あいつはどこにいても目立つから、わざわざ探さなくてもいつも視界のどこかにいた。それが常態化して、もはや風景の一部みたいなものだと認識していたくらいだ。
でもきっとおれは、あいつを見ていながら何も見えていなかったのだろう。こんなふうに意識して目で追ってみると、今まで知らなかった花村をいくつも見つけることができる。
雨の日は髪の癖が強くなること。
授業中、机に頬杖をついている時は高確率で居眠りしていること。
自分から友達に話しかけに行くことは意外と少ないこと。
クラスの奴らはみんな知っているのだろうか。おれだけが知らなかっただけで、普通ならこんなことはわざわざ目で追ってまで気が付くようなことではないのかもしれない。
図書室で『高瀬舟』の本を探してから二日、その間花村はおれに一度も絡んでこなかった。メッセージを送ってくることもなく、それどころか同じ教室にいても目が合うことすらない。いつ見てもあいつは友達とはしゃいで笑っている。
まるで、花村に話しかけられる前の状態に戻ったようだ。
そもそも花村に話しかけられたというのが、現実にあったことなのかどうかも疑わしい。あれは確かに実際に起こったことなのだと思っているのはおれだけで、実はおれが見た夢だったのかもしれない。
花村の方からおれに話しかけてくるなんて、おれにとっては世界がひっくり返ったってありえないことだった。あの瞬間、確かにおれの世界はひっくり返ってしまったのだ。誰かとほんのちょっと言葉を交わすだけでも、今までのおれにはとんでもない一大事件だった。でも花村にとってはそんなの呼吸するのと同じくらい当たり前のことで、いちいち気に留めるようなことではないのだろう。
誰とどんなことを話したのか、なんて、あいつにとってはあまりに些末などうでもいいことで、記憶すらしていないのかもしれない。その相手がおれなんかじゃ尚更だ。
その日の昼休み、おれは日直の仕事でクラスメイト達の提出物をまとめて職員室に届けると、とぼとぼと教室に戻った。その途中、廊下の窓の前で数人の友達と喋っている花村を見つけて思わず視線が留まる。これから購買か食堂にでも行くのだろうか。
花村たちは楽しそうに喋りながら、おれのいる方へと歩いてくる。
「……」
おれは下を向いて通り過ぎようとしたけど、花村はふとこっちを見た。気付かれてしまったようだ。
近くまで来たら何か話しかけてくるかな。
そんなことを心の隅で少しだけ期待してた。でも花村はおれから目を逸らして、また友達と喋りながらおれの横を通り過ぎて行った。
ちゃんと分かってる。花村も、おれなんかと一緒にいるところを友達に見られるのは嫌だろう。そのくらい、おれはしっかりわきまえている。
おれと花村は住む世界が違うのだから、おれの方から話しかけたりなんかしない。近寄らず、目も合わせず、あいつの視界に入ることもなく、ただひっそりと影のように気配を消して、これからもそうやってできる限りの接触を避けてやり過ごすのがお互いのためだ。
なのにどうしておれは、花村が話しかけてくるかも、なんて期待をしたんだろう。図書室でちょっと長く話し込んだくらいで、何を勘違いしているのか。あんなの花村にとっては取るに足らないどうでもいいことなのに。
教室に戻ると、カバンから弁当の入った小さなトートバッグを取り出してまた廊下に出た。
昼休みの教室におれの居場所はない。
*
渡り廊下を渡ってA棟に入り、その廊下を更に奥へと進んだ先におれの居場所がある。外の非常階段、この時間にこんなところへ来る奴は今まで一人も見たことがない。屋外だから雨の日や夏の猛暑が続く時期はさすがに校舎内で別の場所を探すけど、ちょうど今くらいの秋が深まってきた頃は晴れた日が多く空気もさらりと乾いていてとても居心地がいい。
入学して間もない頃は校舎の屋上に目をつけていたのだが、あいにくそこは転落事故防止のため普段は立ち入り禁止で出入り口が閉鎖されていると知り、どうにか学校の敷地内で一人になれる場所はないものかと数日間探索してようやくここを見つけたのだ。
