どうやらここの書架の整理には明確なルールが設けられていないのか、棚の分類さえ合っていれば後は適当でいいとばかりに本がめちゃくちゃに並べられている。せめて作品名か著者名を五十音順にするとか同じテーマの本は固めて並べるとか、そのくらいのルールはあった方がいいと思うのだが、そこまで手が回らないのか、それともただ単に面倒で放置されているだけなのか、いつ来てもこんな感じだ。
 日本文学の本が並べられた棚の前で、おれと花村は手分けしてそれぞれ別方向から『高瀬舟』の本を探すことにした。

「湊は朗読する時、紙の本を見ながらやってんの?」
 棚の上段に並んだ本の背表紙を目で追いながら、花村はふと思い出したように聞いてきた。
「うん。小中学校の教科書から題目を拾うことが多いから、いつも教科書で読んでる」
「へえ、そうなんだ。じゃあ高瀬舟も?」
「あれは中三の教科書だったかな」
 おれは花村から少し離れた位置に並び、しゃがんで棚の下から順に本を探しているから、花村の声が頭の上から降ってくるように聞こえる。
「俺も中学の時に国語でやったよ。なんかクラスの女子はみんな気持ち悪いーって言ってたけど」
「あー、まあ……確かにちょっと、グロいとこあるよな」
 喜助の弟が自分の喉を剃刀で切り、その傷口を喜助が確かめる場面は、おれも読みながら想像して少し気分が悪くなったのを今も覚えている。そこまで詳細な描写をされているわけではないが、想像力の豊かな奴だとあのシーンを読むのは少しきついかもしれない。
「俺は正直言うとあんまり印象に残ってなかったんだよね。授業で一回読んで、それっきり」
 ちょっと待て。花村も中学の時に高瀬舟を教科書で読んだのなら、こんな労力を割いて本を探す必要はないんじゃないのか。
「それなら中学の教科書で読めばいいんじゃないのか? わざわざこんなとこで探さなくても」
「やー、もう中学の教科書とか全部捨てちゃったからうちになくてさ。でも湊の朗読ですぐ思い出したよ。一回しか読んでないのに、結構覚えてるもんなんだなって」
「……それは、花村の記憶力がいいんだろ」
「かもね」
 顔を上げると、花村は少し得意げな表情で笑っている。

 しかし、なかなか見つからない。さっさと終わらせて帰りたいのに、もし全部の棚を探して見つからなかったなんて結果に終わったら、ただ花村と無駄話をしただけで時間を無為に過ごしたことになってしまう。それは避けたい。
「弟が喜助に喉から剃刀を抜いてくれって頼むとこでさ、『せつない』って言うじゃん? 何だっけ、物を言うのがせつない、って」
 さっきから真面目に探しているのかそうでないのか、花村はまた唐突に話を振ってくる。似たようなフォントのタイトルが並ぶ背表紙たちを目で追うのにも疲れてきていたおれは、息抜きをするつもりで適当に相槌を打った。
「ああ、うん」
「普通さあ、喉に剃刀が刺さって抜けない時って『苦しい』だろ? なのになんで弟は『せつない』なんて言ったんだろ。湊の朗読でそこ聴いた時から、なんかずーっと気になってて。せつないって、心がせつないとか胸がせつないとか、そういう使い方する言葉だろ?」
「昔は、心じゃなくて身体が物理的に苦しいことを『せつない』って表現してたんじゃないかって説があるみたいだよ。高瀬舟に限らず、文脈的に見ても明らかにそういう意味で『せつない』って言い回しを使ってる作品は他にもあるし」
「ふーん……」
 花村の薄い反応に、またしても自分が聞かれてもいない余計なことまで喋ってしまったのだと気付く。口下手なくせに自分の興味がある分野の話になるとつい多弁になってしまうのは典型的な陰キャの特性だ。
 これ以上の醜態を晒さないよう、もう余計なことは言わずに黙っていよう。そう思って口をつぐんだ時、隣で花村が小さくため息をつくのが聞こえて、おれはまた顔を上げた。
「心がせつないのと身体が苦しいって、全然別の意味だよね。なのになんで同じ言葉で表現するようになったんだろ」
 いつもはへらへら笑っている花村が、珍しく真剣な面持ちで考え込んでいる。そこまで深く考え込むほど気になるものだろうか。
「身体が痛くて苦しい感覚と、よく似てるからじゃないのか。心の『せつない』は」
 適当に答えてやると、花村はこっちに顔を向けた。
「んー……心がせつないって、誰かに恋してる時の気持ちだよね? それ以外の意味で使われてんの、俺見たことないもん」
「それだけってことはないと思うけど……確かに、そういう意味で使われることが多いだろうな」
 花村は腕組みをして眉間に皺を寄せている。どうやら、おれの適当すぎる返しのせいで更に混乱しているようだ。

