凄い! 

 思わず唸ってしまった。ティン・ニタス博士からアメリカ製薬中央研究所の施設や研究機器の説明を受けていた最上は、施設の大きさと最新鋭の研究機器に圧倒されていた。最上製薬とは規模も研究機器のレベルも大きく違っており、アメリカの大手製薬会社の底力を思い知らされた。10年や20年では追いつけない、そんな暗い気持ちに沈み込みそうになった。

 一通り見学が終わると、立派な応接室に通された。
 部屋には2人の紳士が待っており、笑顔と握手で迎えてくれた。研究所長と管理部長だった。

「ニタス博士から詳しく聞いています」

 研究所長が落ち着いた声で話し始めた。

「ユニークな発想だと感心しました。発毛剤の誘導体を耳鳴りや難聴の治療薬として開発するなんて、考えもしませんでした」

 そこでドアが開く音がした。秘書らしき美しい女性がコーヒーを運んできた。テーブルに置かれると、大好きなモカの香りが漂ってきて、気持ちが落ち着いてきた。秘書が退出すると、研究所長が話を続けた。

「有毛細胞の毛を再生するというアプローチの可能性をトップレベルの研究者たちと話し合いました。その結果、前向きに検討する価値があるとの結論に達しました。そこで本社に伝えたところ、本社も興味を示しました。前向きに検討することに問題はないと言ってきたのです。しかし、具体的に進めるための条件を示されました。この中央研究所とは別の組織を設立して、そこで研究を行うことが条件として示されたのです」

 ん? 
 別の組織?

「共同出資の研究所です。両社各50パーセントでどうでしょうか。研究費の支出割合はもちろんのこと、将来実現した場合の研究成果に対する取り分も両社で分け合うこととなります」

 悪くない提案だった。いや、それどころか好都合と言っても良い内容だった。しかし、社運を賭けた契約は慎重に検討しなければならない。はやる気持ちを抑えた。

「出資に関しては、社長とはいえ、わたしの一存では決められません。取締役会での決定が必要になります。ですので、持ち帰って検討させていただくことになります」

「結構です。十分に検討して下さい。但し、もう一つ条件があります。共同研究の期間です。その期間は3年間と考えています。その間になんらかの研究成果が出なければ、この共同研究は終了させていただきます。その点も併せてご検討ください」

「承知しました」

 最上は笑みを浮かべたが、心の中では別の言葉を発していた。

 3年か~、

 それは、長いようで短かった。今回の誘導体の可能性にかけてはいるが、それが有毛細胞に働いて毛の再生を促すことをこれから証明しなければいけないのだ。その作用が即効性で、かつ、安全性に問題がなければ短期間で臨床試験に移行できるが、そうでなければかなりの期間を動物実験に費やすことになる。それに、もし証明できなければ別の誘導体を合成して試さなければならなくなる。そうなると、3年はあっという間に過ぎてしまう。それはアメリカ製薬との共同研究が終わることを意味する。つまり、長年の夢が潰えることになるのだ。

 3年か~、

 日本語で呟いた最上をニタス博士は不思議そうな表情で見ていたが、「最上さんの帰りを待っています」と言って右手を出した。最上は無言でその手を握り返したが、笑みを浮かべることはできなかった。さっきまでの高揚した気持ちは消えて、追い込まれたような気分になっていた。〈背水の陣〉という言葉が脳裏に浮かんだ。

        *

 急いで帰国し、取締役会に報告した。取締役会は合弁研究所の可否を判断するため、経営企画室、研究部、開発部、知的財産部、法務部、財務部に検討を指示した。

 1か月後、出資比率、研究内容、研究期間に関する内容には問題が無いこと、但し、研究所を設置する場所はアメリカ製薬の研究所敷地内が望ましいと併記された報告書が取締役会に提出された。取締役会で了承したあと、契約書のたたき台をアメリカ製薬に送り、何度もすり合わせを行った。

        *

 3か月後、アメリカ製薬中央研究所の一室に合弁研究所を設置することが合意され、契約が交わされた。
 併せて、最上が代表、ニタス博士が共同代表に就任することも決定された。
 研究員は両社から各5名、計10名が出向する体制となった。
 新たな挑戦が始まった。