学校内には教師や生徒たちの目から死角となる場所が意外と数多く点在する。無理をして教室で昼休みを過ごさなくても、誰にも気付かれていない穴場を探し当てることさえできれば、こうして一人でのびのびと過ごすのは決して難しいことではない。
いつものように階段に腰掛けて、高く澄んだ空を仰ぐ。遠くから生徒たちのはしゃぐ声が微かに聞こえてきて、その遠さにほっとため息をついた。
そうだ、おれは一人が好きなんだ。
周りに誰かがいると落ち着かないし、弁当を食べるのも静かなところがいい。
今までだってずっとそうだっただろ。
「おーいたいた、湊はっけーん」
「うわっ!」
弁当箱のフタを開けたのとほぼ同時に、突然背後で非常口がガチャンと音を立てて開いた。振り向くとそこにはさっき廊下ですれ違ったはずの花村がいる。
「なっ、なんで……」
「購買の帰り、湊が渡り廊下にいるの見えたから。追いかけてきた」
そう言いながら、さも当然と言わんばかりにおれの隣へすとんと腰掛けた。見ると花村の手には小さなビニール袋が提げられていて、中からは購買で買ったと思しき焼きそばパンが覗いている。
「向こう行けよ、友達と一緒に食べればいいだろ」
「またそういうこと言う」
「……な、なんだよ?」
花村は紙パックのバナナオレをストローで飲みながら、じっとおれの顔を見ている。さっきまで一人のびのびできるはずだったおれだけの快適な空間が、今は居心地の悪いことこの上ない。非常階段の幅はさして広くもないから、男二人で並んで座るとどうしても距離が近くなってしまう。さり気なく階段の端に寄って少しでも花村から離れようと試みたが、あまり意味がなかった。
「なんか湊、よそよそしくない?」
「え……」
何を言われたのかすぐには理解できず、箸を握ったまま固まってしまう。
「教室にいる間、一回も目ぇ合わないしさ。せっかくメッセのID交換したのに湊の方から送ってこないし。もしかして俺、避けられてんの?」
避けているつもりはなかったけど、さっきの廊下での態度はそう受け取られても無理はないかもしれない。いやでも、あの時は花村だっておれと目が合ったのにすぐ逸らしてただろ。なのになんでおれだけが一方的に花村を避けてるってことになるんだ。
おれが自分の立場をわきまえて、花村と無用の接触をしないよう気遣っているのも知らないで。
「……花村だって、全然話しかけてこないだろ」
こんなこと言いたくない。だってこれじゃ、おれがそれを期待してたみたいじゃないか。
確かに全く何の期待もしてなかったって言ったら嘘になるけど、おれの方から花村に話しかけるのがどれだけ勇気のいることなのか、どうせこいつはちっとも分かってないのだ。
「なに湊、もしかしてずっと俺が話しかけてくんの待ってたの?」
「ばっ、ちが……そんなんじゃ」
つい花村の方を向いてしまった。花村はにやにやしてこっちを見ている。
いけない、ここで動揺していたら花村の思うつぼだ。いい加減おれも学習しないと。わざとらしく咳払いをひとつして、弁当箱に視線を戻す。
「おれはただ、このまま何もしないでいていいのかって思ってただけだ。その……朗読聴かせるって約束したんだから。一応」
「約束ねえ」
その言い方に何か含みがあるのを感じたが、おれはもう花村の方を見ずに続けた。
「やるなら前もってちゃんと日時を決めてほしいんだよ。こっちだって暇じゃないし、それにもうすぐ中間テストだってあるし」
「あー、中間ねえ。あったねそう言えば、そんなの」
「あったねじゃないだろ。テスト期間に入ったらおれは付き合わないからな」
「分かってるよ。んー、じゃあ明日とかどうよ? ヒマ?」
「いきなりだな……」
何だかもういちいち反論する気も失せてしまう。弁当箱の隅に詰めたきんぴらごぼうに箸を伸ばすと、急に横から花村が肩をぐいと寄せてきた。
「うわ、湊んちの弁当めっちゃ美味そう。毎日こんな感じなの?」
