「新たに開発したB誘導体の高用量投与群で有毛細胞の毛の再生が認められました。まだ微細なものですが、間違いなく毛が再生したのです」

 アメリカ人研究員の3か月後報告に最上は飛び上がって喜んだ。日本人研究員たちも抱き合って喜んでいる。会議室が歓喜に包まれた。
 しかし、ニタス博士は落ち着いていた。最上たちの興奮をよそに、静かに口を開いた。

「毛の再生は認められましたが、それが持続するかどうかを見極めなければなりません。それに安全性の確認も慎重に行わなければならないのです。喜ぶのはまだ早すぎます」

 彼は落ち着きを求めたが、最上は喜びを隠すことができなかった。ここまで来るのにどれだけの時間と苦労と眠れない夜を重ねてきたか。それがやっと形になろうとしているのだ。落ち着いてなんていられるはずがなかった。早速、最上製薬の取締役会に報告し、臨床試験開始に備えた投資シミュレーションを始めた。

 そんな最上を横目に、ニタスは慎重に観察を続けていた。新規化合物やその誘導体には未知の副作用が出ることをよく知っていたからだ。「何が起こるかわからない」というのが彼の口癖だった。

        *

 喜びを抑えきれない日本側と慎重な姿勢を崩さないアメリカ側の思いが交差する中、あっという間に3か月が経ち、B誘導体高用量群の投与6か月後の結果が発表された。
 それは、最上にとって更に嬉しい報告だった。再生された毛がしっかりしたものになっていたのだ。確認が難しいほどの微細なものではなく、期待したレベルに近い太さの毛になったのだ。今度こそは大丈夫と確信し、研究員たちと喜びを分かち合った。
 さすがのニタスも今回ばかりは満面の笑みを浮かべていた。それは、世界初の難聴治療薬が現実のものになろうとしている証だった。最上の興奮は最高潮に達しようとしていた。

        *

 それから3週間が経った。最上はいつものように朝のコーヒーを楽しみ、満ち足りた朝を満喫していた。何もかもが順調なのだ。心配の欠片はどこを探してもなかった。
 しかし、マウスとラットの観察に出かけていた日本人研究員が顔面蒼白になって戻ってきた瞬間、室内のムードが一変した。B誘導体高用量投与群のマウスとラットに異変が起きていたのだ。それは想像もしていなかった悲惨な結果で、マウスもラットも突然死していた。

 原因は不明だった。解剖の結果、体のどの部分にも異常がないことが判明した。
 最上は困惑した。原因がわからなければ対処のしようがない。次のステップに進むことができないのだ。同じB誘導体の中容量群や低用量群にも影響が及ぶ。それだけに必死になって日米合同で原因究明に取り組んだが、特定できるものは何一つ見つからなかった。
 そんな中、アメリカの女性研究員が一つの仮説を提示した。それは、爆音によるショック死だった。ほんの小さな音が耳の中で爆音になり、その音に耐えられなくなってショックが起こった可能性があるというのだ。

「まさかそんなこと……」

 ニタスが呻くような声を出した。

「聞こえすぎる副作用? そんな……」

 最上は天を仰いだ。
 もしそうだとしたら、中容量も低用量も同じ結果が出る可能性が高い。
 期待は一気に萎み、不安が急速に広がった。

 追い打ちをかけるように、最初の誘導体の1年後の残念な結果が報告された。
 まったく変化がなかった。
 最上はどん底に落ち込んだ。

 あと2年……、
 たったの2年……、

 合弁期間終了の鐘が一気に大きく聞こえ始めた。