「恋してる時って、喉に剃刀が刺さってるのと同じくらい苦しいってこと?」

 極端すぎだろ。そう思ったけど、言えなかった。花村の表情が真剣そのものだったからだ。
「まあ……人によっては、そうかもね」
「ふーん?」
 さっきからおれが適当な返事しかしていないことに気付いたのか、どこか不満げな声が返ってくる。真面目に答えろよって思われてるのかも。
「なんだよ」
「湊はそんなふうに思うほど、誰かを好きになったことあんの?」
「え? いや、ないけど」
「そうなんだ。なのになんで分かんの?」
「なんでって……そういうものだって、よく言うだろ」
 つい口ごもってしまう。恋愛の話なんておれの中の引き出しを全部ひっくり返したってひとつも出てこないというのに、突然そんなこと聞かれたって上手い返しなどできるわけがない。大体、その手の話をこいつとどういうノリで話したらいいのかさえ分からないのだ。昨日まで一度も会話したことなかったのに。
「俺、よく分かんない」
「花村の方がそういうのは詳しいんじゃないのか」
「分かんないよ。俺もそこまで誰かを好きになったことないし」
「へえ、意外」
 思ったことをそのまま口にした途端、花村の顔が明らかにむっとした表情に変わった。どうやら気に障ったらしい。
「なんで俺の方が詳しいって思うの?」
「いや……いつも女子と一緒にいるから」
「ええ? 何それ」
「おれと違って明るくて話しやすいから、さぞかし恋愛経験豊富なんだろうなと思ってた」
 窓の外から差す夕日で花村の髪が淡い橙色に透き通っている。まともに見ていると目が眩みそうで、おれは目を細めた。
「あーのさあ。人を見た目で判断するのは良くないって、この前タマちゃんも言ってたじゃん」
 タマちゃんとは学年主任の玉田のことだ。話が恐ろしく長いことで有名だが、花村が玉田の話を真面目に聞いていたという事実におれは心底驚いた。
「じゃあ花村は、誰かと付き合ったことないのか」
「ないよ。悪い?」
 不機嫌そうにそう言って、花村はまた本棚の方に向き直った。
 怒らせたかな。花村も嫌ならそんなバカ正直に白状しなくたっていいのに。おれなんかにそんなことカミングアウトしてどうすんだよ。
 仕方なくおれも本棚の方を向いて、本を探す作業に戻る。

 見ただけじゃ分からないもんだな、と思った。
 クラスでも、いや、学校内でも陽キャの代表格みたいな存在なのに、恋愛経験がないとは。こいつなら立ってるだけで言い寄ってくる女子なんてそれこそ星の数ほどいるだろうに、すごく意外だ。

「そういう湊は? 女子と付き合ったこと、あんの」
 本棚の背表紙を目で追いながら、花村は興味なさそうに聞いてきた。答える義理もないけど、どうやら花村の機嫌を損ねてしまったようだし、ここで下手に黙秘すると本当に怒るかもしれない。おれは深く長くため息をついた。
「……ないよ。朗読してる方が楽しいし」
「ふーん……」
 出た、薄い反応。興味ねえよって言葉で言われるよりはっきりと伝わってくる。
 言ってから時間差でじわじわと恥ずかしくなってきた。やっぱり言うんじゃなかった、おれのバカ。
 黙り込んだ途端、頭の上からくつくつと笑いを堪えているような声が聞こえてきて、そろそろと顔を上げて横を見た。案の定、花村は口元を手で押さえながらじっと本棚を見ている。必死に真面目な顔をしようとしてるけど、明らかに笑いを堪えている。
「なに笑ってんだよ?」
 むっとして、ついそう言ってしまう。
「湊って、本読むの本当に好きなんだね」
「え? いや、別に……好きってほどじゃ」
「好きだから朗読してるんじゃないの?」
「……本が好きで始めたわけじゃないよ」
「そうなんだ? じゃあなんで」
 おれは花村から顔を背けて、また本棚の背表紙に目を向けた。偶然だったのだろうか、ちょうど視線を止めた先に『高瀬舟』の文字を見つけた。それに手を伸ばして、指先で本棚からすっと引き抜く。
「いいだろ別に。理由なんかどうだって」
「えー、なんだよ。気になるんだけど」
「ほら、あったぞ。さっさと借りてこいよ」
 手にした文庫本を花村に向かって差し出すと、花村は素直にそれを受け取った。
「おう、サンキュ」

 そうか。花村は、おれが本を読むのが好きで朗読をやってると思っているのか。
 普通はそう考えるだろう。喋ることへの苦手意識を克服するためなどという後ろ向きな理由でこんなことをやってるだなんて、花村みたいに明るくて誰とでも気楽に話せるような奴には思いつかないだろうし。
 もしおれが朗読を始めた本当の理由を知ったら、花村はどう思うんだろう。がっかりするのかな。そんな理由で朗読したものを聴かせてたのかって、おれを軽蔑するのかもしれない。

