バス停から少し歩いた場所にある小さな児童公園に入ると、そこには誰もいなかった。ここは近所の小学生や、小さな子供を連れた親がいるところをバスの中からよく見かけるのだが、こんな中途半端な時間帯だと誰も来ないようだ。いつもなら子供たちで順番の争奪戦になっているであろう滑り台もブランコも、今は少し物寂しく見える。
花村はブランコを囲む低い柵に腰掛けて、おれの方をちらと見上げた。
おれも座った方がいいか。でも、花村の隣でいいのかな。変に距離を空けて座ったら、またさっきみたいにおれが花村のことを怖がってると思われるかもしれない。
迷っていると、花村はおかしそうに笑った。
「いいよ、嫌なら離れたとこにいても。そのくらいで怒ったりしないって」
「そ、そうじゃない」
だめだ、またさっきと同じになってしまう。花村のすぐ隣に腰を下ろすと、横から小さくため息をつくのが聞こえた。
「……湊ってさ、俺といるとすごく居心地悪そうな顔するよね」
あたりはしんと静まり返っている。時折、大通りの方から聞こえてくる車の走る音よりも、公園を取り囲むように立っている樹木の枝葉が風に揺れて擦れる音の方が大きく聞こえる。
おれは何も言えず、ただぼうっと花村の横顔を見ていた。
「嫌われてんだろうなってのは分かってんだけど……俺、頭悪いから。これでも俺なりに考えてはいるんだよ、どうしたらもっと仲良くなれんのかなって」
花村の栗色の髪が風に揺れている。何か言わないと、否定しないと、そう頭では分かっているのに、適切な言葉が何ひとつ思いつかない。
おれの方を見ようとしないまま、花村はわずかに下を向いた。
「あの時は、ごめん。湊すごく震えてたのに、無理やり朗読させて」
「……」
「湊が俺のこと怖がってるって思ったら、なんか……どうしても嫌だった。何とかして緊張解いてもらいたくて、無理やりにでも読ませようとしたんだ。本当はあんなことするつもりなかったのに」
違う。
今ここではっきりそう言わないと、きっとこの先に言える機会は来ないだろう。
おれが言わないと、花村はずっと自分を責めるのをやめない。
「花村は怖くないよ」
膝の上でぎゅっと両手を握りしめる。思っていたよりもあっさりとその言葉は出てきたけど、指先が微かに震えてるのが分かる。
「え……」
「信じてもらえないかもしれないけど、花村だけは怖くない。それは本当だから」
「……なんで?」
やっと花村は顔を上げておれを見た。笑っていない、でも怒ってもいない。何の感情も読み取れない無表情で、おれをじっと見ている。こんな顔をしている花村を見たのはこれが初めてだ。
「おれが朗読やってること、クラスの奴らに言わないでいてくれただろ」
「そんなの、当たり前じゃん。言うわけないよ」
「じゃあ最初から言いふらすつもりなんてなかったのに、それをネタにしておれのこと脅してたのか? 黙っててほしかったら生で朗読聴かせろって」
「あ、あれは……脅してなんか」
途端に花村はさっと顔を背けてしまった。
それは、今までずっと何となく感じていた違和感だった。どうして花村の前でだけは平気なんだろう、花村と他の奴らは一体何が違うのだろう。
考えて答えが出るものではないのかもしれないけど、その理由は今なら分かるような気がする。
クラスの他の奴らだったらきっと、おれの朗読動画を偶然見つけたらすぐ周囲に言いふらし、面白がって話のネタにしていただろう。昨日のおれと花村をからかって笑っていた奴らの態度を見れば、その様は簡単に想像できる。それは奴らを下衆っぽいなどと軽蔑しているのではなくて、そういう反応をするのが普通の感覚なのだろうとおれは思っている。誰とも喋らず、いつも教室の隅で黙って下を向いているような奴が、ネットでは別人のように生き生きと朗読なんか公開しているのを見つけたら、誰だってそうするだろう。
でも、花村はそうしなかった。それをネタにしておれに交渉を持ち掛けてきたのは事実だけど、誰にも言わないという約束だけは最初から一貫して守ってくれた。
たったそれだけのこと、花村はそう思うかもしれない。でもそれは、おれにとって何よりも大きなことだったのだ。
おれが今までずっと誰にも言えずに抱えてきた悩みを克服しようともがく無様な姿を見ても、花村は絶対に笑ったりからかったりしなかった。それどころか、おれの朗読を好きだと言ってくれた。それがどんなにおれを勇気づけてくれたか、おれがどんなに救われたか、世界中の言葉を使っても花村に余すことなくおれの気持ちを伝えることはきっとできない。
だからおれは信じられたんだ。花村だけは怖くないって。
「……花村はおれの朗読、褒めてくれたけど。あれはもともと本が好きで始めたんじゃなくて、人前で話すのが苦手なのを少しでも克服できたらって思って始めたんだ」
自分でも驚くほど、それは滑らかに言葉にできた。おれの朗読を褒めてくれた花村には絶対に言えないと思っていたのに、一度口に出してしまえばそれはさほど重大な秘密ではなかったように思えてくる。
きっとそんなふうに、おれ一人が深刻に受け止めているだけで実は大したことではなかったという悩みは数え切れないほどあったのだろう。そう思うと、自然と口元が笑ってしまう。
「湊……」
「黙っててくれて、ありがとう」
花村はもう、おれの朗読なんか聴かないだろう。そんな理由で始めたものを今まで聴かせてたのかって、がっかりしてるはずだ。
花村にがっかりされるのは嫌だけど、もう仕方ないことなんだ。だから、ちゃんと言わないと。
