しばらく歩くと、落ち着いた静かな通りにある、ひっそりと佇む店のネオンサインに目が留まった。
あっ、この店名は、
目が釘づけになった。
『フィール・ソー・グッド』
大学院時代にピアノを弾いた店と同じ名前だった。
ドアを開けて店の中に入ると、なんと、店の造りが一緒だった。
もしかして……、
そうだった、あのフィール・ソー・グッドの姉妹店だった。
なんという偶然、
なんという出会い、
なんという縁。
信じられない思いで店内を見回した。
*
店の人に案内され、ソファに身を沈めた。そして、アルマニャック・ブランデーとチェイサーを注文して、ピアノ演奏に身を任せた。
心地良いジャズピアノの音が耳に優しかった。キーンという耳鳴りは消えていた。
まだ時間が早いせいもあって、客はそれほど多くなかった。さり気なく店内を観察すると、ピアノ演奏を邪魔しないように囁くような声で交わされる会話が客層を表しているようだった。落ち着いた雰囲気が気に入って、ここでしばらく過ごそうと決めた。
演奏が終わり、男性ピアニストが一礼をして席を立った。すると、静かに、しかし、温かい拍手が送られた。ピアニストはもう一度頭を下げ、そして、店の出口へ向かっていった。
最上はブランデーのお代わりを注文した。
ウエイターが運んできた時、「次の演奏はいつからですか?」と尋ねた。すると、申し訳なさそうな顔になった。
「次に演奏する予定だったピアニストが体調不良のため来られなくなったので代わりのピアニストを探しているのですが、見つからなければ今夜は……」
最後まで言い切らずに頭を下げた。
諦めるしかないと思ったが、彼が顔を上げた時、不意に言葉が口から飛び出した。
「あのう、ご迷惑でなければ、わたしが弾いてもいいでしょうか?」
「えっ?」
ウエイターが戸惑いを見せた。
「お客様が、ですか?」
最上はフィール・ソー・グッド本店でピアノを弾いていたことを説明した。
「少々お待ちください」
ウエイターは足早に店の奥に向かった。
*
しばらくして、背の高い上品な男性を伴って戻ってきた。
あっ!
その顔に見覚えがあった。名乗ろうとすると、彼が先に口を開いた。
「お久しぶりです、MOGAMIさん」
当時、本店でアシスタントマネジャーをしていた彼は忘れていなかった。今はこの店の責任者をしているという。
「どうぞ、存分にお弾きになってください」
ピアノの方へ手を動かしたので、笑みを返してピアノへ向かった。
チェアに座ると、鍵盤に手を置き、静かに目を閉じた。すると、笑美の顔が浮かんできた。更に、初めて会った時に彼女が弾いていた曲が聞こえてきた。ビル・エヴァンスの名曲『ワルツ・フォー・デビー』だった。
鍵盤に置いた指が自らの意志で動いてメロディーを弾き始めた。その途端、客席の話し声が止んだ。
特徴的なイントロに耳をそばだてているのだろうか、
その様子を感じながら演奏を続けていると、女性の囁きが聞こえてきた。
「なんて優しくて穏やかな音色……」
その方に視線をやると、目を瞑っている女性が目に入った。その表情は、まるでメロディーに抱かれているように見えた。弾きながら幸せな気分になった。
ビル・エヴァンスの曲を3曲弾いて立ち上がり、一礼すると、温かい拍手に包まれた。笑みで応えたが、それでも拍手は止まらなかった。
歩き出すと、さすがに収まったが、それでも、拍手を続けている男性が一人いた。
ん?
見覚えのある顔だった。しかし、誰だかわからなかった。
顔だけ知っている人……、
思い出せないまま席に戻り、ソファに身を沈めて、その男性に目をやった。まだ拍手をしていた。最上が軽く会釈をすると、男性がにこやかな笑みを返してきた。それを見た途端、思い出した。
彼だ!
会いたくてたまらなかった彼だった。
なんということだ。
こんなことってあるのだろうか?
すると、笑美の笑顔が浮かんだ。
ねっ、うまくいくって言ったでしょう。
そうか、笑美が会わせてくれたんだ。君って最高だね。
知っているわよ。
声が聞こえたような気がした。



