笑美が20代の間に花嫁衣裳を着せてやりたい。

 30歳を目前にしてその想いが強くなっていたが、新薬開発が思うように進んでいない状態で家庭を持つという決断は中々できなかった。自分が一人前になっていないのに、笑美の親に結婚の承諾を得に行くのは早すぎると思っていた。だから彼女と顔を合わせる度に、もう少し待って、と心の中で謝るように呟いた。

        *

 週末、いつものように笑美と公園を歩きながら互いの近況を報告し合ったあと、池の畔のベンチに腰かけた。天気が良いせいか、ボートを楽しむカップルや池の周りの芝生で弁当を広げている家族など、至る所から賑やかな笑い声が聞こえてきた。
 辺りを眺めていると、老夫婦らしき2人が杖を突きながらこちらの方へ歩いてきた。そして、すぐ近くで立ち止まり、あれがカイツブリで、あれがカルガモと、指を差しながら楽しそうに話し始めた。すると絵美が立ち上がったので、すぐに最上も従った。2人に声をかけて席を譲ると、嬉しそうに頭を下げてベンチに座った。
 それからしばらくの間、池の周りを無言で歩いていたが、仲の良さそうな老夫婦に刺激されたのか、笑美が指を絡ませてきた。柔らかくて温かくて細い指だった。それは特別な指であり、かけがえのない指だった。その感触に浸って幸せな気分に包まれていると、唐突に笑美が患者のことを話し始めた。高齢の患者に出されている薬に問題があるという。

「お薬の種類と量が多すぎるの。年を取ったら色々な病気にかかるから仕方ないのかもしれないけど、それにしてもね」

 彼らは内科、耳鼻科、眼科、皮膚科、整形外科、と毎日のように色々な診療科を受診して、飲み切れないほどの薬を処方されているのだという。昨日来院した70代後半の女性は、布袋から幾つもの薬袋(やくたい)を出して見せて、「高血圧と糖尿病と鼻炎と白内障と乾燥肌と腰痛と、とにかく私病気のデパートなのよ」と言ったそうだ。それで、「ちゃんと飲めているの?」と訊くと、「全部飲んだらお腹いっぱいになっちゃうよ」と答えたらしい。

「10種類近い薬を1日3回服用したら誰でもお腹がいっぱいになるわ」

 笑美はゆらゆらと首を振った。

「せめて、1日に1回飲むだけで効くお薬があったらいいのに」

 そう思わない? というような目で見つめられた。

 反応を返せなかった。
 心臓が止まりそうになっていた。
 足を動かすこともできなくなって、立ち止まった。
 すると、ん? というような表情になって笑美も立ち止まった。

「どうしたの?」

 心配そうな声が口から漏れた。

「今、1日1回って言ったよね」

 やっと声を絞り出すと、すぐさま笑美が頷きを返してきた。

「それだよ」

「それだよって、何が?」

 言っている意味がよく理解できないというふうに笑美は首を傾げた。

 1983年当時、薬は1日3回飲むのが当たり前で、そのことに疑問を持つ者は皆無に等しかった。それは最上も同じで、そんなことに気を留めたこともなかった。それに、新しい薬効を探すのに必死で、既存の薬の改良などまったく眼中になかった。もちろん、会社の屋台骨である成人病薬のテコ入れの必要性は感じていたし、競合他社との差別化についても頭を悩ませていたが、具体的なアイディアを得るところまでは至っていなかった。そんな中、答えが突然、飛び込んできたのだ。笑美の口から。
 画期的な新薬をゼロから生み出すのに比べて既存の薬剤の改良は今まで蓄積した技術やノウハウもあり、開発期間が大幅に短縮できる可能性がある。それに、1日3回服用の既存薬を改良して1日1回服用にできれば、他社との差別化につながるだけでなく患者のQOLに大きな貢献ができる。しかし、そんなことは露ほども考えなかった。頭の中に改良や改善といった言葉は存在していなかった。
 灯台下暗(とうだいもとくら)し! 
 傍目八目(おかめはちもく)! 
 自分の(まつげ)が見えていなかった。

