そんなことなど引っ越しに伴って色々なことがあったが、それが仕事に影響することはなかった。良好な経済環境にも恵まれて、思い描いた以上の順調なスタートを切ることができたのだ。

 1980年代後半からCDの普及期に入り、その音質の良さと操作の簡便性が受けて音楽を楽しむ人の数が増加していた。加えて、バブル景気真只中にあり、消費者の財布の紐は緩くなっていた。その追い風を最大限生かすために積極的にFM局へ攻勢をかけ、CDショップでの品揃えを拡充した。その結果、5年間で東京エリアの売上を2倍以上に伸ばすことに成功した。すると、40歳の時、新たな辞令が下りた。

『関東支店長を命ず』

 念願の辞令だった。CDの売上は伸び続け、音楽業界は空前の盛況に沸いていた。プロモーションを打てばどれも大きな反応を得ることができた。この盛況が終わると考える者は業界に誰一人いなかった。須尚もそのことを疑わなかった。この調子で売上を伸ばしていけば、自ずと営業部長への道が開けると思っていた。もちろんその先も狙っていた。有頂天になることは戒めなければいけなかったが、とにかく何もかもが順調で、攻めることしか考えていなかった。しかし、会社の中でたった一人だけ冷静に物事を見ている人物がいた。轟響子だった。

        *

「あなたが東京に来てからもう5年になるのね」

 関東支店長就任を自分のことのように喜んでくれたあと、轟は目を細めてあの日のことを思い出しているようだった。その様子を見ていると、当時のことが蘇ってきた。

 5年前、東京エリア長に就任して挨拶に行った時、彼女は再会を殊の外喜んでくれた。そして、企画部と営業部の連携強化を実現するために力を合わせていこうと誓い合った。
 その夜、歓迎の席を設けてくれた轟に対して、長年、隠していたことを打ち明けた。初めてスナッチだということを告白したのだ。ところが、轟は驚かなかった。それどころか、「知っていたわよ」と事も無げに返された。それでも顔が曇るのに時間はかからなかった。

「あなたには本当に申し訳ないと思っているの。あの時あなたが抱いていた危惧をもっと真剣に受け止めて、体を張って企画部長と対峙(たいじ)していたらと思うと」

 そこで声が消えた。顔には暗い影が射していた。ビフォー&アフター分裂の責任を今までずっと引きずっていたのに違いなかった。
 そんなことはないと伝えるために強く首を横に振った。あなたの責任ではないし、一旦おかしな方向に行き始めると、その流れを変えるのは難しいと強調した。

「必然だったんです」

 強く言い切ると、彼女は微かに笑みを浮かべた。

「ありがとう」

 自責の念が少し薄らいだのか、ほっとしたように息を吐いて肩を下ろした。

 あの日以来、轟とは非公式な会合を定期的に持つようになった。業界の動きや競合他社の情報を共有しようということになったのだ。だから、関東支店長に就任した日、更なる連携強化と情報交換の頻度アップを確認し合ったのは自然なことだった。

        *

 その翌月もミーティングルームでコーヒーを飲みながらお互いが持つ情報を交換した。こちらからは好調な売上を報告して絶好調であると自慢げに(まく)し立てたが、彼女はそんなことには興味がないというふうに発言を遮った。

「この状態はいつまでも続かないわよ」

 前年に企画部長に昇進したばかりの轟は将来の変化に意識を集中していた。

「仕事のやり方を変えないと、大変なことになるわよ」

 厳しい口調で懸念を表した。

「取引先の選別に着手したほうがいいんじゃない?」

 確かに、CDやレコードの流通で新しい動きが始まっていた。1980年に日本に上陸したアメリカのレコード販売チェーンが大規模店舗を全国大都市に展開し始めていたのだ。それだけでなく、輸入盤に加えてJ・POPなどの邦楽を扱い始め、急激にそのシェアを伸ばしていた。

「日本の零細なレコード店が駆逐(くちく)される日が来るわよ」

 まだその動きは感じられなかったが、彼女は確信をもっているように明言した。

「それに、うちの主力の洋楽への影響が出始めるわよ」

 その指摘は現実のものになろうとしていた。自社で販売する洋楽CDと同じものが直輸入盤として安く売られていたのだ。日本仕様には解説書や歌詞の和訳などを付けていたので、どうしても高くなる。しかし、直輸入盤は簡素な包装もあって、日本仕様より2割から3割安いものが出回っていた。

「確かにメガチェーンの価格は脅威ですけど、マニアが買っているくらいで一般の人には普及していませんし」

「今はね。でも、これからはどうかしら。メガチェーンの存在が多くの人に知れ渡り、価格差が認識され、更に、ポイント付与の大きさに気づいたら一気に流れが変わってしまうんじゃないの」

 轟は先行きの暗さを強く訴えた。現下の好調な売上がいつまでも続くはずがないと言っているのだ。

「それにね、音楽配信の技術が開発されようとしているの」

 初耳だった。

「まだ研究段階だし、商業化はもっとあとになると思うけど、いつかそれが主流になる時期が来ると思うの」

 よく理解できなかった。

「とにかく、これから音楽業界に大きなうねりが襲ってくるのは間違いないはずよ。その流れに乗るために何をしなくてはいけないか、一緒に考えて欲しいの」

        *

 残念ながら、轟の懸念は当たってしまった。全国のレコード店は急激にその数を減らしていった。メガチェーンの攻勢による淘汰が始まったのだ。レコードとCDを足した売上はまだ増えていたので制作側に危機感はなかったが、轟には不気味な足音がしっかりと聞こえていたのだ。彼女が予測した通り、メガチェーンでCDを購入する人が増加していて、その流れは加速していた。品揃えの豊富さに加えて、価格とポイントの魅力が音楽ファンの心をがっちりと掴んだのだ。
 それだけではなかった。市場規模に変化が生じ始めていた。1998年まで伸び続けたCDの売上がピークを打った。音楽ソフトの売上が減少する時代に入ったのだ。

「これからの新しい潮流への対応を考えて欲しいの」

 轟の視線には、いつもと違う目力(めぢから)がこもっているように思えた。

 その理由を知ったのが、47歳の春だった。新たな辞令が下りたのだ。それは期待していた営業部長のポストではなかった。

『企画部次長を命ず』

 営業部から企画部への異動辞令だった。轟が自分を営業部から引き抜いたのだ。営業部長へ、そして、取締役へと昇進の道を期待していた須尚は轟を恨んだ。

 あと一歩のところまで来ていたのに、なんで……、