「でも、もういいよ。おれと一緒にいても、花村には何もいいことない。花村が話しかけてくれて、嬉しかったけど……もう、こうやって喋るのはやめよう。おれに気を遣ってくれなくてもいいよ」
もっと早く言えばよかった。
そうすれば花村だって、あんな嫌な思いをすることもなかったのに。
いつの間にか花村と一緒にいたいと思うようになってたおれのせいで、花村を傷つけた。こんなことはもう、今日で終わりにしないと。
「……ほんっと、自分勝手」
不意に周りの音が掻き消えた。枝葉が風に揺れる音も車の走り去る音も全部消えて、世界から音がなくなっていく。その中で花村の呟いた声は小さかったけど、それはおれの耳にはっきりと届いた。
「どうして湊ってそう、自分勝手なの? いっつも自分の気持ちばっかりで、俺の気持ちなんて全然見ようとしないじゃん」
また言われた、自分勝手って。今までにも何度かそう言われたけど、花村がおれのどんなところを指してそう言っているのか分からなくて、そう言われる度におれはいつもイラッとしてた。
花村はおれの方を向いた。今まで見たことのない、明らかに怒った表情をしている。
「なんで分かんないの? 何とも思ってない、ただのクラスメイトがほんの一日学校休んだくらいで、普通家まで来ないでしょ。しかも家どこなのかも知らないのに。普通ならその時点で諦めるよ」
「……なに、言って……」
花村が何を言おうとしているのか、皆目見当がつかない。いや、言っていること自体は分かるのだが、その裏にあるであろう花村の意図が全く見えない。
「あーっ、もう! なんで分かんないんだよ!」
突然、花村は足元の砂をざっと鳴らして勢いよく立ち上がった。ひどく苛立ったような目で見下ろされて、おれはただぽかんとしたまま阿呆みたいに花村の顔を見上げることしかできなかった。
「俺は、湊が好きなの!」
花村の言った言葉が頭の中でバラバラに散らばっていく。ガラスが割れたみたいに、破片のひとつひとつがそれぞれ別の方向へ散らばっていくから、花村が言ったことの全体像を理解するのにひどく時間がかかる。
「好き、って……」
まだ頭の中でまとまっていない言葉の破片を口にすると、花村は不機嫌そうな目つきでおれを睨んだ。
「友達としてじゃないから。この意味、分かるよね?」
友達として、好き、じゃない。
つまり、それって……要するに。
「……」
散らばった言葉がゆっくりとひとつにまとまっていく。だけどそれは、今までのおれが見たことのない形をしたものだった。
「……でもおれ、男だけど」
もっと他に言うべき言葉やふさわしい言い方があっただろうとは思う。自分でもこの状況でこの発言はどうなのかと思ったけど、口をついて出た最初の疑問はそれだった。
「そうだね。だから何?」
おれのあまりにデリカシーのない問いかけにあきれたのか、花村は吐き捨てるようにそう聞き返してきた。
何だか非難されているような気分になってきて、花村から目を逸らしてしまう。
「花村は、女子にモテるし……」
「知らないよ。そうだとしても、それって今この話に関係ある?」
「か、関係なくはないだろ? なんでよりによって、おれなんか」
「そんなこと言ったって、俺にも分かんないよ。でもしょうがないじゃん、好きになっちゃったんだから」
好き。
そこでようやくおれは、花村の言ったことの意味を頭の中ではっきりと理解した。
花村が、おれを好きだって言ってる。
それも友達としてじゃない、そういう意味じゃなくて。
花村は肩にカバンを掛け直して、ひとつため息をついた。まだ機嫌の悪そうな目つきは変わらないけど、頬は明らかにさっきよりも紅潮しているのがひと目で分かる。
花村、緊張してるんだ。
それが分かった途端、心臓がドクンと大きく脈打った。次第に動悸が強く速くなっていく。
「最初は一回だけ朗読聴かせてくれたら終わるつもりだったよ。でもあの時、これで終わりにしたくないって思った。あれで終わりなんて嫌だ、俺はこれからも湊の朗読が聴きたい」
花村は怒ったような口調で、おれの目を真っ直ぐに見てそう言った。おれの知ってる花村はいつもへらへら笑ってて、こんな真剣な顔でこんなキツい喋り方をする奴じゃない。目の前にいる花村は今までに見たどんな花村とも違っていて、どうしたらいいのか分からない。また指が小さく震え出して、それを抑えるため手をぎゅっと握りしめた。
「でも、おれは……もう分かっただろ。誰かに見られてると、まともに朗読なんかできないんだよ」
「上手くできなくてもいいよ。俺はただ、湊の声を聴いてるだけでもいい。俺だけに聴かせてほしい」
「……」
「湊があんなふうに喋るところ、俺以外の他の誰にも聴かせたくない。湊があんなふうに喋るのを知ってるのは、俺だけじゃなきゃ嫌だ」
あんなにひどい朗読を聴いたのに、あんなに無様に震えてるところを見たのに。
どうして、それでもおれを好きだなんて言えるんだろう。
花村の考えていることがさっぱり理解できなくて、これではいくらこいつの気持ちを見ようとしても見えるはずがない、と思ってしまう。そしてきっと、花村自身もどうしてなのか分かっていないのだろう。さっき自分でそう言っていたし。
だけど、そんなあやふやな気持ちを言葉にして相手に伝えていいものなんだろうか。もしそれが『好き』とは違う、何か別の感情だったとしたらどうするんだ。ただの勘違いって可能性だってあるのに。
