ワシントンD.C.に連絡事務所を開設してから、あっという間に18年が過ぎた。最上製薬の社長になってから会社を成長軌道に乗せてはいたが、残念ながら、アメリカへの本格進出の夢は閉ざされたままだった。ここに研究所をつくり、ここで開発した新薬をアメリカで発売する、そんな夢は、まだ夢のままだった。
それでも、情報収集だけは怠らなかった。僅かなチャンスも見逃すまいと必死になって各社の開発動向を探った。特に、ベンチャー企業の情報には目を光らせた。それは開発の進捗状況にとどまらず、彼らが集める潤沢な資金の出所にも向けていた。
アメリカでは大学や研究機関からスピンオフした優秀な研究者が新たな会社をどんどん設立しているだけでなく、海のものとも山のものともわからないベンチャー企業に対して多額の資金が集まっていた。エンジェルと呼ばれる裕福な個人投資家が設立資金や運営資金を提供する構図が出来上がっていたのだ。そして、事業の拡大時期になると、ベンチャーキャピタルという投資会社がより多額の資金提供を行っていた。
その状況は日本では考えられないことだった。エンジェルは皆無に等しかったし、ベンチャーキャピタルの数も規模も比較にならないくらい小さなものだった。
余りにも違い過ぎる。
改めて、その底力を痛感した。と共に、焦りにも似た感情に襲われた。狙いを定めている癌と難治性疾患へのアプローチで彼らは遥か先を行っているのだ。それだけではなく、確実に成果を出し始めていた。
この出遅れを取り戻せるのだろうか?
追い付き追い越せる日が来るのだろうか?
考える度に弱気になった。彼我の差を冷静に判断すればするほど絶望的になってくるのだ。ただでさえ成功確率が極めて低いチャレンジである上に、資金力・人財力の違いが明らかだった。最上製薬は成長軌道に乗っているとはいえ、日本の中堅企業に過ぎない。世界から見ればちっぽけな存在でしかなかった。
これ以上続けるのは無謀かもしれない……、
弱気の虫が心を蝕み始めていた。
身の丈に合った決断をしなければならない、
落ち着いてじっくり考えなければならない、
そう思うと、じっとしていられなくなった。すぐに予約をして、アメリカから逃げるように飛行機に飛び乗った。
*
成田に到着して真っ先に顔が浮かんだのは、意外にも妻ではなく須尚だった。彼とはしばらく会っていなかったせいもあるが、仕事とはまったく関係のない人物であることも理由のように思えた。薬剤師である妻や会社の人間とでは、どうしても仕事のことに頭がいってしまう。しかし、それは避けたかった。今後のことをじっくり考えるためには、一度頭をまっさらにした方がいいのだ。躊躇わず須尚に電話を入れた。
*
「久しぶりだな」
「ああ、本当に久しぶりだ。でも、アメリカにいるものとばかり思っていたからびっくりしたよ」
「うん。急に帰ることになってな」
「そうか。何か大変なことでもあったのか?」
「いや、そうじゃないんだけど」
口ごもると、須尚は怪訝そうな表情を浮かべたが、「まあ、乾杯しよう」と言ってグラスを上げた。
長年通っている神楽坂の鮨屋だった。まだ時間が早いせいか、自分たち以外にはカウンターの端に座る夫婦らしき一組しかいなかったし、穏やかな声で話していたので反対側の端に座る自分たちの邪魔になることはなかった。
「ところで、元気にしてたか?」
頷くと思ったら、須尚は一瞬、返事に困ったような表情を浮かべた。
「何かあったのか?」
ちょっと心配になって顔を覗き込んだ。
「実は……」
耳鳴りに悩まされていることを初めて知った。
「耳鳴りか~」
残念ながらよく効く治療薬が無いことを知っていた。そのせいで、勇気づける言葉をかけることが出来なかった。
「災難だったな」
それ以外の言葉は思い浮かばなかった。気の毒だが、どうしようもなかった。
「一生こいつと付き合うことになるらしい」
辛そうな表情で彼は両耳を手で包み込んだ。キーンという音が強く聞こえているらしい。そんな様子を黙って見ていることができなかったので、彼の肩に手を置いた。それだけでなく、なんとかしてやりたいという気持ちが強くなって思わず励ましの言葉が口を衝いた。
「安易な慰めを言うつもりはないけど、医療業界や製薬業界の技術の進歩は加速度的にスピードを上げている。今まで不可能だと思われていたことが可能になったこともある。諦めるなスナッチ、いつかきっと」
すると、その続きを遮るように、彼が耳から手を離してこっちを真っすぐに見た。
「お前が治療薬を作ってくれるか? 耳鳴りの特効薬を作ってくれるか?」
すがるような目で見つめられた。
応えたかった。任せておけと言いたかった。しかし、それはできない。解決策は何も持っていないのだ。頷くこともできず、視線を落とすしかなかった。
*
店を出てタクシーを止め、須尚を先に乗せて見送った。そして、また1台止めて、乗り込んだ。本当はもう1軒行くつもりだった。落ち着いたジャズバーで音楽を楽しみながらたわいのない話をしようと思っていた。
しかし、耳鳴りで悩む須尚をジャズバーに誘うことはできなかった。彼もそんな気分ではないだろう。といって一人で行っても仕方がなかった。仕事のことを思い出すに決まっている。車窓を流れる華やかなネオンに見送られて家路についた。
*
「あら、早かったのね」
午前様を予測していたのか、玄関に入るなり妻が驚いたような声を出した。
「うん。なんとなくこういうことになった」
リビングのソファに腰を下ろしてから、須尚が耳鳴りで悩んでいることを話した。
「そう……」
妻の表情が曇り、「いいお薬があればいいのにね」と力なく首を振った。薬剤師である妻は治療薬がないことをよく知っていた。
「うん、そうなんだ」
相槌を打ったが、そのあとが続かなかった。すると、「わたしのところでもね」と妻が話を引き取った。診療所に来る高齢者たちとコミュニケーションをとるのが大変になっているということを話し始めた。
「須尚さんの耳鳴りも気の毒だけど、耳が聞こえにくいお年寄りもかわいそうなの」
なんとかしてあげたいと思っているが、どうにもならなくて歯がゆい思いをしていると嘆いた。
「耳鳴りと老人性難聴か~」
なんとかしたいという思いは妻と同じだった。それに、治療薬のない難病にアプローチすることに意味があるのはわかっていた。しかし、それに挑むのは無謀以外の何物でもないことも事実だった。
「再生医療か……」
思わず腕を組んで天井を見上げた。視線の先に答えはなかったが、それでも何かの啓示が下りてくるのではないかと思って見続けた。使命感と弱気の虫がせめぎ合う中、視線を戻すことができなかった。



