覚を失っていく。
さっき読んだばかりの弟のセリフの後、喜助もこんなふうにどうすればいいのか分からなくてただ弟の顔を見ていたはずだ。何度も読んだから覚えてる。その時の心情を、喜助はこう語っていた。
『こんな時は、不思議なもので、目が物を言います』
きっと今のおれもそうなのだろう。今おれの目は、言葉よりも饒舌におれの考えていることを花村に訴えかけている。花村の目を見れば分かる。
――触りたい。
その途端、どうしようもなく怖くなった。
花村に見られたくない。見られて、自分の胸の内を知られてしまうのが怖い。
「……っ、やめろ!」
渾身の力を振り絞って、花村の手を振り解いた。
「あっ……」
あんなにガチガチに固まって全く自由の利かなかった手が、もうとっくに動かせるようになっていたことを初めて知った。
花村は弾かれたようにおれから離れ、後ろに手をついておれを見ている。さっきまでの真剣な、でもどこか虚ろな目をしていた花村ではなく、いつもの見慣れた花村に戻っている。ひどく驚いているような、まるでたった今我に返ったかのような、そんな表情をしていた。
腹の底に熱が溜まっている。花村に気付かれないよう、おれは花村から更に離れて立ち上がった。
頬が熱い。それだけじゃない、手も、花村に触られていた場所だけが不自然なほど熱を持って疼いている。
「お、おれは……っ」
身体の奥から込み上げてくる何かを振り払うように、カバンを掴んでその場を駆け出した。
「湊!」
背後で花村が呼ぶ声が聞こえても、おれは足を止めなかった。
どこをどう走ってきたのか分からない。無我夢中で走って、見慣れた駅の西口にたどり着いたところで脚がふらついてようやく立ち止まった。柱の陰に隠れるようにして乱れた呼吸を抑えつける。あんなに震えていた手も脚も、もう震えていない。
「……」
少しずつ息が落ち着いてくるのに従って、頭の中もゆっくりと冷静さを取り戻していく。おれはようやくさっき起きたことの全てを思い出した。
震えていた花村の指。
熱を帯びた目。
唇に触れた吐息の熱さ。
何もかもがまだそこにあるように、鮮明に残ってる。
喉の奥がまだ苦しい。もう呼吸は落ち着いているのに。