おれは恋愛経験なんてないから分からないけど、世の中の人はみんなこんな曖昧な気持ちを軽々しく『好き』などと口にしているのだろうか。本で読む恋愛ってそんなものじゃなくてもっとはっきりと認識できるもので、誰かを好きになったら『ああ、自分は恋をしているんだ』ってちゃんと分かることがほとんどだから、現実でもそういうものなんだろうと思っていた。恋に落ちたという事実は、その瞬間にはっきりと自覚できるものなのだろうと。それが普通のことなのだろうと。
だからおれはずっと、これは違うと思っていた。
花村の前だといつもより喋ってしまうのも、どこにいてもつい花村を目で追ってしまうのも、花村からのメッセージが来ていないか気になって仕方ないのも、この程度じゃ好きだなんて呼べないのだろうと心のどこかで思っていた。
じゃあこれは何なんだろう、この気持ちは世間では何と呼ぶものなんだろうと、ずっと考えていた。誰かに対してこんな気持ちを抱くのは初めてのことだったから。
花村はじっとおれを見ている。おれが何か言うのを待っている。
その真っ直ぐな眼差しはおれの心の底まで見透かそうとしているみたいで、急にどうしようもなく怖くなってうつむいてしまった。
「おれなんかと一緒にいても、何も楽しいことなんかないだろ。また昨日みたいにクラスの奴らに変なこと言われて、花村の友達からも変な目で見られるよ。……おれ、暗くてキモいし」
「キモいって、誰かにそう言われたの?」
「言われてないけど……でも、そのくらい分かるよ。そう思われてるって」
「もしそう思ってる奴がいたら、そんな奴は俺の友達じゃないよ。だって湊はキモくなんかないもん」
「でも……おれは」
不意に花村はおれの前に膝をついてしゃがみ込んだ。膝の上で握りしめていた両手をそっと包み込まれた瞬間、肩がピクッと小さく震える。
おれの顔を見上げる花村の頬はやっぱりまだ赤い。それだけじゃない、おれの両手を包んでいる花村の指は微かに震えている。あの時と同じだ。カラオケで初めて花村に触られた、あの時と。
「そんなに俺の言ってること信じられないの?」
「そ、そうじゃない。そうじゃないけど……なんでおれなんだよ? おれ男だし、花村には女友達もいっぱいいるのに」
「なんでって……それ、理由が必要? 好きだけじゃダメなの?」
「だ、ダメってことでは……」
それ以上何も言えなくなってしまい、黙り込んだ。
花村はいつ、おれを好きだと分かったのだろう。
いつ、どこで、何がきっかけでその気持ちを自覚したのだろう。
その時、今のおれみたいに戸惑ったりはしなかったのかな。
花村だって今まで誰かを好きになったことはないって前に言ってたのに、好きだという気持ちを初めて受け入れるのに何の抵抗も感じなかったんだろうか。
「……そんなに嫌なら、そう言って。そしたらもう、二度と湊にはつきまとわないよ」
おれの両手を包み込む手に、ぎゅっと力が込められた。やっぱり花村の指は震えている。それともこれは、おれの震えだろうか。おれと花村の境界が少しずつ曖昧になっていくようで、どこからどこまでがおれの感覚なのかはっきりと分からなくなってきた。
「俺のこと何とも思ってないなら、そう言っていいよ。はっきり振ってくれないと俺、諦めらんないし」
花村はおれの目を真っ直ぐに見上げている。心の中を覗き込まれてしまいそうで怖くて、でも目を逸らすことができない。きっと今のおれは今にも泣き出しそうな、とんでもなく情けない顔をしていると思う。
「お、おれは……」
曖昧な気持ちでも、いいのかな。
はっきり認識できなくても、これは恋だと自覚できていなくても、この気持ちは好きって呼んでもいいのかな。
花村のことを考えると苦しい。
花村の何気ない言葉や些細な態度ひとつで舞い上がったり落ち込んだり、ちょっとしたことが嬉しかったり悲しかったり。
だけど、もっと一緒にいたいと思う。会う度にその気持ちが大きくなる。
花村に触られるとそこだけが熱くてどうしようもなくて、喉の奥が苦しくなる。
この気持ちを、人は好きと呼ぶのだろうか。
誰かを好きになるって、こんなに苦しいものなんだ。
「……多分、好き。おれも」
まだきっぱりと断定するのは怖い。
でもきっと、間違ってはいないと思う。そう思いたい。
花村はぽかんとした顔でおれを見ていたけど、しばらくすると下を向いて深く長くため息をついた。
「多分て……」
「ご、ごめん。でもおれは」
「あーもう、いいよ。それってつまり、まだ望みはあるってことだろ?」
望みはあるっていうか、言葉通りに受け取ってくれてよかったんだけどな。
どうやら言葉の選択を誤ったようだ。今からでも訂正しておくべきだろうか。
「……好きだよ、ちゃんと。花村のこと」
「多分、なんでしょ」
「おれのこと絶対に好きかどうかなんて、花村だって分かってないくせに」
「俺は絶対に間違いなく湊が好きだよ。自分の気持ちくらい、自分でちゃんと分かる」
花村は下を向いているから今どんな顔をしているのかは見えない。でも、栗色の髪から覗いている耳の端はこれ以上ないほど真っ赤に染まっている。
花村に朗読を褒められた時と同じ感じだ。
胸の奥がこそばゆい。むずむずして、じっとしていられないような、変な気分。
ああ、そうか。あの時にはもう、おれは花村が好きだったのか。
そう思った時、胸の底にすとんと何かが落ちたような気がした。そこにもともと空いていた穴と寸分違わない形と大きさの石が上から真っ直ぐに落ちてきて、ぴったりと綺麗に嵌ったような感覚だった。『腑に落ちる』とはまさにこんな感覚のことを指すのだろう。
花村はおずおずと顔を上げておれを見た。不安そうな、だけど少し期待の込められた目で。
「……また、朗読聴かせてくれる? 二人だけで」