「え? まあ……」
「いいなー。俺、毎日購買かコンビニのパンだからいい加減飽きてんだよね。これって湊のお母さんが作ってんの?」
「いや、自分で冷凍食品とか適当に詰めてるだけだけど」
「えっ、自作してんの!? 湊が?」
「自作って……レンジで温めるだけだよ」
「でもさあ、この玉子焼きはさすがに冷食じゃないだろ?」
「ああ、うん。それだけはおれが作った」
「やっぱり自作してんじゃん。湊すげーな」
そんなに大げさに褒められると恥ずかしくて居た堪れなくなってくる。花村があまりにも興味深そうに目をキラキラさせて玉子焼きをじっと見てるから、何だか非常に食べづらい。
「……食べるか? これ」
「えっ、いいの? でも一個しかないし」
「おれはいつも食べてるから、別にいいよ。ほら」
弁当箱を花村の方に差し出してやると、花村は少しためらっていたものの、しばらくするとおずおずと手を伸ばして指先で玉子焼きをつまみ、ひと口で頬張った。
その途端、花村の目が驚いたように見開かれる。なんだ、口に合わなかったのかな。
「……っ、甘い!」
「え……」
味わうようにゆっくりと咀嚼して飲み込むと、花村は少し興奮気味に続けた。
「湊んちの玉子焼きって、甘いんだ。うちのかーちゃんが作る玉子焼きは甘くないのに」
「ああ、花村の家はだし巻き派なんだな」
「何それ?」
「ええと……まあ、地域によって玉子焼きに使う調味料が違うってだけだよ。食文化の違いだな」
こんなこと改めて説明してる自分が何だか滑稽に思えてきて、おれはつい一人で笑ってしまった。当然、花村は不思議そうにおれを見ている。
「なに笑ってんの?」
「いや、別に……」
まずい、バカにされてると思ってまた花村が機嫌を損ねるかもしれない。箸を持つ手で口元を押さえてどうにか笑いを堪える。
「湊が笑ってんの、初めて見たかも」
花村はじっとおれの顔を見たまま、ぽつりとそう呟いた。
「……」
おれは黙って花村から顔を背け、弁当を食べ始めた。
確かに、こいつの前で笑ったのはこれが初めてかもしれない。教室では笑うどころか雑談さえ一切しないし、花村と二人でいる時も笑うような話をしたことはないし。
たったそれだけのことなのに、花村に言葉で指摘された途端、何故かとてつもなく恥ずかしくなってきた。
不覚だった。こいつの前で笑うなんて、完全に油断してたな。
中学生の頃、担任の教師にそれとなく注意されたことがある。もっとクラスメイトと積極的に喋ったり、笑ってみせた方がいいよ、と。要は、少しはクラスに溶け込む努力をしろと言いたかったのだろう。
当時は余計な世話だと聞き流していたけど、あの担任の気持ちも今では何となく慮ることができる。自分の担当するクラスにおれみたいな周りと馴染めないで孤立している奴がいたら何かと気を揉むだろうし、一応それなりに気にかけてくれてはいたのだろう。
息をするように人前で喋ったり、笑ったり、そういうことが当たり前にできない人間だっているのに。それが何の苦労もなくできる奴には、できない奴がただ頑なに人との接触を拒んでいるようにしか見えないのだろう。おれだって好きでこんな生きづらい性分をしているわけじゃないのに。
花村も言うのかな。『もっとそうやって笑えばいいのに』なんて、いかにもおれのためを思っているようで本当は何も分かっていない、気休めにもならない陳腐なアドバイスを。
何を言われても聞き流そう、そう思って黙々と弁当を食べていても、花村はそれ以上何も言ってこなかった。
「……」
半分くらい食べたところで、ちらと横に視線だけを向ける。花村は何故か嬉しそうな顔をして、おれが弁当を食べるのを黙ってじっと見ていた。さっきからずっと見られていたのだろうか。
「……なんだよ。食べづらいんだけど」
「ん? ああ、ごめん」
「さっさと食べないと、昼休み終わるぞ」
「そうだね。早く食べよーっと」
