「なんの変化もありません」
アメリカ製薬の研究員の報告に、部屋に集まった全員が肩を落とした。発毛剤の誘導体を投与したマウスとラットの有毛細胞の毛は、3か月経ってもまったく再生される気配が見えなかった。産毛の一本も生えていないのだ。
期待が大きかっただけに受けたショックは大きかった。そのせいで思わず顔を伏せてしまったが、それでも強張った顔を無理矢理緩めて前を向いた。社長という立場上、いつまでも萎れているわけにはいかなかった。
すると、「そんなに簡単に再生を期待してはいけません。経口投与で、しかも、まだ3か月しか観察していないのです。成果を急いではいけません。半年後を、1年後を待ちましょう」とニタス博士に優しく励まされた。
それで落胆が少し収まったが、合弁期間が3年と決められている状況で、成果を急ぎたい焦りにも似た気持ちを消すことはできなかった。まだ臨床試験に入っていないのだ。前臨床の段階で時間を浪費するわけにはいかない。焦る気持ちを抑えながら足早に実験室へ行き、祈るような気持ちでマウスとラットの耳を凝視した。
*
翌日、スマホでニュースを見ていた最上は、そのスマホを落としそうになった。それほど衝撃を受けた見出しだった。
『難聴解消機器開発に極東医療器が出資か!』
しまった!
思わず大きな声が出た。
ヤバイ!
心臓を掻きむしりたいほどの焦燥感に襲われた。最上にとって有毛細胞の毛の再生薬と骨伝導補聴器は難聴解消に必須の両輪とも呼ぶべき重要なものだった。どちらも不可欠なピースだった。だから、このまま放っておくわけにはいかなかった。慌ててスマホに登録していたアイコンを押した。
すぐに電話が繋がった。女性の声がしたが、それは録音された声だった。業務時間外を告げていた。
時差を忘れていた。サマータイム期間中のワシントンD.C.と東京の時差は13時間だった。腕時計を見ると、午前10時を指していた。東京は23時。夜の11時だった。
もっと早くこのニュースを見ていれば……、
最上は唇を噛んだが、後の祭だった。いつもはスマホのニュースを小まめにチェックしているのだが、昨日は発毛剤誘導体の残念な途中経過に落ち込み、やけ酒を呷って気を失うように眠ってしまったのだ。
後悔先に立たず!
さっきより、もっと強く唇を噛んだ。しかし、手をこまねいているわけにはいかない。真偽のほどを確かめなければならない。すぐさま日本へのチケットを取って、飛行機に飛び乗った。
*
成田に着いた最上は電車で東京駅へ移動し、そこでタクシーに乗り換え、難聴解消機器開発の本社がある御茶ノ水方面へ急がせた。
アポイントは敢えて取らなかった。ニタス博士の秘書から何度も断られた経験があるので、直接門を叩くことを選択したのだ。一か八か当たって砕けろ! という気持ちですぐに行動を起こしたのだ。
御茶ノ水駅が近づいてくると、右手にひと際高いビルが見えてきた。かつて大手電機メーカーの本社があったビルだ。今は大手不動産会社が買収し、高層のビジネスビルに生まれ変わっている。
その中に東京先端医療大学がある。しかし、そこに目指す会社はなかった。御茶ノ水駅の聖橋口の一つ手前の信号を右折した所にあるのだ。
到着すると、そこには築年数の古い雑居ビルが連なっていた。頭に描いていたイメージとの違いに困惑しながらも、タクシーを降りて、エレベーターで3階へ上がった。
降りると、目の前に『難聴解消機器開発(株)』と白い文字で書かれたドアが見えた。
インターホンを押すと、女性の声が返ってきた。会社名と名前を告げ、アポイントなしの訪問であることも告げた。すると女性は困惑したような声で「少々お待ちください」と言って、インターホンを切った。
しばらくして、男性の声が聞こえた。
「アポイントなしの面会はお受けしておりませんので、申し訳ありませんが、お引き取り願います」
インターホンが切れた。当然の反応だったが、諦めるわけにはいかなかった。背広の内ポケットからスマホを取り出して、アイコンを押した。
すぐに繋がった。
聞き覚えのある声だった。
先ほどの男性に違いなかった。
会社名と名前と用件を告げると、呆れたように笑い出した。
電話が切れると、間を置かずドアが開いた。出迎えてくれたのは若い男性だった。
「ドアの前でアポイントの電話をかけてきた人は初めてです」
*
最上の前には専門誌の特集ページで見たままの男性が座っていた。まだ20代と言ってもおかしくないほどの若々しい顔で笑みを湛えていた。
最上は自己紹介をしたあと、スマホニュースで見た出資の件を切り出した。すると表情が一変して、苦々しいものに変わった。
「極東医療器から出資の打診があったのは事実です。しかし、まだ検討している段階です。なのに、あんな報道をされて、とても困惑しています」
信じられないというふうに首を振った。
「誰かがリークしたのだと思います。報道機関を使って既成事実化を図ったのだと思います。秘密保持契約を結んでいるのに……」
極東医療器への不信感を露わにした。
「まだ決まったわけではないのですね?」
彼は頷いた。そして、「この話は断ろうと思っています。秘密を守れないような会社は信用できませんから」と吐き捨てるように言った。
安堵した最上は彼の目を見つめながら大事な用件を切り出した。
「弊社と提携していただけませんか?」
「えっ⁉」
彼の目に戸惑いの色が浮かんだように見えた。それは、よく考えてみれば当然のことかもしれなかった。極東医療器への不信感が胸の中で膨らんでいる時に、新たな提携話に耳を傾ける気持ちになるわけがない。最上は言い直した。
「一緒に難聴患者を救いませんか?」
アメリカ製薬と合弁研究所を設立して、難聴を適応とした世界初の再生治療薬を開発していること、その薬と骨伝導補聴器を組み合わせれば難聴患者のQOLが大幅に向上する可能性があることを必死になって説明した。
「有毛細胞の毛の再生ですか……」
思いもよらない言葉だったのだろう、彼は驚き続けていた。しかし、一流の研究者らしく、その実現性への疑問をぶつけた。
「そんなことが可能なのですか?」
最上は自らの仮説を述べた。そして、アメリカ製薬の本社もその可能性に賭けていることを伝えた。
「アメリカ製薬が本気で……」
口を開けたまま目を見開いた彼は瞬きを忘れているようだった。
最上は将来像を彼に示した。
「現在、薬は製薬会社、医療機器は医療機器会社が別々に開発・販売しています。しかし、これでは個々の最適化しか生まれません。患者さんにとって必要なことは、個別最適ではなく全体最適です」
その瞬間、彼の表情が変わった。全体最適という言葉に強く反応したように見えた。最上は畳みかけた。
「最上製薬が薬と医療機器を両方手掛けることによって、難聴治療のトータル・ソリューションを提供できるようになります。音野社長、わたしたちが手を組めば、難聴患者のQOLを大幅に向上させることができるのです。音野社長!」