おれは黙って小さく頷いた。
その途端、それまでずっと真剣だった花村の目が力なく笑ったかと思うと、全身から脱力したようにへなへなとその場に座り込んでしまった。
「おっ、おい。大丈夫……」
あわてて柵から下りて花村の前にしゃがむと、花村は手のひらで自分の顔を覆い隠してしまう。
「ごめん、見ないで。……きっと今の俺、めちゃくちゃ恥ずい顔してるから」
指の隙間から覗いている花村の頬は、耳と同じで上気したように真っ赤だった。
身体の奥から今まで感じたことのない感覚がふつふつと込み上げてくる。それは少しずつ膨れ上がって大きくなって、いつか自分でも抑えることができなくなってしまうような、そんな気がした。
「……ばーか」
どうにもこの空気に堪えられなくて、わざと花村の髪をくしゃくしゃと雑に撫で回してやる。癖のある花村の髪は細くて柔らかくて、おれの手が少し撫でただけでも空気を含んで膨らんだように広がってしまう。
「やっ、やめろって。ぐちゃぐちゃになっちゃうじゃん」
「もうなってるよ」
やっと顔から手を離すと、花村は焦ったように自分の髪を両手で押さえつけている。ふと目が合った。
「すっげー頭」
「湊がやったんだろ、バカ」
目を合わせて、おれと花村は同時に吹き出した。
*
バス停まで花村を送っていく途中、おれは隣を歩く花村に改めて謝罪した。
「今日はほんと、ごめん。せっかく来てくれたのに、こんなとこで帰らせて」
「いいって、俺が勝手に来たんだから」
こともなげにさらりと返されて、不覚にもドキッとしてしまう。花村って時々、妙に大人びて見えるんだよな。おれにそう見えるだけなんだろうか。
「明日はちゃんと学校行くよ」
「ん。クラスの奴らに何か言われんの怖かったら、俺がずっと一緒にいるよ。だから心配しなくて大丈夫」
「いや……さすがにそれは」
そんなことしたら余計に周りの視線を集めてしまう。花村の気持ちは嬉しいけど、おれ達はこれからも今までと変わらず教室にいる間はお互いに距離を保っていた方がいいだろう。
「あっ、そうそう。山下と清水には今日の朝にキツく言っておいた。二人ともめちゃくちゃ反省してたから、多分湊が学校来たら謝ってくるんじゃないかな」
「ええ……そんなことしなくてよかったのに」
「だって俺、昨日すっげーブチ切れてたんだよ」
「だからって……」
それはおれも知っている。おれが教室を飛び出した後、花村が怒鳴る声は廊下の端まで聞こえていたし。
花村はぷいと前を向くと、少し唇を尖らせて不機嫌そうに呟いた。
「好きな子が泣かされてんのに、黙ってられるわけないだろ」
どうしてそういうこと、急に言うかな。好きって言葉を口にするの、花村は抵抗を感じないんだろうか。
「……ありがと」
だから、そんなつまらない返事しかできなかった。
もっと気の利いた返しができたら、って思うけど、おれにはやっぱりまだできそうにない。もっと大人になったら、少しはマシになるんだろうか。
バス停に着いて何分も経たずに、道路の向こうからバスがゆっくりと接近してくるのを見つけた。いつもは時刻表の時間通りに到着することなんて滅多にないのに、今日だけは時間きっちりに来たようだ。
……もう少し、花村と話していたかったな。
名残惜しいような気持ちで花村の横顔をぼうっと見ていると、不意に花村はおれの方に振り向いた。
「今度さ、湊んち遊びに行っていい?」
「え……」
あまりに唐突で咄嗟に返事ができない。花村は少し照れたように、はにかんだ笑顔でおれを覗き込んでいる。
「ダメ?」
「いや、別に……いいけど」
「やった。湊んちって確か、夜はいつも湊一人なんだよね。学校から帰ってくる時間にはまだ誰かいんの?」
「うーん……日によってだな。でも、夕方頃になると誰もいない日が多いかも」
「じゃあ、誰もいない時間に行くよ。それなら湊と二人っきりになれるし」
「……」
微妙な沈黙が流れる。
「湊、今なんか変なこと考えてただろ」
「かっ、考えてない!」
「そんな心配しなくても何もしないよ、二人だけの方が落ち着いて話せるってだけだから。それに普通の友達でも家くらい遊びに行くでしょ」
「あ、そ……そう」
それはそうなのだろうが、おれには友達がいないから何が普通なのか分からないんだよ。大体、おれと花村は友達っていうのとは違うし。
「まあ、いつまでも友達扱いされてんのは御免だけどね。俺は」
「え?」
花村が何か言ったような気がしたけど、ちょうど停留所の前に滑り込んできたバスのエンジン音でよく聞き取れなかった。
何か言ったか、そう聞こうとした時、花村が横からそっと顔を寄せてきた。
――唇に押し当てられた、柔らかい感触。
それは瞬きするより短い間の出来事で、次の瞬間にはもう花村の顔はおれの目の前にあった。
「……俺が考えてんのって、こういうことだから」
バスの乗降口のドアが開く大きな音に紛れて、確かに聞こえた。
囁くように小さい、でもひどく熱を帯びた花村の声。
「じゃあ、また明日な」
まるでさっきのことなんかなかったように、花村はおれに背を向けてさっさとバスに乗り込んでいく。
茫然としてその背中を見送っていると、車内でこっち側に面した座席に着いた花村は窓越しにおれを見た。
(……あ)
目が合った途端、ぱっと目を逸らしてしまう。花村の耳はこの距離でもはっきりと分かるほど赤い。
乗降口が閉まり、バスはゆっくりと走り出す。道路の向こうへ遠ざかっていき、やがて見えなくなっても、おれはその場に突っ立ったままぼうっとしていた。
な、何なんだ。何だったんだ、今の?