なんだ、急にへらへらして。花村がビニール袋から焼きそばパンを取り出しているのを見ながら、おれは小さくため息をついた。
でもきっとおれは、あいつを見ていながら何も見えていなかったのだろう。こんなふうに意識して目で追ってみると、今まで知らなかった花村をいくつも見つけることができる。
雨の日は髪の癖が強くなること。
授業中、机に頬杖をついている時は高確率で居眠りしていること。
自分から友達に話しかけに行くことは意外と少ないこと。
クラスの奴らはみんな知っているのだろうか。おれだけが知らなかっただけで、普通ならこんなことはわざわざ目で追ってまで気が付くようなことではないのかもしれない。
図書室で『高瀬舟』の本を探してから二日、その間花村はおれに一度も絡んでこなかった。メッセージを送ってくることもなく、それどころか同じ教室にいても目が合うことすらない。いつ見てもあいつは友達とはしゃいで笑っている。
まるで、花村に話しかけられる前の状態に戻ったようだ。
そもそも花村に話しかけられたというのが、現実にあったことなのかどうかも疑わしい。あれは確かに実際に起こったことなのだと思っているのはおれだけで、実はおれが見た夢だったのかもしれない。
花村の方からおれに話しかけてくるなんて、おれにとっては世界がひっくり返ったってありえないことだった。あの瞬間、確かにおれの世界はひっくり返ってしまったのだ。誰かとほんのちょっと言葉を交わすだけでも、今までのおれにはとんでもない一大事件だった。でも花村にとってはそんなの呼吸するのと同じくらい当たり前のことで、いちいち気に留めるようなことではないのだろう。
誰とどんなことを話したのか、なんて、あいつにとってはあまりに些末などうでもいいことで、記憶すらしていないのかもしれない。その相手がおれなんかじゃ尚更だ。
その日の昼休み、おれは日直の仕事でクラスメイト達の提出物をまとめて職員室に届けると、とぼとぼと教室に戻った。その途中、廊下の窓の前で数人の友達と喋っている花村を見つけて思わず視線が留まる。これから購買か食堂にでも行くのだろうか。
花村たちは楽しそうに喋りながら、おれのいる方へと歩いてくる。
「……」
おれは下を向いて通り過ぎようとしたけど、花村はふとこっちを見た。気付かれてしまったようだ。
近くまで来たら何か話しかけてくるかな。
そんなことを心の隅で少しだけ期待してた。でも花村はおれから目を逸らして、また友達と喋りながらおれの横を通り過ぎて行った。
ちゃんと分かってる。花村も、おれなんかと一緒にいるところを友達に見られるのは嫌だろう。そのくらい、おれはしっかりわきまえている。
おれと花村は住む世界が違うのだから、おれの方から話しかけたりなんかしない。近寄らず、目も合わせず、あいつの視界に入ることもなく、ただひっそりと影のように気配を消して、これからもそうやってできる限りの接触を避けてやり過ごすのがお互いのためだ。
なのにどうしておれは、花村が話しかけてくるかも、なんて期待をしたんだろう。図書室でちょっと長く話し込んだくらいで、何を勘違いしているのか。あんなの花村にとっては取るに足らないどうでもいいことなのに。
教室に戻ると、カバンから弁当の入った小さなトートバッグを取り出してまた廊下に出た。
昼休みの教室におれの居場所はない。
*
渡り廊下を渡ってA棟に入り、その廊下を更に奥へと進んだ先におれの居場所がある。外の非常階段、この時間にこんなところへ来る奴は今まで一人も見たことがない。屋外だから雨の日や夏の猛暑が続く時期はさすがに校舎内で別の場所を探すけど、ちょうど今くらいの秋が深まってきた頃は晴れた日が多く空気もさらりと乾いていてとても居心地がいい。
入学して間もない頃は校舎の屋上に目をつけていたのだが、あいにくそこは転落事故防止のため普段は立ち入り禁止で出入り口が閉鎖されていると知り、どうにか学校の敷地内で一人になれる場所はないものかと数日間探索してようやくここを見つけたのだ。
