「ティン・ニタスです」

 席へ出向いてきた彼が自己紹介をした。ピアノ演奏に感激したと言って、手を差し出した。

「最上極です」

 そう告げると、手を握ろうともせずに、一歩退いた。

「MOGAMI……」

 ブルーの瞳が驚きの光を放っていた。

「やっと会えましたね」

 しかし彼は口に手を当てて、まだ驚き続けていた。

「アメリカ製薬のティン・ニタス博士でいらっしゃいますね」

 すると彼は狐につままれたような顔で僅かに頷いた。

「MOGAMI……、あのMOGAMIさん……」

「そうです。その最上です」

 何度も電話し、その度に断られ続けていた相手、それが彼だった。
 アメリカ製薬のティン・ニタス博士。
 世界で初めて医療用経口発毛剤を開発した研究者。

「何故あなたがここに……」

 横に腰を下ろした彼の瞳は、まだ驚きを(たた)えていた。

「何故あなたがピアノを……」

 こんなことは信じられない、というように目を見開いた。

 最上は彼の疑問を解くためのキーワードを告げた。

「すべては必然だったのです。あなたに会うための必然」

「必然……」

「運命と言い換えてもいいかも知れません」

「運命……」

 ポトマック河畔の桜、
 900グラムのTボーンステーキ、
 ハードロック・クラブ、
 フィール・ソー・グッド、
 そして、ビル・エヴァンスのワルツ・フォー・デビー、
 そのすべてが、自分とニタス博士を引き合わせるためのプロセスだったことを説明した。そして、耳鳴りで苦しむ親友のことを話した。難聴で苦しむ老人たちのことを話した。

「なんとかしたいのです。彼らを救う薬を作りたいのです。そのためにも、博士のお力をお借りしたいのです」

 しかし、戸惑いの声しか返ってこなかった。それは当然だった。彼の専門領域は発毛であり、耳鳴りや難聴ではないのだ。それでも諦めるつもりはなかった。発毛剤の開発途中で捨てられた誘導体のことを、特に〈産毛は生えるのに育たない誘導体〉の可能性について必死になって説明した。そして、
 このチャンスを逃してはならない、
 幸運の女神に後ろ髪はない、
 前髪を今掴まなければならない、
 と懸命に訴えた。

「有毛細胞の毛……」

「そうです。耳鳴りや難聴の原因の一つとして、有毛細胞の毛が抜け落ちることが言われています。そして、それは再生しないことも」

 目を大きく見開いたまま彼は頷いた。

「博士が開発した誘導体、特に〈産毛は生えるのに育たない誘導体〉を投与すれば、有毛細胞の毛を再生させることができるかも知れないと思ったのです」

「う~ん」

 彼は腕組みをして天井を睨んだ。

「う~ん」

 さっきよりもっと大きな声で唸った。

「有毛細胞の毛の再生……」

 彼は目を瞑って、それ以降、一切口を開かなかった。