「日本って凄いんだね」
所属する研究室では1979年5月に出版された本の話題で持ちきりだった。エズラ・ヴォ―ゲル博士が著した『ジャパン・アズ・ナンバーワン』。日本礼賛の書であり、アメリカは日本に学ぶべきだと強調していた。日本躍進の陰に優秀な官僚の存在があることに加えて、日本人の勤勉さや勉学への真摯な態度を褒め称えていた。それは、教育を軽視する当時のアメリカへの警告でもあった。
「そんなことはないよ。日本はまだまだだよ」
謙遜ではなく、最上は心底からそう思っていた。アメリカという目標があるから、ここまで来ることができた。しかし、世界をリードできる日本独自の本当の強さを身につけているわけではない。応用研究では一流になったが、基礎研究の分野ではまだまだなのだ。欧米のレベルにはまったく達していなかった。本当の凄さを身につけるためには基礎研究のレベル底上げが重要で、今こそ国を挙げて基礎研究に投資しなければならないのだが、その事に気づいている人が日本に何人いるのか、最上はそれが気がかりだった。
表面的な競争力に浮かれてはいけない。
それは氷山の見えている部分にしか過ぎないからだ。
そんなものに目を奪われてはいけない。
本質的な競争力は氷山の海の中にある。
誰にも見えない部分の大きさこそが真の実力なのだ。
脆弱な基礎研究の上に構築された応用研究頼みの競争力がいつまでも続くはずはないと最上は思っていた。
勘違いしてはいけない!
最上は自らに強く言い聞かせた。と同時に、日本政府、そして経済界や労働者がこの本を読んで有頂天にならないことを心から願った。浮かれている場合ではないのだ。頂上にいるという幻覚に浸っていてはいけないのだ。日本の成長が限界に達する前に世界をリードできる革新的な種を探さなければならないのだ。さもなければ……、
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アメリカから日本を見ることによって、母国を見る目が変わったような気がしていた。客観的に見えるようになったのだと思う。それは、強みだけでなく弱点がよく見えるようになったということだった。それがわかっただけでも今回アメリカに来た意味があった。
3年間の留学が終わると、早速帰国して父親がいる社長室に顔を出した。すると、待っていたように辞令が渡された。中央研究所の上級研究員として新薬開発を担当するというものだった。もちろんそれは自らが望んでいたことだし、それに没頭できることにワクワクしていた。病気で苦しんでいる世界中の人々に革新的な薬を届けたいという気持ちはより強くなっていたし、それができると信じていた。
躊躇わず2分野に的を絞った。
一つは、癌。もう一つは、難治性疾患。
それには理由があった。現在の主力薬で成長を維持するのが難しくなっているのだ。
最上製薬の主力薬は成人病薬だった。高血圧症、糖尿病、高脂血症などの治療薬で、働き盛りの人に発生率が高いことから成人病と呼ばれていた。当時は成人特有の病気という認識だったからだ。
しかし、その主力薬も最上製薬の完全なオリジナルとは言い難かった。いわゆる〈ゾロ新〉と呼ばれる改良型の新薬で、画期的な新薬ではなかった。それ故、他社の参入も容易で、販売現場での競争は熾烈を極めていた。だから、ゾロ新ではなく〈ピカ新〉と呼ばれる画期的新薬を開発しなければ、この泥沼のような競争から脱することはできなかった。それに、ゾロ新では海外展開の可能性はゼロだった。
それは最上製薬だけでなく、日本の製薬大手の認識もまったく同じだった。それぞれの会社の研究所でピカ新開発への号令がかかっていた。その中で、ある大手製薬会社が高脂血症の画期的な治療薬の開発を進めていた。〈スタチン系〉と呼ばれるコレステロールを下げる薬で、将来のブロックバスター化が期待されていた。つまり、従来の治療薬の概念を覆す薬効によって年間1千億円以上の売上が見込まれていたのだ。
それに負けじと大手製薬会社のすべてが成人病薬のピカ新開発に莫大な研究費を投じ始めた。しかし、中堅クラスの最上製薬にはそれに対抗できるだけの資金がなかった。同じ土俵で相撲を取っても勝ち目はないのだ。だから大手とは違う道を行くしかなかった。
成人病以外の領域で戦える新薬、それが癌と難治性疾患だった。しかしそれは成功確率の低い困難を極める開発であることを意味していた。その領域に開発を絞るリスクは余りにも大きかった。もちろんそんなことはよくわかっていたが、しかし、ある言葉が使命感に火を点けていた。
『アンメット・メディカル・ニーズ』
アメリカでよく耳にした言葉だった。有効な治療法が見つかっていない疾患に対する医療ニーズのことで、その治療薬が患者や医師から強く求められていた。しかし、大手製薬会社はどこも二の足を踏んでいた。開発が難しいことに加えて、上市しても大きな売上が見込めないことが大きな理由だった。それよりも全世界で患者数が膨大にいる成人病治療薬の開発に投資した方が高いリターンを得る確率が高い。リスクを犯す経営者は誰もいなかった。
当然ながらそれは経営効率という点において間違いではなく、株主からの重圧に晒されている上場企業の経営者がリスクを冒せないというのはある意味仕方のないことではあった。それでも、リスクを厭わない経営者がいるのも事実だった。ベンチャー企業の若き社長たちだ。大学の研究室からスピンアウトしたバイオベンチャーは、大手製薬会社がやらないこと、二の足を踏んでいることに挑戦していた。それが癌と難治性疾患の治療薬だった。最上が卒業したアメリカの大学院の研究室からも卒業生たちが起業をし始め、その彼らとの密な情報交換により、アメリカのバイオベンチャーに関する最新情報を掴んでいた。
負けてはいられない!
最上のハートは自分でも手がつけられないほど熱く燃えていた。