学校内には教師や生徒たちの目から死角となる場所が意外と数多く点在する。無理をして教室で昼休みを過ごさなくても、誰にも気付かれていない穴場を探し当てることさえできれば、こうして一人でのびのびと過ごすのは決して難しいことではない。
いつものように階段に腰掛けて、高く澄んだ空を仰ぐ。遠くから生徒たちのはしゃぐ声が微かに聞こえてきて、その遠さにほっとため息をついた。
そうだ、おれは一人が好きなんだ。
周りに誰かがいると落ち着かないし、弁当を食べるのも静かなところがいい。
今までだってずっとそうだっただろ。
「おーいたいた、湊はっけーん」
「うわっ!」
弁当箱のフタを開けたのとほぼ同時に、突然背後で非常口がガチャンと音を立てて開いた。振り向くとそこにはさっき廊下ですれ違ったはずの花村がいる。
「なっ、なんで……」
「購買の帰り、湊が渡り廊下にいるの見えたから。追いかけてきた」
そう言いながら、さも当然と言わんばかりにおれの隣へすとんと腰掛けた。見ると花村の手には小さなビニール袋が提げられていて、中からは購買で買ったと思しき焼きそばパンが覗いている。
「向こう行けよ、友達と一緒に食べればいいだろ」
「またそういうこと言う」
「……な、なんだよ?」
花村は紙パックのバナナオレをストローで飲みながら、じっとおれの顔を見ている。さっきまで一人のびのびできるはずだったおれだけの快適な空間が、今は居心地の悪いことこの上ない。非常階段の幅はさして広くもないから、男二人で並んで座るとどうしても距離が近くなってしまう。さり気なく階段の端に寄って少しでも花村から離れようと試みたが、あまり意味がなかった。
「なんか湊、よそよそしくない?」
「え……」
何を言われたのかすぐには理解できず、箸を握ったまま固まってしまう。
「教室にいる間、一回も目ぇ合わないしさ。せっかくメッセのID交換したのに湊の方から送ってこないし。もしかして俺、避けられてんの?」
避けているつもりはなかったけど、さっきの廊下での態度はそう受け取られても無理はないかもしれない。いやでも、あの時は花村だっておれと目が合ったのにすぐ逸らしてただろ。なのになんでおれだけが一方的に花村を避けてるってことになるんだ。
おれが自分の立場をわきまえて、花村と無用の接触をしないよう気遣っているのも知らないで。
「……花村だって、全然話しかけてこないだろ」
こんなこと言いたくない。だってこれじゃ、おれがそれを期待してたみたいじゃないか。
確かに全く何の期待もしてなかったって言ったら嘘になるけど、おれの方から花村に話しかけるのがどれだけ勇気のいることなのか、どうせこいつはちっとも分かってないのだ。
「なに湊、もしかしてずっと俺が話しかけてくんの待ってたの?」
「ばっ、ちが……そんなんじゃ」
つい花村の方を向いてしまった。花村はにやにやしてこっちを見ている。
いけない、ここで動揺していたら花村の思うつぼだ。いい加減おれも学習しないと。わざとらしく咳払いをひとつして、弁当箱に視線を戻す。
「おれはただ、このまま何もしないでいていいのかって思ってただけだ。その……朗読聴かせるって約束したんだから。一応」
「約束ねえ」
その言い方に何か含みがあるのを感じたが、おれはもう花村の方を見ずに続けた。
「やるなら前もってちゃんと日時を決めてほしいんだよ。こっちだって暇じゃないし、それにもうすぐ中間テストだってあるし」
「あー、中間ねえ。あったねそう言えば、そんなの」
「あったねじゃないだろ。テスト期間に入ったらおれは付き合わないからな」
「分かってるよ。んー、じゃあ明日とかどうよ? ヒマ?」
「いきなりだな……」
何だかもういちいち反論する気も失せてしまう。弁当箱の隅に詰めたきんぴらごぼうに箸を伸ばすと、急に横から花村が肩をぐいと寄せてきた。
「うわ、湊んちの弁当めっちゃ美味そう。毎日こんな感じなの?」
「え? まあ……」
