じっとりと汗が滲んだ手で、またカバンの取っ手を握りしめる。そうやって何かに捕まっていないと、指が震えてしまいそうだったからだ。
「どういう……意味?」
 しかし、絞り出した声はとっくに震えていた。花村もそれに気付いたのか、何か新しいおもちゃを見つけた時の子供みたいな目でにんまりと笑っている。
「俺だけに朗読聴かせてって言ってんだよ」
 さっきと同じことを繰り返すだけで、花村の言葉の意図が読めない。
「おれの朗読が聴きたいなら、動画で聴いてればいいだろ」
「ナマでって言ってんじゃん。俺の前で朗読してよ」
「なんで……」
 そんなの絶対無理だ。人前で喋ることに対する苦手意識を克服するために始めた朗読動画なのに、花村の見てる前で朗読なんてできるわけがない。どうせまた早口になってつっかえて、笑われるだけだ。

「俺さ、湊の朗読がすごく好きなんだよね」

 遠くからチャイムの音が微かに響いてくる。花村の髪が夕日に透けて淡く光るのを、おれはぼうっと見ていた。
「なんか、聴いてると落ち着くっていうか……湊って朗読だとすごくゆっくり喋るから、ぼーっと聴いてると話に入り込んじゃうんだよね。寝る前に目瞑って聴いてるとそのシーンの光景とかが勝手に浮かんできて、映画一本観た後みたいな気分になる」
「……」
 はっきりとは確信できないけど、これは……褒められているんだろうか。
 公開した朗読動画への反応なんて滅多にないけど、たまに短いコメントをもらうことはある。その中で『落ち着く声ですね』と言われたことは今まで何度かあった。でもおれはそれを褒め言葉として受け取っていいのか分からなくて、いつも適当なスタンプを返して受け流していた。
 誰かに褒めてもらいたくてやっているわけではないけど、自分の朗読を褒めてもらえたらおれだって素直に嬉しいと思う。褒められることなんて日常生活の中ではほとんどないし、それが自分でも努力して続けていることに対しての褒め言葉なら尚更、誰だって飛び上がるくらい嬉しいものだろう。
 でも悲しいかな、こんなふうに面と向かって自分のしたことを褒められる経験に慣れていないから、どんな反応を返したらいいのか分からない。褒められているのなら喜んでいいんだろうけど、本当に褒められているのかどうかもおれにはよく分からない。
「……ありがと」
 だから、そんなつまらない返事しかできなかった。
 もっと気の利いた返しができたら花村も喜んでくれたかもしれないのに。
 なんでおれって、こうなんだろう。

 花村はすぐには何も言わなかったけど、その表情を見るにどうやらおれのつまらない返事に気分を害しているわけではなさそうだ。少し困ったように笑って、指で自分の髪の毛先をいじっている。
 何も言われなくても、花村のその曖昧な笑い方を見れば気を遣わせているらしいということくらいはおれにも伝わってきた。
「だからさ、どうしても一度ナマで朗読聴かせてほしいんだ。湊がどうしても嫌って言うなら諦めるけど……一回だけ。一回だけ聴かせてくれたら、もうそれで終わりにするから」
「でも……」
「どうしても、ダメ?」
 今度は顔の前で大げさに両手を合わせて、少し上目遣いにおれを見上げるふりをしている。
 やっぱりこいつ、こうやって人に何か頼むことに慣れてるんだろうな。人の懐に入り込むことに長けているのがおれにも分かる。こんな目で見上げられたら誰だって、多少の無理は聞いてやってもいいかって気持ちになるに決まってる。
 おれには到底真似できない芸当だが、だからと言って別に羨ましいとは思わない。でも、こういうことをこともなげにやってのける、そういう生き方ができれば人生が楽だろうなとは思う。
 きっと花村から見れば、おれみたいな不自由だらけの生きづらい人生を自ら選んでるような奴こそ理解に苦しむ存在なのだろう。おれだって好きでこんな生きづらい性格をしているわけじゃないのに。
 そう考えると、花村の要求をおれが一方的に呑まされるのは何だか納得がいかなかった。おれはこんなに厄介で生きづらい性格をどうにかして少しでも変えたくて、そのために朗読配信をしているのに、どうして何の苦労もなくへらへら生きているだけで周りからちやほやされるような花村にそれを聴かせてやらなきゃいけないんだ。
 どうせこいつには、人前で喋れない苦労なんて話したって理解できないのに。

