「お父さんの会社からデビューさせて下さい」

 麗華が真剣な眼差しで口説こうとしていた。

「バンド名も決めています」

「いや、ちょっと待て。音楽業界はそんなに甘い世界ではない」

「わかっています」

「わかってない。全然わかってない」

 麗華との会話は平行線をたどり続けた。それは当然だった。夢を語る娘と現実の厳しさを知る父親の意見が交わるわけがなかった。

 趣味として音楽をするのは大賛成だった。しかし、職業としての音楽は賛成できなかった。いや、大反対だった。身近にビフォー&アフターの挫折を見てきたし、多くのミュージシャンの悲惨な生活を見てきた。娘にそんな苦労をさせるわけにはいかない。だから断固として反対した。しかし、余りに強固に反対したせいか、耐えられないというふうに麗華がうつむいた。その時だった、「やらしてあげましょうよ」と、それまで黙って聞いていた妻が初めて口を開いた。

「やらしてあげようって、美麗、お前は……」

「音楽業界の厳しさを知らないって言うんでしょう」

 その通りだ、と頷いた。

「知らないわ、確かに。でもね、あなたはレコード会社で働いていて、作詞作曲家でありギタリストでもあったわ。そして、わたしはラジオ放送局で働いていた父の娘よ。その2人の子供である麗華が音楽の道に進むのは当然だと思うの」

「そんなことはわかってる。音楽を続けることに反対しているんじゃない。職業としての音楽家になることに反対しているんだ」

 語気を強めると、妻は一瞬、強張ったような表情になったが、すぐに柔らかな目になって落ち着いた声を出した。

「あなたが心配する気持ちは痛いほどよくわかるわ。でもね、麗華の気持ちもよくわかるの。だって、わたしはあの子の母親よ。それにね」

 麗華に視線を向けた。

「初めて腕に抱いた時、なんて可愛いのかしら、と涙が止まらないほど嬉しかった。そして、歌を初めて聞いた時、なんて可愛い声なのかしら、とまた涙が止まらなかった。麗華は特別な子だと思った。だから、音楽の才能に溢れた素敵な女性に成長することを願った。願い続けた。そして、そうなるようになんでもした。ピアノはもちろん、歌のレッスンにも通わせた。服装のセンスを磨かせ、美しいものを見る目を育て、英会話を習わせた。人を思いやる心の大切さを教えた。わたしにできることはなんでもした。もちろん、麗華も努力した。他人の何倍も努力した」

 そこで視線をこちらに戻した。

「麗華は願い通りの女性になったの。本当に素敵な女性になったのよ」

 それは同感だった。反論も異論もなかった。しかし、だから、だからこそ、苦労をさせたくなかった。こんなに可愛い娘に辛い思いをさせたくなかった。

「あなたが麗華を思う気持ちはよくわかるわ。でもね、麗華はわたしたちの娘であると同時に、一人の独立した女性なのよ。庇護(ひご)が必要な幼い頃と違って今は、そう、今は支援してあげることが必要なの。庇護ではなくて支援。わかる?」

 わかる。
 わかっている。
 十分わかっている。
 でも、

「麗華は思いつきで言っているのではないのよ。考えて考えて、悩んで悩んで、その結果、結論を出して、あなたにお願いしているの。それをわかってあげて」

 わかっている。
 本当にわかっている。
 でもね、

「無限の可能性を持っていると思うの、麗華は。そう思わない? わたしはその可能性を強く信じているの。麗華ならやれるって。自分の夢を叶えることができるって」

 妻の熱い視線が心の中の塊を狙い撃ちにしていた。硬い岩盤のような過保護という塊を。

 子供はいつか親の元を巣立つ。
 巣立たなければならない。
 そんなことはわかっている。
 わかってはいるが……、
 男の子なら大賛成だ。
 世間の荒波に立ち向かっていけばいい。
 失敗や挫折を糧にしていけばいい。
 しかし、女の子にそんなことはさせたくない。
 絶対にさせない。
 もちろん、男の子がよくて女の子がよくないなんて、そんな理屈に合わないことがおかしいことは十分わかっている。
 でも、親心は違うんだ。
 特に男親が娘を思う気持ちは特別なんだ。
 それが過保護とわかっていても。

「あの時、諦めなければよかったって、あとになって後悔したくないの」

 再び口を開いた麗華はきっぱりとした口調で続けた。

「人生は一度きり。今この瞬間も一度だけ。だから、今やりたいことに集中したいの」

 真っすぐに見つめられた。

「お父さんの気持ちはとても嬉しい。心配してくれて有難いと思っています。でも、大丈夫。わたし一人でデビューするわけではないから。頼りになる仲間と一緒だから」

 今まで一度も麗華のステージを見たことがなかったが、ライヴの録音は聴いたことがあった。スマホ内蔵のマイクで録音してCDにダビングしたものなので音質は良くなかったが、歌も演奏も中々のレベルだと思った。アマチュアのレベルは確実に超えているし、このバンドならやれるかもしれないと思ったのも確かだった。

「バンドのメンバー全員の意志なのか? 本当に全員の気持ちが一致しているのか? なんとしてでもプロになりたいという強い決意を持っているのか?」

 ビフォー&アフターのことがあったので、敢えて厳しい口調で迫った。
 ところが、意外な返事が返ってきた。

「バンドと言っても2人だから……」

「2人? でも、ドラムとベースとキーボードとピアノとギターの音が……」

「打ち込みなの。ドラムもベースもキーボードも全部打ち込みなの」

 打ち込み……、

「実際に演奏しているのは、わたしとギターの男性の2人だけなの」

 デュオ、それも男と……、

 異性とのデュオでデビューしたいと言われて、頭の中は混乱した。

 それはちょっと、いくらなんでも……、

 困惑していると、「今度家に連れてくるから会ってみて」と麗華が両手を合わせた。