        *

 笑美と別れて研究所へ直行した最上は、アメリカに留学していた時に知り合った研究者に早速連絡を入れた。

「DDSがいいんじゃない」

 電話の向こうで自信たっぷりの声が聞こえた。
 DDSとは、ドラッグ・デリバリー・システムのことで、薬物送達システムと呼ばれる医薬品開発技術の新しい概念だった。それは、医薬品の有効性、安全性、信頼性を高めるための設計技術で、それによって吸収を良くしたり、持続性を高めたりすることが期待されていた。

        *

 月曜日の朝が来るのを待ちかねて、製剤研究所に足を運び、所長に面会した。

「やっていますよ。薬剤の放出制御の技術に目処が立ちつつあります」

 よくぞ訊いてくれた、というように嬉しそうに笑った。

「では、1日1回服用の薬は?」

「可能性は十分あります。しかし……」

 所長は顔を曇らせた。

「研究開発費と研究員が足りません。会社の費用と人員はほとんど新薬の開発に割り当てられていますから」

 最上を羨ましそうな目で見た。
 その通りだった。社長である父に頼み込んで、研究開発費の大部分を新薬開発に回してもらっていた。しかし、そのことで製剤研究所にとばっちりがいっていたとは知らなかった。いたたまれない気持ちになった。

「完成させるためには、どのくらいの費用と人員が必要ですか?」

 何倍増と言われるのを覚悟して尋ねたが、所長が要望したのは大した額や増員ではなかった。

 それくらいで……、

 唇を噛むしかなかった。社長の座を約束されている者としてもっと全体を見る目を身につけなければならないのに、それができていなかった。狭量(きょうりょう)さを恥じた。

「わかりました。父と、いや、社長と相談してみます」

 所長に礼を言って、本社へ急いだ。

        *

 翌月開かれた取締役会で製剤研究に対する大幅な研究費の増額と人員増が承認された。最上は〈DDSプロジェクト〉のリーダーとして、主力薬の持続製剤開発の先頭に立つことになった。すぐさま社外の専門家を採用して、一気に開発を加速させた。
 今回の開発は新規成分ではないため、今まで蓄積した研究や臨床データが活用できるという利点があった。そのため、動物実験を短期間で終わらせることができた。その結果、1日1回服用で効果が期待できる持続性降圧薬の第一相臨床試験を早期に始めることができた。この試験で健常人に対する安全性が確認できれば、少数の患者に対して安全性と有効性を確認する第二相の臨床試験に早期に進めることができる。そして、より多数の患者を対象とした第三相臨床試験で同等性が証明できれば、新規の作用機序を持つ薬ではないため、厚生省の認可もスムーズに下りる可能性が高い。そうなれば、他社に先駆けて発売することができる。大きな差別化につながるだけでなく、主力薬のライフサイクルを大きく伸ばすことができる。その上、画期的な新薬を開発するまでの猶予期間を得ることができる。DDSプロジェクトは最上製薬にとって救世主プロジェクトになった。
 それだけではなかった。まだ何も成果が出ていない新薬開発に負い目があり、自分が一人前ではないというネガティヴな意識を持っていたが、DDSプロジェクトのリーダーとして具体的な進捗を得ることによって、自信を取り戻すことができた。

 これでやっと笑美にプロポーズできる。

 思わず安堵の息が漏れた。目を閉じると、彼女がまだ高校生だった頃の姿が浮かび上がってきた。愛を育んできたかけがえのない日々が蘇ってきた。それは10年にも及ぶ2人の軌跡だった。すると、初めて結ばれた時に彼女に告げた言葉が蘇ってきた。もう一度彼女に告げなければという想いが強くなった。だから、敢えてそれを口に出した。

「世界一幸せにするからね」