おれの唇に触ったのって、あれって、花村の。
「……」
恐る恐る手を上げて、自分の唇に触ってみる。
身体中の熱がそこに集まっているのかと錯覚するほど熱かった。
……明日、どんな顔して学校行けばいいんだよ。
花村はブランコを囲む低い柵に腰掛けて、おれの方をちらと見上げた。
おれも座った方がいいか。でも、花村の隣でいいのかな。変に距離を空けて座ったら、またさっきみたいにおれが花村のことを怖がってると思われるかもしれない。
迷っていると、花村はおかしそうに笑った。
「いいよ、嫌なら離れたとこにいても。そのくらいで怒ったりしないって」
「そ、そうじゃない」
だめだ、またさっきと同じになってしまう。花村のすぐ隣に腰を下ろすと、横から小さくため息をつくのが聞こえた。
「……湊ってさ、俺といるとすごく居心地悪そうな顔するよね」
あたりはしんと静まり返っている。時折、大通りの方から聞こえてくる車の走る音よりも、公園を取り囲むように立っている樹木の枝葉が風に揺れて擦れる音の方が大きく聞こえる。
おれは何も言えず、ただぼうっと花村の横顔を見ていた。
「嫌われてんだろうなってのは分かってんだけど……俺、頭悪いから。これでも俺なりに考えてはいるんだよ、どうしたらもっと仲良くなれんのかなって」
花村の栗色の髪が風に揺れている。何か言わないと、否定しないと、そう頭では分かっているのに、適切な言葉が何ひとつ思いつかない。
おれの方を見ようとしないまま、花村はわずかに下を向いた。
「あの時は、ごめん。湊すごく震えてたのに、無理やり朗読させて」
「……」
「湊が俺のこと怖がってるって思ったら、なんか……どうしても嫌だった。何とかして緊張解いてもらいたくて、無理やりにでも読ませようとしたんだ。本当はあんなことするつもりなかったのに」
違う。
今ここではっきりそう言わないと、きっとこの先に言える機会は来ないだろう。
おれが言わないと、花村はずっと自分を責めるのをやめない。
「花村は怖くないよ」
膝の上でぎゅっと両手を握りしめる。思っていたよりもあっさりとその言葉は出てきたけど、指先が微かに震えてるのが分かる。
「え……」
「信じてもらえないかもしれないけど、花村だけは怖くない。それは本当だから」
「……なんで?」
やっと花村は顔を上げておれを見た。笑っていない、でも怒ってもいない。何の感情も読み取れない無表情で、おれをじっと見ている。こんな顔をしている花村を見たのはこれが初めてだ。
「おれが朗読やってること、クラスの奴らに言わないでいてくれただろ」
「そんなの、当たり前じゃん。言うわけないよ」
「じゃあ最初から言いふらすつもりなんてなかったのに、それをネタにしておれのこと脅してたのか? 黙っててほしかったら生で朗読聴かせろって」
「あ、あれは……脅してなんか」
途端に花村はさっと顔を背けてしまった。
それは、今までずっと何となく感じていた違和感だった。どうして花村の前でだけは平気なんだろう、花村と他の奴らは一体何が違うのだろう。
考えて答えが出るものではないのかもしれないけど、その理由は今なら分かるような気がする。
クラスの他の奴らだったらきっと、おれの朗読動画を偶然見つけたらすぐ周囲に言いふらし、面白がって話のネタにしていただろう。昨日のおれと花村をからかって笑っていた奴らの態度を見れば、その様は簡単に想像できる。それは奴らを下衆っぽいなどと軽蔑しているのではなくて、そういう反応をするのが普通の感覚なのだろうとおれは思っている。誰とも喋らず、いつも教室の隅で黙って下を向いているような奴が、ネットでは別人のように生き生きと朗読なんか公開しているのを見つけたら、誰だってそうするだろう。
でも、花村はそうしなかった。それをネタにしておれに交渉を持ち掛けてきたのは事実だけど、誰にも言わないという約束だけは最初から一貫して守ってくれた。
たったそれだけのこと、花村はそう思うかもしれない。でもそれは、おれにとって何よりも大きなことだったのだ。
おれが今までずっと誰にも言えずに抱えてきた悩みを克服しようともがく無様な姿を見ても、花村は絶対に笑ったりからかったりしなかった。それどころか、おれの朗読を好きだと言ってくれた。それがどんなにおれを勇気づけてくれたか、おれがどんなに救われたか、世界中の言葉を使っても花村に余すことなくおれの気持ちを伝えることはきっとできない。
だからおれは信じられたんだ。花村だけは怖くないって。
「……花村はおれの朗読、褒めてくれたけど。あれはもともと本が好きで始めたんじゃなくて、人前で話すのが苦手なのを少しでも克服できたらって思って始めたんだ」
自分でも驚くほど、それは滑らかに言葉にできた。おれの朗読を褒めてくれた花村には絶対に言えないと思っていたのに、一度口に出してしまえばそれはさほど重大な秘密ではなかったように思えてくる。
きっとそんなふうに、おれ一人が深刻に受け止めているだけで実は大したことではなかったという悩みは数え切れないほどあったのだろう。そう思うと、自然と口元が笑ってしまう。
「湊……」
「黙っててくれて、ありがとう」
花村はもう、おれの朗読なんか聴かないだろう。そんな理由で始めたものを今まで聴かせてたのかって、がっかりしてるはずだ。
花村にがっかりされるのは嫌だけど、もう仕方ないことなんだ。だから、ちゃんと言わないと。
「でも、もういいよ。おれと一緒にいても、花村には何もいいことない。花村が話しかけてくれて、嬉しかったけど……もう、こうやって喋るのはやめよう。おれに気を遣ってくれなくてもいいよ」
