30歳で大阪エリア長として赴任した須尚は、美麗との新婚生活を楽しみながらも、九州とは遥かに規模の違う大市場の開拓に全精力をつぎ込んでいた。営業部の最年少記録を塗り替える抜擢に意気を感じていたのだ。もちろん、初めて経験するマネジメントの難しさに直面して戸惑うことも多かったが、澤ノ上教授の教えやアメリカの著名経営学者などの本を参考に『人を活かすマネジメント』を実践していった。
特に重視したのは、長所を伸ばす指導だった。短所を指摘して改善を促すよりよっぽど効果が高いと思ったからだ。そのために『褒めるマネジメント』に力を入れた。
これは反面教師から学んだものだった。上司である大阪支店長は猪突猛進型で、先頭に立って突き進んでいくブルドーザーのような人物だった。頼もしくはあったが、反面、激高することが多く、指示に従わない者や成果を出せない者に対しては厳しい叱責を飛ばした。それは聞くに堪えない罵詈雑言に至る場合もあり、部下が委縮するだけでなく、顔色を窺ってへいこらする者も少なくなかった。
これではだめだと思った。一人一人の力が活かされていないと思った。怒られて嬉しい人はいないし、ありがたいと感謝する人もいない。やる気を削がれてバックレるのが関の山なのだ。だから反面教師にした。真逆の方法で部下に接することにしたのだ。長所を伸ばし、褒めることに意識を集中させた。また、年上の部下も少なからずいたことから、言葉遣いに気を付けた。指示口調にならないようにするのはもちろんのこと、先輩としてのプライドをくすぐるために教えを乞うという姿勢を貫いた。
その上で力を入れたのが、成功体験と失敗体験の共有だった。これまで個々人の頭の中にしかなかった情報やノウハウを見える化したのだ。
これで一気に勢いがついた。レコード店での採用率は高まり、ショップ内プロモーションは強化され、ラジオ局のオンエアも増えていった。
赴任2年目からは20%以上の成長を続けることができるようになった。さしもの支店長も何も言わなくなった。
*
すべては順調だった。怖いくらい順調だった。その上、更なるご褒美が舞い込んできた。
『関東支店東京エリア長を命ず』
35歳の春だった。日本最大の市場、東京地区の責任者を拝命したのだ。在任5年間で大阪エリアの売上を2倍以上に伸ばした手腕を買われてのことだった。
この辞令を聞いた時、思わず武者震いが出た。東京へ凱旋するような気分になったからだ。だから終業時間を待ちかねるようにして退社して家に戻って妻に伝えたが、反応は予想外のものだった。
「ちょっと不安……」
大阪での生活にやっと慣れてきた妻は、東京という別格の大都市での生活に戸惑いを感じたようなのだ。その上、娘の麗華が幼稚園に上がる年齢になっていた。
「東京で友達ができるかしら」
大阪弁が身についた娘のことが心配でたまらないというように眉をひそめた。
「子供はすぐに慣れるから大丈夫だよ」
安心させようと柔らかく否定したが、そんな慰めはなんの役にも立たなかった。
「子供の世界はあなたが思っているほど可愛いものじゃないのよ。虫を平気で踏み潰すような残酷な面を持っているのよ。大阪弁を笑われるくらいならいいけど、そのことで入園初日から仲間外れにされることだってあるかも知れないし。それに、大阪と東京では習慣が違うでしょう。それにも慣れないと」
妻の心配はどんどん膨らんでいった。それは母親として仕方のないことかもしれなかったが、東京で生まれ育った自分にはピンとこなかった。考えすぎだとしか思わなかった。
しかし、妻と娘は東京生活初日から大阪との違いを思い知らされることになった。駅のエスカレーターで右側に立って嫌な思いをしたのだ。〈大阪は右立ち、東京は左立ち〉という暗黙のルールをよく理解していなかった妻は、娘と共に当然のように右側に立っていたが、急いでいる人がぶつかるように通り過ぎていくのを見て肝を冷やしたのだという。中には、チェッと舌打ちしながら通り過ぎる人もいたらしい。
「なんで言ってくれなかったの?」
妻が不満そうな表情を浮かべたが、それだけでは終わらなかった。「他に違うことはないの?」と畳みかけるように追及してきたのだ。しかし、思いつくことは何もなかった。
それでも、翌日の夜、テレビを見ている時にふと気がついた。画面では大阪の芸人が方言で笑いを取っていた。
「そうだ、アホとバカ。大阪では軽い気持ちでアホという言葉を使うけど、東京ではめったに使わないし、アホと言われたら侮辱されているように思うかもしれない」
その途端、妻が顔を曇らせた。麗華が「アホちゃう」という言葉をよく使うからだ。妻が真剣に悩み始めた。
しかし、心配は杞憂に終わった。幼稚園に通い出した麗華は、仲間外れどころかすぐに輪の中心にいる存在になったのだ。他の子供より体が大きかったことと、率先して行動する姿勢、そして、面倒見良く接する態度が幸いしていた。それに、なんと言っても可愛かった。親の欲目と言われても仕方ないが、可愛いルックスと仕草が男の子のハートを掴んでいた。だから、誰からも虐められることはなかった。
「ほら、心配することはなかっただろ」と指摘すると、「私に似て可愛くて良かった」と妻が笑った。
えっ、まあ、確かに、そうだけど……、
二の句が継げなかった。



