「もし、突然、耳が聞こえなくなったら大至急受診してください」

 3回目の受診時に告げられた言葉に青ざめた。

「耳鳴りを伴う病気の一つに突発性難聴という病気があります。ほとんどの場合は片側の耳で起こりますが、放置しておくと本当に聞こえなくなることがあるので、もし、その状態が起こったら大至急受診してください。早めに治療すれば聴力の回復が期待できますから」

 心の中が嵐になった。でもそれはすぐに怒りに変わった。

 あの日までなんともなかったのに、
 あの爆音に晒されるまではなんともなかったのに、
 なんなんだ、これは!

 怒りが渦巻いて抑えきれなくなったが、ぶつける相手がなかった。犯人はわからないし、特効薬もないのだ。現実的な解を探すしかなかった。
 次の週からドクターショッピングを始めた。〈耳鳴り治療の名医〉を探して色々な耳鼻科を受診したのだ。しかし、どこも大同小異だった。どの医者も口を揃えて「対症療法はあるが抜本的治療はない」と言う。更に、ある医者の言葉によってどん底に突き落とされた。

「内耳にある聴覚器官の細胞に有毛細胞(ゆうもうさいぼう)という音を感知する細胞があり、そこに細かい毛が生えています。その細かい毛が爆音によって折れたり抜けたりすると、耳鳴りの原因になることがあります。その細かい毛は」

 医者は言いにくそうに言葉を継いだ。

「残念ながら、再生しないのです」

 再生しない、
 再生しない、
 再生しない、

 医者の言葉が頭の中でぐるぐる回った。そして、耳鳴り→突発性難聴→音楽が聴けなくなる、という恐ろしすぎる結末が頭に浮かんで、思い切り落ち込んだ。多分、顔が青ざめていたと思う。そんな様子を心配したのか、医者が慰めの言葉をかけてきた。

「須尚さんはまだ難聴になっていないことが救いです。高音部の聴力が少し落ちているのでキーンという音が聞こえているようですが、できるだけ気にせず、リラックスしてストレスをためないようにすれば、徐々に気にならなくなるかも知れません。耳鳴りをネガティヴに考えずに、上手に付き合ってください」

 そして、耳鳴りの程度や聴力の変化を観察するために定期的な受診を勧められた。そのあとも医者は親身になって言葉をかけてくれたが、それらはすべて耳を素通りしていった。その日はどうやって家に帰りついたのか、よく覚えていない。

        *

 気にするなと言われても、気になるのだからどうしようもない。医者のアドバイスを受けて耳鳴りを意識しないように心掛けたが、それをあざ笑うかのように、キーン、シャー、はいつまでも居座り続けた。
 確かに、仕事に熱中している時は忘れていられるので気持ちの持ちようかなと思う時もあるが、仕事を離れると、キーン、シャーがピッタリと寄り添って離れなくなるのだ。それも、大切なリラックスタイムに顕著なのだ。ボリュームを落としてジャズやクラシックを聴きながらミュージシャンの伝記や音楽をテーマとした小説などを読むのが至福の時間なのだが、そういう時に限って出しゃばってくるのだ。そして、一度気になり出したらその音がどんどん大きくなっていくように感じるから始末が悪い。いい加減にしろ! とどつきたくなるが、目に見えない相手に拳を振り回しても空を切るばかりで、虚しさが増すだけだった。そうなると必ずあの時の医者の言葉が蘇ってきた。

「一生の付き合いになるとお考え下さい」

 それを思い出すと更に落ち込んだ。憂鬱になって読書をする気が無くなり、何をする気も起らなくなる。だからベッドに入るしかなかったが、耳鳴りはどこまでも追いかけてきて、決して解放してくれない。それどころか、暗くて静かな空間では更にのさばってきた。彼らの独壇場になるのだ。起きている時の何倍もの音量でキーン、シャーが両耳の奥を、そして脳の聴覚部位を占領するのだ。すると、眠れなくなって更に憂鬱になっていく。そんな悪循環がずっと続いた。