もっと早く言えばよかった。
そうすれば花村だって、あんな嫌な思いをすることもなかったのに。
いつの間にか花村と一緒にいたいと思うようになってたおれのせいで、花村を傷つけた。こんなことはもう、今日で終わりにしないと。
「……ほんっと、自分勝手」
不意に周りの音が掻き消えた。枝葉が風に揺れる音も車の走り去る音も全部消えて、世界から音がなくなっていく。その中で花村の呟いた声は小さかったけど、それはおれの耳にはっきりと届いた。
「どうして湊ってそう、自分勝手なの? いっつも自分の気持ちばっかりで、俺の気持ちなんて全然見ようとしないじゃん」
また言われた、自分勝手って。今までにも何度かそう言われたけど、花村がおれのどんなところを指してそう言っているのか分からなくて、そう言われる度におれはいつもイラッとしてた。
花村はおれの方を向いた。今まで見たことのない、明らかに怒った表情をしている。
「なんで分かんないの? 何とも思ってない、ただのクラスメイトがほんの一日学校休んだくらいで、普通家まで来ないでしょ。しかも家どこなのかも知らないのに。普通ならその時点で諦めるよ」
「……なに、言って……」
花村が何を言おうとしているのか、皆目見当がつかない。いや、言っていること自体は分かるのだが、その裏にあるであろう花村の意図が全く見えない。
「あーっ、もう! なんで分かんないんだよ!」
突然、花村は足元の砂をざっと鳴らして勢いよく立ち上がった。ひどく苛立ったような目で見下ろされて、おれはただぽかんとしたまま阿呆みたいに花村の顔を見上げることしかできなかった。
「俺は、湊が好きなの!」
花村の言った言葉が頭の中でバラバラに散らばっていく。ガラスが割れたみたいに、破片のひとつひとつがそれぞれ別の方向へ散らばっていくから、花村が言ったことの全体像を理解するのにひどく時間がかかる。
「好き、って……」
まだ頭の中でまとまっていない言葉の破片を口にすると、花村は不機嫌そうな目つきでおれを睨んだ。
「友達としてじゃないから。この意味、分かるよね?」
友達として、好き、じゃない。
つまり、それって……要するに。
「……」
散らばった言葉がゆっくりとひとつにまとまっていく。だけどそれは、今までのおれが見たことのない形をしたものだった。
「……でもおれ、男だけど」
もっと他に言うべき言葉やふさわしい言い方があっただろうとは思う。自分でもこの状況でこの発言はどうなのかと思ったけど、口をついて出た最初の疑問はそれだった。
「そうだね。だから何?」
おれのあまりにデリカシーのない問いかけにあきれたのか、花村は吐き捨てるようにそう聞き返してきた。
何だか非難されているような気分になってきて、花村から目を逸らしてしまう。
「花村は、女子にモテるし……」
「知らないよ。そうだとしても、それって今この話に関係ある?」
「か、関係なくはないだろ? なんでよりによって、おれなんか」
「そんなこと言ったって、俺にも分かんないよ。でもしょうがないじゃん、好きになっちゃったんだから」
好き。
そこでようやくおれは、花村の言ったことの意味を頭の中ではっきりと理解した。
花村が、おれを好きだって言ってる。
それも友達としてじゃない、そういう意味じゃなくて。
花村は肩にカバンを掛け直して、ひとつため息をついた。まだ機嫌の悪そうな目つきは変わらないけど、頬は明らかにさっきよりも紅潮しているのがひと目で分かる。
花村、緊張してるんだ。
それが分かった途端、心臓がドクンと大きく脈打った。次第に動悸が強く速くなっていく。
「最初は一回だけ朗読聴かせてくれたら終わるつもりだったよ。でもあの時、これで終わりにしたくないって思った。あれで終わりなんて嫌だ、俺はこれからも湊の朗読が聴きたい」
花村は怒ったような口調で、おれの目を真っ直ぐに見てそう言った。おれの知ってる花村はいつもへらへら笑ってて、こんな真剣な顔でこんなキツい喋り方をする奴じゃない。目の前にいる花村は今までに見たどんな花村とも違っていて、どうしたらいいのか分からない。また指が小さく震え出して、それを抑えるため手をぎゅっと握りしめた。
「でも、おれは……もう分かっただろ。誰かに見られてると、まともに朗読なんかできないんだよ」
「上手くできなくてもいいよ。俺はただ、湊の声を聴いてるだけでもいい。俺だけに聴かせてほしい」
「……」
「湊があんなふうに喋るところ、俺以外の他の誰にも聴かせたくない。湊があんなふうに喋るのを知ってるのは、俺だけじゃなきゃ嫌だ」
あんなにひどい朗読を聴いたのに、あんなに無様に震えてるところを見たのに。
どうして、それでもおれを好きだなんて言えるんだろう。
花村の考えていることがさっぱり理解できなくて、これではいくらこいつの気持ちを見ようとしても見えるはずがない、と思ってしまう。そしてきっと、花村自身もどうしてなのか分かっていないのだろう。さっき自分でそう言っていたし。
だけど、そんなあやふやな気持ちを言葉にして相手に伝えていいものなんだろうか。もしそれが『好き』とは違う、何か別の感情だったとしたらどうするんだ。ただの勘違いって可能性だってあるのに。
おれは恋愛経験なんてないから分からないけど、世の中の人はみんなこんな曖昧な気持ちを軽々しく『好き』などと口にしているのだろうか。本で読む恋愛ってそんなものじゃなくてもっとはっきりと認識できるもので、誰かを好きになったら『ああ、自分は恋をしているんだ』ってちゃんと分かることがほとんどだから、現実でもそういうものなんだろうと思っていた。恋に落ちたという事実は、その瞬間にはっきりと自覚できるものなのだろうと。それが普通のことなのだろうと。