「どうしても、嫌」
 おれがそう言うと、花村はしんから驚いたように目を丸くした。きっとこいつは、こうやって誰かに何かを頼んで断られたことなんて今まで一度もなかったのだろう。自分の頼みを断る奴がこの世にいるなんて、想像すらしたことがないのだ。
 花村が何か言いたそうに口を小さく開けているのを見て、おれはそれを遮るように続けた。
「おれがどうしても嫌だって言ったら、諦めてくれるんだろ」
「えー? 湊、このことみんなに黙っててほしくないの?」
「な……」
 おれが言葉に詰まった瞬間、花村は唇の端を上げてにんまりと笑った。
 しまった、と思った。朗読を褒められたことで勘違いしていたが、おれと花村の立場は最初から対等ではなかったのだ。花村は最初からおれを脅すつもりで交渉を持ち掛けていたというのに。
 おれに拒否権は与えられていない。それをはっきりと認識した途端、おれは目の前でへらへら笑っている花村が空恐ろしくなった。何も考えていないような顔をして、こいつは常にこうやって他人を自分の意のままに動かす方法を探っているのだ。どこをどうつつけばおれが言うことを聞くのか、花村は完全に把握している。
 さっきおれの朗読が好きだと褒めていたのも、既に本当かどうか疑わしくなってきた。適当におだてておけばおれは気をよくして花村の言うことを聞くだろうと、大方そんなふうに踏んであんなことを言っただけなのだろう。

 しかし、そこまでしておれに要求することが、何故『朗読を生で聴かせろ』なのか。金銭や花村にとって利益になるものを要求してくるのならまだ分かるのだが、おれの生朗読にはそんな価値はないし、そんなものを提供したところで花村には何のメリットもないのに。
 ……だめだ、分からない。こいつ一体、何考えてんだ?
 何を考えているのか分からない奴ほど恐ろしいものはない。おれは唇をぎゅっと引き結んで花村を見据えた。
「黙っててほしいんだよね?」
 何も答えないのを肯定と受け取ったのか、花村は目を細めて薄く笑った。
「さっきも言っただろ、誰にも言わないでって」
「うん、言わないよ。でもさ、何の見返りもなしで黙っててもらおうなんて、ちょっとムシが良すぎない?」
 ついさっきおれが考えていたのと全く同じことを言われて、心臓が引きつったように縮み上がるのを感じた。
 おれの思っていることなど、花村には何もかも全て見透かされているのだろうか。そんなことあるはずがないと分かっていても、こいつのこの目でじっと見られていると、正常な思考ができなくなる。今おれがこんなにも動揺していることだって、花村には手に取るように分かっているのかもしれない。そう思うと生きた心地がしなくて、カバンの取っ手を握りしめる指の間に汗がじっとりと滲んでくる。

 断るという選択肢は、最初から与えられていない。
 花村の目的が何なのかは分からないけど、おれはこいつの要求を受け入れるしかないのだ。

「……分かったよ」
 自分でもほとんど聞き取れないくらい小さな声でそう呟く。花村はぱっと顔をほころばせた。
「やった! じゃあ湊のメッセのID教えてよ」
「え……な、なんで?」
「なんでって、連絡先知らないと打ち合わせできないじゃん。ほらスマホ貸して」
 花村は急に距離を詰めてきて、おれの握りしめているカバンの端をぐいと掴んで引っ張った。
「やっ、やめろ。大体、打ち合わせって何だよ?」
「朗読する場所のセッティングとか日程とか、いろいろ話して決めなきゃいけないことあるっしょ」
「そんなもん、なんでわざわざメッセで話す必要があるんだよ」
「俺は別に直接話し合ってもいいけどさ、教室で俺と湊が喋ってるとすぐみんなにバレると思うよ」
 確かにそうだ。おれと花村はクラスでもほぼ対極の位置にいるような存在で、春に同じクラスになってから半年もの間、ただの一度も会話らしい会話をしたことがない。そんな二人が突然喋るようになったら、周りの奴らは当然訝しむだろう。
 おれはともかく、花村のそばには常に誰かしらがいてはしゃいでいるから、教室だと落ち着いて話すことさえままならないのは目に見えている。誰にも気付かれないよう秘密裏に花村とやりとりしたいなら、メッセージアプリを通して連絡を取り合うというのはなるほど理にかなっていると思えた。
 正直言ってめちゃくちゃ不本意だが、背に腹は代えられない。渋々カバンの外ポケットからスマートフォンを引っ張り出すと、たまに家族とやりとりする時くらいしか使わないメッセージアプリを開いた。

「よっし、完了っと」
 お互いのIDを交換し合うと、花村は自分のスマートフォンをしまった。
「本当に一回だけ朗読聴けば、それで終わるんだな?」
 何だか急に不安になってきて、念を押すように確認する。花村は相変わらずへらへらと笑っている。
「うん、一回でいいよ。あっ、でも……」
「な、なんだよ」
 咄嗟に身構えてしまう、更にこれ以上の無理難題を要求されるのかと思ったからだ。
「朗読の題目は俺がリクエストしていい?」
 なんだ、そんなことか。どうせおれの意見なんてはなから聞く気もないくせに。おれは深く長くため息をついた。
「……まあ、別にいいけど」
「マジ? じゃあね、『高瀬舟』! あれが聴きたい」
「え……」
 その時のおれはよっぽど困惑した顔で花村を見ていたのだろう。花村はおかしそうに笑った。