「いいなー。俺、毎日購買かコンビニのパンだからいい加減飽きてんだよね。これって湊のお母さんが作ってんの?」
「いや、自分で冷凍食品とか適当に詰めてるだけだけど」
「えっ、自作してんの!? 湊が?」
「自作って……レンジで温めるだけだよ」
「でもさあ、この玉子焼きはさすがに冷食じゃないだろ?」
「ああ、うん。それだけはおれが作った」
「やっぱり自作してんじゃん。湊すげーな」
そんなに大げさに褒められると恥ずかしくて居た堪れなくなってくる。花村があまりにも興味深そうに目をキラキラさせて玉子焼きをじっと見てるから、何だか非常に食べづらい。
「……食べるか? これ」
「えっ、いいの? でも一個しかないし」
「おれはいつも食べてるから、別にいいよ。ほら」
弁当箱を花村の方に差し出してやると、花村は少しためらっていたものの、しばらくするとおずおずと手を伸ばして指先で玉子焼きをつまみ、ひと口で頬張った。
その途端、花村の目が驚いたように見開かれる。なんだ、口に合わなかったのかな。
「……っ、甘い!」
「え……」
味わうようにゆっくりと咀嚼して飲み込むと、花村は少し興奮気味に続けた。
「湊んちの玉子焼きって、甘いんだ。うちのかーちゃんが作る玉子焼きは甘くないのに」
「ああ、花村の家はだし巻き派なんだな」
「何それ?」
「ええと……まあ、地域によって玉子焼きに使う調味料が違うってだけだよ。食文化の違いだな」
こんなこと改めて説明してる自分が何だか滑稽に思えてきて、おれはつい一人で笑ってしまった。当然、花村は不思議そうにおれを見ている。
「なに笑ってんの?」
「いや、別に……」
まずい、バカにされてると思ってまた花村が機嫌を損ねるかもしれない。箸を持つ手で口元を押さえてどうにか笑いを堪える。
「湊が笑ってんの、初めて見たかも」
花村はじっとおれの顔を見たまま、ぽつりとそう呟いた。
「……」
おれは黙って花村から顔を背け、弁当を食べ始めた。
確かに、こいつの前で笑ったのはこれが初めてかもしれない。教室では笑うどころか雑談さえ一切しないし、花村と二人でいる時も笑うような話をしたことはないし。
たったそれだけのことなのに、花村に言葉で指摘された途端、何故かとてつもなく恥ずかしくなってきた。
不覚だった。こいつの前で笑うなんて、完全に油断してたな。
中学生の頃、担任の教師にそれとなく注意されたことがある。もっとクラスメイトと積極的に喋ったり、笑ってみせた方がいいよ、と。要は、少しはクラスに溶け込む努力をしろと言いたかったのだろう。
当時は余計な世話だと聞き流していたけど、あの担任の気持ちも今では何となく慮ることができる。自分の担当するクラスにおれみたいな周りと馴染めないで孤立している奴がいたら何かと気を揉むだろうし、一応それなりに気にかけてくれてはいたのだろう。
息をするように人前で喋ったり、笑ったり、そういうことが当たり前にできない人間だっているのに。それが何の苦労もなくできる奴には、できない奴がただ頑なに人との接触を拒んでいるようにしか見えないのだろう。おれだって好きでこんな生きづらい性分をしているわけじゃないのに。
花村も言うのかな。『もっとそうやって笑えばいいのに』なんて、いかにもおれのためを思っているようで本当は何も分かっていない、気休めにもならない陳腐なアドバイスを。
何を言われても聞き流そう、そう思って黙々と弁当を食べていても、花村はそれ以上何も言ってこなかった。
「……」
半分くらい食べたところで、ちらと横に視線だけを向ける。花村は何故か嬉しそうな顔をして、おれが弁当を食べるのを黙ってじっと見ていた。さっきからずっと見られていたのだろうか。
「……なんだよ。食べづらいんだけど」
「ん? ああ、ごめん」
「さっさと食べないと、昼休み終わるぞ」
「そうだね。早く食べよーっと」
なんだ、急にへらへらして。花村がビニール袋から焼きそばパンを取り出しているのを見ながら、おれは小さくため息をついた。