 ここで本を貸し出す際は、図書委員が日付と本のタイトル、そして借りた生徒の名前を帳簿に記録している。今日は図書委員が不在のため、花村本人が自分でそれを記録しているのを横目に見ながら、おれは机の上に置いてあった自分のカバンを手に取った。
「じゃ、もうこれで用は済んだな。おれは帰るよ」
「ちょちょ、ちょい待って! もう少しで書き終わるから!」
「ゆっくり書いてなよ。じゃあな」
「だーっ、もう、待ってって言ってんじゃん!」
「なんだよ……」
 花村があまりにもうるさいので、仕方なくその場で足を止める。花村は帳簿に記入を終えると、足早に貸し出しカウンターから出てきた。
「一緒に帰ろうよ」
「は……? え、やだ」
 咄嗟に正直に答えてしまった。
「ええっ!? いいじゃん、一緒に帰るくらい」
「だって花村うるさいし」
「ひどくね? うるさいから一緒に帰るのやだって、俺そんなこと言われたの人生初よ?」
 そんなこと言われても、事実だから仕方ないだろう。
「……とにかくもう、おれは帰るから」
「だから一緒に帰ろって。うるさいのが嫌なら静かにしてるからさー」
「あーもう、好きにしろ」

 *

 思ったよりも長い時間、図書室にいたようだ。昇降口を出ると西の空は燃えるようなオレンジ色に染まっている。
 部活動をしていない生徒たちはとっくに下校しているらしく、昇降口から校門へと向かう間も誰とも遭遇することはなかった。花村と一緒に帰るところなんてクラスの連中に見つかったら何かと面倒なことになる、それを危惧していたおれは校門を出たところで思わずほっとため息をついてしまった。

「……あのさ、花村」
「ん? なに」
 おれにうるさいと言われたからなのか、さっきから花村は珍しく静かにしている。確かにうるさいのは頂けないが、ずっと隣で黙ってられるのもそれはそれで息苦しい。沈黙に耐え切れなくなり、とうとうおれの方から話を振ってしまった。
 くそ、こういうのが面倒だから嫌だったんだよ。
「なんで高瀬舟なんだよ? この間おれ動画で上げたばっかりなのに、わざわざ同じ題目をリクエストしなくてもいいだろ」

 さっきの花村の話を聞いてから、おれはずっと違和感を覚えていた。
 花村は中学の頃に高瀬舟を授業で読んだと言っていたけど、その時に一度読んだきりで特に何の印象も残らなかったとも言っていた。それはつまり、この物語にそれほどの思い入れがあるわけではないということだ。
 それなのに花村は、おれの生朗読の題目として高瀬舟を選んできた。何の理由もなくそんなことをするだろうか。何か他に理由があるんじゃないか、そう思えてならないのだ。

 花村はきょとんとした顔でおれを見ている。大通りの交差点に差し掛かり、おれと花村は信号待ちで立ち止まった。
「なんでって……そんなの、湊の朗読がすごく良かったからに決まってんじゃん」
「……え?」
「もしかして湊って、今まで演劇の経験ある? 劇団にいたとか」
「いや、ないけど……」
 何なんだ、いきなり。
 花村の言葉の意図が掴めず、今度はおれがぽかんとして花村を見てしまう。花村は決してふざけているわけではないらしく、妙に真剣な目つきをしていた。
「ほら、さっき言ってた、弟が喜助に喉から剃刀を抜いてくれって頼むとこ。あのシーン、湊の演技にすごい引き込まれたよ。なんか真に迫ってるっていうか……本当に喉に剃刀が刺さってんじゃないかってくらい、苦しそうで」
「え、演技って……大げさな」
 そう返しながらも、頬が熱くなってくるのが分かる。
 自分の朗読を褒められるのは嬉しいけど、あの場面の弟のセリフは自分でも少し感情移入し過ぎたかな、と思っていた。だからこんなふうに改まって褒められると、嬉しいより何だかひどく恥ずかしい。おれを知ってる奴は誰も聴いてないと思ってたから好きなように朗読できていたのに、今後はもう難しいかもしれないな。
「大げさじゃないよ。聴いてて超ドキドキしたもん、俺」
「……あ、そ」
 ドキドキって何だ。おれの朗読でドキドキするって、それってつまりどう解釈したらいいんだ?
 信号が青に変わり、花村はすぐに歩き出した。少し遅れておれもその後についていく。

 何だか、胸の奥がこそばゆい。むずむずして、じっとしていられないような、変な気分だ。
 滅多に褒められることがないせいだろうか。
 誰かに褒められたら、誰でもこんなふうに変な気分になるのかな。

 駅前のバスロータリーまで来ると、花村はぴたと足を止めた。
「あ、湊って電車?」
「おれはバス」
「そうなんだ。じゃあまた明日ね」
「……おう」
 いつも利用しているバス停の列に並ぶ。花村は駅のコンコースへと続くエスカレーターに向かって歩いて行った。

 なんか、疲れたな。今日だけで、いや、今日の放課後だけで一年分喋ったような気がする。
 家族以外の誰かとこんなにたくさん話したの、生まれて初めてかもしれない。

 そんなことを考えながら遠ざかっていく後ろ姿をぼんやり見ていると、不意に花村がくるりとこっちに振り向いた。
(あ……)
 右手を少し上げて、小さくひらひらと振っている。花村は少しはにかんだように笑っていた。
 それにつられるように、おれも右手を小さく振り返す。すると花村はまた背を向けて雑踏の中に紛れて行き、やがて見えなくなった。