大学院に進学した途端、実験に追われまくった。そして、それは毎日深夜まで続いた。泊まり込む日も少なくなかった。研究室のソファで毛布にくるまって、仮眠を取っては実験を続けた。新しい薬を探すための基礎研究に携わっているのだが、細胞を培養するための培地づくりや薬効成分の反応、動物実験でのデータ取得など、担当する業務は多岐に渡っており、24時間ではとても足りないという状態だった。

 毎晩、実験が一段落してソファに横になると、笑美のことが思い浮かんで、寂しいような悲しいような気分になった。アメリカ留学の計画を伝えた時は快く受け入れてくれてほっとしたが、その後しばらくしてから彼女の元気が無くなったのだ。何か悩んでいるような感じを受けたので心配になって訊いてみたが、「なんでもない」という返事が返ってくるばかりだった。そのうち自分も忙しくなり、時間の余裕がない状態が続いているので、こちらから連絡することはほとんどできなくなった。気になりながらも、睡魔に勝てずに眠ってしまう自分が情けなかった。

        *

 その夜もいつものようにソファに横になってうとうと(・・・・)していたが、電話の音に気づいて手を伸ばした。ところが、受話器を取っても呼び出し音は鳴り続けた。その音はどんどん大きくなっていった。何がなんだかわからなくなって受話器を戻したが、呼び出し音は止まらなかった。

 どうなっているんだ! 

 叫んで両手で電話を持ち上げて床に投げつけようとした時、ハッと目が覚めた。寝ぼけ眼であたりを見回すと、机の上にある電話が鳴っていた。夜間警備室からだった。「お客様です」と。

 お客様? 
 誰だ、こんな時間に。

 時計の針は10時を指していた。水道の水で顔を洗って、手櫛で髪を撫でつけて、警備室へ向かった。

        *

 えっ? 
 なんで? 

 何回も目を擦った。

 本当? 
 それとも、まだ夢? 

 笑美だった。

 警備員に断りを入れて彼女を研究室に連れて行き、今まで寝ていたソファの毛布を片づけて座れるスペースを作った。すると、彼女が紙袋から何かを取り出した。

「差し入れよ」

 夜食を作ったのだという。

「一緒に食べようと思って」

 風呂敷を解くと、2段式の大きな弁当箱が姿を現した。1段目には、だし巻き卵と鶏の唐揚げとタコの形をしたウインナーと焼き鮭、そして、プチトマトとホウレン草のおひたし、それに、ポテトサラダが色鮮やかに詰められていた。2段目には、一口サイズのオニギリが並んでいた。海苔、シソ、梅干、コンブだという。どれも好きなものばかりだった。

「召し上がれ」

 彼女は割り箸を包み紙から出してパチンと割った。しかし、上手に割れなかったので舌をペロッと出した。その可愛さに思わず見惚れてしまった。

「どうぞ」

 ハッとして、割り箸を受け取って、だし巻き卵を口に入れると、ほんのりとした甘さが口の中に広がった。

 これだよ、これ。

 思わず頬が緩んで、ガツガツと一気に平らげた。でも、ごちそうさま、と言おうとして大変なことに気がついた。笑美の分まで食べてしまっていた。上目づかいで顔を見ると、大丈夫よ、というふうに笑ったあと、「どうせ即席麺しか食べていないんでしょう」と研究室のカセットコンロと小さな鍋、そして中身を出してくしゃくしゃになった袋を指差した。図星だった。頭を掻いたら、「また作ってくるわね」と微笑んだ。

 実験が一段落していたので、研究室の灯りを落とし、鍵をかけた。そして、当直の警備員に挨拶をして、笑美の自宅に向かった。

        *

「大学病院の薬剤部に就職することにしたの」

 晴れやかな表情で笑美は言った。

「それからね」

 ふふふっと笑った。

「そのあとは診療所の薬局で働こうと思うの。大学の薬剤部ではじっくりと患者さんに接することができないでしょう。だから1年間は大学で実習をするけど、患者さんと向き合える診療所へ移ることに決めたの」

 歩きながら話していた笑美がふいに立ち止まって、こちらに顔を向けた。

「患者さんの気持ちがわかる薬剤師になって、どんな薬が必要とされているのか、それをアメリカで研究をするあなたに伝えてあげたいって思って……」

 そこで、どうしてか彼女の声が震えた。

「本当はね、わたしもアメリカへ行きたかったの。あなたと一緒にアメリカで生活したかったの。なんとか実現できないかなって、色々考えたの。でもね……」

 涙声になった。

「わたし待っているから……、アメリカから帰ってくるのを待っているから……」

 胸に顔を預けてきた。そして、そのままの状態で話し始めた。その時初めてジュリアードの件を知った。彼女に大きな葛藤があったことを知った。考え抜いた末に自分の中でけりをつけたことを知った。

 何も言えなかった。
 ただ背中に手を置くことしかできなかった。

 空を見上げると、満月がかすんで見えた。
 それが、波間に揺れるように見え始めた。
 目を開けているのはもう限界だった。

 目を瞑ると、言葉にできないほどの愛おしさが込み上げてきた。彼女の耳に口づけて、耳元で囁いた。それは初めて結ばれた時に言った言葉だった。

「必ず世界一幸せにするから」

 その瞬間、彼女に強く抱き締められた。自分も強く抱き締め返した。すると、震えるような声が首の付け根あたりから伝わってきた。

「待っているから」

 言い終わると同時にまた強く抱き締められた。