だからおれはずっと、これは違うと思っていた。
花村の前だといつもより喋ってしまうのも、どこにいてもつい花村を目で追ってしまうのも、花村からのメッセージが来ていないか気になって仕方ないのも、この程度じゃ好きだなんて呼べないのだろうと心のどこかで思っていた。
じゃあこれは何なんだろう、この気持ちは世間では何と呼ぶものなんだろうと、ずっと考えていた。誰かに対してこんな気持ちを抱くのは初めてのことだったから。
花村はじっとおれを見ている。おれが何か言うのを待っている。
その真っ直ぐな眼差しはおれの心の底まで見透かそうとしているみたいで、急にどうしようもなく怖くなってうつむいてしまった。
「おれなんかと一緒にいても、何も楽しいことなんかないだろ。また昨日みたいにクラスの奴らに変なこと言われて、花村の友達からも変な目で見られるよ。……おれ、暗くてキモいし」
「キモいって、誰かにそう言われたの?」
「言われてないけど……でも、そのくらい分かるよ。そう思われてるって」
「もしそう思ってる奴がいたら、そんな奴は俺の友達じゃないよ。だって湊はキモくなんかないもん」
「でも……おれは」
不意に花村はおれの前に膝をついてしゃがみ込んだ。膝の上で握りしめていた両手をそっと包み込まれた瞬間、肩がピクッと小さく震える。
おれの顔を見上げる花村の頬はやっぱりまだ赤い。それだけじゃない、おれの両手を包んでいる花村の指は微かに震えている。あの時と同じだ。カラオケで初めて花村に触られた、あの時と。
「そんなに俺の言ってること信じられないの?」
「そ、そうじゃない。そうじゃないけど……なんでおれなんだよ? おれ男だし、花村には女友達もいっぱいいるのに」
「なんでって……それ、理由が必要? 好きだけじゃダメなの?」
「だ、ダメってことでは……」
それ以上何も言えなくなってしまい、黙り込んだ。
花村はいつ、おれを好きだと分かったのだろう。
いつ、どこで、何がきっかけでその気持ちを自覚したのだろう。
その時、今のおれみたいに戸惑ったりはしなかったのかな。
花村だって今まで誰かを好きになったことはないって前に言ってたのに、好きだという気持ちを初めて受け入れるのに何の抵抗も感じなかったんだろうか。
「……そんなに嫌なら、そう言って。そしたらもう、二度と湊にはつきまとわないよ」
おれの両手を包み込む手に、ぎゅっと力が込められた。やっぱり花村の指は震えている。それともこれは、おれの震えだろうか。おれと花村の境界が少しずつ曖昧になっていくようで、どこからどこまでがおれの感覚なのかはっきりと分からなくなってきた。
「俺のこと何とも思ってないなら、そう言っていいよ。はっきり振ってくれないと俺、諦めらんないし」
花村はおれの目を真っ直ぐに見上げている。心の中を覗き込まれてしまいそうで怖くて、でも目を逸らすことができない。きっと今のおれは今にも泣き出しそうな、とんでもなく情けない顔をしていると思う。
「お、おれは……」
曖昧な気持ちでも、いいのかな。
はっきり認識できなくても、これは恋だと自覚できていなくても、この気持ちは好きって呼んでもいいのかな。
花村のことを考えると苦しい。
花村の何気ない言葉や些細な態度ひとつで舞い上がったり落ち込んだり、ちょっとしたことが嬉しかったり悲しかったり。
だけど、もっと一緒にいたいと思う。会う度にその気持ちが大きくなる。
花村に触られるとそこだけが熱くてどうしようもなくて、喉の奥が苦しくなる。
この気持ちを、人は好きと呼ぶのだろうか。
誰かを好きになるって、こんなに苦しいものなんだ。
「……多分、好き。おれも」
まだきっぱりと断定するのは怖い。
でもきっと、間違ってはいないと思う。そう思いたい。
花村はぽかんとした顔でおれを見ていたけど、しばらくすると下を向いて深く長くため息をついた。
「多分て……」
「ご、ごめん。でもおれは」
「あーもう、いいよ。それってつまり、まだ望みはあるってことだろ?」
望みはあるっていうか、言葉通りに受け取ってくれてよかったんだけどな。
どうやら言葉の選択を誤ったようだ。今からでも訂正しておくべきだろうか。
「……好きだよ、ちゃんと。花村のこと」
「多分、なんでしょ」
「おれのこと絶対に好きかどうかなんて、花村だって分かってないくせに」
「俺は絶対に間違いなく湊が好きだよ。自分の気持ちくらい、自分でちゃんと分かる」
花村は下を向いているから今どんな顔をしているのかは見えない。でも、栗色の髪から覗いている耳の端はこれ以上ないほど真っ赤に染まっている。
花村に朗読を褒められた時と同じ感じだ。
胸の奥がこそばゆい。むずむずして、じっとしていられないような、変な気分。
ああ、そうか。あの時にはもう、おれは花村が好きだったのか。
そう思った時、胸の底にすとんと何かが落ちたような気がした。そこにもともと空いていた穴と寸分違わない形と大きさの石が上から真っ直ぐに落ちてきて、ぴったりと綺麗に嵌ったような感覚だった。『腑に落ちる』とはまさにこんな感覚のことを指すのだろう。
花村はおずおずと顔を上げておれを見た。不安そうな、だけど少し期待の込められた目で。
「……また、朗読聴かせてくれる? 二人だけで」
おれは黙って小さく頷いた。
その途端、それまでずっと真剣だった花村の目が力なく笑ったかと思うと、全身から脱力したようにへなへなとその場に座り込んでしまった。
「おっ、おい。大丈夫……」
