興奮の余韻は中々冷めなかったが、その日の最終便で長崎に帰り、これからのことを考えた。もちろん、『ロンリー・ローラ』の販促についてである。レコード店との関係は良くなりつつあるので、発売になったら多くの店が取り扱いをしてくれるだろう。それは間違いない。ただ、ラジオ局との関係が問題だった。番組で取り上げてもらえなければ認知度は上がらない。どれだけ多くオンエアしてもらうかが鍵なのだ。なんとかしなければならなかったが、手立ては何も思いつかなかった。それでも焦る気持ちを押さえて解決の糸口を探り続けた。何か策があるはずなのだ。しかし、それを見つけられないまま、ただ時間だけが過ぎていった。

        *

 仕事上の悩みを抱えながらも、プライベートではドキドキする日が続いていた。あの日以来、グラバー園で偶然再会して以来、週末になるとトルコライスを食べにあの店に通い続けていたのだ。競争相手が多いのはわかっていたから、それを勝ち抜くためには彼女がバイトする日は皆勤するしかないと思い、それを実行していた。
 幸いにも福砂屋のカステラというインパクトが功を奏したのか、通う度に彼女の対応が好意的になっていると感じるようになった。それでも、安心してはいられない。ライバルたちも虎視眈々(こしたんたん)と狙っているのは間違いないのだ。ぐずぐずしていると誰かに先手を打たれそうで気が気ではなかった。だからまだ早すぎるのはわかっていたが、思い切って行動に出ることにした。

 彼女のバイトが終わるのを待って、店から出てきたところでデートを申し込んだ。何を言っていいかわからなかったので、「僕と付き合ってください」と単刀直入に告げた。すると、彼女は驚いたような表情でしばらくこちらを見ていたが、何も言わずに歩き出した。慌てて追いかけたが、掛ける言葉が何一つ思い浮かばなかった。黙って横を歩くしかなかったが、普段聞こえるはずのない心臓の音が鳴っているように感じて、顔がのぼせたように熱かった。

 気がつくと、路面電車の駅に立っていた。しばらくして電車が到着すると、ドアが開く間際に彼女がこっちを見た。そして可愛い声で、「また食べに来て下さい」と言って、電車に乗り込んだ。

 動き出すと、胸の前で小さく手を振ってくれた。それを見て、叫びたい気持ちになった。しかしぐっと堪えて、彼女と同じように胸の前で小さく手を振った。電車が見えなくなるまで手を振り続けた。

        *

 彼女のアルバイトが終わるのを待ってデートをするのが週末の恒例になった。ただ夕食を食べて駅で別れるだけのデートだったが、それは何物にも代えがたい宝物のような時間だった。彼女が話す学生生活や友達の話を夢見心地で聞いた。

 その日もお洒落なカフェで食事とお酒を楽しんでいたのだが、店内に流れるイージーリスニングミュージックを聴いているうちに、頭の中は『ロンリー・ローラ』の販促、特になんの糸口も掴めないラジオ局対策のことでいっぱいになってしまった。

「どうしたの? 浮かない顔をして」

 彼女が顔を覗き込むようにした。

「ごめん、ごめん。ちょっと仕事のことを考えてしまって……」

「何か大変なことでもあるの?」

「いや、なんでもない。それより、遅くなったから送って行くよ」

 今まではいつも路面電車の駅で別れていた。2人の行き先は正反対だったからだ。彼女は長崎駅から南の方角の南山手町に住んでいるのに対し、自分は長崎駅から北側の浦上(うらかみ)に住んでいたからだ。
 でも、今夜はいつもより遅くなったので、彼女を一人で帰すことは躊躇われた。治安のよい長崎とはいっても夜道の一人歩きは心配だったからだ。

 乗り込んで手を繋いだまま外を見ていると、柔らかな手が吸い付くようで、幸せ満開になった。これがいつまでも続いてほしかった。手を離すなんて考えたくもなかった。しかし、無情にも降りる駅が近づき、彼女の指が降車ボタンを押した。
 降りたのは大浦天主堂駅だった。昨年の秋、グラバー園へ行く時に降りた駅。

 坂を上って教会を通り過ぎたところに彼女の家はあった。大きい家だった。というより凄い家だった。白亜の豪邸。

 金持ちの娘?
 
 思わず顔をしげしげと見てしまった。

「今夜は送ってくれてありがとう」

 その声と笑みが余りに可愛くて思わず抱き締めた。そして勇気を出して顔を近づけ、心臓が早鐘を打つ中、唇を合わせた。初めてのキスだった。柔らかな唇の感触に我を忘れそうになった。それでも家の前だから長くそうしているわけにもいかず、体を離して彼女を見つめた。すると照れたようにうつむいたので、それが余りに可愛くて、もう一度キスをしたくなった。ところが、彼女を引き寄せた時、車が坂を上ってくる音が聞こえてきた。ライトに照らされると、離れざるを得なくなった。
 車が通りすぎるのを待ったが、月が雲に隠れると、それが合図になったかのように、「おやすみなさい」と言って彼女が背を向けた。そして、門を開けて中に入ると、振り返って胸の前で小さく手を振り、名残惜しそうに門を閉めた。