あわてて柵から下りて花村の前にしゃがむと、花村は手のひらで自分の顔を覆い隠してしまう。
「ごめん、見ないで。……きっと今の俺、めちゃくちゃ恥ずい顔してるから」
指の隙間から覗いている花村の頬は、耳と同じで上気したように真っ赤だった。
身体の奥から今まで感じたことのない感覚がふつふつと込み上げてくる。それは少しずつ膨れ上がって大きくなって、いつか自分でも抑えることができなくなってしまうような、そんな気がした。
「……ばーか」
どうにもこの空気に堪えられなくて、わざと花村の髪をくしゃくしゃと雑に撫で回してやる。癖のある花村の髪は細くて柔らかくて、おれの手が少し撫でただけでも空気を含んで膨らんだように広がってしまう。
「やっ、やめろって。ぐちゃぐちゃになっちゃうじゃん」
「もうなってるよ」
やっと顔から手を離すと、花村は焦ったように自分の髪を両手で押さえつけている。ふと目が合った。
「すっげー頭」
「湊がやったんだろ、バカ」
目を合わせて、おれと花村は同時に吹き出した。
*
バス停まで花村を送っていく途中、おれは隣を歩く花村に改めて謝罪した。
「今日はほんと、ごめん。せっかく来てくれたのに、こんなとこで帰らせて」
「いいって、俺が勝手に来たんだから」
こともなげにさらりと返されて、不覚にもドキッとしてしまう。花村って時々、妙に大人びて見えるんだよな。おれにそう見えるだけなんだろうか。
「明日はちゃんと学校行くよ」
「ん。クラスの奴らに何か言われんの怖かったら、俺がずっと一緒にいるよ。だから心配しなくて大丈夫」
「いや……さすがにそれは」
そんなことしたら余計に周りの視線を集めてしまう。花村の気持ちは嬉しいけど、おれ達はこれからも今までと変わらず教室にいる間はお互いに距離を保っていた方がいいだろう。
「あっ、そうそう。山下と清水には今日の朝にキツく言っておいた。二人ともめちゃくちゃ反省してたから、多分湊が学校来たら謝ってくるんじゃないかな」
「ええ……そんなことしなくてよかったのに」
「だって俺、昨日すっげーブチ切れてたんだよ」
「だからって……」
それはおれも知っている。おれが教室を飛び出した後、花村が怒鳴る声は廊下の端まで聞こえていたし。
花村はぷいと前を向くと、少し唇を尖らせて不機嫌そうに呟いた。
「好きな子が泣かされてんのに、黙ってられるわけないだろ」
どうしてそういうこと、急に言うかな。好きって言葉を口にするの、花村は抵抗を感じないんだろうか。
「……ありがと」
だから、そんなつまらない返事しかできなかった。
もっと気の利いた返しができたら、って思うけど、おれにはやっぱりまだできそうにない。もっと大人になったら、少しはマシになるんだろうか。
バス停に着いて何分も経たずに、道路の向こうからバスがゆっくりと接近してくるのを見つけた。いつもは時刻表の時間通りに到着することなんて滅多にないのに、今日だけは時間きっちりに来たようだ。
……もう少し、花村と話していたかったな。
名残惜しいような気持ちで花村の横顔をぼうっと見ていると、不意に花村はおれの方に振り向いた。
「今度さ、湊んち遊びに行っていい?」
「え……」
あまりに唐突で咄嗟に返事ができない。花村は少し照れたように、はにかんだ笑顔でおれを覗き込んでいる。
「ダメ?」
「いや、別に……いいけど」
「やった。湊んちって確か、夜はいつも湊一人なんだよね。学校から帰ってくる時間にはまだ誰かいんの?」
「うーん……日によってだな。でも、夕方頃になると誰もいない日が多いかも」
「じゃあ、誰もいない時間に行くよ。それなら湊と二人っきりになれるし」
「……」
微妙な沈黙が流れる。
「湊、今なんか変なこと考えてただろ」
「かっ、考えてない!」
「そんな心配しなくても何もしないよ、二人だけの方が落ち着いて話せるってだけだから。それに普通の友達でも家くらい遊びに行くでしょ」
「あ、そ……そう」
それはそうなのだろうが、おれには友達がいないから何が普通なのか分からないんだよ。大体、おれと花村は友達っていうのとは違うし。
「まあ、いつまでも友達扱いされてんのは御免だけどね。俺は」
「え?」
花村が何か言ったような気がしたけど、ちょうど停留所の前に滑り込んできたバスのエンジン音でよく聞き取れなかった。
何か言ったか、そう聞こうとした時、花村が横からそっと顔を寄せてきた。
――唇に押し当てられた、柔らかい感触。
それは瞬きするより短い間の出来事で、次の瞬間にはもう花村の顔はおれの目の前にあった。
「……俺が考えてんのって、こういうことだから」
バスの乗降口のドアが開く大きな音に紛れて、確かに聞こえた。
囁くように小さい、でもひどく熱を帯びた花村の声。
「じゃあ、また明日な」
まるでさっきのことなんかなかったように、花村はおれに背を向けてさっさとバスに乗り込んでいく。
茫然としてその背中を見送っていると、車内でこっち側に面した座席に着いた花村は窓越しにおれを見た。
(……あ)
目が合った途端、ぱっと目を逸らしてしまう。花村の耳はこの距離でもはっきりと分かるほど赤い。
乗降口が閉まり、バスはゆっくりと走り出す。道路の向こうへ遠ざかっていき、やがて見えなくなっても、おれはその場に突っ立ったままぼうっとしていた。
な、何なんだ。何だったんだ、今の?
おれの唇に触ったのって、あれって、花村の。
「……」
恐る恐る手を上げて、自分の唇に触ってみる。
身体中の熱がそこに集まっているのかと錯覚するほど熱かった。
……明日、どんな顔して学校行けばいいんだよ。


